≡☆ 美味し国ぞ安房の国−安房鴨川編 ☆≡
 

美味し国ぞ安房の国 安房小湊編 に引き続き、安房鴨川の史蹟めぐりをしてみましたので紹介しますね。石橋山の合戦に敗れた源頼朝は僅かな手勢と共に房総に逃れ来ると、この鴨川から再び起死回生の旗揚げをしているの。加えて、鴨川は日蓮上人の「小松原の法難」の舞台でもあることから、所縁の史蹟も数多く残されているの。今回の散策では史蹟めぐりと併せて、御馴染みの太海フラワーセンターや仁右衛門島も訪ねてみたので紹介してみますね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

安房鴨川〜蓮行寺〜疵洗い井戸〜蓮華寺趾〜上人塚〜閻魔堂

早速、史跡めぐりの御案内をしたいところですが、前編は日蓮上人の「小松原の法難」に因む史蹟の紹介なの。なので、事件のあらましからお伝えしないと「何のこっちゃ?」状態になってしまうと思うの。ここでは脚色を交えて駆け足で紹介してみますので、ちょっとだけお付き合い下さいね。尚、記述内容は美味し国ぞ安房の国 初詣編 と重複しますので、既にお読み頂いた方は心置きなく読み飛ばして次にお進み下さいね。


文永元年(1264)、伊豆流罪から赦された日蓮上人は母の危篤を知らされ、久し振りに小湊に里帰りをしたの。その母の余命を奇跡的に延ばす一方で布教にも努めているのですが、他の宗派を念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と排斥する日蓮上人のことですから、当然敵も多いの。中でも念仏宗檀信徒との関係はハブとマングース状態で、当時この辺りの東条郷の地頭を務めていたのが熱心な念仏信者でもある東条景信だったことから大事件が起きるの。オレさまの土地で念仏無間などとほざきやがって、あのイカサマ坊主め、イテコマしたろうじゃねえか−と云うわけ。因みに、東条郷は現在の鴨川市花房の辺りから誕生寺のある小湊迄を占めていたの。景信も元々は平氏の分流なのですが、その東条郷を守護していたことから東条姓を名乗っていたの。

恵心僧都こと源信上人は、寛和元年(985)に著した【往生要集】の中で念仏を勧めているのですが、生前に犯した罪の軽重に応じて八つの地獄があると説いているの。中でも、無間地獄(むげんじごく)に落ちた重罪人は、どんな方法を以てしても救えないと云う究極の地獄なのですが、源信上人は例えその無間地獄に堕ちた者と雖も、念仏を唱えることで救われると説いたの。一方、日蓮上人は念仏に依存することはイコール無間地獄に堕ちることだと云っているのですから、念仏檀信徒等からすれば至上の侮蔑誹謗よね。

後程紹介しますが、鏡忍寺のある広場地区からは北西に位置する花房の地に嘗て蓮華寺と云うお寺があり、日蓮上人はそこを拠点に布教していたみたいね。そんなある日のこと、天津城主・工藤吉隆(よしたか)の招きを受けて弟子や信者等と共に天津へと出掛けたの。吉隆は弘長元年(1261)に伊豆に流された日蓮上人の元に日参して安否を気遣うほどの帰依者でしたから、日蓮上人にしても心安い間柄だったのでしょうね。一方、この時を好機とばかりに景信は配下の手勢を集めると小松原に差し掛かったところで日蓮上人の一行を急襲したの。射る矢は降る雨の如し、打つ太刀は稲妻の如き中で必死に防戦に努めたものの、弟子の鏡忍坊はその刃に倒れ、危急の知らせに駆け付けた工藤吉隆も討ち死にしてしまったの。ですが、日蓮上人は眉間に大きな傷を負いながらも九死に一生を得たの。それが世に云う「小松原の法難」なの。

ネット検索していた際に興味深い記事を見つけました。リンク切れとなることを覚悟で紹介してみますが 本門法華堂 に関慈謙氏の【南条兵衛七郎殿御書】講話内容が収録されているの。それに依ると、東条景信が日蓮上人の命を狙うには単なる宗教上の対立だけでは無くて、土地の領有問題から派生した様々な人間模様が背景にあったみたいね。その繋がりの中に日蓮上人もいた訳で、殉教の徒となり、時代を駆け抜けた一方で、両親や支援者の利害には特段の配慮をしていたみたいなの。大聖人の称号を以て語られることの多い日蓮上人ですが、世俗の中で葛藤する姿も垣間見え、聖人と雖もξ^_^ξ達と同じようにシガラミを抱えていた訳ね。

能書きにお付き合い下さった方、どうもありがとう。m(_ _)m
お待たせでした。それでは早速、史跡めぐりへと出発しましょうね。

1. JR安房鴨川駅 あわかもがわえき

駅 標識 妙満寺

最初に向かったのは「小松原の法難」で九死に一生を得た日蓮上人が這々の体で逃げ帰り、身を潜めたと云う蓮華寺趾。鴨川駅からR24を北にひたすら歩くこと20分余り。妙満寺入口の信号を右手方向に折れて花房へ向かいます。交差点の少し手前で、電柱の根元に妙満寺入口の標識が目に留まりますが無視して下さいね。標識は妙満寺を訪ねる方のためのものですので間違えないようにね。道が不案内なξ^_^ξは、この標識につられて回り道をさせられてしまったの。因みに、右端がその妙満寺よ。

2. 蓮行寺 れんぎょうじ

蓮行寺 位置的にはニューセントラルバス停と花房バス停の中間辺りかしら、南無妙法蓮華経と刻まれた石柱を見つけて訪ねてみたのがこの蓮行寺。と云っても、現在は御覧のような簡易な建物が建つのみで、玄関も閉ざされて無住状態なの。嘗てはそれなりの堂宇が建てられていたのでしょうが、それでも完全に廃寺となった訳でもなさそうね。この蓮行寺ですが、下調べの際にこの後紹介する「疵洗い井戸」の立て看板にその名が記されていたことから気になっていたの。偶然とは云え、その所在を知り得たまでは良かったのですが、残念ながら縁起などは分からず終い。

3. 蓮華寺入口 れんげじいりぐち

入口 入口 花房バス停の交差点を左に折れてしばらく歩くと、左掲の粟斗温泉入口の案内板が見えて来ますので、見落とさないようにして下さいね。対面には最近立てられた宗門史跡蓮華寺の案内板もあることはあるのですが、粟斗温泉への案内板の方が目立つことから、遠くからでは見落としてしまうかも知れないわね。と云うことで、ここでは粟斗温泉入口の案内板を目印に右折して下さいね。

右側の掲載写真の最奥部に電柱が立ちますが、その左手方向にこれから訪ねる疵洗い井戸と蓮華寺趾があるの。入口の傍らには宗門史跡蓮華寺と記された道標も建てられていますので、迷うことも無いと思うわ。

4. 疵洗い井戸 きずあらいいど

蓮華寺趾に向かう道の傍らには、眉間に刀疵を受けながらも九死に一生を得て花房に逃げ帰った日蓮上人が、傷口を洗い清めるのに使ったとされる井戸が残されているの。日蓮上人の霊蹟とあって、石造りの柵に護られて石柱が建つなど、往時の縁を今に求めることは出来ませんが、今でこそ井戸と称してはいるものの、当時は湧き水だったのではないかしら。傍らに立つ桜も背丈こそ低いのですが、かなりの樹齢を経たもので、聞くところでは嘗ての幹は枯渇して朽ちてしまったものの、その根元からは新たな幹が生長して来たとのこと。日蓮上人所縁の霊蹟故に、桜の木にも均しく功徳の恩恵があるのかも知れないわね。

