≡☆ 亀戸天神界隈のお散歩 ☆≡
2010/04/25 & 2010/04/30 & 2010/05/08

亀戸天神の藤が5月の連休前後に見頃を迎えると知り、周辺の寺社めぐりをしながら訪ねてみたの。天神さまに詣でた後は工事中のスカイツリーを訪ね、最後に浅草までのぶらり散策をしてみたので紹介しますね。補:掲載画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。クリックして頂いた方には隠し画像をもれなくプレゼント。

香取神社〜普門院〜光明寺〜亀戸天神〜隅田川テラス〜浅草寺

1. JR亀戸駅 かめいどえき

門前 最初に向かう香取神社ですが、亀戸の地名発祥の地でもあるの。なので、香取神社を訪ねずして亀戸をウロウロしてはいけないわよね。駅からは蔵前橋通りに向かい十三間通りを歩きますが、道沿いには商店街が続くの。下町とは云え、お店も様変わりして昔の面影が残る訳でも無いのですが、それでもふとした折に老舗を窺わせる幟や看板が目に留まるの。それはさておき、蔵前橋通りの交差点を横断&左折すると最初にこの脇道が見えて来ますのでこれを右折よ。明治通りをそのまま歩いても香取神社へ辿り着けるのですが、本来の参道はこの脇道になるの。

2. 亀戸香取神社 かめいどかとりじんじゃ

祭神:経津主神ふつぬしのかみ 武甕槌神たけみかづちのかみ 大己貴神おおなむちのかみ
香取神社の御祭神・経津主神は千早振る神代の昔 天照大神の御命令に依り、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。故に大和朝廷に於かれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたのであります。

当社の創立は天智天皇4年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。天慶の昔、平将門が乱を起した時、追討使・俵藤太秀郷が当社に参籠し、戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が5月5日に執り行われております。以来、益々土民の崇敬が篤く、郷土の守護神と云うばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。元禄10年(1697)検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ、古都古跡12社の中にも数えられております。

当時の葛飾郡は現在の東京都墨田区・江東区に始まり、北は茨城県古川市、東は千葉県船橋市辺り迄を含む広大な地域を指し、その総社が葛飾神社なの。因みに、香取神社は香取=楫取&楫=舵なので、舟人の神社の意になるの。

引き続き、案内板にはその由来として「香取神社は、社伝に依れば665年の創建で、藤原鎌足(614-669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりと云われ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めています。平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935-940)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した故事に因み、毎年5月5日に勝矢祭が行われています。亀戸七福神の内、恵比寿・大国神で親しまれています」と記され、建武年間(1334-1337)に香取伊賀守矢作連正基が初めてこの香取神社に奉仕して初代神職となっているの。因みに、現在の社殿は昭和63年(1988)に再建されたもの。

前にも御述べたように大神は天より国土平定に当られ、日本建国の礎を築かれた大功神であり、歴代の天皇をはじめ、源頼朝・徳川家康・秀忠・頼房等の武将の篤い崇敬を受け、又、塚原ト伝や千葉周作をはじめ、多くの剣豪の崇敬も篤く、現代でも武道修行の人々は大神を祖神と崇めております。最近ではスポーツ振興の神として広く氏子内外を問わず参拝されております。その他交通安全・家内安全・厄除・開運祈願等御神徳の随に毎日このような趣旨による御祈願を受け付けて御奉仕致しております。

順序が前後して恐縮ですが、手水舎の傍らに建つのが亀戸大根之碑なの。
最初にこれを見た時には、亀戸と大根のイメージがどうしても結びつかなかったのですが。

この辺りで大根作りが始まったのは記録によると文久年間(1861-64)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代に掛けて盛んに栽培されました。当地は荒川水系に依って出来た肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えた肌の大根作りに大変適していました。亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特徴。明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」と云われましたが、大正初期になって産地の名を付けて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終わり頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。秋から冬にかけてタネを蒔いて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので、根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。平成9年(1997)度JA東京グループ

この亀戸大根、亀戸升本 さんのパンフに依ると、元々はこの辺りに自生していたものだそうで、江戸前ならぬ正真正銘の江戸野菜だったと云うわけ。今では幻の大根と評される亀戸大根ですが、その貴重な大根が升本さんで味わえるの。直営店のすずしろ庵ではお土産品も用意されているので食事でなくてもOKよ。勿論、亀戸大根のたまり漬もあるので御心配なく。詳しくはHPを御参照下さいね。

亀戸を代表する香取神社は1,300有余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め多くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け、郷土の守護神として今日に至っております。この度亀戸の地名の起こりとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様、大黒様の石像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き明るく健康で楽しい生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬者を初め多くの皆様方のご協賛により建立致しました。平成15年(2003)4月吉日 香取神社 宮司 香取邦彦

洗い恵比寿・大黒さま

この井戸水を柄杓で恵比寿・大黒像に水掛けし たわしで痛いところなど撫でて御神徳を頂きましょう−と案内されていますが、痛いところとしているのが味噌醤油味ね。顔や頭はやはりダメみたいね(笑)。ところで、亀戸の地名由来ですが、いきなり亀が井戸から亀戸になった訳ではないようよ。【新編武蔵風土記稿】には「龜戸村は村内に龜ヶ井といふ舊井あるを以て村名起りしよし土人の傳る所なり されど鎭守香取神社神主の家傳に依に 往古當所は海中の孤島にして 其形ち龜に似たるを以て龜島と呼び 後に四邊陸地に續きて村落を成せしより龜村と名付しを 後年龜ヶ井と相混して龜井戸と呼び 後又中略して龜戸村と稱せりと云ふ」とあるの。

