≡☆ 美味し国ぞ安房の国−安房小湊編 ☆≡
 

美味し国ぞ安房の国−初詣編 を掲載するにあたり、改めて情報収集していると、気付かずに通り過ぎてしまった景勝地や史蹟などが数多くあることを知らされたの。閉園した行川アイランドのその後のことも気に掛かり、それならいっそのこと出掛けてみようかしらと、潮風に誘われて訪ねてみたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

おせんころがし〜鯛の浦祓山遊歩道〜誕生寺〜鯛の浦遊覧船〜妙蓮寺〜日蓮寺〜西蓮寺

1. JR新宿駅 しんじゅくえき 7:19発

新宿わかしお号 この日利用してみたのがJR新宿駅を始発とする新宿わかしお号。首都圏から外房方面へのアプローチとなると必然的にわかしお号への乗車となるのですが、普通はJR東京駅の地下ホームからの発車ですので、乗り換え時には長〜い地下通路を延々と歩かなくてはならないの。自宅からなら東京駅より新宿駅の方が近いわ−と云う方にはこの新宿わかしお号がお薦めよ。因みに、東京駅の方が近いけど歩くのもイヤ!−と云うあなたは秋葉原駅から乗車してみては?今回は南房総フリー切符を利用しましたが、フリー区間や乗車可能なバス路線などの詳しい情報は JR東日本 を御参照下さいね。¥7,500 〔 都区内発 〕

2. JR安房鴨川駅 あわかもがわえき 9:37着

安房鴨川駅 安房鴨川駅 瀟洒な装いの駅舎に迎えられて能天気なξ^_^ξ旅人の気分はすっかりリゾートよ。先ずはコインロッカーに手荷物を預けて身軽になったところで観光案内所に立ち寄り、情報収集を。と云うよりも本当は各種割引券の調達が目的だったりして。(^^; 観光案内所ですから見処へのアプローチの方法は勿論、泊まる積もりは無かったんだけど気分が変わったから気軽に泊まれるところをどこか紹介して欲しいの−等などの我儘もOKよ。

いざ出掛けてみると、予想外の新たな発見の連続で、取材時間が大幅にオーバーしてしまい、2度にわたり訪ねているの。なので、以後の内容は掲載に際して再編成をしたので、ポイント毎の発着時間が不自然になることから御案内を見送りました。御了承下さいね。

3. JR行川アイランド駅 なめがわあいらんどえき

行川アイランド駅 冒頭で御案内しましたように、行川アイランドが閉園して既に5年余りの歳月が流れ、その跡地がどうなったのかが気に掛かり、併せて行川アイランド駅の現状にも興味を覚えていたの。嘗ては多くの観光客を集め、フラミンゴ達が華麗なダンスを見せていた頃は、駅に降り立てば木々の向こうからは鳥の鳴き声や観客達の嬌声がこだましていたの。賑わいを見せていた頃の昔を知る方には辛い写真かも知れませんが、一方で現状がどうなっているのか気になる方もいらっしゃると思いますので、纏めて紹介してみますね。

待合室 今では無人駅となってしまいましたので、乗降客にどう対応するのか気になるところですが、ここでは全てが性善説なの。車掌さんがホームを走り回る訳でも無くて、唯一の駅舎でもある御覧の待合室には着札乗車券箱と自動券売機ならぬ乗車駅証明書発行機が設置されているの。降りる方はその着札乗車券箱に使用済みの乗車券を、新たに乗車する方は乗車駅証明書発行機で証明書を発行して下車駅で精算するの。乗車は兎も角、下車する方の乗車券もここではノーチェック。見ていると着札乗車券箱に使用済みの乗車券を入れる人も無く。と云っても下車された方も地元の方と覚しき方だけでしたので実害は無いのでしょうね。

改札口 駐輪場 左掲は駅員が常駐していた頃の切符の販売窓口と改札口の駅舎なの。右はお手洗いの建物に併設された物置(だと思います)で、掃除用具などの収納スペースとして使われていたのでしょうが、今は御覧のように駐輪場として利用されているの。使う人は限られているのでしょうね、将棋倒しにならないように注意して自転車を引き出す日常とは違い、ここでは優しい時間が流れているの。

案内図 改札口 前景 駐車場 改札口への道 歩道橋から見た
行川アイランド入口の景観
行川アイランドの駐車場

今回の取材で行川アイランド駅を訪ねる切っ掛け作りをして下さったのが Party Island なの。
閉園した今も管理人のFumiさんが行川アイランドに寄せる思いは真摯で優しいの。是非、御覧下さいね。

4. 行川アイランド跡 なめがわあいらんどあと

窓口 隧道 オブジェ

発券窓口にはカーテンが掛かりますが、閉園してから5年余り経つと云うのに、窓口の前で開園時間が来るのを待っていると、今にもカーテンが開いて係員の方が笑顔で出迎えてくれるような、そんな錯覚もして来るの。確かに腐食も目立ちますが、閉園となると廃墟の塊となる施設が多い中で、往時の賑わいを物語るポスターなどが貼り出されたままになるなど、当時の名残りが意外に綺麗な形で残されているの。加えて、発券窓口の建物の前は今でも 鴨川日東バス の発着点にもなっているのよ。

行川アイランドはξ^_^ξにとってもメモリアル施設。残念ながらトンネルの入口は柵が設置され、立ち入り禁止になっていましたので園内の様子を窺い知ることは出来ませんでした。閉園してからかなりの年月を経て、巷ではその跡地利用が具体的に囁かれるようになった昨今、その姿を変える前に、例え一部だけでも当時の名残りを目にすることが出来たことで良しとしました。訪ねた時には駅のホームでも工事が行われていましたので、愈々プロジェクトが動き始めたのかしら?

5. おせんころがし

行川アイランドを後にR128号線を鴨川方面に歩いて次の目的地・おせんころがしに向かいました。左端の写真に走りゆく車が写りますが、その左手に案内板が立ちますので見逃さないようにして下さいね。その案内板を過ぎるとトンネルが見えて来ますのでその手前を左手に折れて下さいね。駐車スペースの奥に何やら怪しげな看板が立ち、一瞬、気後れしそうになりますが、突き当たりが分岐路になっていますのでここでは迷わず左手に続く道に進みます。ですが「オレ達は右だぜ!」と云う方は無理にはお引き留めしませんよ。(^^;

切り通しのような道をしばらく歩くと見えてくるのがこの石塔なの。道はここで行き止まりとなり、ここから先は20m程の高さの断崖絶壁が4kmにもわたり、続いているの。勿論、その断崖絶壁の前に広がるのは雄大な太平洋。訪ね来る前まではおせんころがしはピンポイントの景勝地だと思っていたのですが、この断崖絶壁の連なり全域に対する呼称みたいね。そのおせんころがしにはお仙と云う娘子の悲しい物語が語り継がれ、石塔はそのお仙への供養碑なの。

むか〜し昔のことじゃけんども、この辺りを治める強欲な領主がおってのお。今でもそうじゃが、海と山に挟まれた土地じゃで、田圃もそう大きくはなくてのお、穫れる米も多くあるわけじゃなかったんじゃが、それでも領主の求めに応じて、村のもんは何とか頑張っておった。そんなある年のことじゃった。強欲な領主は更に年貢米をきつくしたそうじゃ。それまでは不満を云いつつも堪えておった村人達じゃったが、人目を憚ることなく、公然と不満をぶちまける者が出始めたのじゃ。そうして、そんな村人達の不満の声は、領主の一人娘のお仙の耳にも届くようになってのお。

じゃけんども、お仙は強欲な領主とは違い、優しい心根の娘で、村人達からは慕われておった。領主にしてみても、長い間待ち望んでようやく生まれた娘だったことから、たいそうな可愛がりようじゃった。そんなお仙は、村人達の不満を耳にするにつけ、心をいためておったそうな。そうして堪り兼ねたある日のこと、お仙は父親に願い出たそうじゃ。「お父さま、どうか年貢米の取り立ては元通りにしてあげて下さい。お仙が着るものも絹ではなくて、木綿や麻布で充分です。お米が足りぬと云うのであれば、お仙は粟でも稗でも結構です。村人達の苦しみを聞くのは、お仙には辛うございます」と。愛娘の涙ながらの訴えに、流石の領主も不承不承許したそうじゃ。それからと云うもの、村人達は以前にもまして、お仙さま、お仙さまと慕うたそうな。

それからしばらくした年のことじゃった。久し振りの豊作に、村人達もこれで一息つけるわい−と大喜びじゃった。じゃけんども、それを知った強欲な領主は、すかさず、年貢米を六分四分の取り立てにするおふれを出したのじゃ。これには村人達もいきりたって、六分四分ではおら達に死ねということじゃ。もう我慢出来ねえ、直訴すべえ−と口々に叫び始めたのじゃ。じゃがのお、領主に訴え出てみたところで聞き入れては貰えんかった。それを知ったお仙は、お父さま、幾ら豊作だからと云って六分四分の取り立てでは村人達も暮らしてはいけません。どうか村人達の願いを聞いてあげてください−と訴えたんじゃが、今度ばかりは首を縦には振らんかった。それを知った村人達の中には、お仙さまが云うても聞き入れてくれぬとあらば、残るは一揆のみじゃと叫ぶ者もおったそうじゃが、鍬や鎌を持って直訴するんは御法度じゃったで、何とか踏み止まっておったそうな。

そうして秋の刈入れを終えて、祭りが行われたある日の晩のことじゃった。村人達は酔いつぶれた領主を秘かに駕籠に乗せて祭りの会場から連れ出してしもうたのじゃ。そうしてこの断崖の上にやってくると、強欲な領主め、思い知るがいい!と、駕籠ごと崖の上から投げ落してしまったのじゃ。暗闇に消え行く駕籠を見届けると、村人達は酒も入っていたこともあって、その晩は家に帰ったのじゃが、翌朝恐る恐る崖下の波打ち際に近付いてみると、あろうことか、そこには父親の着物を着て横たわるお仙の姿があったそうじゃ。何と云うことじゃ、おら達の味方になって、領主を諫めてくれたお仙さまが・・・お仙さまあ〜