掲載画像では小さすぎて判読不能ですが、傍らの立て看板には「日蓮聖人御疵洗之井戸 常経山蓮行寺」とあるの。この常経山蓮行寺と云うのが先程紹介した蓮行寺のことね。想像するに、この「疵洗い井戸」も飛び地境内地なのでしょうね、きっと。

5. 蓮華寺趾 れんげじあと 花房山蓮華寺

蓮華寺

訪ね来る前までは寺趾と聞いていましたので、何も無い更地状態で、残されていたとしても痕跡を物語る石塔の類のみと想像していたのですが、御覧のような立派な堂宇が建てられていたの。傍らには由来記が掲示され、日蓮宗の宗門の方々に依り、昭和59年(1984)に宗祖七百遠忌報恩記念事業の一環としてこの蓮華寺が再興されたことが記されていたの。嘗ての蓮華寺も大寺とは云えない迄もそれなりの堂宇からなり、布教の中心地になっていたみたいね。日蓮上人も文永元年(1264)、病床の母を小湊に見舞うとこの蓮華寺に戻り、説法を行うなどしているの。「小松原の法難」では、辛くもこの蓮華寺に逃げ帰ることが出来た上人ですが、この花房には弟子や檀信徒も多くいて、東条郷を治める地頭職の景信と雖も、容易には手出しが出来なかったみたいね。

本堂も御覧のような瀟洒な建物で、ちょっと見ではお寺とは思えませんよね。人伝に聞いたところでは、最近まで尼さんが時折来られて、地元の方を集めて法話の聴講会なども開かれていたみたいなの。ユーモアを交えて平易に説いてくれる語り口に、法話を楽しみに待つ方もいらっしゃったようですが、本山に帰られたか、他寺に赴任されたのか、最近ではお姿をお見掛けすることも無くなってしまったとのこと。実際に拝聴した訳ではありませんので想像だけなのですが、瀬戸内寂聴さんのような語り口だったのかも知れませんね。建物の佇まいにしても女性的ね。尚、ここでは訪時( ′06 秋 )の状況をもとに記述していますので御了承下さいね。

古株 前景 境内地には左掲のような大きな古株が残されていたの。かなりの樹齢を経たものと思われ、何やら云われがあるような趣きにも見えるのですが委細は不明なの。右側の掲載写真はその切株からの前景を収めたものですが、方角としては清澄山方面になるかしら。その清澄山で高らかに日蓮宗の開宗を宣言した日蓮上人ですが、当時の清澄寺は天台宗だったの。

その清澄寺で当初師事した道善上人は、事件後秘かに蓮華寺に訪ね来て重傷を負った日蓮上人を見舞ってもいるの。ところが12年振りの対面にも関わらず、日蓮上人は恩師に天台宗からの改宗を強く勧めたの。これにはさすがの道善上人も不快感を露にしたみたいね。数年後にはその道善上人も天台宗から日蓮宗に転向したようですが、恩師の道善上人が清澄寺に立ち帰られた後もその清澄山に向かい、念力を込めて (^^; 題目を慟哭していたのかも知れないわね。

蓮華寺趾 隣り合わせにして駐車場のような広場があるのですが、山林に向かい小さな道が続いているの。草叢からは摩滅した石塔が顔を覗かせ、古い石段が高台に伸びていましたので嘗ての参道だと思うの。当初の蓮華寺は木々に囲まれたこの高台に建てられていたのかも知れないわね。訪ね来る前までは小庵の印象でしたが、残された痕跡を頼りに当時を想像すると、七堂伽藍を備えた大寺とまではいかなくても、布教の拠点としてそれなりの堂宇からなる寺院だったみたいね。由来記にも「蓮華寺内の青蓮房云々」と記され、複数の僧坊があったことを窺わせるの。

蓮華寺を後に次の目的地・鏡忍寺へと向かうべく元来た道を戻りますが、今度は花房バス停の交差点では曲がらずにそのまま直進よ。のんびりと歩いても30分余り。急げば20分位かしら、東条病院前の信号が見えて来ますが、そのT字路を右に曲がれば鏡忍寺に通じる道となるの。ですが、ここでちょっと足を伸ばして上人塚を訪ねてみました。と云っても、交差点からは高々数分の距離よ。(^^;

6. 上人塚 しょうにんづか

上人塚 この上人塚は、車道の中央に位置しているの。遠くから見ると、道が行き止まりのようにも見えるのですが、近づくと御覧の大きな左矢印の誘導標識が目に留まるの。人伝に聞いたところでは、道路を造る時にも霊蹟と云うことで盛り土を削らずに迂回させたのだそうな。スピードを上げて走っているといきなり石段が中央に現れ、その先には供養塔が見えるのですから、ここでは「縁起でもねえや!」とばかりに信号が無くても減速モードにならざるを得ませんよね。由来を御存知無い方には供養塔と雖も墓石にしか見えないハズだもの。(^^;

上人塚 「小松原の法難」では東条景信等郎党の襲撃の知らせを受けて急遽駈けつけた工藤吉隆も討ち死にしてしまうの。吉隆は日蓮上人が伊豆に流された際には安否を尋ねて日参する程の帰依者で、云うなれば親衛隊の隊長ね。けれど、周到な準備の上に数百人を集めて事に臨む景信勢には、その吉隆と雖も最早敵ではなかったの。事件の後、九死に一生を得た日蓮上人は、その吉隆の徳に感謝して妙隆院日玉上人の法号を与えているのですが、この上人塚は、その吉隆が敗死した場所だと伝えられているの。

7. 閻魔堂 えんまどう

閻魔堂 元来た道を戻る途中で、不思議な石塔を見つけて立ち寄ってみたのがこの閻魔堂なの。嘗てはそれなりの堂宇が建てられていたと思うのですが、現在は無住に加え、建物にしても村の集会所の面持ちなの。正式な寺号も分からずに終えていますが、その名から推して閻魔大王を祀っていた堂宇だけが今に残されたと云うことなのでしょうね。閻魔さまを祀るとあっては中を覗き見する勇気も無く。背後に建つのは東条小学校ですが、亡者の生前の罪を裁くと云う閻魔大王も、ここでは子供達の楽しそうな嬌声に目を細めているのかも知れないわね。

六地蔵 入口の左手には御覧の六地蔵が祀られているの。親しみを込めてお地蔵さんと呼ばれる地蔵菩薩ですが、お釈迦さまが入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩が現れる迄の無仏期間に現れて、衆生を艱難辛苦から救って下さると云う有り難い仏さま※なの。加えて、他の菩薩が高所から慈悲の手を差し伸べるのに対し、地蔵菩薩は衆生の廻りに降り立ち救済してくれると云うの。そんなことから身近な仏さまとして極めて現世利益的な信仰対象になっているの。※お地蔵さまは厳密には仏さまでは無いのですが、ここでは余り深く追究しないでね。(^^;

ねえねえ、どうしてお地蔵さんが六体もあるの?何か特別な意味があるの? あるなんてものじゃないわ。六体じゃないとダメなの。 ねえねえ、どうしてダメなの? 仏教では生前の行いの善悪に応じて、死後に送られる世界が六つあると説いているの。