地図を見ると今でも北十間川と横十間川に挟まれてあることからそれとなく想像出来るかも知れませんが、嘗ては亀戸天神の境内地を含めたこの辺り一帯が三角州になっていて、香取神社が建つ地は浮島のような小島で、その姿が亀に似ていたことから亀島と呼ばれ、その後、土砂の堆積などが進み、人が住むようになると村が出来、亀津村とか亀村と呼ばれるようになったようね。因みに、津は浅瀬を表すので、亀津村は「亀島の浅瀬近くの村じゃけん、亀津村たい」と云う訳。これが「亀」の由来ね。

次は「井」ね。残念ながら明治43年(1910)の大洪水が原因で廃園に追い込まれてしまったのですが、香取神社の少し北に臥龍梅で知られた大きな梅園があったの。梅園は安藤喜右衛門さんの宅地内にあり、庵号に因み、清香庵と名付けられていたのですが、専ら梅屋敷と呼ばれていたの。何と3,000坪もの敷地に300本もの梅の木が植えられ、臥龍梅にしても水戸の御老公こと水戸光圀の命名だそうで、8代将軍吉宗も鷹狩りの際に立ち寄るなど、貴賤を問わず広く知られていたみたいね。その梅屋敷の中にあったのが亀村にある井戸で「亀ヶ井」なの。その亀ヶ井に由来すると云う説があるの。

尤も、当時の井戸は「井」とあるように清水の湧き出し口のことで、今で云うところの井戸ではないの。加えて、亀ヶ井のあった場所にしても亀戸天神の境内にあったとする説もあり、明確ではないの。余談ですが、亀ヶ井には昔、石造の鯰が置かれていたのだとか。不思議なことにその鯰が持ち去られたとしても、日をおかずして元の場所に戻り来たそうよ。

一方、江戸初期の本所一帯は塵芥や砂で埋め立てたところも多く、良質の水を得るのが難しかったのですが、この辺りは三角州に位置していたことから比較的容易に良い水が得られたみたいね。ξ^_^ξが思うには、井戸は梅屋敷の亀ヶ井の他にも複数あり、戸にしても元々は門や入口を指すことばなので、亀村への入口の意から亀戸(かめと)になったのではないかしら。現に【江戸名所図会】でも亀戸に「かめと」とふりがなを添えているの。そこへ前述の亀ヶ井が加わり、三つ巴の戦いに。やがて亀ヶ井と亀戸(かめと)が合体して亀ヶ井戸となる際にヶが削られ、次に音だけを残して井が省略された亀戸になったのではないかしら?

なに〜、亀ヶ井戸?こちとら、江戸っ子よお。姉さん、なげえのはいけねえよ。江戸じゃ、長くていいのはウナギとアナゴと相場が決まってらあな。亀ヶ井戸じゃ、舌がもつれちまうわな。亀の井戸つうんだから亀井戸でいいじゃねえか、なんか、書くのも面倒くせえな、いっそのこと亀戸でどうでえ。

境内にある御輿庫には御輿と共に多くの工芸品が納められ、さしずめ宝物館と云ったところなの。左掲は同社のHP上で「香取神社に代々伝えられてきた奉納刀。本社である千葉県の香取神宮、茨城県の鹿島神宮と並び、武士の神として信仰を集めていたことにより奉納されたものである。 銘文のある刀の内、「奥州會津住道長」は寛文・延宝期(1661-1680)に活躍した刀工、三善道長の可能性がある。拵えは差程ではないが貴重な作例である。また、「備州住兼光」銘の短刀は、有名な備前長船派の名刀工、兼光を模したものと推定されている」と紹介される奉納刀七振の一つ、奥州會津住道長の銘を持つ一振。江東区有形民俗文化財

この御輿は明治15年(1882)に完成したもので、足掛け5年を掛けて製作されたものである。一度担がれれば屋根の部分・胴体の部分・台座の部分と、それぞれ別の動きをするところから、俗称こんにゃく神輿と言われ、今現在九州一基と当神社のものと二基だけであると聞き及んでいる珍しい神輿である。江東区有形文化財(工芸品)指定

紙本淡彩道祖神祭図

紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅 江東区指定有形文化財(絵画)
道祖神祭図は本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。表装は縦158.0cm、横47.0cmです。香取神社の道祖神祭は、毎年正月十四日、氏子の子供達が宝船を担ぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保の頃から始まり、明治初期まで続きました。その光景は【江戸名所図会】の挿絵に載せられ、【東都歳時記】にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(1797-1858)で、嘉永5年(1852)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子を良く伝え、作者が高名な広重であること、また、戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品と云えます。平成9年(1997)9月 江東区教育委員会

御輿庫に続いて順に、天祖神社・稲足神社・福神社・熊野神社・三峯神社・水神社の境内摂社が立ち並ぶの。

天祖神社(入神明宮) いりのしんめいぐう 祭神:天照大神(伊勢神宮の御内宮)
昭和63年(1988)の香取神社改築に伴い移転され、境内神社として祀られるようになった。当神社の創立は江東区内では最も古く、口伝に依ると、この地が四辺海に囲まれていた頃、漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に、伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で、太平榎塚に小祀を営み鎮祭されたと云う。【江戸名所図会】に描かれている神明宮は当社である。 尚、明治40年(1907)に境内から多量の硾(いわ)が出土し、考古学的にも有益な資料とみることができる。現在、香取神社にて保管。