心優しいお仙は父親と村人達の間で揺れておったのじゃのお。たとえ、年貢の取り立てに厳しい領主であっても、自分を慈しんで育ててくれた父親じゃ。その父親を亡き者にしようとする殺害計画を知ったお仙は、自らが身代わりとなることで父親の強欲ぶりを諫め、村人達の窮状を救おうとしたんじゃのお。村人達は変わり果てたお仙の亡骸を鄭重に葬ると、そこに石塔を建てて供養したそうじゃ。強欲な領主も心を入れ替え、それからと云うもの、この崖のことを誰云うとなく、「お仙ころがし」と呼ぶようになったそうじゃ。とんとむか〜し、昔のお話しじゃけんども。

ここで皆さんにおせんころがしの伝承の別バージョンを紹介してみますね。
そんなの、どうでもいいじゃんかよお〜と云う方は心置きなく読み飛ばして下さいね。

むか〜し昔、この辺りの村にお仙と云う娘子がいたの。母親は早くになくしていたのですが、その面影を残すお仙は気立ても良くて、美しい娘子になっていたの。そのお仙には病に臥せる父親がいたのですが、優しいお仙は漁師が釣り上げて来た魚を売り歩くなどして父親を支えながら、ひっそりと暮らしていたの。そんなある日のこと。村を通り掛かった旅人から断崖絶壁に咲くイソギクを煎じて飲むと病が癒えると教えられたの。それからと云うもの、お仙は雨の日も風の日も、この断崖にやって来てはそのイソギクを探したの。

イソギク 最初の頃は手を伸ばせば届くような場所に生えているイソギクを摘めば良かったのですが、次第に崖から身を乗り出さなくては届かなくなってしまったの。少しでも足を滑らせたら浪間に真っ逆さまで、まさに命懸けだったのですが、父親の病いを直そうとお仙も必死だったの。そんなお仙の思いが通じたのか、父親の病いも快方に向かい始め、そうなるとお仙の気持ちも晴れて、笑みがもれるようにもなると、その美しさは隣村まで伝わる程の評判になったの。

やがて、その噂がこの辺りを治める領主の耳にも届くようになり、それ程の容貌(みめかたち)の持ち主ならば是が非でも手許に置いて奉公させようと思うようになったの。そうして、使いの者に大枚のお金を持たせてお仙を身請けしようとしたのですが、父親は頑として聞き入れなかったの。それでも諦めきれずに、手を替え、品を替えては父親のところへ遣いを出したの。けれど病に臥せていた我身を献身的に支えてくれた娘を貧しさから領主の元へ差し出すなど、父親には間違っても出来なかったの。病の癒えた今はお仙の幸せだけが父親の希みだったの。

手を尽くして身請けしようとする領主でしたが、父親から悉く反対されると、終いには力尽くで脅すようにもなったの。それでも聞き入れて貰えぬと知った領主は、お仙に気付かれぬようにして父親を殺害してしまおうと謀ったの。領主の意を受けた配下の者達は、お仙の留守を見計らうと父親を連れ出して筵巻きの上、縄で縛り上げてしまったの。そうして、夜になったら突き落とそうと崖の上に横たえて置いたの。そんなこととは知らぬお仙は、湊での仕事を終えて家に帰る途中、いつものようにこの崖の道を通り過ぎようとしたの。ところが風も無いのに一ヶ所だけ草叢が揺れているのが見え、不思議に思い、近付いてみるとそこには筵巻きにされた父親の姿があったの。

自分の幸せを願ってくれる父親が何故にここまで苦しめられるのか、いっそのこと自分さえいなければ苦痛を味わうことも無いのではと考えたお仙は、密かに父親の身代わりとなることを選んだの。筵巻きにされた父親を助け出して家に戻ると夕暮れを待ち、気付かれぬように家を抜け出すと、再びこの断崖に戻り来て自らを筵巻きにしたの。そうして息を潜めてじっとしていたの。やがて、そうとは知らぬ領主の手下共が現れると、簀巻きのお仙を崖から突き落としてしまったの。翌朝目覚めた父親は、お仙の姿が見当たらないことに気付き、四方八方探したのですが見つからず、ひょっとしたら−とこの断崖にやって来たの。そうして崖の上から恐る恐る身を乗り出して見下ろしてみると、果たしてそこには変わり果てた娘の姿があったの。

それからというもの、その話を知る者はこの崖を通る度にお仙の孝養心に想いを馳せると、野の花を手向けて供養したと云うの。そうしていつの頃かお地蔵さんが祀られるようになり、時を経てこの孝女おせんの碑が建てられたの。

おせんころがしの伝承を、脚色を交えて二話程紹介してみましたが、この他にも幾つかの物語があるの。御案内した伝承にしてもストーリーの展開に違いがあるなど一定してないみたいで、どの説を採るかは皆さんのお好み次第と云うわけ。脚色を加えたのでまた一つ亜流が出来ちゃったかしら。(^^; 中には能登半島の恋路ヶ浜伝説と同じような展開をみせる物語もあり、想像を逞しくすると、もう少し違う「おせんころがし」が見えて来るような気がするの。

今では柵が設けられて立ち入り禁止ですが、嘗ては勝浦と小湊を結ぶ古道が断崖絶壁を削るようにして作られていたの。道幅も極めて狭いことから馬車などは通れずにいたのかも知れませんが、背負子を担いで通る村人達には充分だったのではないかしら。それでも時には足を踏み外すなどして命を失う人も多くいたのかも知れませんね。更に時代を遡れば、この辺りは安房国と上総国の境に位置することから結界の地と見做されてもいたみたいよ。不慣れな旅人はこの断崖の道から足を滑らせて命を失うこともあり、当然、崖下には怒濤が打ち寄せていたでしょうから、それは海神の成せる業と受け止めていたのかも知れないわ。そこでξ^_^ξが連想したのが弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水神話なの。

御存知無い方もいらっしゃるかと思いますので少しだけ紹介してみますね。東夷征伐のために東国に来た日本武尊は三浦半島の走水から船で房総半島に渡ろうとしたのですが、その時に激しい暴風雨に巻き込まれて難破しそうになるの。そこで海神の怒りを鎮めようと、妻の弟橘媛は荒れ狂う浪間に菅・皮・絹の畳をそれぞれ八枚積み重ねるとその上に身を置いて一人浪間に消えたの。すると海は忽ち静まりかえり、尊は無事に浦賀水道を渡ることが出来たの。最愛の妻の死を以てようやく海神の怒りを鎮めることが出来たわけで、弟橘媛の入水神話には、神々に仕える巫女が自らの命を捧げて神の許へと嫁ぐ姿が見え隠れしているの。因みに弟橘媛が入水してから七日程たったある日のこと、媛が愛用していた櫛が砂浜に打ち揚げられ、形見の櫛を埋めて御陵を造っているの。

意外に思われるかも知れませんが、南房総は古くから安房と呼ばれ、東国の中でも早くから拓かれた土地だったのですが、その安房から蝦夷地に向かう古道の一つがこの断崖絶壁の道だったのではないかしら。ひとたび荒れ狂うと何人と雖も通ることが出来ず、無理をすれば立ち処に命を失うことになり、神の成せる業と受け止めた古人は人身御供を捧げて怒りを鎮めたのではないかしら。それが人々の口伝として伝承される中で時代と共に脚色されて変化して来たものではないかしら。今ある供養塔には「孝女お仙の碑」とありますが、孝養心云々は仏教の影響を受けた後代に付与されたもののような気がするのですが・・・

供養塔には日出山久成寺の名がありました。訪ねた訳ではありませんが、同寺は後に紹介する大沢地区にあるお寺なの。ここではそのお志を非難するものでは決してありませんので、お許し下さいね。

おせんころがし おせんころがし おせんころがし おせんころがし

断崖上からの景観を堪能したところで再びR128に戻りました。嘗ては人が通るのが精一杯の街道でしたが、今では新しい道も造られ、トンネルの中を轟音を発して車が走り抜けて行くの。歩道側は車道に較べて一段高くはなっているのですが、車が通り抜ける度に風に煽られてガードも無いことからぶつかってくるんじゃないかしら−と恐いくらい。トンネル内を歩く時はくれぐれも車には気をつけて下さいね。この頁を御覧のドライバーの方にお願いよ。トンネルの中を何チンタラ歩いてんだよ〜!と云わずに、ホンの少しで結構ですからスピードを緩めて下さいね。お仙の悲しい物語の余韻から脱けきれずに、怖々と断崖絶壁を歩いている心境なのですから。

さて、そのトンネルを抜け出たところに大沢バス停がありますが、その背後に続く石段を降りると大沢漁港なの。
折角ここまで来たのだから断崖絶壁を下から見てみようかしらと廻り込んでみたの。

大沢漁港 見たところ漁業関係者以外は立ち入り禁止のようでもあり、思案していたのですが、折り好く現れて下さったのが地元の漁師さん。見ると顔中ペンキだらけにして船の補修中だったみたい。空かさず声を掛けて訊ねてみたの。行けねえわけはねえけんどよお、気をつけねえと危ねえよ。こねえだもよ、岩が崩れ落ちて来たでよお。別に脅かす積もりはねえけっどよ〜と云いながらもニコ〜ッと笑顔が返って来たの。その笑顔に救われて立ち話を始めてしまったのですが、聞けば昭和一桁生まれの現役の漁師さんだったの。

おせんころがし ですが、潮焼けしたと云うか日焼けしたと云うか、褐色に焼けた顔は健康そのものなの。問わず語りに教えて頂いたのですが、今でこそ崩落防止のためにコンクリートが打ち込まれているのですが、その漁師さんが子供の頃は松やグミの木が生えていて緑に覆われていたそうで、勝浦辺りから帰り来る近道としても利用されていたみたいね。20mはあろうかと云う断崖絶壁を登り降りしながら通学していたなんて、どこかのPTAのママさん達が聞いたら卒倒しそうね。(^^;

子供ん頃は今と違って先生もよお、出来る子から早くけえしてくれたんだ。勉強も良く出来る女の子がいたんがある日この崖から堕ちて死んでしまったんが。早くけえして貰ったって腹が減るし、今みたいに菓子なんかねえから崖の途中に生えてたグミの実をとって喰ってたんが。あん頃は未だ草も木も生えとったから枝を伝えば崖を登り降りすることが出来たでよお。女の子と云ったって今と違って男の子みてえなもんよ。でもよお、可哀想なことよのお。

話の展開が引き続き戦争時のことに及ぶと

戦争の時はよお、海ん向こうから爆撃機が爆音響かせて飛んで来てよお。
エッ!この辺りも爆撃されたの?
爆撃はねかったけんど、勝浦にタンクがあってそれを狙ってたんだ。
俺たちもよお、竹筒を持たされて崖に攀じ登って松ヤニを採らされたんだ。
松ヤニをどうしたの?
油を作ったんだ、飛行機を動かす油をよお。作り方はわかんねえけっどよお。
頭ん上は爆撃機がブンブン飛んでて恐かったでよお。今は平和で良かっぺえ?

