≡☆ 鎌倉歴史散策−北鎌倉編U ☆≡
 

円覚寺を始めとした古刹があることで知られる北鎌倉ですが、大通りを離れて小径をゆけば、余り知られない寺社や事跡にも物語があるの。今回の散策ではガイドブックには余り紹介されない北鎌倉の旧蹟を訪ねてみたの。尚、円覚寺などの古刹が気になる方は姉妹編の 北鎌倉編 を併せて御笑覧下さいね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

十王堂橋〜光照寺〜八雲神社〜円覚寺〜安倍清明碑〜魚佐次〜ホテルニューカマクラ

1. JR北鎌倉駅 きたかまくらえき

JR北鎌倉駅 ホームに降り立てば気分はもうすっかり北鎌倉で、ビルの建ち並ぶJR大船駅とJR鎌倉駅とは隣り合わせにありながら、静かな落ち着いた佇まいを見せてくれるの。手入れの行き届いた民家の庭先は春の装いで、季節の彩りを身近に感じながらの暮らしはコンクリートに囲まれて、あるは植木鉢の緑だけのξ^_^ξには羨ましい限りね。北鎌倉は嘗て富める者や文人墨客達が涼を求めて訪れた土地でもあり、歴史の重みを今に伝える古刹も多く残されているの。

JR北鎌倉駅 鎌倉に幕府が置かれていた頃は、この辺りから鎌倉寄りを山内(現在は山ノ内と記)と呼び、今にもホームに崩れ落ちて来そうなこの岩山が尾根の末端にあたり、鎌倉の北端を示す境界でもあったの。なあんだ、ただの北の端じゃねえか−で済ませてはいけないわ。当時の境界は結界でもあったの。結界?なあに〜それ?という方に。ちょっと乱暴な云い方をすれば、結界とは神や魔物の住む霊界との境界のことなの。医療技術も気象科学も今みたいに発達していなかった当時の人々は、伝染病や地震・雷などの天変地異も、全て鬼神の成せる業と信じていたの。【吾妻鏡】の元仁元年(1224)12/26の条には

此の間疫癘流布す 武州殊に驚かしめ給うの處 四角四境の鬼氣祭を行わる
對治す可きの由 陰陽權助國道 之を申し行う
所謂四境とは東は六浦 南は小壺 西は稻村 北は山内なりと云ふ

と記され、流行り病に驚いた鎌倉幕府第三代執権・北条泰時が四角四境祭を執り行っているの。四角四境祭は陰陽道に於ける呪術の一つで、東北・東南・西北・西南の四つの方角に疫神を祀り、鬼神の侵入を阻止しようとしたの。因みに、将軍家御座所の四方除けが四角祭で、現地に赴いて行われるのが四境祭になるの。

2. 山仲稲荷 やまなかいなり

JR北鎌倉駅の駅前を走る鎌倉街道を大船寄りに進み、最初の目的地・十王堂橋に向かう途中で小さな案内板を見つけて訪ねてみたのがこの山仲稲荷。人一人が辛うじて通れるような細い路地道を歩くと民家に囲まれるようにして塚があり、小さな社殿が建てられていたの。縁起などは不明ですが、村の鎮守さまと云うよりも、数戸からなる集落の守り神だったのかも知れないわね。掲載する写真では一基のみですが、傍らには 庚申塔 が2基祀られているの。

山仲稲荷 山仲稲荷 山仲稲荷 庚申塔

3. 十王堂橋 じゅうおうどうばし

十王堂橋 鎌倉街道へ戻り、大船方面に200m程歩くとこの十王堂橋があるの。取り立てて特徴がある訳ではないのですが、嘗ては鎌倉十橋の一つに数えられ、その名称は橋の傍らに十王堂が建てられていたことに由来するの。鎌倉時代には疫病や被災で死亡する人や血生臭い権力争いから命を落す者も多く、人々は死後の地獄行きを最も畏れていたの。地獄に堕ちるか極楽に行けるかは閻魔大王を初めとする十王の裁き如何。人々はその十王を祀ることで死後の安穏を得ようとしたの。それが十王思想と呼ばれるもので、当時の世情を反映して大いに流行したの。