それが六道と云われるもので、地獄と天の間にも餓鬼・畜生・修羅・人があるの。お地蔵さまはその六道の辻に立ち、迷える衆生を艱難辛苦から守って下さると信じられるようになると、寺院の門前や墓地などに六地蔵が祀られるようになったの。そこはこの世とあの世を結ぶ結界の地でもあり、村境などは異界に通ずる出入り口として同じく祀られるようになるの。と云うことで、譬え罪人でも我が身に代えて責苦から救い出して下さると云うお地蔵さま。地獄に堕ちると自負する方は先ずいらっしゃらないでしょうが、気が付かない内に罪を犯してしまうのが人間よね。六地蔵を目にする機会がありましたら、頭を垂れて死後の安穏を祈願し、善行を心掛けましょうね。(^^;

三界萬霊塔 入口の右手に建てられていたのがこの石塔で、最初は時計に見えたの。(^^; なので不思議な石塔−となるのですが、調べてみると三界萬霊塔と云う代物だそうよ。時計の文字盤ならぬ円形部分には種字を刻みますが、三界(さんがい)とは欲界・色界・無色界を指し、欲界は食欲・性欲に支配される世界。次の色界は欲望にはおさらば出来たけど物質的なものからは未だ抜け出せずにいる状態で、無色界は両者から解き放たれた精神世界のこと。色即是空にも通じる世界観はどっぷりと世俗の垢にまみれるξ^_^ξには超難解の世界ね。

教義に依り、若干の差異があるようですが、仏教では人間は欲界・色界・無色界に輪廻転生を繰り返すと説いているの。三界萬霊の萬霊とは三界の諸精霊を指し、三界は前世、現世、来世の世界観にも通じることから、人々は石塔を建てて供養することで安寧を得ようとしたの。乱暴な云い方かも知れないけど、三界萬霊塔は諸精霊の「依代(よりしろ)」ということよね。傍らには月山、湯殿山、羽黒の文字を刻む石塔も建ち、修験道霊地の出羽三山への信仰が盛んだったことも窺わせるの。因みに、江戸時代の文化年間(1804-18)には東北・関東を中心に、全国から17,000人を超える登坂者があったと云うのですから驚きよね。

8. 鏡忍寺 きょうにんじ

総門 日蓮上人所縁の地として最後に訪ねたのがこの鏡忍寺。現在は小松原山鏡忍寺を正式な山号寺号とする日蓮宗寺院ですが、開創当初の山号は妙隆山で、寺号の鏡忍寺と共に、そこには「小松原の法難」に際し、日蓮上人の危険を身を以て挺した帰依者の工藤吉隆と、門弟・鏡忍房の名が刻み込まれているの。工藤吉隆は上人塚のところでも触れましたが、鏡忍房は日蓮上人の身代わりとなって窮地を救ったとも云われているの。その徳に感謝した日蓮上人は、吉隆には妙隆院日玉上人の法号を、門弟の鏡忍房には日暁上人の法号を与えたの。

その後、吉隆の子息も日蓮上人の弟子となり、出家して日隆の法号を得ているの。事件から後の弘安4年(1281)には日蓮上人の発願を得て、日隆上人は父・吉隆と鏡忍房の二人の菩提を弔うためにこの鏡忍寺を創建したの。開創当初の山号・妙隆山は吉隆の法号に由来するものだった訳ね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

降神の槇 境内には鴨川市の天然記念物に指定される樹齢1,100年余の「降神の槙」がありますが、東条景信等の郎党に襲われた際には、この樹上に鬼子母神が現れて日蓮上人を救けたとも云われているの。鬼子母神と云うと、安産祈願などの御利益を謳うことが多いことから、意外な組み合わせに思われるかも知れませんが、元々は人間の子供を掠ってはその血肉を貪る夜叉神一族の娘で、お釈迦さまが起こした誘拐事件から心を入れ替えて仏教を護る守護神となったの。お釈迦さまと雖も目には目を以て矯正させたワケ。そのお釈迦さまの誘拐事件が気になる方は鎌倉歴史散策−腰越編の 鬼子母神堂 の項を御笑覧下さいね。

降神の槇 降神の槇 日隆上人墓 日暁(鏡忍坊)・日玉(工藤吉隆)両上人の墓塔

樹齢は1,000年を越えることから添木が当てられて痛々しそうな面持ちなのですが、それでも青々とした葉を茂らせているの。その葉陰に護られるようにして日暁(鏡忍坊)・日玉(工藤吉隆)両上人の墓塔が佇むの。両者から少し離れて建つのはこの鏡忍寺を開基した日隆上人(工藤吉隆の遺子)の墓塔よ。

鏡忍寺の縁起を御理解頂けたところで境内に建つ堂宇を駆け足で紹介してみますね。

鐘楼 仁王門を背にして時計回りに御案内してみますが、9時方向に建てられているのが御覧の鐘楼で、右手に建つ小堂は三十番神堂よ。折り好く住持の方が衝く鐘の音を聴くことが出来ましたが、この鐘は11:30以外の時間は衝かれません−とありましたので、鐘の音が気になる方は時間を見計らってお出掛け下さいね。鏡忍寺は観光バスが立ち寄る名所旧蹟でもあるのですが、賑やかな一団が去り行けば普段は至って静かな境内なの。「降神の槇」を背にして暫し耳を傾ければ−諸行無常の響きあり−かも。それともそろそろランチ・タイム (^^; を告げる、時の鐘かしら?

耳慣れない三十番神の名前が出て来たのでちょっとだけ解説しておきますね。三十番神は一柱ではなくて日本在来の主な神さま達からなり、法華経を護持するために総動員されたの。一ヶ月は30日よね、だから30柱の神さま達が集められ、交替で寝ずの番をさせられたと云うわけ。天照大神(あまてらすおおみかみ)もその一神にされたのよ。

仏殿 鬼子母神堂 法難堂 旧祖師堂 仏殿 鬼子母神堂 法難堂 旧祖師堂

境内最奥部に建つのが左端の仏殿で、清正公堂・鬼子母神堂が右手に続くの。その鬼子母神堂の手前には法難堂と呼ばれる小堂があり、中には日蓮上人像が安置されていましたが、鏡忍寺が「小松原の法難」に因むものなら、小さなこの法難堂こそ中心伽藍と云うことよね。仏殿を正面にして3時方向には祖師堂があるのですが、訪時には小松原御法難750年報恩事業と題して大掛かりな再建工事中でした。右端は以前訪ねた時の旧祖師堂よ。

向唐門 鏡忍寺を訪ねたら紹介した仁王門を潜り抜けて参詣するのが普通ですが、実はもう一つ隠された (^^; 山門があるの。それがこの向唐門ですが、鐘楼の裏側に位置することから境内からは見えないの。普段は住持の方を始め、鏡忍寺の関係者の方々の通用門として利用されているみたいなのですが、重厚な茅葺きの照りむくり屋根を冠する切妻造りのこの門は、市の有形文化財でもあるの。因みに、唐門とは唐破風と呼ばれる飾り板が切妻に取りつけられた門のことで、その唐破風が正面を向く造りをしていることから向唐門と呼ばれているみたいね。