まさに時代の生き証人のような漁師さんでした。

絶壁 崩落 その漁師さんに気をつけて行きなと気遣われて護岸堤の道を歩きましたが、ちょうど石碑が建つ辺りになるかしら、極最近岩が崩れ落ちたみたいなの。断崖絶壁は石碑の背後1mあるかないかに迫りますので、そう遠く無い将来には移転を余儀なくされてしまうかも知れないわね。それにしても、下から見上げた断崖絶壁上の道は、高所恐怖症のξ^_^ξにはとても歩けそうに無いわね。

岬の先端では岩蔭から緋い鳥居が少しだけ顔を覗かせていましたが、先程の漁師さんに聞いたところでは海神さまが祀られているとのことでした。消波ブロックの山々に阻まれてとても近づけそうに無く、お参りすることは出来ませんでしたが、漁の安全や大漁を祈願する大沢地区の漁師さん達の手で今でも大切に守られているの。我身の生命(いのち)を捧げて海神に嫁いだ巫女は、自らもまた神さまとなる一方で、その姿は形を変えてお仙の悲しい物語として語り継がれて来たのかも知れないわね。

6. 境川内浦遊歩道 さかいがわうちうらゆうほどう

境川内浦遊歩道 大沢漁港からは海沿いの道を歩いて次の誕生寺へと向かいましたが、ノンビリと歩いても一時間程の道のりよ。紹介したように、おせんころがし供養碑のあるところから大沢漁港に通じる断崖上の旧道は通行禁止ですが、大沢地区から小湊へと続く道は、今ではアスファルトが敷設されて絶好の散歩コースになっているの。ここでは名称にしてもξ^_^ξが勝手に境川内浦遊歩道と名付けて紹介していますが、歩行者専用ではなくて車道なの。なので、時折車も通りますので、散策時には気をつけて下さいね。と云っても、道幅が狭いことから大型車は通行出来無いの。

境川内浦遊歩道 アスファルトの路面には所々に亀裂が走り、補修の痕跡も数多く見受けられ、断崖に作られた道は維持するのも大変みたいね。脅かす積もりはありませんが、雨上がりの日などは車の運転にはくれぐれも注意した方が良さそうよ。亀裂を生じて路盤が海側に傾いて、人の体重程度なら未だしも、車が通行するには一抹の不安がよぎるような場所もありました。ガードレールもあることはあるのですが、その先は御覧のような断崖よ。

車道としては難がありますが、歩く分には風光名明媚な景勝地としてお薦めの散策コースよ。前方に見える突端が入道ヶ岬で、その手前で海面から一つだけ飛び出すようにしてあるのが雀島と呼ばれる小島なの。訪ねた時には風が強くて白波ばかりが目立ちますが、険峻な地形も海に接した途端に穏やかな海棚に姿を変えているみたいなの。穏やかな日には優しいさざ波が打ち寄せ、渡り来る潮風があなたの頬を撫ぜて通り過ぎてくれることでしょうね、きっと。

境川内浦遊歩道 境川内浦遊歩道 境川内浦遊歩道 境川内浦遊歩道

警告表示

白波さえ立たなければ遠浅の穏やかな海岸に見えたのですが、実際にはそうでも無いみたいね。しばらく歩いていたら御覧のような警告板が建つ場所がありました。画面右手には「危険遊泳禁止−鴨川市」の立看板に、左手には「この付近の海岸は大変危険なので遊泳を禁止します。尚、事故にかかる一切の費用は本人負担となります−天津小湊町」の警告板。そして中央に掲示されていたのがダメ押しの、地元・鴨川警察署に依る「水難事故の捜索中につき関係者以外の立入禁止」の貼紙なの。それも手書きのもので極最近のものと知れましたが、警察署が嘘を書いて警告するような脅しをするとは思えませんので、実際に人命に関わる海難事故が起きたのでしょうね。

良く見れば道路脇のフェンスがここだけ扉になっているの。海岸へ降り立つにはここからとのことのようですが、覗き込んだ限りでは殆どゴミ捨て場と化していました。ここではマナーもゴミと一緒に捨てられてしまったみたいね。なので効果の程は期待薄ですが、その内、ゴミ不法投棄禁止の警告板も立つようになるかも知れないわね。併せて監視カメラの設置も必要ね。

隧道 雀島を左手にして道は山中へと向かいますが、御覧のトンネルを抜けてしばらくは山の中の道を歩きます。山間いを蛇行するようにして作られた道ですので周囲の景観は期待出来ませんが、ここでは森林浴気分を味わって下さいね。このトンネルから10分程歩くと次の目的地でもある誕生寺の裏手に出るの。

7. 鯛の浦祓山遊歩道 たいのうらはらいやまゆうほどう

近道 近道 近道 近道

鯛の浦祓山遊歩道へは後程紹介する遊覧船乗場側からのアプローチが普通なのですが、ちょっと近道をしてみました。誕生寺本堂の左手に細い道が続き、しばらく歩くと突き当たりに駐車場が見えて来るの。あれ〜これ以上行けないんじゃないの〜と怯む心を抑えて建物の背後を左手に折れて下さいね。駐車場の左手に人が通れるだけの狭い道が続いているの。

大小弁天島 磯伝いに整備された遊歩道を歩くと、弁天島と名付けられた大小二つの島が見えて来るの。掲載画像では大小逆の印象を与えてしまいますが、手前に写るのが小弁天島で、奥に小さく見える方が大弁天島なの。因みに、左手は陸地側で、その突端が入道ヶ岬となるの。辺りの海岸は鯛の浦の中でも風光明媚な景勝地となる一方で、日蓮上人の生誕に因む説話が数多く残されているの。と云うのも、この大小二つの弁天島に挟まれた入り江に、嘗ては小さな漁村があり、日蓮上人はそこで生まれたと伝えられているの。

大小弁天島 小弁天島 五色砂 五色砂

今ではその生誕を示すものは疎か、嘗ての漁村の存在を物語るものも何一つ残されてはいませんが、日蓮上人誕生の際には三つの不思議な出来事が起こったと伝えられているの。それが三奇瑞と呼ばれるもので、家の庭先からは突如清水が湧き出し、海上には蓮華の花が咲き誇ると、花の下では無数のタイが生誕を悦び、群れ泳いだと云うの。それからはこの辺りの入り江も蓮華ヶ渕と呼ばれ、その砂も美しく輝くようになり、五色砂と呼ばれるようになったと伝えるの。

奇瑞にしても三奇瑞を紹介するガイドブックやHPが多いのですが、伝記では「異香家に匂い 陽の影棟を照らし 星の輝き天に懸かり 俄に泉湧き出で 近き海辺に青蓮華花開けたりし」と、五つの奇瑞が現われたことを記しているの。けれど上人が誕生したのは貞応元年(1222)2/16のお昼前後とのことですから、星の輝き天に懸かり−と云うのは明らかな矛盾よね。それ以上に陽の影が棟を照らすワケはねえじゃんかよ〜かしら。(^^;

蓮華譚 蓮華譚 後程紹介する誕生寺も、当初はこの辺りに建てられたものだったの。明応7年(1498)の地震に伴う沈降で寺域は海面下に消えてしまい、現在地に移転を余儀なくされていますが、干潮時に現れる磯は元誕生寺の境内地でもあり、そこには狭いながらも信仰を寄せる人々の姿で賑わいを見せていたのかも知れませんね。

四阿 記念碑 小弁天島を前にして陸地側には昭和48年(1973)に昭和天皇と皇后陛下が行幸された際の東屋(あづまや)と共に両陛下の御詠歌を刻む記念碑が建てられているの。エッ?東屋では余りにも失礼じゃないの?と思われるかも知れませんが、ここでの東屋は四阿のことで、池や湖沼などの畔に設けられる亭(ちん)を指すの。勿論、四方を開放した造りは景観を愛でるためのものね。

小弁天島 蓮華淵の向ふに小嶼有り 辨才天を安置す 此嶼の東南に鯛の浦と云ふ所有り 舟にて到るべし 此所殺生を禁ず 辨才天 魚を惜しみ給ふ 若し此所にて魚を捕ふる者は必ず病を受くと 故に里人恐れて魚を捕へず 漁舟此所に到れば 小魚を海中に投じ 鯛の餌とす 魚も人の聲を聞いて浮かび出で 餌を與ふるを待つと 凡、鯛の大さ四五尺許 わらさの長さ九尺許なるを見る事ありと【房總志料】

訪ねた時には未体験で終えていますが、小弁天島へは干潮時に歩いて渡ることが出来るみたいね。その小弁天島では釣り糸を垂れる太公望の方々の姿も見掛けましたが、釣り人には干潮満潮は関係無いみたいね。と云うのもウエットスーツでも着込んで臨んでいるのでしょうか、釣道具を掲げて胸まで浸かり、やおら海中を歩き始める方もいたりして。記述にある−此所にて魚を捕ふる者は必ず病を受く−は遠い昔の迷信にされてしまったみたい。確かに掲示には−注意 たいを獲ることを禁止する 文化財保護委員会−とあり、鯛以外の魚なら釣り上げても構わないみたいね。但し、コマセ釣りは禁止よ。

CoffeeBreak 鯛の浦の呼称ですが、妙の浦の表記もあるの。それは題目の妙法蓮華経に因み、名付けられたものなの。紹介した蓮華譚の他にも法ガ台、経巻堀があり、鯛の浦は鯛と妙の音が似ることから妙の浦になったと云うわけ。なので厳密な区別は無さそうね。鯛が主人公なら鯛の浦、日蓮上人に因む場合には妙の浦と云うところかしら。

国土地理院発行の地図では大小二つの弁天島に挟まれた浦辺を妙の浦とし、そこから内浦湾に続く一帯を鯛の浦と記しているの。お上の云うことに逆らう積もりは毛頭無いのですが、これって間違いのような気がするんだけど。それとも・・・