十王堂橋 その十王堂に祀られていた十王像は今は円覚寺塔頭の桂昌院に祀られていますので、興味のある方はお出掛け下さいね。【新編鎌倉志】では十王堂と共に薬師堂も建てられていたと伝えるの。と云うことは、当然、薬師堂には薬師如来像が祀られていたはずよね。その薬師さまはどこへ行ってしまったのかしら。十王堂も薬師堂も嘗ては村持だったみたいですが、橋の名にも残ることからすると、薬師さまの御威光よりも地獄の裁きを畏れて閻魔さまの方を大事にしたのかも知れないわね。閻魔さまは知っているけど、十王ってなあに?と云う方は、北鎌倉編の 円応寺 の項を御笑覧下さいね。但し、日頃の行いに自信のある方だけにして下さいね。(^^;

4. 宮ノ台橋 みやのだいばし

宮ノ台橋 十王堂橋から更に大船方面に歩くと右手に小坂郵便局が建ちますので、その先の信号を左手に折れて下さいね。間も無く御覧の宮ノ台橋が見えて来るの。これと云って逸話が残されている訳ではありませんが、先程の無機質なコンクリート製の十王堂橋に比べ、新しく造られたものながら、宝珠の付いた欄干の造りや、鉢植えの草花が置かれていたりと、瀟洒な佇まいを見せていたの。街道からはほんの少し離れただけなのに辺りは静かな住宅地となり、家々の塀や庭先からは色とりどりの草花が顔を覗かせてくれたの。

カラタチ バラ

5. 光照寺 こうしょうじ

道が緩やかに上り、小山に突き当たるようにして右に大きく曲がりますが、その角地に建つのがこの光照寺の山門なの。傍らの石標には時宗西台山光照寺とありますが、時宗を「ときむね」と訓み、北条時宗に所縁の寺かしら?などとは思わないで下さいね。(^^; 時宗は「じしゅう」と訓み、聞き慣れない宗派ですが、鎌倉時代中期に一遍上人が開宗した一向宗のことで、浄土宗の一派なの。その教えるところは阿弥陀経に依拠して、南無阿弥陀仏を称名念仏することで人がその命を終えるとき、阿弥陀仏が諸尊を従えてあなたを極楽浄土へ来迎してくれると云うの。

一遍上人は一生不住を旨として諸国を巡り遊行したことから遊行宗とも呼ばれていますが、本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺で、遊行寺の別称を持つのも同じくそれに由来するの。遊行を字面で受け取り、なあんだ、遊び歩いていただけじゃないの?何て思ったりしてはいけないわ。遊行とは修行・教化説法を指すことばで、一遍上人は諸国を行脚しながら南無阿弥陀仏の称名(念仏)を人々に教え説いたの。今では葬儀や法事の時くらいしか唱和することはありませんが、本当は生前に本人が称名すべきものなの。でないと、阿弥陀さまはあなたを極楽浄土へ導いてはくれないの。

一遍上人は遊行の先々で念仏勧進を受けた人々に「南無阿弥陀仏 決定往生六十萬人」と書いた賦算札(念仏札)を配布しているのですが、生涯をかけた16年に及ぶ遊行期間中に配り終えたのは25万余人だったと伝えるの。これを単純計算すると一日当たり43人に配布したことになりますが、凄まじい覇気ですよね。その一遍上人も「命終に臨むの時」には多くの経巻を自ら焼き捨て「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と云いながら静かに入滅したと云われているの。

山門を潜り抜ける際には梁の部分に御注目下さいね。欄干には十字架を象ったクルス紋が掲げてあるの。この山門は元々は同じく北鎌倉にあった東渓院と云うお寺の山門だったのですが、明治期の廃仏毀釈を受けて同寺が廃寺となると光照寺に移設されて来たの。その東渓院は九州の竹田藩(現在の大分県)の藩主・中川家の息女が江戸屋敷で亡くなり、その菩提寺として建立されたと云うの。東渓院は臨済宗寺院でしたが、九州にはキリシタン大名も多くいたことを考え併せると、息女は江戸詰めになる以前に洗礼を受け、密かにキリスト教を信仰していたのかも知れないわね。

一方、未だ禁教となっていなかった江戸時代初期には、幕府はスペインなどとの交易を希み、宣教師を乗せたスペイン船が浦賀に入港しているの。そうして一時は教会も建てられたと云うの。浦賀と鎌倉は目と鼻の先ですから、洗礼を受けてキリスト教徒となった人達が禁教となった後でも密かに鎌倉の地でキリストの教えを伝えていたのかも知れないわね。そのことを知った中川家では、彼等の助けを借りてこの鎌倉に隠れキリシタンとしての菩提寺を造ったのかも知れないわね。