硾とは漁網に付ける管状の重りのこと。香取神社に収蔵されるものは土製(弥生式土器)で、破損品一点を含む6点が保管され、江東区有形文化財に指定されているの。直径は幾れも3cm前後で、長さも4.3-6.5cmと小さなものなの。この入神明宮は元々は香取神社の西側200m程の、江東区亀戸3-41辺に鎮座していたもので、当時は潮の香りにつつまれていたみたいよ。【江戸名所図会】には「相伝ふ 上古この地は一の小島にして その繞りは海面なりし その頃渡海の船風浪の難に遭ひけるに 伊勢両皇太神宮の加護により命を全ふせし 奉賽のため この地にこの御神を勧請なし奉り 宮居を営みしと云ふ」と記されているの。天照大神と云えば太陽よね。全ての生き物に均しく恵みを齎らす太陽の光はエネルギーの源であり、その魂は遙かなる海の彼方より波と共に打ち寄せると信じられていたの。浦人達はその魂を崇めることで加護を求め、ある時は荒まく波の静まりを願ったの。入神明宮の名にしても「往古はこの地船多く泊る所なる故に入と唱へしを以て云々」とあるの。その入神明宮には漁師が網を干したことから名付けられたと云う御神木の網干榎があり、その榎が枯れると虫食いで天下太平の文字が現れたことから太平榎とも呼ばれたのだとか。

稲足神社
 
祭神
面足神おもだるのかみ 惶根神かしこねのかみ 金山毘古神かなやまひこのかみ 宇賀御魂神うかのみたまのかみ
由緒
寛文9年(1670)創立。明治以前は普門院の主管であったが、明治元年(1868)香取神社神職の奉仕となる。明治35年(1902)香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間(1751-1764)香取12代神職香取政幸の鎮祭する処で、稲荷神社は元渡辺稲荷神社と称え、明治12年(1879)当社に合祀。
神徳
共に産業発展・家運隆昌の御神徳灼かである。

福神社
 
祭神
事代主神ことしろぬしのかみ(=恵毘寿神) 大国主神おおくにぬしのかみ(=大国神)
由緒
元々本社の相殿に奉斎されていた大国主神と併せて明治年間に七福神の内の恵比寿神・大国神として境内に鎮祭した。事代主神は大国主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内、恵比寿・大黒様として多くの参詣を得ている。
神徳
富徳円満・商売繁昌の守護神として御神徳灼かである。

熊野神社
 
祭神
家津御子大神けつみこのおおかみ他、天神地祇十三柱
由緒
熊野の神の総本社で、嘗ては「蟻の熊野詣」の諺通り、貴賎老若男女を問わず、全国から参詣者が集り、信仰絶大にして盛況を極めた。当社は元梅屋敷隣の北の方に位し、熊野入りと称して、亀戸村の水利を司どっていた。大正13年(1924)北十間川通りが拡張されるに伴い、香取神社の境内に移転鎮祭した。

三峯神社
 
祭神
国常立命くにとこだちのみこと 伊弉諾尊いざなぎのみこと 伊弉冉尊いざなみのみこと 日本武尊やまとたけるのみこと
由緒
享保年間(1716-35)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主・安藤喜右衛門が園内にお祀りしていたものを、明治の末当、香取神社に移した。火防、盗難除の御利益灼かで、梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者も増え、近年本社参拝も盛んである。
水神社
 
祭神
水波能女神みずはのめのかみ
由緒
天明6年(1787)香取神社13代神職・香取正武がその年の洪水を記念し、災害防止、氏子住民の安体を祈願し、石祠を以て建設した。【江戸名所図会】にもみえる。

訪ねた時には神楽殿に御覧のように武具が展示されていたの。連休初日には古武道の奉納があり、木刀剣術・真剣居合道・柔術・試し斬りなどの演舞が行われたみたいね。また、連休最後の日には境内を離れて武者行列も行われたみたい。残念ながらどちらも未体験で終えていますが、展示される武具はその時に使用されたものだったの。柱に鎧の着装順を記したメモ書きを見つけましたが、パーツの意味が分からないξ^_^ξには何のことやら、さっぱり。

〔 勝矢祭(かちやさい) 〕 今から凡そ千数十年前、天慶の昔平将門が時の朝廷に背き乱を起こした時、追討使藤原秀郷(俗に俵藤太秀郷と云われる)は当香取神社に参籠し武運長久を祈願して戦に臨んだところめでたく乱を平定した。これも神助の賜と喜び、当神社に弓矢を献納、吉祥を祝い「勝矢」と命名された。以後、勝矢を奉納する祭事が今日まで行われている。

因みに、平成21年(2009)の勝矢祭時には
04/29 古武道奉納 午前の部 10:45-12:00 午後の部 13:00-15:00
05/05 武者行列 大島亀出神社出発(13:00)〜亀戸駅〜神社到着15:00予定
のスケジューリングで催事が行われているの。

一通りの見学を終えて帰り際に見つけたのがこの木遣音頭碑。木遣りと云えば今ではお祭りの時などにたまに耳にする程度よね。鳶職姿で強面のお兄さんやおじさん達が纏(まとい)を廻したりしながら謡う木遣り歌。なんて謡っているのかは全然分からないのですが、碑にしても何故ここにあるの?何か香取神社と関係があるのかしら?状態。傍らには木遣之由来碑なる石碑も建つので答えが見つかるかと近づいてみたのですが、何と!漢文で、敢え無く挫折。気になる方は香取神社へお出掛け下さいね。