8. 小湊山誕生寺 こみなとさんたんじょうじ

総門 誕生寺は当時の上総興津の在地豪族だった佐久間兵庫助重吉の三男・竹寿麿(後の寂日房日家上人)と甥の長寿麿(後の日保上人)が日蓮上人を開山に迎え、建治2年(1276)に開創した高光山日蓮誕生寺を起源とするの。当初は生誕地の蓮華譚に創建されたのですが、明応7年(1498)と元禄16年(1703)の地震津波で堂宇の悉くを倒壊流出し、その後も宝暦年間(1751-64)には諸堂を焼失するなど、度重なる被災を経ながら都度再建されて今日に至っているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

現在地に寺地を移転したのは一般的には元禄16年(1703)の大地震の後と云われているのですが、元禄13年(1700)の時点で既に現在地に再建されていたことを示す史料もあり、山号を小湊山に改称したのもその頃のことみたいね。加えて一時期には三重塔も建てられていたと云うのですから、まさに七堂伽藍を備えた大寺だったわけよね。駆け足で寺史の紹介をしたところで、早速、境内の御案内に進みますね。

誕生水 総門を潜り抜けてお土産屋さんを横目に (^^; 参道を歩くと最初にあるのがこの誕生水の井戸なの。前述しましたが、日蓮上人が生まれたのは貞応元年(1222)2/16のお昼前後のことで、生誕地は大小二つの弁天島に挟まれた辺り。今では海中に没してしまい、その縁を今に求めることは出来ませんが、誕生時には奇瑞の一つとして庭先から突如清水が湧き出しているの。その清水が産湯として使われ、こんこんと湧き出る水はその後どんな日照りの時でも涸れることが無かったと云われているの。それがこの誕生水の井戸なの。

あれ〜変よねえ。誕生寺が現在地に移されて来たのは後世のことで、日蓮上人が生まれたのはここじゃないのにどうして誕生水の井戸があるの?それは、再建時にこの場所から新たに清水が湧き出し、旧地のそれに因み、誕生水を襲名したからなの。でも、ξ^_^ξの根拠のない憶測では再建時に新たに湧出したと云うのは後世の演出で、以前からこの地に湧き出していたのではないかしら?真偽の程は御覧のみなさまの御賢察にお任せしますが、周囲の開発の影響なのでしょうね、豊かな湧水も今ではすっかり涸渇してしまったみたいね。

誕生堂 誕生水の井戸の脇にある石段を上るとあるのがこの誕生堂なの。嘗ては日蓮上人の幼名別称の薬王丸に因み、薬王殿とも呼ばれていたのですが、堂宇は昭和58年(1983)に大規模な改修工事を経て様変わりしてしまったみたいね。堂内には日蓮上人の幼少像と両親像が祀られているの。一般に語られるところでは日蓮上人は貫名重忠を父に、梅菊を母親として生まれたとするのですが、父親の貫名重忠にしても何と流人説などもあり、母親とされる梅菊にしても実母では無くて乳母だ、否、養母だ−などと諸説紛々なの。早い話しが分からないと云うことね。

日蓮上人の出自にしても「安房国長狭郡東条片海郷海人子也」とか「東条小湊浦釣人権頭之子」などと記されるだけで明らかではないの。日蓮上人は12歳まで親元で養われた後は勉学のために清澄山に入山したとされますが、単に漁師の家に生まれたのであればとうの昔に漁に駆り出されていたハズよね。当時の感覚からすれば「字なんぞ読めんでも魚は獲れっぺ」よね。権頭が何の職掌なのかは不明ですが、苗字を持つことなどを含めて考えると、父親はそれなりの地位にあったとするのが妥当よね。おまけに堂内に安置される日蓮上人の幼少像にしても帯刀していると云うのですから漁師の息子だ−と云うのは謙遜よね。

〔 編集余滴 〕 権頭のことが気になり調べていたら、国書刊行会刊【千葉県の歴史100話】の中に答えが見つかったの。権頭=権守(ごんのかみ)で、租税を負担する階層の者は、この権守や大夫を名乗り、単独、或いは少人数の共有で漁場を占有し、下人を隷属させていたと云うの。この権守の上に村長に当る浦刀禰がいるのですが、極端な上下関係には無く、領家・地頭からはこの両者を纏めて浦人 or 海人と呼ばれていたみたいね。と云うことで、父親の貫名重忠は租税を負担すべき立場にある有力漁民だったわけで、網元的な存在だったのかも知れないわね。

石畳の参道中央に聳え建つのがこの仁王門。左掲の縮小画像ではその大きさをお伝えすることが出来ませんが、間口は約15mもあり、奥行にしても6m近くある重層門で、その規模は県内最大級を誇るの。寺伝では江戸時代前期の宝永3年(1706)に水戸徳川家の外護を受けて建立されたものとされ、江戸中期の宝暦8年(1758)の大火では諸堂を悉く焼失する中で唯一被災を免れているの。現存する堂宇の中では最古のもので、創建時の様式を今に伝える貴重な建造物として千葉県の有形文化財にも指定されているの。

仁王尊 左掲はその仁王門の両袖に祀られる仁王尊像。近年では昭和50年(1975)に修復を経ていることから新しく見えますが、享保15年(1730)に上総国上野村植野(現:勝浦市植野)の大仏師・松崎右京が彫像したものと伝えられているの。ところで、仁王さまと呼ばれて親しまれる仁王尊ですが、金剛力士がホントの名称なの。手に持つ武器の金剛杵(こんごうしょ)に由来するのですが、元々はお釈迦さまの身辺警護の役目を負っていたの。早い話しがお釈迦さまのボディーガードだった訳で、そこから転じて寺院の守護神として祀られるようになったの。

仁王尊 その金剛力士ですが、元々は一体の執金剛神(しゅこんごうしん)だったの。二体の仁王尊像の口許に御注目下さいね。一方は「あ」の形に口を開いていることから阿形像、もう一方の仁王さまは口をギュッと結ぶ「ん」の口許をしているので吽形像と呼ばれているの。巷で云われる「阿吽の呼吸」はここから生まれ出たことばなの。元々は一体だったのですから当たり前と云えば当たり前なのですが、二体に分かれた今でも、それこそ阿吽の呼吸で寺院を守護しているの。やましい心を持つ人の拝観も拒絶する仁王尊ですので、金剛杵が飛んで来ないように気をつけて下さいね。(^^;

仁王門の右手に建つのが蓮華譚涌現之塔と名付けられた石塔ですが、蓮華譚の海中より発見された石碑を塔身にして建立されているの。明応7年(1498)の大地震で旧地は海面下に消えてしまいましたが、元禄15年(1702)、誕生寺の再建に当る26世住持の日孝上人は、日蓮上人誕生時の奇瑞を顕彰して石碑を建立するの。その中の一つが蓮華譚の石碑ですが、不運にも翌年の元禄16年(1703)には再び大地震により、その石碑も海中に消えてしまったの。そうして蓮華譚碑の存在が人々の記憶からもすっかり消えてしまった明治19年(1886)のある日、百数十年の時を経て海中から摩滅した石塔が発見され、その吉瑞に触れた当時の61世住持の日良上人は、その石柱を塔身にして蓮華譚碑の再建をしたの。塔身と台座部分の摩滅度が異なるのはそんな経緯故のものなの。

鐘楼 仁王門を潜り抜けた右手に位置してあるのがこの鐘楼ですが、釣り下げられている梵鐘は昭和24年(1949)に新たに鋳造されたものなの。と云うのも、それ以前の梵鐘は御多分に洩れず戦時供出されてしまったの。信仰を寄せた人々の思いが結実する梵鐘を、再び熔かして戦争の道具に変えるだなんて。再びそのような時代が来ることの無いように、切に願う次第よ。

幼少像 祖師堂へと続く参道を進むと松の木立ちの中に建てられているのがこの日蓮上人幼少像なの。所縁の寺院に建つ多くの上人像が題目を慟哭するかの如く天空を睨む姿をすることから、目にした途端に後退りしてしまうξ^_^ξですが、ここでは愛らしい幼姿ね。先程紹介した薬王丸が別称なら、正式な幼名は善日麿(ぜんにちまろ)なの。巷で噂されるところでは、母親の梅菊は上人を身籠る以前のある日のこと、お陽さまの日輪が自分の懐に落ちてくる夢を見たの。それを機に身籠ったとされ、父親の貫名重忠はその霊夢に因み、善日麿と命名したと伝えられているの。

この幼少像ですが、生誕650年記念として発願され、昭和10年(1935)に京仏師・瑞岑の手に依り鋳像されたものと伝えられているの。この幼少像も先程の梵鐘と同じく、戦時供出の憂き目を経ているの。幸いなことに戦後熔かされずに東京・両国駅の構内に放置されていたところを発見され、無事誕生寺へ帰還することが出来たの。破損していた左手も修復され、昭和21年(1946)に再び境内地に建てられたの。因みに、台座部分は昭和46年(1971)に新造されたものですが、背面の銘板に掲載される協賛者の中には故・福田赳夫氏の名もあるの。

幼少像は清澄山に入山する直前の姿とされるのですが、両親は最初から僧侶になることを希んでいた訳ではなさそうよ。当時は学校なんて無いからお寺は教育を受ける場でもあり、入山と云うよりも入学させたと云う方が近いかしら。なのでこのお姿は今で云えば入学式当日の、それこそピッカピッカの一年生状態ね。

タイの墓

幼少像の斜め後には御覧のタイ之墓が建てられているの。ねえねえ、タイってあの鯛のこと?勿論よ。エ〜ッ、何で鯛のお墓がこんなトコにあんのよ?ここ鯛の浦では棲息する鯛は日蓮上人の分身分霊として篤く敬われて大切にされて来たの。梵鐘や銅像は供出の憂き目をみたのですが、戦時中の食糧難でも、小湊の人々は鯛の浦の鯛を捕らえて食することは決してしなかったの。時を経て小湊漁港には近海で獲れた鯛も陸揚げされるなど、その姿に心を痛めたのでしょうね、篤い小湊の人々は昭和54年(1979)にこのお墓を建てて改めて供養したの。鯛づくしの小湊ですが、ここで日蓮上人生誕時に於ける超ド級のエピソードを紹介してみますね。勿論、鯛に纏わるお話しよ。水飛沫を浴びないように気をつけて下さいね。(^^;

あれは今まさに日蓮上人さまがこの世にお生まれになる時のことじゃった。それまでは穏やかに凪いでおった海面に、その大きさはわしの背丈はあろうかと云う大きな鯛が二尾現れてのお、大山鳴動するが如き轟音と共に、やおら海面から跳び上がったのじゃ。見れば雄雌二尾の鯛で、眩いばかりの金色の光を放つと、その輝きは生家を遍く照らしておった。その二尾の鯛じゃが、お七夜のお祝いの日まで毎日やって来ては、そうして日蓮上人さまの誕生を祝ったのじゃ。
ざっ( 間を空けて下さいね(^^; )ぶ〜〜〜ん!!