このクルス紋の他にも、光照寺には隠れキリシタンのものとされる燭台が二基伝えられていると云うの。その燭台も同じく譲り受けたものなのかどうかは不詳ですが、幾ら廃寺になったからと云って、縁も所縁も無いようなお寺に山門を譲るとは思えませんよね。仮に無関係なら移設時にクルス紋は取り外す方が自然よね。片や一向宗で、片や臨済宗と、宗派も異なり、一見すると共通項が見出せないのですが、この光照寺も一時期隠れキリシタンのお寺だったのかも知れないわね。

ここではξ^_^ξの根拠のない憶測を含めて記述しています。
呉々も鵜呑みにしないで下さいね。

山門の右手には大小2体の子育地蔵尊が祀られていますが、その台座には像を建立奉納した人達の銘が刻まれているの。当時は出産で命を失うこともあり、産まれた児を幼くして失うことも多かったことから、当時の人々は健やかな我が子の成長を願い、お地蔵さまに安産祈願をしていたの。この地蔵尊の子育地蔵としての信仰は江戸時代からのことで、二体の背後には風化したお地蔵さまも建つの。元々はそのお地蔵さま達に願いを込めている内に、子育てに霊験灼かなお地蔵さまとして人伝てに伝わり、信仰を集めるようになったのではないかしら。霊験灼かな証明が得られる度にお地蔵さんも大きくなっていった?(^^;

山門の左手には小さな石祠が建ちますが、おしゃぶきさまと呼ばれ、咳止めに霊験灼かな神さまなの。嘗ては祠内に小さな石が祀られていたと聞きますが、古来より姿形や珍しい紋様などがある石には神霊が宿ると信じられていたの。石がしゃくとも訓めることから癪に通じ、咳止めや風邪に霊験ありとされることもあったの。ふきは吹きのことで、烈しく咳き込む様子を指したものでしょうから、おしゃぶきさまを漢字に直すと御癪吹様と云うところかしら。

参道 お参り十ヶ条 遊行観音

山門を潜ると風情ある佇まいの参道が本堂へと続きますが、傍らにはどんな時にお参りすべきかを記した「お墓参り十ヶ条」が掲げられていたの。普通は春秋のお彼岸やお盆の時位しか思い浮かびませんが、十ヶ条では夢を見た時にもお墓参りをすることを奨めているの。他にはどんな時にしたらいいの?と気になる方は、お出掛けの際にお読み下さいね。(^^; 境内の一角には遊行観音像が建ち、その傍らには正中2年(1325)の銘を持つ板碑が残されているの。緑泥岩の板碑は多く見掛けますが、この板碑は安山岩製で、鎌倉市の文化財にも指定されているの。

本堂 参道の突き当たりに建てられているのがこの本堂なの。残念ながら堂内を見学させて頂くことは出来ませんが、本尊の阿弥陀三尊像の他にも、先程紹介した東渓院の本尊として祀られていたと云う釈迦如来坐像が安置されているの。併せて薬師如来や地蔵菩薩も祀られ、諸仏が一堂に会した感にξ^_^ξも合掌よ(拝)。その本堂の左手から墓苑への道が続きますが、傍らには五輪塔や宝篋印塔が残されているの。ところで、何で墓地なんかに行くの?と思われた方に。実は、墓苑の最奥部にある高台は北鎌倉が一望出来る絶佳ポイントだと知り、失礼して入苑させて貰ったの。

境内 境内 境内 石塔

石仏 But 訪時には墓地の分譲中で、苑内には係員の方の姿もあり、声を掛けられても−と諦めたの。なので北鎌倉の遠望は目にすることが出来ずに終えてしまいました。その墓苑の手前には古い墓塔も並びますが、彫られた石仏たちの表情がとても優しいの。最近では墓石と云うと四角四面の無表情なものばかりになってしまいましたが、右手を頬に添えて穏やかに佇む如意輪観音など、穏やかな表情をした石仏達に囲まれていると、阿弥陀さまが来迎してくれるような気もして来るの。見知らぬ主達の眠る墓塔ですが、その佇まいを見やれば日頃無信心なξ^_^ξでも均しく合掌よ。