9. 旗掛松 はたがけのまつ

旗掛松 鏡忍寺を後にしてバス通りを鴨川駅方面にしばらく歩くと、御覧の木立ちが見えて来るの。治承4年(1180)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝はこの房総に逃れ来ると再び挙兵するの。そうは云っても【吾妻鏡】には「安房國を出でて上總國に赴かしめ給ふ 從ふ所の精兵三百餘騎に及ぶ」と記されるように、打倒平家を実現するには余りにも心許無い軍勢で、多くの援軍が必要だったの。300余騎の軍勢にしても、その多くは下総に地盤を置く千葉常胤の軍勢で、その常胤と又従兄弟の関係にいたのが権介の地位にあり、上総国に勢力を有していた上総広常なの。頼朝は、その広常の許へ和田義盛を遣わして参陣を促したの。

旗掛松 広常は、保元の乱では頼朝の父・義朝に従軍したことから上総国の支配権を強固なものにするなど、源家とは深い繋がりがあり、頼朝にすれば「誰のお蔭でいいおもいが出来てると思ってんだ、おれのオヤジが目をかけてやったから今の地位があるんだろうが。だったら手を貸せ!」と云ったところかしら。けれど「軍士等を聚むるの間 猶遅参すと云々」とあるように、広常も最初は日和見していたの。幾ら源氏のサラブレッドの誘いと雖も、世は平家の全盛期だもの、仕方ないわよね。かくして義盛からの報らせを待つ頼朝でしたが、痺れを切らした彼は広常の参陣の諾否が得られないままに、4日後には下総に向けて出発するの。

旗掛松 ξ^_^ξ達は歴史を知っているからそれを勇気ある行動だなどと英雄視するけど、頼朝にすれば劣勢と分かっていても最早後戻りできない状態に追い込まれていたわけで、まさに背水の陣だったの。それはさておき、頼朝がこの地で源氏の白旗を掲げて義盛からの報らせを待ったことから待崎の地名が起こり、白旗を掲げた松は旗掛松と呼ばれるようになったと伝えられているの。残念ながらその松も、江戸時代の天保年間(1830ー44)の大旱魃で枯死してしまい、現在の松は後世に植樹されたものなの。その大旱魃ですが、全国的にも凶作が続いて餓死者も相次いだ天保の大飢饉を引き起こすなど、想像を絶する規模のものだったみたいね。

祠 古株 敷地の中央に小さな祠が建てられていましたので、何が祀られているのかしら?と気になり、中を覗いてみると、御覧の古株が収められていたの。その姿形からすると、枯死した初代の旗掛松の根株だと思われるのですが、その後の頼朝の躍進振りを見ると、先程紹介した降神の槇が鬼子母神なら、この旗掛けの松には弁才天が降臨していたのかも知れないわね。

10. 須賀神社 すがじんじゃ

須賀神社 次に訪ねたのがこの須賀神社ですが、旗掛松からは元来た道を後戻りして龍正院の脇道を辿る近道があるの。ホントは正面からお参りしなければいけないのですが、ここでは失礼して社殿の背後から境内入り。その名からして祭神は素戔鳴尊と知れるのですが、残念ながら創建年代や縁起などは分からないの。無住とは云え、本殿に御覧の拝殿が前立する立派な社殿で、広い境内は嘗て人々の崇敬を集めて隆盛していたことを窺わせるの。社殿の左手には村人達の暮らしを支えた神さま達の祠も残されているの。

石祠 石祠 左から足、疱瘡、稲荷、山、日光の神さまが祀られますが、とりわけお稲荷さんは多忙を極めたようで修復姿が痛々しいの。傍らの木陰には雨降山と刻まれた自然石と祠が祀られていましたが、一昨日位前にお供えされたものと覚しきお赤飯が。台座に刻まれた文字もすっかり摩滅してしまい、どんな神さまなのか今では窺い知る術もなくなりましたが、ここではたおやかな信仰が今でも続いているのね。

11. 東条海岸 とうじょうかいがん

遊歩道 歴史散策を終えたところで気分を変えて海岸辺りの遊歩道を歩いてみました。R128を横断して松林を抜けると、目の前には雄大な太平洋が広がるの。訪ねた時には天候にも恵まれ、潮風を頬に受けて歩く砂浜はとっても気持ちの良いものでした。堰堤に腰掛けて、寄せては返す波をぼんやりと眺めながら潮騒に耳を傾けていると、ついうとうとしそうよ。

東条海岸 東条海岸 東条海岸 東条海岸

カモちゃん

その遊歩道の終端側にあるのが鴨川シーワールドですが、遊歩道側に建てられていたのがこの「カモちゃん」の案内板なの。勿論、カモちゃんはこの鴨川の東条海岸に現れて人気を集めたゴマフアザラシのことね。けれど、残念なことにその姿も 2005/12/23 を最後に見掛けなくなってしまったの。特別住民票の交付に相前後していなくなったと云うのも皮肉な結末ね。

12. 鴨川シーワールド かもがわしーわーるど

鴨川シーワールド そして、きょうの散策の締め括りにと訪ねたのがこの 鴨川シーワールド なの。シャチとトレーナーが巨大プールでコンビネーション・ジャンプを繰り広げるダイナミックなアトラクションはTVでも度々放送され、全国的にも知られる施設よね。その名が示すように、水族館の域を脱して海の生き物達に触れ合うテーマパークになっているの。展示内容などは同館のHPに詳細が記述されていますので、気になる方はそちらを御参照下さいね。入園料:¥2,800

シャチ シャチ シャチ お気に入り

13. 鴨川グランドホテル かもがわぐらんどほてる

鴨川グランドホテル 旅の疲れを癒そうと、今宵の宿に決めたのがこの鴨川グランドホテル。目の前が東条海岸と云う立地条件から、ここでは海を見ながらの宿泊が楽しめちゃうの。勿論、館内のどの部屋からでもオーシャンビューよ。リッチなあなたなら、左掲の画像の左手に建つコンドミニアム・タイプのグランドタワーへの宿泊もお薦めよ。詳しい宿泊情報は 鴨川グランドホテル を御参照下さいね。

ラウンジ 生花 夕食 日の出

魚見塚展望台〜鴨川松島〜太海フラワーセンター〜仁右衛門島

昨日は日蓮上人ゆかりの史跡を巡る散策でしたが、きょうは海辺の景勝地をめぐり歩いてみたの。そして旅の締め括りに訪ねたのが仁右衛門島ですが、島の名は代々所有者の平野仁右衛門さんの一戸だけが住むことに由来し、自然と伝説に彩られた島には多くの文人や画家達が訪ね来ているの。

14. 魚見塚展望台 うおみづかてんぼうだい

魚見塚 煙と何とかは高い所に登りたがる−とばかりに、最初に向かったのがこの魚見塚展望台なのですが、実は駅前からはタクシーを利用してのアプローチなの。以前、と云ってもかなり前のことですが、鴨川の駅前に降り立ち、前原横渚海岸を経て魚見塚の麓から一戦場スポーツ公園、展望台へと歩いたことがあるのですが、健脚向きのコースでした。体力の衰えを否めない今では時間の節約もあり、素直に文明の利器の恩恵に欲することにしました。左掲の掲載画像では、木々に覆われた丘から小さく展望台が頭を覗かせていますが、その向こう側に太平洋が広がるの。