太田堂 タイ之墓に続く坂道を辿るとあるのがこの太田堂で、太田稲荷大明神が祀られているの。早い話しがお稲荷さんなのですが、堂内に祀られる神像は武士の相貌なの。寺側では太田康資の墓が境内地に営まれたことから守護神である稲荷神をこの地に祀ったとしているの。稲荷神は大別すると、神道系の伏見稲荷と仏教系の豊川稲荷とに分けられるのですが、ここでは同じ仏教系でも日蓮宗系の最上稲荷。そうは云うものの、安置される神像が帯刀して太田家の家紋を付けるなど、太田康資本人と稲荷神がごちゃ混ぜ状態なの。

墓塔

太田氏と云えば太田道潅の名は耳にしたことがあるのではないかしら。彼はその道潅の孫でもあるの。太田氏は清和源氏の一流で、丹波国太田郷(現在の京都府亀岡市)を領していたことから太田姓を名乗るようになるの。康資は永禄7年(1564)の国府台の合戦では、関東に覇権を伸そうとする小田原北条氏から離れ、対抗していた里見氏に与して参戦するのですが、敗れてこの安房に移ると隠棲したの。この誕生寺に身を寄せていた時期もあったみたいね。その康資は天正9年(1581)に現在の千葉県夷隅郡大多喜町で亡くなるとこの誕生寺に葬られたの。でも、これだけでは太田堂が建立された必然性が見えて来ないわよね。それに応えてくれたのが後に紹介する鯛の浦会館にあったパネル展示なの。

それに依ると、国府台の合戦に敗れて安房に逃れ来て隠遁生活をしていた康資は、漁師達の度重なる漁場争いを見て鯛の浦の荒廃を嘆いたと云うの。そうして、見兼ねた康資は調停に立つと事態を解決したの。天正9年(1581)、敵方の北条氏康の手勢が迫ると、それを知った漁民達はその時の恩義に報いようと北条軍に立ち向かうのですが、漁民達への後難を恐れた康資は自ら割腹して果てたと云われているの。ちょっと美談過ぎるきらいがあるのですが、後年、漁民達は我身を挺して救済してくれた康資の遺徳を偲び、誕生寺の境内地に堂宇を建てて菩提を弔うと共に、調停の際には康資が稲荷神の使いとされる白狐の扶けを借りたとも信じて併せて稲荷神を祀ったの。今でも海上安全や大漁祈願する漁師さん達の信仰が絶えないと聞きますので、そんな縁起に由来するのでしょうね。堂内には他にも七面大明神や妙見菩薩が祀られ、戦国武将として知られる加藤清正もここでは神さまとして祀られているの。何だか統一性の無い話しになりそうなので太田堂についての御案内はこれにて打ちきりね。

浄行菩薩 参道に戻り、幼少像を過ぎたところにあるのが浄行菩薩が祀られる浄行堂なの。聞き慣れない菩薩名ですが、法華経では末法の世に法を弘める重要な役目を負うの。お釈迦さまが入滅する晩年のこと、地中からそれこそ無数の菩薩が現れ出でてお釈迦さまから末法での法華経弘法を命じられたの。その無数の菩薩の中でも安立行、上行、浄行、無辺行菩薩の四菩薩はリーダー格なの。詳細は些か哲学的で門外漢のξ^_^ξには荷が勝ち過ぎますので省略しますが、ここでの浄は元々は煩悩や汚れを洗い流す様を表していたの。今では身体健全など現世的な御利益が期待されて浄行菩薩の方が洗い清められるようになってしまったの。本来なら洗い清めなければならないのは己の煩悩の方なんだけど。七面倒くせ〜こと云うなよ、そんなのどっちでもいいじゃん!だったかしら?そんなあなたは堂内に掲示されている萬病守護浄行菩薩縁起に目を通してみて下さいね。現世御利益にどっぷりと浸れますよ。(^^;

祖師堂 祖師堂 祖師堂 宝塔

そして、境内の中央に位置するのが祖師堂で、現在の建物は弘化3年(1846)に建立されたもの。祖師とは勿論、宗祖日蓮上人のことよね。ここでは多くを御案内する必要も無さそうね。その祖師堂の背後にあるのが昭和63年(1988)に建立された本師殿宝塔で、釈迦牟尼仏こと、お釈迦さまを祀るの。ξ^_^ξ達衆生を救い導いて下さる本当の導師はお釈迦さまと云うことよね。なので宝塔の高さは祖師堂のそれよりもちょっとだけ高くしてあるみたい。(^^;

龍王堂 祖師堂の左手には龍王堂と名付けられた村の集会所のような佇まいの家屋 (^^; がありますが、八大龍王が祀られているの。八大龍王とは難陀・跋難陀・阿那婆達多・沙伽羅・徳叉迦・摩那斯・優鉢羅・和修吉の八龍王のことで、ヒンズー教の神々が仏教を護持する眷属になったの。釈迦降誕の際には難陀・跋難陀の二龍王が空から甘露の雨を降り注いだと云われ、元々は大蛇でしたが、中国では鰐と合体して龍に変身したの。龍は水中にひそみ、雨を呼ぶ魔力を持つと信じられ、今でも降雨祈願など、水に関わる人々の信仰を集めているの。

実は、日蓮上人は雨乞いの達人でもあったのよ。有名なのが鎌倉・極楽寺を開創した忍性(にんしょう)上人との雨乞い対決。他の頁で紹介済みなのですが再掲してみますね。相手方の忍性上人が祈願する姿を日蓮上人は「頭から煙を出しながら云々」と評していますが、真剣なんだけどどこか笑えるお話しよ。

鎌倉幕府が開かれると為政者や御家人達の帰依を得て禅宗や念仏宗などの鎌倉新仏教が隆盛するの。勿論、日蓮宗もその一つよね。一方の旧来仏教でも新仏教の擡頭に危機感を募らせ、こりゃ負けちゃあおられんわい (^^; と、鎌倉に下向して来て布教を始めたのが南都仏教の流れをくむ真言律宗の忍性上人なの。極楽寺を開創すると施薬悲田院を造るなどして貧民救済にあたり、極楽寺切り通しを開削するなど社会事業も精力的に行ったことから幕府からは築港された和賀江島の管理を委ねられるなど大いに信任を得るの。そんな中で文永8年(1271)、大旱魃に襲われ飢饉を恐れた幕府は忍性上人に降雨の祈祷を命ずるの。それを好機到来とばかりに忍性上人に挑戦状を送りつけたのが日蓮上人と云うわけ。日頃から公然と他宗を排斥して憚らない日蓮上人にしてみれば、律国賊の忍性上人が幕府の信任を得ているのが何としても許せなかったの。

八大龍王碑 「忍性七日の内に雨降らせなば日蓮は忍性の弟子たらん 能わずば日蓮が弟子となるべし」と挑戦を受けた忍性上人は120余人もの弟子達を動員して雨乞いの祈祷を始めるの。そうして忍性上人は頭から煙を出しながら (^^; 必死に祈願するの。忍性上人は7日間祈祷を続けるのですが降雨の兆しは見えず、更に7日間の延長戦に臨みますが、結局一滴の雨粒さえ降らせることが出来なかったの。替わって日蓮上人が題目を唱え始めると俄に雨雲湧き起り、雷鳴と共に大雨が降り出すと、その雨も三日三晩に亙り降り続いたの。法華経の題目が八大龍王の歓喜を呼び、日蓮上人を助けたと云うわけ。

日蓮上人所縁の寺院では龍王が祀られることが多いのですが、その理由が少しはお分かり頂けたかしら。八大龍王もまたお釈迦さまが霊鷲山で法華経の説法をした際には連座して聴聞しているの。中でも沙伽羅龍王の8歳になる娘は法華経の教えを聞くとたちどころに成仏したことから、龍王は女性の守護神としても崇められているの。

宝物館

祖師堂の右手には宝物館があるのですが、訪ねた時には拝観することが出来ませんでした。以前、初詣に出掛けた時でも見学することが出来ましたので年中無休のハズなのですが、宝物館そのものが休館中みたいね。代わりに窓口に掲示されていた「そのひとこと」を転載してみますね。尚、掲載に際しては独断で体裁を変更させて頂きましたので御了承下さいね。

そのひとことで 励まされ そのひとことで 夢を持ち そのひとことで 立ち上がる
そのひとことで 腹が立ち そのひとことで がっかりし そのひとことで 泣かされる
ほんの僅かなひとことで 不思議に大きな力を持つ ほんのちょっとのひとことで
それなら私は優しいひとことを 云える人間になりたい

出仕橋 祖師堂右手の最奥部にあるのが出仕橋。今でこそ橋もコンクリート製となり、橋の下では車が行き交いますが、嘗ては川が流れていたの。それにしても出仕橋とは一見不可解な名称ですが、実はこの橋を渡った先に本堂があり、庫裡や客殿があるの。乱暴な云い方かも知れないけど、今まで紹介した建物が物見遊山の観光客相手のものなら、出仕橋の向こうにあるのはお坊さん達の修行の場ね。なので出仕となるの。そうは云っても今では使用されることも無くなってしまったみたいよ。オマケに本堂からは渡り廊下で祖師堂までしっかり繋がってるみたいだし。(^^;

本堂 僧侶達の修行の場であった祇園精舎も、現代版となると庶民の暮らしとはおよそ掛け離れた世界のものみたいね。ここでは本堂の画像と掲示されていた案内文を掲載するに留めおきますね。

平成3年(1991)10月に単層入母屋造り本瓦葺にて建立
正面のご本尊は水戸家より御寄進されました木造十界本尊で
仏像は貞享元年(1684)大仏師左京法眼康裕により作られたもの。
本堂に安置される木造日蓮聖人坐像は安房小湊町の指定有形文化財

9. 小湊神社 こみなとじんじゃ

小湊神社 誕生寺の拝観を終えて遊覧船乗場に向かう途中で緋い鳥居が目に留まり、訪ねてみたのがこの小湊神社なの。明治期の神仏分離を経て独立していますが、元々は誕生寺の鎮守社で、祭神も三十番神と云う聞き慣れない神さまなの。と云っても、実は三十番神は30柱からなる神さまの連合体なの。今でこそ仏教と神道は別物と思われていますが、嘗ては渾然一体で、日本の神さまも仏教に盛んに習合されたの。中でも日蓮宗で提唱されたのが法華神道で、三十番神はその中心なの。日本の著名な神さま達は一ヶ月30日間、交替で法華経を守護させられたと云うわけ。