シャクナゲ こじんまりとした中にも風情ある趣きを見せてくれる光照寺。緑豊かな境内は季節毎にシャクナゲやレンギョウなどが咲き競い、彩りを添えてくれるの。訪ねた時にはそのシャクナゲが見頃を迎えていましたが、御住職の丹精な手入れがあってのものでしょうね。光照寺の御案内の最後に、訪ねた際に境内に咲いていた花々を纏めて紹介してみますが、訪ねたのは5月の連休明けのことですので、お出掛け時の参考にして下さいね。

シャクナゲ シャクナゲ シャクナゲ シャクナゲ

ショウブ ツツジ サツキ ハマナス

6. 権兵衛踏切 ごんべえふみきり

権兵衛踏切 光照寺の拝観を終えて鎌倉街道に戻り、横須賀線を横断出来る道を探しながら大船方面に歩きました。200〜300m位だったかしら、車が2,3台立て続けに民家の間に消えるのを見掛けて、通り抜け出来るんじゃないの?と追いかけるようにして右折したのがこの権兵衛踏切に通じる道でした。入口にはこれといった案内も無かった気がしますので、注意しながら歩いて下さいね。左はその権兵衛踏切から北鎌倉駅方面を見たものですが、八雲神社へは左側の線路沿いの道を歩きます。ところで、権兵衛踏切と云う風変わりな名称に何か云われがありそうね−と気になり調べてみたところ、踏切に隣接する土地の所有者であった先代の小泉権兵衛氏が寄附したことに因むとのこと。

その小泉家では相続税の滞納から土地が差し押さえに合い、売却を余儀なくされたみたい。問題なのはその土地にマンションの建設が予定されていることで、景観保護を求める地元の方々からの反対運動が起こっているの。景観維持か開発かで係争するのはこの地に限る話しではありませんが、難しい問題ですよね。北鎌倉の住人でも無いξ^_^ξが兎や角云えるものではありませんが、その建設主体となっているのが産業再生機構の支援を受けることになった某社。血税が巡り巡って景観破壊を助長すると云う皮肉な構図なの。詳しいことは 北鎌倉湧水ネットワーク を御参照下さいね。特集記事が掲載( ′04.12 現在 )されているの。

7. 好々亭入口 こうこうていいりぐち

好々亭 権兵衛踏切を越えてJR横須賀線の線路伝いの脇道をJR北鎌倉駅方面に歩いていると、岩肌に隧道が設けられているのが目に留まりましたが、それが好々亭の入口でした。好々亭はその広さが1,000坪とも2,000坪とも云われる日本庭園を有する料亭で、故・小津安二郎監督など、多くの著名人が利用しているの。「静かな谷戸の中で旬の味覚を御賞味下さい」の案内につられて見てみると、昼の会席膳が¥3,150で、会席弁当¥4,515〜とのことで、素直に諦めざるを得ないようね。(^^;

8. 稲荷社 いなりしゃ

その隧道入口がある岩肌に続けて小さな稲荷社があったの。普通はお稲荷さんと云えば、その神使は狐ですが、どう見ても狛犬にしか見えませんよね。由来などの詳しいことが分からず、中を見たら何か分かるかしら?と畏れ多くも格子の間から覗いてみてしまいました。そこには、これこそ稲荷神の御神像と覚しき御神体が祀られていました。神さまですのでそのお姿をお見せすることは躊躇われますが、どうしても見てみたいの!と云う方は狛犬に挟まれた空白部分の真ん中辺りをクリックしてみて下さいね。それこそ御覧になった暁には目が潰れてしまうかも知れないわ。(^^;

稲荷社 狛犬

狛犬

北鎌倉駅 線路沿いの道を更に進むとJR北鎌倉駅のホームが見えて来ますが、道を挟んで左側には木々の緑に彩られて閑静な住宅街が続くの。それにしてもホームに設置された防護柵の高さとその長さは異常よね。周囲の景観とは余りにもミスマッチな造りですが、改札を経ずに正規運賃を払わないままこの道に降り立つ人達が多かったからなのでしょうね。鎌倉は著名人や富裕層の方々が涼を求めて避暑地として利用するようになり、観光地されたと聞きますが、大衆化すると云うことは俗化することである−と誰かが云ってましたね。その大衆側にいる者としてはちょっと耳の痛い話しね。