3. 普門院 ふもんいん

実はこの普門院を訪ねた理由は伊藤左千夫のお墓にお参りすることだったの。最初は門前の石柱に「伊藤左千夫の墓」とあることからこれかしら?と思ったのですが、余りにも不自然よね。そこで境内をウロウロと探索してようやく見つけたの。伊藤左千夫のお墓については後程触れますが、折角ですので先ずは普門院の縁起から御案内してみますね。

〔 普門院(開運毘沙門天)由来 〕 普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合う辺り、現・足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったと云われています。江戸時代の地誌【絵本江戸土産】には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り、腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。江東区教育委員会

見渡した限りでは本堂や毘沙門堂が建つだけの普門院ですが、嘗ては為政者の後盾を得て寺運を隆盛させたこともあるの。

新義眞言宗青戸村寶持院末 福聚山善應寺と號す 寶暦3年(1753)10月29日惇信院殿此渡御遊獵のつひて成らせたまひしより再ひ御膳所に定められて御成門を建置り 本尊大日 開山長賢大永7年(1527)4月2日寂す 開基は千葉中務大輔自胤にて古は豐島郡橋場村にありしを 元和2年(1616)今の處に移さる 慶安2年(1649)8月24日大猷院殿當院へ御立寄ありて即日寺領5石の御朱印を賜はり つひて御小林の御門を建させられしか 其後絶て御渡もあらず 御殿もつひに取拂はせられしなり 【新編武蔵風土記稿】

境内に足を踏み入れると左手にはこの持経観音像があるの。右手に経巻を持ち、岩の上に座す姿は、観音菩薩の三十三変化身の一つで、手にする経巻には仏の説法内容全てが含まれ、その説法に耳を傾けて悟りを目指す者達を教え導く姿を表しているの。この持経観音像は近年に建立されたものですが、普門院には嘗て伝教大師作と伝える聖観音像を祀る観音堂もあったの。

今は大破に及びて再建ならざれば 觀音は假に本堂に置り 縁起に云當寺安置の聖觀音は傳教大師の作にて 昔は下總國足立庄隅田川の邊にありしが 大永2年(1522)千葉中務大輔自胤の臣佐田善次盛光と云もの 讒者のために冤罪を被り 既に死刑に行れんとせしとき 盛光兼て信ずる處なればかの觀音に祈誓せしに 不思議や奇瑞の奇特ありて助命に逢しかば 夫より身代の觀音と唱ふ 斯て盛光剃髮して觀慧と號し 彌信心淺からず 自胤も深く是を感じて乃城内に一宇を建て 普門院と號し 彼の觀音の安置すと云々 是に據ば初は寺の本尊となせしと見ゆ 其後別に堂を建たる年代等は詳ならず【新編武蔵風土記稿】

その観音さまですが、【江戸名所図会】に依ると、薬師如来もたじろぐ程、霊験灼かだったみたいよ。天文三年(1534)の流行病では命を失う者も多くいたのですが、この身代わり観音に頭を垂れる人々は悉くが平癒し、たとえ病人と一緒にいても感染せずに済んだと云うの。【図会】は引き続き「住持長榮上人睡眠の中 一老翁の來るあり 吾はこれ施無畏大士なり 多くの人に代り疫病を受く 故に病苦一身に逼れり 上人願はくは我法一千座を修して 豫が救世の加被力となるべしと 夢覺めて後 益敬重を加へ 本尊を拜し奉るに 佛體に汗滿ちて蓮臺にしたたる 感涙肝に命じ 夫より晝夜不退に一千座の觀音供を修しければ 國中頓に疫疾の患ひを遁れけるとぞ」と記すの。

【新編武蔵風土記稿】には鐘樓のことも記されているの(下段参)。普門院は現在地に移転して来る前は豊島郡石浜(現在の荒川区南千住三丁目辺り)に建てられていたみたいね。それはさておき、鐘ヶ淵の地名が沈鐘伝説に由来していたとは知らなかったわ。ところで、その沈んだ釣鐘を享保11年(1726)4月に江戸幕府第8代将軍の吉宗が引き揚げようとした噂があるの。虚実が入り乱れていますが、気になる方は岡本綺堂の【鐘ヶ淵】をお読み下さいね。

享保20年(1735)再鑄の鐘にて 銘に寺草創の大略を記す 相傳ふ古鐘は元和2年(1616)舊地より當所へ移りし時 船に載て隅田川を渡さんとて 中流にて誤り落せり よりて取揚んとせしかど いかなるゆへにや終に果さず 是今の鐘か淵是なりと されど彼鐘か淵の事は一説に橋場長昌寺の鐘なりといへば 何れを正しとせんか姑く傳のままを記せり

梵鐘の再鋳に際しては赤穂浪士堀部弥兵衛の娘と云う妙海尼が尽力したと伝えるの。
残念ながらその釣鐘も戦時供出を強いられてしまったの。

持経観音像に続いて亀戸七福神の一神・毘沙門天を祀る毘沙門堂が建ちますが、右手に続く脇道を辿ると墓苑に出るの。後は案内があるので直ぐに分かると思うわ。伊藤左千夫の名を一躍有名にしたのは皆さんも御存知の【野菊の墓】よね。元治元年(1864)、千葉県の成東町に生まれた彼はやがて本所区茅場町(現:墨田区江東橋三丁目)で牧場経営を始めるの。一方で正岡子規の門下生となり、歌人としての道も探るの。そんな中で夏目漱石の後押しもあって発表されたのが小説【野菊の墓】なの。