30柱全てを紹介するのは大変ですので、広く知られたところをちょこっと列挙してみると、初日に熱田、二日目は諏訪、以降は気多、鹿島、北野、貴船、伊勢、岩清水、賀茂、松尾、春日等など。でも、これって既に平安時代に天台宗に取り入れられていて、日蓮宗のオリジナルと云うことでも無いの。日蓮上人にしても日本の神さまを代表する番神として最初に迎えたのは天照大神と八幡大菩薩なの。でも、天照大神は分かるのですが、もう一柱が八幡神と云うのはどうしてかしら?そのルーツを辿ると九州の一地方神となるのですが、日蓮上人の先祖は実は熊襲だったりして。(^^;

10. 鯛の浦遊覧船 たいのうらゆうらんせん

遊覧コース 誕生寺の総門のある辺りまで戻り来たところで鯛の浦を巡る遊覧船に乗船してみたの。遊覧船は紹介した大小二つの弁天島がある蓮華譚をめぐり、海上では鯛の餌付けも見ることが出来るの。本来のマダイは沿岸性の回遊魚で、比較的深いところに棲息するお魚なの。内湾などの浅いところに来るのは専ら春先の産卵期のことで、鯛の浦のように水深も高々20m程度しかないような内湾に定住するのは極めて珍しく、特別天然記念物として保護されているの。遊覧船に乗船すればその貴重な生態を垣間見ることが出来るの。乗船料:¥950 所要時間:約30分

遊覧船 蓮華譚 蓮華譚 大弁天島

出航した遊覧船は大小二つの弁天島が並ぶ蓮華譚を目指します。今でこそ地形も変わり果ててしまいましたが、嘗ては迫り来る断崖を背にして小さな漁村があり、日蓮上人はそこで生まれたの。上人と鯛に纏わる物語は数多く残されていますが、鯛の浦で投げ餌が始まる切っ掛けにもなった逸話を紹介してみますね。

波題目 文永元年(1264)、父の菩提を弔うために一時帰郷していた日蓮上人が海上に向かい、南無妙法蓮華経と題目を唱えたところ、波間にその題目が浮かび、それを目指して無数のタイが群れ集まると悉く食べ尽くしてしまったと云うの。その奇瑞に接した村人達は、その後、鯛の浦に棲むタイを上人の分身分霊として崇め、禁漁とすると共に、餌付けして大切に守り育てて来たと云うの。時を経て、この小湊が日蓮上人の霊蹟として崇められるようになると、鯛の浦詣も盛んになり、上人の生き姿をひと目見ようと、舟に乗る人が引きも切らずにいたの。

弁天島を眺め見たところで遊覧船は再び内湾に戻りますが、海上で二度三度旋回して停船しますので、波間を目を凝らして睨み付けていて下さいね。船上から船頭さんが撒き餌をすると、どこからともなく魚達が現れて海面下を勢いよく泳ぎ廻るのが見えて来るの。上の波題目の絵のように、サクラ色した大型のマダイが水面から大きな口をパクパクさせながら餌に群れ集まる姿を予想していたのですが、池のコイではありませんから、さすがにそれは無理みたいね。乗船は当日最初に出航する船にすべきかも。お腹を空かせた鯛が海面から飛び上がってくる?(^^;

鯛 遊覧船乗場には鯛の浦会館が併設され、1Fがお土産コーナーになり、2Fには小さな資料館がつくられているの。遊覧船の乗船料にはその入館料も含まれていると云うので見学させて貰いました。ここでは鯛の生態を初め、鯛の浦の歴史などが分かりやすく展示されていて、知れば蘊蓄ものよ。お祝いごとには欠かせない鯛ですが、その祝鯛のルーツが熊襲征伐にあることもこの資料館で知ったの。それにタイと名が付くお魚は何と100種類以上いるそうな。ξ^_^ξが知るのはキンメダイを始め、僅かに5種類ほど。深い積もりで浅いのが知識−ですね。

11. 両親閣妙蓮寺 りょうしんかくみょうれんじ

妙蓮寺 R128の誕生寺入口の交差点から道を隔てた脇道を歩くとあるのがこの妙日山妙蓮寺。両親閣の別称が示すように、日蓮上人の御両親の廟所なの。ですが、紹介しましたように、日蓮上人の誕生譚が奇瑞に彩られた物語なら、両親についても謎が多くて諸説紛々なの。中には後鳥羽上皇の御落胤説まであり、早い話しが良く分からないと云うことね。一般的(?)に云われているのが父親流人説。上人は自らの一字を採ると父親には妙日を、母親には妙蓮の法号を授けていますが、俗名は貫名重忠に梅菊を名乗っていたの。その貫名重忠が実は流人だったと云うの。

上人は12歳にして清澄山に入山しますが、当時の感覚からするとそれは知識階級への登竜門よね。だとすると父親も元々はそれなりの地位にあった人と考えるのが自然よね。貫名と云う姓にしても、三国氏或いは藤原氏に繋がる家系とも伝えられ、処罰されてこの地に配流されて来たとする説があるの。意外に思われるかも知れませんが、この安房も嘗ては流刑地の一つだったの。と云っても、隠岐や佐渡への配流に比べると、その処罰は軽いものだったようね。

妙蓮寺 「その姓は三國氏にて 聖武天皇の孫 父は三國大夫なり 母は畠山の氏族にて をさな名を梅菊女といへりし」とするものがある一方で、梅菊は清原氏の家系に繋がるとの異説もあるの。清原氏は天武天皇の皇子・舎人親王にそのルーツを発し、有名なところでは【枕草子】で知られる清少納言がいるの。だからと云って清少納言と日蓮上人を短絡的に結びつける積もりは毛頭ありませんが、その梅菊にしても実母だ、養母だ、いや乳母だ−と百花繚乱。貫名重忠の名にしても畠山重忠に結びつけた作為的なものとする説があるなど、何でもあり状態みたいね。人類みな兄弟の発想からすれば、み〜んなどこかでは繋がるのでしょうが ・・・

実は日蓮上人捨子説−なんて云うものもあるの。
説と云うよりも伝承ですが、後程紹介してみますのでお楽しみにネ。

ちょっと、こだわり過ぎてしまいましたね。紹介しましたように、妙蓮寺は日蓮上人の御両親の廟所ですが、建長5年(1253)、日蓮宗を開宗した上人に最初に帰依したのもその御両親なの。父の貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)には妙日を、母の梅菊には妙蓮の法号を与えているの。父・妙日は正嘉2年(1258)に、母の妙蓮は文永4年(1267)に亡くなり、この地に葬られたのですが、後にその廟所を護る堂宇が建てられたの。山号寺号の妙日山妙蓮寺は勿論御両親の法号に因むものね。

本堂 広布梅 広布梅 蘇生桜

嘗ては墓所の背後に広布梅と名付けられた梅の木が植えられ、境内地には蘇生桜と呼ばれる桜の木もあったと伝えられると聞き、それらしき痕跡を求めて境内を探索させて貰っちゃいました。そうしてようやく見つけたのが上掲の右側三点の画像なの。御札所の建物の背後に歴代住持の墓塔が並びますが、傍らの石柱にはそれぞれ−日蓮聖人御手植広布梅、蘇生桜旧蹟−と刻まれているの。植樹されている木が何代目になるのは分かりませんが、宗祖所縁の旧蹟にしてはちょっと雑な扱いね。

広布梅は父の菩提を弔うと共に法華経の広宣流布を祈願して植樹したのでしょうが、気になるのは蘇生桜の方ね。日蓮上人に纏わる逸話の一つに、文永元年(1264)に母危篤の報を受けて急ぎ帰郷した上人が枕元で一心に題目を唱えたところ、見事に蘇生して更に4年程余命を延ばしたとされるエピソードがあるの。蘇生桜はその逸話に因むものなの。寺宝には日蓮上人直筆とされる【蘇生曼荼羅図】も残され、その両脇には 妙の字は八巻ばかりにかぎらじな 松竹桜 当意即妙 の一首が添えられているそうな。本歌は和泉式部の 法の華は八巻ばかりにかぎらめや 松竹桜 当意即妙 とされますが、さて歌の意味となるとξ^_^ξには両者共にナンノコッチャですので、御覧の皆さんにお任せです。ゴメンナサイ。

境内で聖訓なるものを見つけました。ちょっと気になり、書き留めて来ましたので紹介してみますね。
個人的には4番目がお気に入りなのですが。バカヤロ〜!ここは両親閣だぜ。1番に決まってんだろ!かしら?

一、一切善根の中には父母への孝養第一也
一、世を安んじ 国を安んずるを忠となし 孝と成す
一、此の経は内典の孝経也
一、一日に一度笑みて候え

12. 岩高山日蓮寺 がんこうさんにちれんじ

三叉路実は四岐路 次に訪ねた日蓮寺も上人所縁のお寺なのですが、今では無住なの。ξ^_^ξも最初からそうだと知って訪ねた訳では無いのですが、訪れる人も少なく、マイナーな存在みたいね。途中で道を訊ねてみたのですが、「ばあちゃん!日蓮寺って岩高山のことかね?」と、家の奥に声を掛けて下さって。地元では寺号では無くて山号で呼んでいるみたいね。外房線のガードを潜るとこの三叉路にぶつかりますが、左がR82の天津小湊夷隅線で、右はR128に繋がるの。写真では分かりづらいかも知れませんが、画面中央に狭い道が続きますので、道路を横断してその狭い道を突き進んで下さいね。

谷奥 谷奥に向かい坂道が続きますが、突き当たりに見えて来たのがこの景観よ。普通はこの時点で山門や門柱などが目に入るハズなのですが、何も無いの。植栽された木々を見ても、日常的に人の手が加えられているようにも見えず、廃寺になってしまったのかしら?と云うのが最初の印象よ。それでも折角ここまで来たんだもの、ちょっと覗かせて貰っちゃおう−と左手の石段を上りましたが、決断は間違いではなかったの。廃寺どころか、建物も全面改築されていて、木の香も匂い立つようで。幸か不幸か、多少の古雅を期待して訪ねたξ^_^ξは見事に裏切られたと云うわけ。