ふるさとの道入口 今回はタクシーを利用して背後からアプローチしていますが、「金は無えけど足腰なら誰にも負けねえ位、鍛えてあるぜ!」と云うあなたには、麓の大浦バス停からの「ふるさとの道」登山コースがありますのでお試し下さいね。勿論、正面からの正攻法よ。但し、ξ^_^ξも魚見塚から下る際に利用してみましたが、整備してあるような、してないような。(^^; 右はその入口ですが、問題なのはその後の順路なの。途中では案内板も見かけませんでしたので、下る際にはまだしも、登る時には山中に分け入る道が分からないと思いますので、地元の方に訊ねられるなどして下さいね。

展望

左掲の2枚はその展望台からの景観ですが、左は内陸の平野部を、右は東条海岸から安房小湊方面を眺め見たものよ。更に視線を右に転ずると、眼下には雄大な太平洋が広がるの。この景観はここに訪ね来た者に対する最大の御褒美ね。鴨川を訪ねる機会がありましたら、是非、足を運んでみて下さいね。

ところで、魚見塚の地名ですが、その名のごとく、嘗ては地元の漁師さん達が沖合いに魚の群れ来るのをこの頂きで見張っていたの。己が視力にものを云わせ、勘と経験を頼りに海原を凝視していたのでしょうが、ド近眼のξ^_^ξには陽光きらめく穏やかな海にしか見えず、見張り役としては役に立ちそうにもないわね。

乙女像 乙女像

鍵

展望台には地元・鴨川市出身の彫刻家・長谷川昴氏の「暁風」像が建てられているの。氏は「現代の円空」と形容されるほどの仏像彫刻家で、東京湾観音の原型となった観音像も氏の作品なの。傍らの案内板に依ると、像は仏の化身である乙女が暁の潮風を受けている姿を現したもので、この像の前に立ち、太平洋を望みながら誓いをたてる方が多くいたことから、展望台は「誓いの丘」とも呼ばれるようになったそうな。像の台座には同じく長谷川昴氏の「暁風」と題された「黒潮に命托した魂が 今も見据える潮の色 云々」の詩が刻まれているの。

その台座には右端のように無数の鍵が掛けられていました。−誓いの証として鍵を掛け、何年か後にまた訪れた時変わらぬ誓いの心を確認しあって下さい−とありましたが、勿論、ここでの誓いは「永久の愛」よね。未確認で恐縮ですが、鍵は近くの一戦場スポーツ公園でも販売しているみたいよ。でも、折角なら事前購入の上で二人の名を刻印しちゃおうね。(^^;

〔 追記 〕 平成24年(2012)3月の展望台リニューアルを記念して「誓いの丘」オリジナルの鍵が新しく出来たの。その名も「誓いの鍵」よ。鍵は近くの一戦場スポーツ公園や駅前の観光案内所を始め、市内の宿泊施設などでも販売しているので、事前購入の上でお出掛け下さいね。詳しくは 鴨川市観光協会 を御参照下さいね。

ふるさとの道 ふるさとの道 左端の掲載写真の画面右手が展望台への登り口ですが、展望台から降りて来たら、今度は左手に続く脇道を歩いて麓まで下りてみました。いきなり、木々に覆われた山道に分け入ることになるのでちょっと不安よね。先程触れた「ふるさとの道」の一部なのですが、森林遊歩道と云うよりは単なる山道の印象で、景観などは期待できないの。なので、ここでは単に近道として御利用下さいね。

15. 八雲神社 やくもじんじゃ

八雲神社 山中から抜け出したところで見つけたのがこの八雲神社。村の鎮守さまの趣きで、社史などは分かりませんが、気になったのが社殿前に立てられていた「大浦担ぎ屋台巡行」(鴨川市無形民俗文化財指定)の標識なの。ダメよ、屋台と聞いて「おでん」やラーメンの屋台を想像しては(笑)。ここでの屋台は勿論、山車(だし)のことね。普通の山車なら木車がついているので曳き廻すことが出来るのですが、八雲神社の山車は男性陣が担ぎながら練り歩くの。なので、御神輿ならぬ「担ぎ屋台」となるの。と云っても、担ぎ手は漁師さん達ですから静かになんかしてられませんよね。(^^;

八雲神社と云えば、祭神は武勇で知られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)よね。祭礼時にはその素戔嗚尊が御神輿代わりの「担ぎ屋台」に乗りうつると云うわけ。現在はこの八雲神社を含め、鴨川市内の7社が合同で祭礼を行うようになりましたが、元々は後程紹介する厳島神社の祭礼時に担ぎ出されるものだったみたいね。厳島神社と云えば祭神は弁財天ですので、漁師さん達が威勢良く担ぐさまを荒波に例えるなら、「担ぎ屋台」はさしずめ「波間に揺れるわたしは小舟」状態だったかも知れないわね。その屋台も今では八雲神社社中となり、「オラオラ〜、てめえらの荒波なんぞ、ヘでもねえぞ!」と素戔嗚尊が笑ってるかもネ。

ところで、御神輿を担ぐ時に威勢良くするのはどうしてか御存知ですか?実は御神輿は神さまの乗り物なの。祭礼時には普段は社殿に祀られる神さまにお出まし頂くの。その時の乗り物が御神輿で、身近に神さまの威光に触れることで豊漁に感謝したり、無病息災や日々の平穏を願ったの。それがいつの頃から「わっしょい、わっしょい!」と威勢良く担がれるようになったのかは知りませませんが、揺らせば揺らすほど神さまが元気になると信じられるようになったの。それが「魂(たま)振り」で、御神輿に乗せられた神さまは「打ち出の小槌」状態にさせられると云うわけ。(^^;

16. 妙昌寺 みょうしょうじ

山門 本堂 番犬?

通りに抜けたところに「大浦バス停」がありますが、傍らに建つ御覧の赤い山門が気になり、訪ねてみたのがこの妙昌寺。詳しいことは不明ですが、地元の漁師さん達の信仰を集めているのでしょうね、山門の両袖には大きな錨が奉納されていました。

17. 金剛院 こんごういん

金剛院 金剛院 金剛院

その妙昌寺と民家を数軒間にして、殆ど隣り合わせのようにして建つのがこの金剛院で、現在は真言宗智山派の寺院。境内の入口には六地蔵が立ち、参道には見慣れぬ石塔群が建てられていましたが、破損放置されていた石塔を集めて修復・再構築したのではないかしら。因みに、中央の小堂に祀られるのは不動明王像ですが、その台座に利用されているのが六十六部の供養塔なの。嘗ては66部の法華経を書写して66ヶ所の社寺に納経しながら巡礼する行脚僧がいたの。それが六十六部(略して六部=りくぶ)と呼ばれる人達で、余談ですが、北条時政の前世はその六部だったとする伝説もあるの。法華経と云えば日蓮宗よね。一方、不動明王は真言密教の象徴でもあり、金剛院の住持の方が意図的にこの組み合わせにしたとするのは考え過ぎかしら?因みに、お隣の妙昌寺は日蓮宗のお寺よ。(^^;

18. 鴨川漁港 かもがわぎょこう

順路 順路 順路

車道を離れて細い路地へ入り込むと間もなくこの急な石段の上に出るの。この石段を下れば鴨川漁港は目の前よ。この路地が見つけられないと漁港へは大廻りさせられてしまいますので、頑張って探してみて下さいね。大浦バス停からでしたらほんの少し太海側に歩いたところよ。ですが、間違っても通り過ぎないで下さいね。この路地を過ぎると漁港へ降りる道は無いの。