晩年は大島六丁目辺に移り住み、大正2年(1913)に50歳で没しているのですが、鶏頭の紅古りて来し秋の末や 我れ四十九の年行かんとす−と詠むなど、晩年は経済的にも困窮し、歌人としても苦悩を重ねていたようね。因みに、墓石には亀裂が入り、一部が欠損することから、短歌の道を志す人達が上達を願い、欠いていく云々とする記述も見受けられますが、本当は戦災に依るものだそうよ。当時、亀戸天神の近くに軍需工場があったことからこの辺り一帯が焼け野原にされ、普門院も例外ではなかったの。墓石の破損や亀裂はその時の熱に因るものだそうよ。

4. 光明寺 こうみょうじ

普門院とは寺域を接するのですが、入口は東西に分かれるので大回りしないといけないの。普門院は見た目にも手入れが行き届かず、荒れ寺の印象でしたが、光明寺は御覧のように整然とした佇まいよ。門柱前には「二世歌川豊国の墓」と刻む石標が建つだけの簡素な構えで、その縁起も負けず劣らずシンプルなの。【新編武蔵風土記稿】には「天臺宗江戸淺草寺末 龜命山遍照院と號す 弘治元年(1555)の起立にて開山慈宏 彌陀を本尊とす」と記されるのみなの。紆余曲折を期待する訳では無いのですが、室町期の創建と、古い割にはちょっと意外ね。

江東区教育委員会の手になる案内板には「光明寺は天台宗で、亀命山遍照院と号し、創建は弘治元年(1555)と伝えられています。境内には寛永5年(1628)と云う区内でも古い年号を持つ宝篋印塔、延宝4年(1676)の庚申塔、越後国(新潟県)新発田藩主溝口宣広奉納の寛永寺旧蔵石造燈籠、役者絵、美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と称された二世歌川豊国(国貞1786-1864)の墓などがあります」とあるの。参道の右手には文久3年(1863)に建立されたと云う延命地蔵尊を祀る地蔵堂がありましたが、中には三体のお地蔵さまが。中央のお地蔵さまは子供を抱えることから子育地蔵でもあるみたいね。

5. 亀戸天神 かめいどてんじん

今回の散策のメインディッシュがこの亀戸天神。江東区教育委員会が建てた案内板には「江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。寛文2年(1662)九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建と云われています。毎年1月24日、25日にうそ替え神事が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」と云われており、檜の一刀彫のウソに人気があり、沢山の人々で賑わっています」とあるの。

鳥居をくぐり抜けると最初にあるのがこの太鼓橋。本殿に向かい、この太鼓橋に続いて平橋、太鼓橋があるのですが、最初の太鼓橋が男橋なら、社殿側のちょっと小振りの太鼓橋は女橋になるの。三つの橋はそれぞれが過去・現在・未来を意味し、三世一念の仏教思想を表しているのだとか。因みに、着物の帯の「お太鼓結び」はこの太鼓橋に由来するのだそうよ。文化14年(1817)太鼓橋の再建落成式の際に深川の芸者さん達が渡り初めをするのですが、その時にこの太鼓橋に似せて帯を結んだの。ちょいと、そこの粋なお兄さん、どう?この帯の結び方。おう、太鼓橋にお太鼓結びとは洒落てるじゃねえか。さすがは深川のあねさん、やることがにくいねえ、それにやけに色っぽく見えるぜ−と云うわけ。

〔 弁天社 〕 寛文5年(1665)太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天さまと親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されて来ました。その間幾度か災害に罹り、その都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。平成13年(2001)12月1日 遷座祭執行

梅の木に見守られるようにして建つのがこの【五歳の菅公像】。昭和52年(1977)の御神忌1075年大祭記念として奉納されたもので、台座には道真が五歳の時に庭前の紅梅を詠んだものとされる和歌が刻されているの。僅か五歳にしてこの句を詠むとはさすがは学問の神さま、ξ^_^ξなんぞは未だ、あ〜とか、う〜しか云えなかったような。
美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある

その菅公像に続いて建てられているのが鷽(うそ)の碑で、台座には

筑前の太宰府天満宮御社に毎年正月七日「うそかへ」と云う事あり 四方の里人木の枝其の他のものを以て 鷽鳥の形を作り持きたり 神前に於て互に取り替へて其の年の吉兆を招くことになん 是や今迄の悪しきも嘘となり 吉(よき)に鳥かえんとの心にて うそかへと云ふ 元より此御神の託(つげ)に依て始まれり 直き心を以てすれば誠の道に叶ふべし ここに亀戸天神社は筑紫の写なれば 文政三年この事を始めて毎年正月廿四日五日鷽鳥の形を作り 境内に於てうらしむれば信心の人々 買ひ求めて神前にあると鳥かへなば かけまくも賢き神の御心にも叶ひ 開運出世幸福を得べきになり

とあるの。そして境内の最奥部に建つのが勿論、本殿(拝殿)よね。【江戸名所図会】には「社記に云ふ 開祖神祐(菅原善外の苗裔なり)始め筑前太宰府にありし頃 正保三年丙戌一夜菅神の靈示を蒙る その夢中 十立ちて榮ふる梅の稚枝かな といへる發句を得たり 依つてその後飛梅を以て新に神像を造り これを護持して江戸に下り かの天滿宮を今の龜戸村に勸請す(初め勸請の地は今の宮居より東南の方 耕田の中にあり 元宮と稱して かしこにも菅神の叢祠あり)その後寛文紀元辛丑、臺命を蒙り 同年壬寅始めて今の地を賜ふ 同三年癸卯宮居を營み 心字の池・樓門等すべて社頭の光景 宰府の俤を模せり」とあるの。