日蓮上人所縁の霊蹟と雖もマイナー故の悲哀でしょうね、多くを案内してくれるガイドブックもWebSiteも無いの。
ここでは掲示されていた略縁起を元に御案内してみますが、脚色を加えていますので御注意下さいね。

本堂 文永元年(1264)、日蓮上人は工藤吉隆の招きに応えて天津に向かう途中、東條郷の地頭を務めていた東條景信の手勢に襲われ、門弟の鏡忍房を始め、急を知らされて駆け付けた吉隆もその刃に倒れ、上人自身も腕を折られて眉間に三寸余の刀疵を負ったの。それが「小松原の法難」で、辛くも死地を脱した上人は北浦忠吾・忠内の両名と共にこの岩高山に逃げ来たの。そうして岩窟に隠れ、疵の療養をしたの。後の建治3年(1277)、誕生寺開創者の一人でもある寂日房日家上人がこの地に日蓮寺を開創したの。

以来、日蓮上人がこの地で疵の療養をした故事に因み、「刀難避難養生の霊場」として知られるようになり、「剣難除の祖師」or「お綿帽子の祖師」と呼ばれるようになったの。ところで、前者は分かるのですが、気になるのが後者のお綿帽子の方ね。ある日のこと、疵の養生を続けていた上人の姿を見掛けたお市と云うお婆さんが−その疵に谷奥を渡り来る風はさぞ冷たかろうて。生憎とこのような物しか持ち合わせがねえけんどもお使い下され−と、自分の冠る綿帽子を差し出したの。上人にはそんな老婆の飾らぬ心遣いが他の何よりも疵を癒す薬になったのではないかしら?

上の写真は参道石段の傍らに残されていた疵洗井戸ですが、日蓮上人が逃げ来た当時は谷間を湧水が流れ、その水で傷口を洗い清めていたのだと思うの。それが今ではこの有り様で、沖の鳥島状態よ。幾ら霊蹟だからと云ってもちょっとやりすぎ〜よね。気持ちは分からなくはないけど。(^^;

石段を登り詰めたところにあるのがこの岩屋跡。と云っても養疵窟(おいわや)と称し、御覧のように小振りながらも立派な唐破風瓦屋根を冠する堂宇が新築されていました。堂内を覗き見たところで、嘗ての縁を今に求めることは出来ませんでしたが、疵を負う上人は岩窟に籠り、時には身を横たえ、時には躯を支えながらも一身に題目を唱えていたのでしょうね。また、上人は洞窟の岩砂を削ると傷口に塗り、血止めとしたの。事前情報ではその故事に因む「御血止めの霊砂」のあることを知り、どんなものなのか期待していたのですが、入手出来ずに終えてしまいました。

掲載画像は幾れも養疵窟を本堂側から捉えてみたもので、右側の2枚は紹介した岩窟ですが、気になるのが画面の奥に見える小さな祠堂なの。左端がそれですが、何を祀るものなのかしら?案内板には−境内には祖師堂初め、妙法船守稲荷堂、粟島善神堂、袈裟懸けの松などがあります−と記されることから、妙法船守稲荷堂か粟島善神堂と思われるのですが。妙法船守稲荷堂だとすれば、祭神は勿論お稲荷さんよね。妙法と冠することから純粋な宇迦之御魂神ではなくて、荼枳尼天に変身・習合されたお稲荷さんみたいね。船守ともあるので漁師さん達からは航海安全・大漁祈願など崇敬を集めていたのでしょうね、きっと。

霊橙 一方の粟島善神堂ですが、その名からすると淡島明神を祀るお社ね。淡島明神は淡島さまと呼ばれて親しまれ、女性の下の病に霊験灼かな神さまなの。そのルーツは現在の和歌山県は加太にある友ヶ島にあるの。加太には淡島神社があるのですが、有名なのが雛流しの神事。実は雛人形と淡島さまは繋がっているの。と云うより、最初に人形(ひとがた)を作り、海に流したのが淡島さまだったの。詳しいことは他の頁で紹介済みですのでここではこれ以上触れずに置きますね。残るは「袈裟懸けの松」ですが、辺りをウロウロしてみたのですが、見つけられずに終えているの。前庭には霊橙と書かれた木札と共に切株が残されていましたが、嘗ては上人所縁の橙の木が葉を茂らせていたのでしょうね。いつのことかは分かりませんが枯死してしまい、今は朽ちた根株だけが静かに土に還る日を待つのみ・・・

案内板に記される略縁起では粟島としていますが、ここでは淡島としました。友ヶ島にある小さな島の古名が淡島なのですが、【扶桑略記】にも粟島と記載されるなど、両方の表記があったみたいね。

13. 吾妻神社 あづまじんじゃ

参道 次の西蓮寺に向かう道すがらで鳥居を見つけて気になり、訪ねてみたのがこの吾妻神社なの。門前に建てられた由緒書(だと思うの)は風雨に曝されて文字が消え失せてしまい、判読不能なの。入口の佇まいからは村の鎮守さまに見え、鳥居からは直ぐの場所に社殿があるものと想像したのですが、かなりの距離があるの。オマケにその参道を御覧のように外房線の線路が横切るの。踏切なんて勿論無いし、剥き出しの線路を跨いで進むのですが、これでは♪通りゃんせ〜通りゃんせ〜とノンビリと遊んでられないわね。(^^;

吾妻神社 その線路を跨いで更に参道を進むと目に飛び込んで来たのがこの景観よ。これを見た瞬間、ξ^_^ξは出雲大社の古代高層神殿をイメージしてしまいました。社殿前に立とうと石段を上り始めたのですが、中では地元の方達が講か何かでしょうね、寄り合い中でした。お邪魔虫になるのも気が引けて、それ以上の探索は諦めましたが、吾妻神社の祭神は弟橘媛を祀ることが多いの。弟橘媛と云えば、そう、おせんころがしのところで触れましたよね。記述が重複しますが、改めて紹介してみますね。

東夷征伐に赴く日本武尊は三浦半島の走水から房総に渡ろうと船を漕ぎ出すのですが、激しい暴風雨に巻き込まれて難破しそうになるの。そこで海神の怒りを鎮めようと、妻の弟橘媛は荒れ狂う浪間に菅・皮・絹の畳をそれぞれ8枚積み重ねると、その上に身を置き、浪間に消えたの。

すると忽ち海は静まりかえり、尊は無事に房総に渡り着くことが出来たの。それから7日程経たある日のこと、媛が愛用していた櫛が砂浜に打ち揚げられ、形見の櫛を埋めて御陵を造ったの。以上が記紀に記される弟橘媛の入水神話ですが、日本武尊は東国を平定して帰る途中、足柄山の坂(紀では碓日坂)に差し掛かると後を振り返り、しみじみと「吾嬬はや」と嘆いたの。「吾嬬はや」は「わが(愛する)妻よ」の意とされ、入水して果てた妻の弟橘媛をこの地に残して去り行く悲しさを表しているの。記紀はこの「吾嬬はや」から転じて東国を「吾嬬の国」と云うようになったとも伝えるの。吾が愛する妻が眠る国、吾妻の国 ・・・

この吾妻神社がここに鎮座するに至った経緯が不明ですが、分祠・分霊されたにしてもそれなりの必然性があったハズよね。冒頭の「おせんころがし」のところでもちょこっとコメントしましたが、弟橘媛の入水伝説には我身の生命と引き換えに災いを鎮めた巫女たちの姿が見え隠れしているの。裏を返せば記紀の作者はその伝聞を元に、神話を象徴的に作りあげたとも云えるの。そうした背景を踏まえて、ξ^_^ξが鎮座の経緯を想像してみました。俗に「でっち上げ」とも云うけど。(^^;

南房総は勝浦や白浜などの地名に象徴されるように、紀伊半島との繋がりが古くからあるの。沖合いを流れる黒潮が文化と人的交流を齎してくれたわけ。当時はエンジンなんてありませんから、頼るは潮の流れや風のみで、あとは僅かな人力だけよね。そんな中で暴風雨に巻き込まれて遭難死したり、漂流の果てに生命を失くす人も多くいたのではないかしら。この小湊にしても、その名から察するに、古くから湊があり、近海沿岸では盛んに漁が行われていたと思うの。

当時は稲作するにしても、また、粟や稗などの雑穀を栽培するにしても、天候に大きく左右され、海に出て漁獲を得るのも、波が穏やかであることが前提よね。その天候もまた自然の成せる業、古人はそこに神さまの存在をいつも意識していたの。雷鳴が轟き渡り、三日三晩雨が降り続いて洪水になるのも神さまの怒り、怒濤のような荒波が打ち寄せ、辺りの景観を一変させてしまうのもまた神さまの力と信じたの。なので、生きる糧を得るためには神さまに常日頃から心安らかでいて貰わなければならなかったの。

小湊は農耕と漁業を控えて古くから巫女、あるいはそれに準じた女性がいたのは間違い無いと思うの。ここにはその巫女が住むお社があったのではないかしら。尤も、その頃は今みたいに○×△□神社を総本社とする−と云うことではなくて独立したお社ね。それがこの吾妻神社のルーツ。

更に想像を逞しくすれば、「おせんころがし」の悲哀物語は当時このお社で神さまにお仕えてしていた巫女の入水伝説が元になったのでは?と考えられなくも無いわね。巫女の必死の願いにも関わらず、一向に天候が回復せずに漁民は困窮を極め、意を決した巫女は我身の生命と引き換えに神さまの怒りを鎮めようと、雷鳴轟く暴風雨の中を一人、海辺の断崖に向かった・・・。嘗ては神さまにお仕えしていた巫女が後に神さまになるケースも意外に多いのですが、残念ながら小湊の巫女は神さまとして祀られることは無かったみたいね。それでも、時の流れの中で、巫女の入水神話は弟橘媛のそれとの親和性から同一視されるようになったのではないかしら?やがて弟橘媛の知名度に負けて巫女のそれは昇華してしまい、祭神も弟橘媛とされるようになり、今は「おせんころがし」の悲哀物語の中に僅かにその名残りを留めているの・・・と云うのはどうかしら?(^^;

14. 西蓮寺 さいれんじ

参道 最後に訪ねたのがこの西蓮寺。実は今回の散策でどうしても訪ねてみたかったのがこの西蓮寺なの。と云うのも、下調べをしていた時に【房総志料】に意外な記述を見つけたの。それが妙蓮寺のところでチラリと触れた日蓮上人捨子説。先ずはその記述から紹介してみますね。