鴨川漁港 鴨川漁港 鴨川漁港 鴨川漁港

訪ねたのは休日ですので当然のことながら漁もお休みで、普段の活気をよそに、防波堤に囲まれた港は白波一つたたずに静かな佇まいを見せていました。この鴨川漁港は大小の小島が点在する景勝地として知られる鴨川松島と隣り合わせなの。掲載画像では堤防の向こうに緑に覆われた大小二つの島が頭を覗かせていますが、大きい方が弁天島で、小さい方が荒島と呼ばれ、堤防伝いに歩いて渡ることが出来るの。釣り人には広く知られる二つの島も観光目的に訪ね来られる方は殆どいらっしゃらないみたいね。ですがξ^_^ξ一押しのお薦めスポットよ。

鴨川松島 その弁天島に向かう途中で、堤防の上から仁右衛門島のある太海方面を眺め見たものですが、折角の鴨川松島の景観も思いっきり逆光となる時間帯で、左掲はまあ何とか掲載出来る一枚なの。先程紹介した魚見塚展望台も鴨川松島の景観を愛でるベスト・ビュー・ポイントなのですが、スケジューリングが難しいわね。そこへいくと人間の目の調節機能の何と素晴らしいこと。逆光だろうと何だろうと素敵な景観を網膜に焼き付けてくれるのですから。と云うことで、御期待に添えず、ごめんなさいね。

19. 弁天島(厳島神社) べんてんじま

弁天島 島へは歩行者専用にも関わらず、御覧のように立派な橋が架けられているの。この橋を渡り切ると緋い鳥居が目に留まりますが、その先に鎮座するのが厳島神社で、先程八雲神社のところでもちょっと紹介しましたが、祭神は弁財天なの。あれ〜変よねえ、神社だから神さまのハズなのに−と思われたあなたはスルドイかも。この島にお社が建てられたのはいつの頃なのかは不詳ですが、厳島神社とあるのですから、当初の祭神は市杵嶋比売命(いちきしまひめのみこと)だったのではないかしら。その神名にしても斎(いつ)き祀る嶋の巫女−の意から転じたものなの。

社殿 【房総志料】にも「礒村浦の海中に陸を去事少し許有て小島有 上に天女祠有 〔 中略 〕 甚佳景の地也」とありますので、島には古くから天女が舞い降りていたみたいね。ところで、厳島神社と云えば安芸の宮島の厳島神社が総本家ですが、その宮島の厳島神社に祀られているのが宗像三女神で、後に弁財天信仰が庶民に広がると、各地で祀られていた市杵嶋比売命が弁財天に習合したの。三女神の中でも市杵嶋比売命がとりわけ容姿端麗とされ、弁財天と同一視されたのですから、漁師さん達の信仰が篤いのも頷けますよね。(笑)

奇岩 ところで、前掲の厳島神社の社殿ですが、実は塀に囲まれていて容易には近づけなくて、木塀の隙間からのショットなの。社殿には弁財天像が祀られるのですが、そのお披露目は何と30年に一度だけと云うのですから驚きよね。最近、と云っても20年以上も前のことですが、開帳が行われたのは昭和58年(1983)ですので、次に目にすることが出来るのは平成25年(2013)よ。そのお姿を見ることが出来た暁には目が潰れてしまうかも知れないわね。(^^; と云うことで、現在残されている担ぎ屋台は前回の開帳時に製作されたものだったわけね。

遊歩道 島の北側は断崖絶壁が続きますのでアプローチは出来ませんが、南側には御覧のような遊歩道が巡ります。そうは云っても、入口には「この先危険」の標識が立つの。途中では手摺りが壊れたまま無惨な姿を晒すなど、整備が行き届いている訳ではありませんので御注意下さいね。紹介しておきながら恐縮ですが、歩かれる際には飽くまでも自己責任でお願いしますね。順序が逆になりますが、ここで弁天島の景観を紹介しておきますね。来る時に堤防の上から眺め見たものですが、人の手が加えられずにいた頃は、天女が舞い降りるに相応しい景観をしていたのでしょうね。雀島に象徴される鴨川松島の景観ですが、この弁天島の佇まいも素敵ですよね。

弁天島

弁天島

20. 荒島(鴨川灯台) あらしま

弁天島とは堤防伝いに隣り合わせに位置するのが荒島で、島内には灯台も建つの。訪ね来る前迄は存在こそ知ってはいたのですが、島内に立ち入ることが出来るとは思ってもいませんでした。弁天島を訪ねた際に荒島でも釣り糸を垂れる太公望の方々の姿を見かけて、それならξ^_^ξもと、興味本位で訪ねてみたの。ですが、島内は灯台を維持管理するために整備されている訳で、地元では観光名所として来島を奨励している訳ではありませんので、釣りをされる方を含めて島内では良識ある行動をお願いしますね。草叢には隠すようにしてゴミが捨てられていたの。

橋 島へは御覧の橋が架設されているのですが、足許の網目からは海面が丸見えで、ボルトで固定されていますので揺れこそはしませんが、吊橋を渡る感覚で、島に向かうにつれて高くなるので怖い位なの。ちょっとしたスリルを楽しみたいと云うあなたにはお薦めよ。けれど、この橋を渡り終えた途端に獣道のような細い上り道が目の前に現れますので、その積もりでいて下さいね。と云っても、それを過ぎてしまえば歩き易い道が続きますので御安心を。

左掲は島内に建てられている鴨川灯台ですが、割りに新しく見えることから建てられたのはそんなに昔のことではないんじゃないの?と思ったのですが、改築こそ昭和56年(1981)と比較的新しいことなのですが、初点灯となると昭和29年(1954)だそうで、雨ニモマケズ、風ニモマケズ、鴨川漁港に出入りする漁船や沖合いを航行する船舶の航海安全のために立ち続けているの。

荒島を始めとした鴨川松島の景観を御堪能したい方は 鴨川松島潮騒ハイク を御笑覧下さいね。
当初の目的は60年に一度行われる磯村弁財天の本開帳でしたが、挫折してしまったの。

21. 大浦BS おおうらばすてい

荒島からの景観を堪能したところで踵を返して大浦バス停迄戻りました。ここから次の目的地・太海フラワーセンターへは路線バスを利用しての移動でしたが、本数が少ないので気をつけて下さいね。加えて、平日と日曜祝日とではダイヤや運行本数が異なり、そうとは知らないξ^_^ξは30分以上も待ちぼうけしてしまいました。そう云えば先程戻り来る途中でバスらしき姿が民家の間から垣間見えたけど、もう少し早く戻れば間に合ったかも知れないのに〜と後悔してみたところで After The Carnival。御乗車の際には 鴨川日東バス でバス時刻を御確認の上で御利用下さいね。尤も、健脚派のあなたなら歩いてしまうと云う手もあるわね。

22. 太海フラワーセンター入口 ふとみふらわーせんたーいりぐち

鴨川駅方面からバスに乗車された方はこちらのBSで下車して下さいね。ここから仁右衛門島への渡船乗り場へは歩いて5分程の距離。時間の余裕もありましたので、仁右衛門島を訪ねる前にフラワーセンターに立ち寄ってみましたので、併せて紹介してみますね。

23. 太海フラワーセンター ふとみふらわーせんたー

温室 センターでは沖合いを流れる黒潮の影響から冬でも温暖な気候を利用して、熱帯植物や花木類を温室内で育成・展示しているの。また、併設されている釣り堀センターでは磯釣り気分を味わうことが出来るの。残念ながら未体験ですが、釣り上げた魚を買い取るコースは竿と餌代で¥300、魚をリリースするコースは¥500になっているの。因みに買い取るコースだと、真鯛なんかが釣れちゃうと¥3,000〜¥5,000の出費が必要みたいよ。ここでは一先ず¥500でウマヅラと戯れた方が良さそうね。(笑) 入園料:¥600 犬猫ランド共通券:¥1,200