当初は太宰府天満宮のサブセット版として造られたことが分かるわね。尤も、嘗ての社殿などは戦災で悉くが灰燼に帰してしまい、今ある社殿は全て戦後に再建されたものなの。因みに、元宮(元天神塚)の地は江東区亀戸5-36辺になるの。後日訪ねてみましたので、参考までに紹介しておきますね。

同じ亀戸でも現在は亀戸5丁目にあるマンションの敷地内に鎮座することからフェンス越しにしか見学出来ないのですが、亀戸天神は当初この地に祀られたの。傍らの石碑には略縁起が記されているのですが、撰文には香取神社の宮司さんの名があり、端から見ると無関係に見える亀戸天神と香取神社ですが、意外なところで繋がっているみたいね。その碑文を御案内したいところなのですが、一部読み取りが出来ない文字があるので、代わりに頂いて来た栞の略縁起を掲載してみますね。尚、掲載に際し一部修正・加筆していますので御了承下さいね。

江戸の名に負ふ亀戸5丁目36番18号に存する元天神塚と稱する土地は、元北野天神社の社地で、正保3年(1646)2月筑前国太宰府天滿宮の別當職であった大僧都法印大鳥居信祐と云ふ人が、一夜靈無に感じ、社前の飛梅で天滿宮の靈像を刻み、之れを笈に納めて鎭座に適する社地を求めつゝ遥々と関東へ憧れの旅を続けきて、遂に當所亀戸村に辿りつき庄屋に議った上、一先古來存する北野天神社の祠へ御祀りしたのが抑も其の名の由來する所で、其の後寛文2年(1662)10月25日に改めて村内西境の地へ転じて創立されたのが現今の亀戸天神社である。然れば當所北野天神社の鎭座したのは年月不詳ではあるが、遙かに其の以前であった事が窺はれる。元祿年度の水帳には妙義塚とあるが、土俗之れを天神塚或は元天神と呼んでいた。其後文久4年(1864)2月建立されたのが現存する石祠である。

爾來星移り時は變って此の社地も荒廢し、祭祀も絶へていたので昭和3年(1928)3月香取神社へ合祀の手続をしたが社地は其の儘同社の管理となった。昭和9年(1934)10月崇敬者の篤志に依って其の敷地の一部を存し、聖域を整へ亀戸史跡元天神塚舊趾として、爾來祭祀も年々盛大に行はるゝに至ったが、不幸にして昭和20年(1945)3月10日の戰災に大損傷を蒙ったのを再び地元始め有志の篤志に依て石祠も修補し、境域を修めて祭祀も復興するに至ったのは史蹟保存の上から誠に慶賀に堪へない所である。仍て茲に由來を録して後世考証の資料とする。香取神社18代宮司 香取茂世

太宰府天満宮から分祠勧請される前に既に北野天満宮から分祠されていたと云うのは意外ね。
余談ですが、現在地もマンションの建設に併せて同じ地番内ではあるけど移動を余儀なくされたみたいよ。

天神さまへこれ以上頭が悪くならないようにとお願いしたところで、振り出し位置に戻り、今度は神苑の東側を紹介してみますね。でも、境内には数多くの石碑が建つの。その全てを御案内するとなるとξ^_^ξには荷が勝ち過ぎますので、ここでは個人的な興味を基に取り上げてみましたので御容赦下さいね。

先ず最初に目に留まったのがこの筆塚で「筆塚は書家や書道に励む人等が筆の労に感謝すると共に、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。当宮では「宮居に遠き人之為に吉書初め(書初め)に可用筆を文政4年(1821)より毎年12月朔日(ついたち)から晦日(みそか)迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に天神さまの御忌日2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与致します。筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行 廃筆・清書の焼納(御焚きあげ)を行います」とあるの。

その筆塚の右隣に献木されていたのが楷(かい)と云う名の木で、別名・トネリバハセノキ or 爛心木とも呼ばれ「中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐ伸びるのが特長である。大正4年(1915)白沢保美博士がその種を中国から持ち帰り、苗に育てたのが我が国に渡来した初めと云われる。楷は雌雄異種である上、各所に分散しているために、また、花が咲くまでに30年余要すると云うことから、日本では種子を得ることが出来なかった。この楷は昭和45年(1970)秋、金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人工交配により得た種子が翌年春発芽したものである」とか。

そして、神苑内にポツネンと建てられていたのが、この聖廟九百年御忌句碑、通称、芭蕉句碑。碑文は達筆すぎてξ^_^ξには読めませんが、説明には「菅原道真公の御神忌九百年にあたる享和2年(1802)2月25日芭蕉門下の人々が芭蕉百年忌に併せて建立する」とあり、芭蕉の句と共に、門人&門下生の名が挙げられているの。
しはらくは 花の上なる 月夜哉 【芭蕉翁】
表面:芭蕉翁 服部嵐雪 桜井吏登 大島蓼太 裏面:雪中庵完来 夜雪庵普成 葎雪午心

因みに、刻まれている句は、吉野紀行の途次にあった芭蕉が貞享5年(1688)の春に、吉野で満開の桜とその上に浮かぶ月を吟じたものだそうよ。でも、俳聖とされる松尾芭蕉の句だけの紹介では残る門人&門下生の方々がちょっと可哀想よね。碑に刻まれた詠句は彼等の生きた証でもあり。そこでどんな句が記されているのか、手を尽くして(でもないか)探してみましたので、紹介してみますね。

表面 雪中庵 一世 嵐雪 錦帳の 鶏世を学の戸や ほととぎす
二世 吏登 名月や そぞろに走る 秋の雲
三世 蓼太 かり初に 降り出す雪の 夕かな
裏面 四世 完来 松の月 月の松影 よもすがら
夜雪庵 門下 普成 しら雪や をのづからなる ひと夜松
門下 午心 白妙や 花のあらしも 松風も