9. 八雲神社 やぐもじんじゃ

参道 やがてその閑静な住宅街の中に開けた一角が見えて来ますが、その奥に続く石段が八雲神社への参道なの。現在は山ノ内の鎮守さまとして祀られる八雲神社ですが、その創建となると詳しいことは分からないの。元仁元年(1224)には山ノ内を含めて四境祭が執り行われたことは冒頭でも紹介しましたが、村人達が京都・祇園社(現:八坂神社)を勧請して村の安寧を祈願したことに始まるとも云われているの。その祇園社に祀られていたのが牛頭大王で、この八雲神社も古くは牛頭天王社と呼ばれていたと伝えるの。拝観料:境内自由

手水鉢 異説では、室町時代の文明年中(1469-87)に山ノ内に居を構えた関東管領の上杉憲房が勧請したとも云われているの。尚、牛頭大王の牛頭は「ごず」と訓んで下さいね。祇園社の祭神であったことから祇園天神とも呼ばれるけど、そのルーツは祇園精舎の守護神にあるの。一方、古代中国では牛の体内に出来る結石が牛黄(ごおう)と呼ばれて漢方薬などに珍重されたの。仏教でもホントの仏舎利が不足するようになると、寺院に建てられた舎利塔にはこの牛黄(牛玉)が代わりに納められるようにもなりますが、それだけに貴重品だったと云うわけ。

その牛黄には病魔や悪鬼退散の霊力が宿ると信じられるようになると、墨や朱にその粉を混ぜて呪力を期待したの。そうして創られた紙片が牛玉宝印(ごおうほういん)と呼ばれるもので、護符の始まりなの。牛玉は点を省いて牛王とも書かれるの。何か牛頭大王に近付いてきた気がしません?(^^; こんなことを云うと、安倍清明ファンの方から睨まれそうですが、陰陽道最強の呪法とされる泰山府君祭にしても中国の泰山信仰に源を発するように、中国伝来のものを尽く採り入れて崇め祀ったのでしょうね。当時の人々は病気や天変地異も全て病魔鬼神の成せる業と信じていたの。そのために陰陽師達は鬼神の悪行全てに立ち向かうにはありとあらゆる神々と霊力が必要だったわけで、人々に猛威を奮う疫神も呪術で封じ込め、コントロールしようとしたの。

牛頭大王は読んで字の如く牛の頭を頂く像容ですので、護符から牛黄の牛に結びつけられて陰陽道の守護神になったのかしら。式神を駆使する安倍清明ですが、護符の呪力を発展させたものが式神とも考えられないこともありませんよね。幾れにせよここでは門外漢のξ^_^ξが思いつきで記述していますので、呉々も鵜呑みにはしないで下さいね。史実と想像が入り乱れていますので。

境内 境内 やがてその牛頭大王は素戔鳴尊(すさのおのみこと)と混淆されるようになるの。神話に描かれる素戔鳴尊の勇猛さが猛り狂う牛に譬えられたのかしら。八雲神社の現在の祭神は素戔鳴尊ですが、明治期の神仏分離令発布を受けて牛頭大王との習合が解かれて本来の素戔鳴尊に戻されたと云うわけ。荒ぶる神の牛頭大王も為政者の力でどこかへ飛ばされてしまったの。

八雲神社では例祭最終日の7/20には山崎にある北野神社との間で神輿渡御が行われるの。北野神社はその名前からお分かりのように北野天満宮を勧請したもので、菅原道真を祭神とするのですが、後に岩瀬(大船北東)にあった五所明神から牛頭大王も合祀しているの。例祭時には素戔鳴尊と牛頭大王がそれこそ陰陽となって渡御するのでしょうね、きっと。

境内 社殿の建つ境内からは更に石段が続いて段上には鳥居が建てられているの。鳥居の先には小さな社殿と御嶽教の講中の方々が建てた記念碑があるだけですが、嘗てはそれなりの社殿が建てられていたのでしょうね、礎石や石材が背後の草叢に放置されたままになっていたの。そして、右手にあるのが清明石。傍らの石標では安倍晴明の文字が辛うじて読み取れますが、知らずに訪ね来られた方は気付かずに終えてしまうわね。この清明石ですが、元々は先程紹介した十王堂橋近くにあったのですが、戦後の道路拡張の際に邪魔だからとこの八雲神社に移設されて来たの。