ハイビスカス ハイビスカス ハイビスカス ハイビスカス

園内には季節毎の花々が彩りを競うように咲き誇りますが、ハイビスカスやブーゲンビリアは一年中OKよ。他にもマンゴーやパパイヤなど、普段はその果実を口にしながら、いざとなるとどんな木になるのか知らないことも多いのですが、ここに来れば一目瞭然。中でもξ^_^ξが気になったのが御覧のパンノキなの。結実して間もない実を見つけましたが、姿形とその名からするとパンはパンでもフランスパンのような形になるのかしら?説明には−果実は成熟すると黄色になり、生食のほか煮たり揚げたりします−とあり、一口だけでもいいから口にしてみたいわね。

バナナ パンノキは他にも種類があり、紹介したものはパラミツと呼ばれるもので、日本ではナガミパンノキ、アメリカではジャックフルーツの呼称で親しまれているみたい。昭和47年(1972)にはグァム島で終戦を知らずにいた故・横井庄一さんがジャングルの中で発見されていますが、28年間にわたる隠蔽生活を支えていたのがココナツと共に、このパラミツだとも云われているの。説明書きにはパンノキに因むエピソードとして他にも「バウンティー号の反乱」が紹介されていましたが、事件のあらましが気になる方はネット検索してみて下さいね。スミマセン、無責任モードで。

海鮮ちらし丼 園内を巡り終えたところでお腹もすっかり空いてしまい、2Fにある「花と海展望レストラン」でようやくランチ・タイム。ここでは彩りもあでやかな御覧の海鮮ちらし丼(¥1,575)がお薦めよ。写真には写りませんが、サラダの小鉢におみそ汁、それにビワゼリーが付くの。訪ねた時には季節限定の変わり種メニューとして「カスベの唐揚」(¥525)なるものがありました。聞き慣れない食材の名でしたのでお店の方に訊ねてみたのですが、カスベとはエイの一種とのことでしたが、味覚や食感となるとやはり食べてみないことには分かりませんよね。

カスベの唐揚 調べてみると、カスベとは30種を越えると云うガンギエイ科に属するエイの総称で、どのエイが食べられるのかは分かりませんが、食するのは専らヒレの部分。ξ^_^ξも生まれて初めて口にしましたが、味覚と云うよりも食感を楽しむ食材で、フカヒレと鳥の軟骨を足して二で割ったような感覚なの。超高級食材のフカヒレとなると高嶺の花ですが、カスベなら気易く口にすることが出来ますので、機会がありましたらみなさんもお試し下さいね。

24. 仁右衛門島 にえもんじま

今回の旅の最終目的地として訪ねてみたのがこの仁右衛門島。渡船乗場に向かう沿道にはおばちゃん達が店先に魚の干物や地元で捕れたサザエなどの海産物を並べますが、誘惑を振り切って曲がりくねった道を進むと見えてくるのが御覧の仁右衛門島なの。掲載画像には写りませんが、手前には小さな浜波太漁港があり、島へはその港から手漕ぎの小舟に揺られて渡るの。200m程の沖合いに浮かぶ島への唯一の交通手段がこの渡船で、台風などの荒天時には欠航となり、仁右衛門島はそれこそ孤島になってしまうの。入島料:¥1,350(往復の渡船料含)

渡船 5、6人も乗れば満員となるような小舟なのですが、それでも操船となると二人掛かりなの。とりわけ重労働なのが後方の漕ぎ手の方ね。左右に揺れる船上で器用にバランスをとり、櫓を軋ませながらもさりげなく舟を進めるさまを見ていると、もう、舟と一体化していると云っても過言ではないわね。下船時にお話しを伺うことが出来ましたが、14歳の頃から漕ぎ始めて既に60年余になるそうで、だとすると優に70歳を越えていることになるのですが、「そうは見えねっぺ?」と笑顔が返って来ました。日焼けした顔も健康そのもので、「手、触ってみっか?」と両掌も見せて下さいましたが、ξ^_^ξの軟弱な手に較べたら、野球のグローブと云うよりもキャッチャー・ミットで、生きてきた証よね。

渡船 聞けば現役の漁師さんだった頃には漁と渡船の掛け持ちをしていたみたい。お陰さんでよお、この歳まで入院するような大病はしたことがねえけんどよお。漁師ってのはよお、船の上で重てえ網を引き上げっぺえ。だから上は鍛えられけっどよお、足はダメなんだよお。渡船にしたって腕は鍛えられっけど、足は踏ん張ってるだけだかんな。だから足だけは気ぃつけてんだ−と謙遜されていましたが、その足にしても鍛えられた上半身を支えているのですから、同じく鍛えられたものよね。海の男は幾つになっても海の男で、ξ^_^ξもたっぷりと元気を頂いてしまいました。

遠望 船着き場からは売店を通り抜けて石段を登りますが、その途中で左手に続く弁天道を歩いてみました。沿道には句碑や歌碑が建ちますが、草木の切れ間からは自然の造形と打ち寄せる太平洋の荒波が美しい景観を見せてくれました。左端は安房小湊方面を望んだものですが、更に視線を左に転ずると鴨川松島と、その奥に鴨川市内の景観が広がるの。ですが残念なことに、岩場に降りて潮騒を身近にしながら景観を堪能しようとしても島の西側では出来ないの。磯遊びは島の東側で思いっきり楽しめますので今少しの辛抱よ。

蓬島弁財天祠 弁天道が突き当たる島の西端には展望所が設けられていますが、その少し手前の石段を登るとあるのが蓬島弁財天祠。江戸時代に祀られるようになったと云うことですが、勿論、祀られているのは弁天さまよね。こちらでは寿老人も併せてお祀りされていますので、お詣りすれば富と延命長寿の祈願が一度で済んでしまうと云うわけ。どっちも欲しくは無いわ−なんて云う天の邪鬼な方は先ずいらっしゃらないでしょうから、是非、お立ち寄りの上でお詣り下さいね。

浜波太漁港 亀岩 展望所からは渡船が出入りする浜波太漁港の船着き場や、亀の形をした亀岩も右手に見ることが出来るの。訪ねたのが秋のことでしたので甲羅にはススキがびっしり生えて、まるで藻を纏う亀になってしまいましたが、寿老人のお膝元であることに加え、万年の寿命を持つとされる亀にはふさわしい装いかも知れないわね。

島主住居 元来た道を石段のあるところ迄戻りましたが、その石段を登り切ると見えてくるのが島主のお住まい。紹介が前後して恐縮ですが、仁右衛門島は個人の方が所有するもので、島主は代々平野仁右衛門の名を襲名して、現在は38代目となるの。周囲は4km程の小島なのですが、それでも30,000m²もの面積があると云うのですから羨ましい限りよね。でも、私有地と云うことになると維持管理のコストも当然個人負担となるわけよね。島主の方にお会いした訳ではありませんが、お住まいの様子などからは慎ましやかな生活ぶりが伺えます。ここではお金を払ってるんだからと高飛車にならず、庭先をお邪魔するような心構えでお訪ね下さいね。