〔 花園神社 〕 御祭神は菅原道真の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公御幼少の時の師である儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子(のぶきこ)と白し、相殿に御子十四方も祀られております。寛文年中亀戸天神社の創建と時を同じくして九州筑紫(福岡県)の花園の地より勧請、爾来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児、また、立身出世の神として広く信仰を集めてまいりました。先の戦災に罹り社殿は惜しくも烏有に帰しましたが、昭和47年(1972)8月23日元の地に再興されました。

御嶽神社の門脇に建つのがこの石灯籠。説明には「塩原太助奉納 石灯籠 天明元辛丑年(1781)8月17日 太助は本所相生町(墨田区両国)で薪炭商を営み、辛苦を重ね豪商を成した」とあるの。銘文には奉寄進石燈台両基武蔵国葛飾郡亀戸天満宮大前と刻まれるように、元々は左右の2基が奉納されたのですが、片方は空襲を受けて損壊してしまったの。塩原太助は寛保3年(1743)、上野国(現:群馬県)利根郡新治村に生まれ、江戸に出た後は味噌屋や薪炭問屋へ奉公。辛苦を重ねた末に独立すると本所相生町(墨田区)に薪炭商を営み、遂には豪商の仲間入りを果たすの。そうして道路改修などの土木事業にも資財を提供したの。献納したのは計算では38歳の時のことになるけど、ξ^_^ξが思うには、独立して間もない頃のことではないかしら。因みに、塩原太助は文化13年(1816)に74歳で没しているの。

御嶽神社には菅原道真の師とされる、比叡山延暦寺第十三世座主の法性坊尊意僧正が祀られているの。元々は寛文9年(1669)11月21日に九州太宰府御嶽山より勧請されたもので、現在の社殿は菅原道真公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして昭和51年(1976)に再建されたものだそうよ。古くは妙義社とも呼ばれた云々とも案内されていますが、【新編武蔵風土記稿】には「世に當社を妙義社と云うは誤也 是は上野國妙義山も彼法性坊の靈を祀りしものなれば 祭神の同き故 いつとなく誤り來しならん」とあるの。

因みに、上野国妙義山とは現在は群馬県甘楽郡妙義町妙義に鎮座する妙義神社を指すの。嘗ては白雲山石塔寺を号していたのですが、明治期の廃仏毀釈を受けて廃寺となり、神仏習合を解かれて妙義神社になったの。伝えられる【白雲山妙義大権現由来】では、妙義大権現は則ち比叡山延暦寺第十三世座主の法性坊尊意僧正のことだとしているの。死寂後に白雲山に飛来した僧正は「我は叡山座主法性坊尊意なり 宿世の縁より当山に住し 衆生を済度せむ」と告げたのだとか。

〔 由緒 〕 法性坊は道真公(天神様)の教学、御祈の師で、道真公が薨去の後は太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど、道真公との御関係は殊に深く、依って当宮境内に奉祀されました。法性坊は智徳世に優れ、御在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶3年(930)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰され、以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は陽気を迎える初めとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りました。

卯の神札 元々は卯杖(うづえ)・卯槌(うづち)共に初卯の日(正月初めの卯の日)に宮中で行われていた神事なの。古来から梅や桃には邪気を祓う霊力が宿ると信じられていたの。卯杖は、長さ五尺三寸(約160cm)程に切り揃えた梅や桃の木を四本一束にして二束、三束に結んだもので、天皇や東宮に献上したの。一方の卯槌は桃の木で長さ三寸(約9cm)幅一寸(約3cm)程の角柱を作り、中央に縦に穴を開け、そこに五色の組み糸を垂らしたもので、内裏の昼御座(ひのおまし)の柱に掛けていたの。それが一般化し、時代の流れと共に形を変えたの。

卯槌(うづち) 【古事類苑】には「卯杖は正月上卯の日 大舍人寮諸衞府等より御杖を天皇及び中宮東宮等に獻ずる儀なり 其杖は曾波木・比々良木・棗・牟保許・桃・梅・椿・黒木・榠櫨(くわりん)・木瓜等の 各々長さ五尺三寸なるものを用ゐる 蓋し精魅を驅逐する法にして 日本書紀持統天皇三年正月乙卯の紀に 大學寮より卯杖を獻ぜしを以て 書册に見えたる始とす 神宮・諸社及び幕府にても亦之を用ゐる 卯槌は 桃木にて作りたるものにて 卯杖を獻る日 絲所より獻る 臣民の間にも亦互に贈遺して之を祝せり」とあるの。一部に中国の剛卯杖(ごううじょう)の習俗に由来するとの記述も散見するけど、【古今要覽稿】に云わせると「卯杖を漢の剛卯に倣ひて作りたりと云ふ説は誤り 〔 中略 〕 されど早くより誤り來れることヽ見へて 江家次第の卯杖の條にも漢書を引かれたり云々」とあるの。早い話が今となっては何が何だか分からないと云うことね。

神楽殿の背後に回り込むとあるのがこの亀井戸跡。香取神社でも亀ヶ井戸が再現されていましたが、亀戸天神ではそれよりも先に再現されていたと云うことかしら?亀ヶ井戸のことは既に香取神社の項で御案内済みですが、ここにも嘗ては井戸があったとしても決しておかしくはないけど、どうなのかしら。亀に見立てて石が配されるなど、いかにもそれらしき演出がされている割には、石柱を支える台座の亀の頭が欠損したままになるなど、ちょっと興醒めね。折角だもの、亀さんの頭を直すのに併せて水の流れに見立てて白い玉石を敷き詰めるなどしてみては?