往古 西蓮寺主僧藥師尊前にて早朝讀經し給ふ時に 後に赤兒泣く聲有り 振り返りて見れば氣高き生まれの男子なり これ庸人に非ずと取り上げて養育せらる 藥師尊前にて拾ひたる故に藥師丸と名付く 十貳歳迄養育し 十二歳の時に清澄山へ上らせ給ふ 日蓮上人是なりと

薬師堂 現在は東光山西蓮寺を正式な山号寺号とする天台宗寺院。門柱にも「日蓮大聖人十二歳マデ御養育之霊跡」と刻まれていましたが、それ以外のことになると不案内ですので、ここでは掲示されていた略縁起を転載させて頂きますね。それに依ると、創建されたのは何と!平安時代の天安2年(858)のことで、慈覚大師が開基したものと伝え、更にその末尾には・・・

本尊の薬師如来御尊像は慈覚大師自らが刻したものと伝えられ、薬師堂を中心とし伽藍が整い、今日に至るまで、近郷近在の薬師信仰の一大霊場となっています。

天正年間(約400年前)里見氏と北条氏との戦乱の際、里見氏の臣正木憲時の陣屋が設けられ、このため薬師堂のみを残して一山全てが焼失してしまいました。その後、正徳年間(約260年前)に中興義順和尚に依り鐘楼・客殿を再建し、現在に至っています。現在の薬師堂も元禄年間(約300年前)に義順和尚に依り解体修復されたものです。本尊薬師如来は当山開創の時から秘仏とされ、60年に1回しか開帳されません。このため古仏でありながら製作当時そのままを伝えるように保存され、現在は町指定文化財となっています。また、当山は日蓮聖人が幼少の頃、導善阿闍梨と共に12年間を過された霊蹟 でもあります。

乳母雪女之墓 伝承とばかりに思っていたのですが、寺伝では史実として語り継がれているみたいね。そして更に驚かされたのがこの御乳母雪女之墓なの。薬師堂の傍らに建てられていたのですが、日蓮上人の乳母のお墓だと云うの。瞬間目にした雪女の文字に、「エ〜ッ!雪おんな〜!?なんなの、これ?」と別な意味で驚いたのですが、(^^; ここでは「ゆきめ」と訓み、雪と云う名の女性の意ね。彼女のことが気になり調べてみたのですが、日蓮上人捨子説は仁治3年(1242)に寂道上人が記した【内浦西蓮寺内薬王丸事】に依拠しているみたいね。ここでは昔話風にアレンジしてお届けしてみますが、お読み頂ければ捨子説の全貌が明らかになる?(^^;

西蓮寺は慈覚大師こと円仁上人が開創したんじゃが、嘗ては七堂伽藍を有する大寺でもあったのじゃ。土御門院御宇と云うんじゃから鎌倉時代の始めのことじゃな。住持の道善上人は近在のもんからは顕密の達人と知られておってのお、そん時も法華経の守護神・日吉七社権現を感得すべく、千日行を修法しておったのじゃ。そうして満願まで僅か6日余りを残すだけとなったある日のことじゃった。行を終えて夜も明けようかと云う頃になり、薬師堂の裏手からは赤児の泣き声が聞こえて来たそうじゃ。不思議に思うた上人が泣き声を辿ると、岩屋の中で気高き様子の赤児が泣いておったそうじゃ。これは何かの仏縁に他ならぬと悦んだ上人は、その赤児を抱き上げて連れ帰ったのじゃ。

じゃが連れ帰ってみたものの、早速授乳に困ってしまってのお。その日は水飴や茶を飲ませて凌いだのじゃが、次ん日から乳母となる女を探したんじゃが見つからずにおってのお、しばらくは赤児のいる家を廻っては貰い乳をしながら育てておったそうじゃ。ちょんどそん頃相前後してこの薬師堂に眼病を患う女が百度参りをしておったそうじゃ。そん病も癒えた頃に、上人はその女に乳母の紹介を頼んでもみたんじゃが、心当たり無しと断られてしまってのお、さすがの上人も万策が尽きてホトホト困り果てておったそうじゃ。そんなある日のことじゃった。檀家の市川の兵庫と云うモンが書状を持たせて百度参りをしとった女を遣わして来たのじゃ。そん書状にはこう書きつけてあったそうじゃ。此の程 初子を見るに付き 乳母に御難儀の由承り候 此の女は瀧口三郎左衛門が娘 雪と申すもの 則ち拙者所縁のものに候間 此人を乳母にさし置かるべし−と。

歓び勇んで対面に及んだ上人じゃったが、いざ会うてみるとあの百度参りをしておった女じゃったことから、さてはあの赤児はこの女のもんではなかろうかと思うて訊ねてみたそうじゃ。じゃけんども幾ら訊ねてみても吾が子では無いと云い張り、どこの誰の赤児と云うことも知らぬとのことじゃった。どちらにせよ、左衛門のところより遣わされて来た女じゃ、上人は給金を決めると雇い入れることにしたそうじゃ。じゃがのお、乳母と云っても女は未んだ若くて三十三、四歳に見えたことから本院へ住まわせる訳にもいかなんだで思案しておったのじゃが、そん時に思い出したんが子院の宝珠院のことじゃった。そん頃の宝珠院は住持はおらなんだが、西蓮と云う道心が留守居をしておってのお、上人はその宝珠院へ子守役の四人を付けて雪を住まわせることにしたそうじゃ。

それから十四、五日もすると雪が乳を含ませると赤児も嬉しそうな顔をしてのお、じゃが名前を知らなんだでどう呼び掛けて良いものやら。そこで雪は上人を訪ねてその名を訊ねてみたのじゃが、上人とて知らぬこと。雪は「このままではこの児を呼ぶ時に何とお呼びしたら良いものやら。こうして乳を与えておりますれば、日に日にいとおしさも増して来ます故、どうか、上人さまより御名をお付け下さいませ」と願い出たのじゃ。雪の云うことももっともなことじゃで、上人はしばらく思案しておったのじゃが、法華経の守護神たる日吉山王七社権現の秘法を修法する時に授かった赤児じゃ。いわんや千日行結願の日を間近にしての出来事じゃ、薬師如来か、はたまた山王神の申し子かも知れん。そう思うた上人は、薬師さまからは薬の一字を得て、山王の神さまからは王の字を貰い、薬王丸と名付けたんじゃ。そうして雪には成長した暁には法華弘通の導師となるやもしれぬから大切に育てるようにと申し伝えられたそうじゃ。

賢人と云うんは生まれながらにして賢賢(さかさか)しいようじゃのお。二、三歳にして既に仏神を拝しておったことから上人も悦んでおったそうじゃ。五歳の頃より仏事の諸事を覚え、七歳の時には仏書を学び、十一歳の頃には学問の志も見え来たそうじゃ。じゃがのお、そんな矢先、薬王丸が十二歳の春を迎えたある日のことじゃった。乳母の雪が病死してしまってのお。きょうまで育て上げてくれた大恩に感謝した薬王丸は、雪の墓に桜の木を植えて乳母桜と名付け、上人もまた五輪塔を建てて供養したそうじゃ。今に残るんはその時のもんじゃ。上人には道寂と寂道、薬王丸の三人の弟子がおったのじゃが、その薬王丸も十三歳になったのを機に上人と共に清澄山に上られたと云うことじゃ。

薬師堂 真偽の程は御読み頂いているみなさんにお任せしますが、ロマン溢れる物語よね。墓塔は時の流れを受けて摩滅してしまい判読出来ませんが、寂道上人の記述では雪さんの戒名を妙宗信女としているの。墓誌銘が残されている訳でもありませんので、ここに記した以上のことはξ^_^ξには分かりませんが、生い立ちにしても「瀧口三郎左衛門が娘」とすることからそれなりの出自と考えるのが妥当よね。加えて、当時は今みたいに粉ミルクがあるわけではありませんから、当然母乳で育てる訳で、雪さんは乳母となる前に自分のこどもを産んでいたと考えるのが自然よね。

遠望 / 雪さんは実は本当の母親だったのではないかしら?だとすると父親は誰?何で一度は捨て子にしたの?じゃあ両親閣に眠る両親は誰?などなど・・・西蓮寺の境内に立つと、空からは矢継ぎ早に疑問符が降り注ぐの。(^^; 門外漢のξ^_^ξがこれらを検証出来る訳もなく、気になる方は他の文献等を御参照下さいね。左掲は山門前から鯛の浦方面を眺め見たものですが、その土地に語り継がれてきた逸話に耳を傾けると、何気ない田園風景もどこか違って見えて来るのですから不思議よね。気が付けば雪さんになりかわり、一人主人公を演じているξ^_^ξがいたりするの。

15. JR安房小湊駅 あわこみなと


今回の旅は日蓮上人の生誕地として知られる安房小湊を訪ねてみましたが、ここには強靭な意志を以て時代を駆け抜けた殉教の徒としての上人像と云うよりも、ある時はξ^_^ξ達と同じように父の菩提を弔い、ある時は危篤状態の母の枕元に跪き、必死でその延命を願う、人間味溢れる上人の姿があるの。某宗教団体の存在から眉をしかめられる方もいらっしゃるかも知れませんが、上人所縁の地に立てば、信仰を寄せた古人のたおやかな祈りの声も聞こえて来るようで。最初に訪ねた「おせんころがし」も忘れ難い景勝地ね。少年時代の断崖の様子を語ってくれた大沢漁港の漁師さんの笑顔も印象に残るの。日蓮寺や西蓮寺を訪ねた際には道が不案内なことから度々地元の方の助けを得ましたが、都度丁寧な応対をして下さいました。小湊には人々の優しさが今でも息づいているの。その優しさに触れた時、自分自身もまた少しだけ優しくなれたような気がするの。あなたも今度の週末にでも足を運ばれてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
東京堂出版社刊 大野達之助編 日本仏教史辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
東京堂出版社刊 朝倉治彦 井之口章次 岡野弘彦 松前健 共編 神話伝説辞典
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
岩波書店刊 日本古典文学大系 秋本吉郎校注 風土記
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
角川書店社刊 角川選書 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
国書刊行会刊 川名登編著 千葉県の歴史100話
房総叢書刊行会 改訂 房総叢書 第三輯
山と渓谷社刊 新版 千葉さわやか散歩
誕生寺発行 寺尾英智著 小湊山史の散策
誕生寺発行 寺尾英智著 続・小湊山史の散策






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