島主住居 島主住居 島主住居 島主住居

住居は宝永元年(1704)に改築されたもので、その一部が見学可能になっているの。掲載画像には床の間が写りますが、中央の大黒柱には栂(つが)の木が、床縁には南天が使用されているの。説明書きには更に障子の腰板には神代杉を、天井板には桑の木が使われているとあり、今となっては容易には入手出来ない貴重な木材ばかりで、平野家の往時(失礼)の隆盛がしのばれますね。それにしてもこの静けさと佇まいは住まいと云うよりも茶室の趣きで、海に取り囲まれていることを忘れてしまうの。

添木に支えられてちょっと痛々しい感じがしますので掲載は見送りましたが、
奥庭の池の斜面には、推定樹齢600年余と云われる大きな蘇鉄の木があるの。

住まいの見学を終えて順路に従って歩くと御覧の神楽岩が見えて来ますが、日蓮上人が朝日を拝した場所と云われ、岩の上に立ちはだかり、昇り来る太陽に向かうと、それこそ獅子吼が如くに題目を慟哭したのかも知れませんね。なので、獅子岩と名付けてもおかしくは無いと思うのですが。でも、獅子ならぬ犬の横顔に見えてしまうのはξ^_^ξだけかしら?ウ〜〜、ワン!(^^;

神楽岩を過ぎると木立の中に建つ緋い鳥居が目に留まりますが、お稲荷さんが祀られているの。但し、ここでは「正一位福女稲荷大明神」ですから由緒正しき稲荷神で、軽々しくお稲荷さんなどとは呼んではいけないみたいよ。そうと云いつつも、そのお姿を白昼の下にさらけ出してしまったとんでもないξ^_^ξ。その名からは祀られる稲荷神の姿が垣間見えてくるような気もするのですが、長くなりますのでやめておきますね。(^^;

稲荷社 稲荷社 稲荷社 稲荷社

稲荷社に接してあるのが「頼朝の隠れ穴」で、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が房総に逃れ来た際に、島主に匿われて身を潜めたと伝えられているの。湯河原に残る「鵐の岩屋」にも似た佇まいの隠れ穴ですが、その恩に感謝した頼朝は、後に島と周囲の漁業権を島主に与えたとも云われているの。

頼朝の隠れ穴 【吾妻鏡】の治承4年(1180)9/3の条には「今日平北郡より廣常が居所に赴き給ふ 漸く昏黒に臨むの間 路次の民屋に止宿し給ふの處 當國の住人長狹六郎常伴 其の志平家に在るに依り 今夜此の御旅館を襲はんと擬す 而るに三浦次郎義澄 國郡の案内者たり 竊かに彼の用意を聞きて 之を遮り襲ふ 暫く相戰ふと雖も 常伴遂に敗北す」と記されますが、この時の長狭常伴の襲撃から逃れるために、この洞窟に身を潜めたと云われているの。

とんび岩 とんび岩 一通りの島内見学を終えたところで見晴台に出ましたが、岩の上に何かが建てられているように見え、何かしら?と近づいてみたのがこのとんび岩。このオブジェにしても二基が仲良く寄り添うことから自然に出来たものとは思えないのですが、とんびとは上空を飛ぶトビのことよね。何か云われのあるようにも見受けられるのですが、残念ながら詳しいことは分からず終い。

夕陽 遊びほうけているときの時間の流れの速いこと。気が付けば辺りの景色も夕陽に彩られていて。渡船の最終便を告げる案内に急き立てられて仁右衛門島を後にしましたが、船上からは沈みゆくお陽さまがちょうど灯台に被さり、ロウソクのようにポツンと灯りが点ったように見えました。そのタイミングを見計らって何枚か狙ってみたのですが、どこにお陽さまがいるのか分からないの。やはりプロのカメラマンのようにはいかないわね。(^^; 因みに、左掲は船着き場に接岸間際に収めた一枚です。ごまかしてごめんなさい。

25. 画家ゆかりの宿・江澤館 がかゆかりのやど・えざわかん

江澤館

旅もこれにて全ての行程を終了し、後は帰途につくだけなのですが、仁右衛門島を間近に眺めながら旅の疲れを癒すことが出来る 江澤館 に宿泊してみましたので、ちょっと紹介してみますね。建物の緋い欄干が龍宮城を思わせますが、江澤館には多くの画家達が訪ね来ているの。ロビーやお座敷ギャラリーなど、館内の至るところに宿泊記念に描いた色紙などが掲げられ、その数、何と数百枚を越えると云うのですから驚きよね。画家ゆかりの宿と呼ばれる由縁がそこにあるの。開業したのは大正2年(1913)とのことですが、江澤家では元々造船を業としていたみたいね。それが何で旅館業を営むようになったかと云えば、明治期の終わり頃になり、この太海を初めとした外房の景観が評判を呼び、多くの画家達が訪ね来るようになったの。

ところが、絵は一日で描き切れるものでは無いわね。そうなると泊まるところが必要になるのですが、江澤家ではそんな絵描きさん達のために船大工さんの職人部屋を提供したの。後に、この江澤館の名を広く知らしめることになったのが、故・安井曽太郎画伯が当館の一室に籠もり、描き上げたと云う「外房風景」なの。現在は大原美術館に収蔵されますが、どんな絵なのか知りたい!と云うあなたは江澤館の HP を御参照下さいね。因みに、左掲は画伯が籠もった一室から同じような構図で収めてみた一枚ですが、芸術的には「似て非なるもの」ね。(^^;

芸術よりもわたしは食欲よ!と云うあなたの期待も当館は決して裏切らないわ。訪ねた時には海側のお部屋をお願いしましたが、何と宿泊料金のみで御覧の「お造り」が付いて来たの。これにはビックリ。勿論、テーブルには前菜や煮物、焼物などの通常のお料理が所狭しと並べられ、オマケに「アワビの踊り焼き」付きよ。当館が画家の方々に評判なのは仁右衛門島を初めとした太海の景観の美しさと共に、このお料理に負うところ大ね。人はパンのみにて生くる者に非ず−とは云うものの、芸術とは程遠い境遇にいるξ^_^ξは美味しいものと、美しいものに心を委ねるのみね。(^^;

お造り お造り お造り

最後に、お部屋から望み見た仁右衛門島を紹介しておきますね。この景観とお料理を堪能出来るだけでも充分お値打ちよ。因みに、左端は日の出を捉えたものですが、ちょうど仁右衛門島の背後からお陽さまが昇って来たの。

仁右衛門島 仁右衛門島 仁右衛門島 仁右衛門島


今回の旅は前回の安房小湊編に引き続き、鴨川市内に日蓮上人所縁の地を訪ね歩いてみましたが、後半は魚見塚展望台から太海までの道程を潮風と戯れてみました。ここでは三陸海岸に代表されるようなリアス式の海岸美が見られるわけではありませんが、鴨川漁港から太海浦にかけては風光明媚な景勝地が点在しているの。勿論、ここでは多くの労苦が求められる訳では無くて、ほんの少し、時間と足を延ばせば届くところにあるの。その身近さが嬉しいですよね。穏やかな一日を見つけて、あなたも展望台にある乙女の像の前に立ってみませんか?出来ることなら愛するひとと一緒にね (^^; それでは、あなたの旅も素敵でありますように ‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
東京堂出版社刊 朝倉治彦 井之口章次 岡野弘彦 松前健 共編 神話伝説辞典
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡






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