水をさすようで気が引けるのですが、【新編武蔵風土記稿】は亀ヶ井を「世に龜戸天神の社地の井なりと云ふは誤りと云ふ」と記すの。それはそれとして、やはり、このままにしておくには惜しいわね。

亀井戸跡の石標の右隣に犬小屋風(笑)の建物があるのですが、中には塩まみれの「おいぬさま」がいたの。御覧のように、どんな表情をされているのかも分からない雪だるま状態で、説明には病気治癒・商売繁昌とあるの。人間と犬との深い関係は縄文時代に迄遡るのですが、犬は簡単に仔犬を産むことが出来ることから安産祈願の信仰を生むの。平安時代には和紙を貼り重ねて作った犬型の張り子を寝る子の枕元に置くと無事に育つと云う、子育信仰も既にあったようね。安産祈願で知られる東京都中央区日本橋の水天宮では、今でも戌の日に腹帯を締めると安産出来ると云い伝えられているの。

この犬神祠がいつ頃祀られたものかは分からないのですが、境内に立つ花園神社が子宝・安産・育児に霊験灼かなことから犬に結びつけられて祀られたと考えられているの。当時は塩もまた貴重品。往来にはその塩を商いとする人達の姿があり、塩嘗地蔵ではないけれど、このお犬さまに貴重な塩を供えて安産や子育てを願う内に病気平癒や商売繁昌をも祈るようになり、願いが叶うと再び塩を供えて感謝したのでは−とされているの。江東区発行の【史跡をたずねて】には頚から上を残して全身は厚い塩の氷河に覆われたおいぬさまの写真が掲載されているけど、それだけ多くの人々から信仰を集めていた証左でもあるわね。

天神様・菅原道真公は承和12年(845)「乙丑の年」の6月25日にお生まれになり、延喜3年(903)2月25日に太宰府の配所でお亡くなりになりました。葬送の列が進む中、御遺体を乗せた車を引く黒牛が臥して動かなくなり、これは道真公の御心に依ることと、その場所を墓所と定められました。その後、そこに社殿を建立し、御霊をお祀りしたのが太宰府天満宮の起源で、この年も「乙丑の年」でした。また、道真公が京都から太宰府へ下向の途中、白牛に依って危難から救われたと云う故事も伝えられています。このように道真公と牛との御神縁は殊の外深く古来より信仰されて来ました。この神牛の座像は昭和36年(1961)御鎮座三百年祭にあたり、御社殿の復興と共に奉納されたものです。

境内を西側に回り込むと鉄枠で補強された句碑がありました。見た目にも痛々しい限りの石碑ですが、梅松両社落成記念三翁句碑と案内されているの。碑には井原西鶴・椎本才麿・谷素外の三名の句が刻まれるのですが、紅梅殿と老松殿両社の再建記念に建てられたものなの。紅梅殿については次に紹介しますが、老松殿は今は無いの。当時と今では様相が大きく異なりますが【江戸名所図会】には紫宸殿の「左近の桜」「右近の橘」ではないけれど、本殿前左右に老松殿、紅梅殿が描かれているの。

道真は一時は右大臣の地位にまで昇りつめるのですが、娘の嫁ぎ先の斉世親王を天皇に擁立せんと謀ったと藤原時平から讒言され、遂には太宰権帥に左遷されてしまうの。その道真が太宰府に向かう途中で、福岡県早良郡にある菟道岳と云う山の麓に差し掛かった際に、無実が明らかであればこの木は一夜にして生い茂るであろうと松の若木を植えたところ、一夜にして古木となったと伝えられているの。それが一夜松の伝説なの。【江戸名所図会】には亀戸天満宮の境内に描かれている老松は延宝2年(1674)に「花洛(みやこ)北野の一夜松を栽(うつ)し植えたり」とあるのですが、北野と云えば北野天満宮のことよね。と云うことは、一夜松もその時既に九州の地から北野天満宮に分祠されていたのでしょうね、きっと。その北野天満宮から分けて貰った一本松も明治期には枯れてしまったの。

梅の木に護られるようにして紅梅殿があり「御本社と時を同じくして寛文2年(1662)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和63年(1988)に現在地に再建される」と案内されているの。と云うことは、傍らの梅の木は飛梅の分身よね、きっと。

〔 神苑の梅 〕 御祭神菅原道真公(天神さま)と梅の花の縁は余りにも有名で、厳冬の中にも凛として咲き誇る姿は古来より多くの人々に愛で親しまれて参りました。当社の梅は藤の花と共に創建当初より名高く、社殿や太鼓橋、その他多くの句碑・記念碑などに彩りを添えて咲きます。御社殿正面左右の絵馬掛けの中に紅白梅を一対を始め、東西の参道沿いに全体で50種類約300本の色々な梅花が二月中旬より三月上旬にかけて最も美しい時期を迎え、境内一円はその馥郁とした香に包まれ、春の訪れを告げてくれます。

ところで、飛梅ってなあ〜に?と云う方にちょっと御案内しておきますね。都を離れる際には自邸の紅梅殿に植えられていた梅の木に向かい「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んでいるの。ところが、その梅の木が道真を慕って都から太宰府の地まで一夜にして飛んで来たと云うの。それが飛梅伝説で、飛梅は代替わりした今も御神木として祀られているの。紅梅殿はその飛梅が植えられていた道真邸の名に因むもので、太宰府天満宮の飛梅にしても現在は白梅だけど、代替わりして白梅となったものの、元々は紅梅だったみたいね。