云い伝えでは安倍晴明が残したものとされたことから降魔除災の霊力が宿ると崇められ、逆に汚したりすると祟りを及ぼすとも云われていたの。また、清明石と知らずに踏めば健脚となり、知りながら踏むと足腰が不自由になるとも云われていたの。この頁を御読み頂いたあなたは間違っても踏みつけたりはしないで下さいね。But 安倍清明(921-1005)が活躍したのは平安時代中頃のことですので、本当に清明が鎌倉に来たとは思えませんが、頼朝も社寺の造営や行事の際には陰陽師達を重用していることから彼等の活躍が清明のものとされるようになったのかも知れないわね。

【吾妻鏡】の治承4年(1180)10/9の条には

大庭平太景義を奉行として御亭の作事を始めらる 但し合期の沙汰を致し難きに依りて 暫くは知家事(兼道)が山内宅を點じて之を移し建てらる 此の屋は正暦年中に建立の後 未だ回祿の災いに遇わず 晴明朝臣鎭宅の符を押すが故なり

と記され、鎌倉入りした頼朝は山内にあった知家事の兼道の屋敷を移して居館としているの。

その屋敷は正暦年中(990-995)に建てたものですが、安倍清明の護符が貼られていたことから火災にも合わず持ち堪えていたと記しているの。正暦年間に仮に安倍清明が鎌倉に東下して来たとすると、どんなに若く見積もっても69歳ですよね。84歳迄生きたことになっていますので、考えられないこともないのですが、どうなのかしら?ところで、この知家事と云うのは氏姓では無くて職掌なの。摂関家の荘園を監督する立場にあり、実際に領地に赴任した下位の階級みたいね。当時の都からすると遙か東国の鎌倉は魑魅魍魎が蠢く辺境の地と思われていたでしょうから、兼道は着任にあたり、陰陽道の大家として知られる安倍清明に護符の授与を懇願したのかも知れないわね。

安倍晴明に想いを馳せたところで社殿前に降り立ちましたが、ふと背後に通じる小径を見つけて何かあるのかしら?と回り込んでみたところ、飛び込んで来たのがこの光景で、庚申塔 の一大集積地になっていたの。庚申塔は庚申信仰が元になり建てられたものですが、村境は異境に通じる結界の地でもあり、疫神や悪鬼が村の中に入らぬようと庚申塔に日々の平穏を願うようにもなるの。結界の地として重要視されたこの辺りでは庚申信仰も逸早く浸透したのでしょうね。右端写真中央の庚申塔は寛文5年(1665)の銘を持つ鎌倉最大最古のもので、鎌倉市指定有形文化財。

10. 雲頂庵 うんちょうあん

雲頂庵 雲頂庵 八雲神社の背後に続く道を鎌倉方面に向かうと程無くして円覚寺塔頭の一つ、雲頂庵があるの。空山円印禅師の塔所で、禅師は建長寺開山・蘭渓道隆の法灯を嗣ぎ、長勝寺(廃寺)の開山をするのですが、この雲頂庵は元々はその長勝寺の塔頭だったの。長勝寺の廃絶に伴い雲頂庵も廃され、後に関東管領・山内上杉氏の家宰・長尾忠景により再興されたの。雲頂庵の中興開基として長尾忠景の名が見えるのはそれに由来するの。拝観料:拝観不可

ねえねえ、塔頭ってなあに?早い話しが住持の廟所のことよ。と云っても名立たる高僧であることが前提条件 (^^; で、生前に隠居所として設けられることもあるのですが、その遺徳を慕う弟子達が死寂後に設けたりしたの。尚、塔頭は「たっちゅう」と訓んで下さいね。同じく塔所は「たっしょ」よ。禅宗では他の宗派と違い、訓み方も難解よね。法堂と書いて「はっとう」と訓ませてみたり。

雲頂庵 山門には大機山の山号を記す扁額が架けられていますが拝観もそこ迄で、山門から先は一般公開されていないの。加えて塀に囲まれているので中の様子を窺い知ることも出来ませんが、門前は北鎌倉の街並みを一望出来る絶好のビューポイントになっているの。雲頂庵の山門を後に次の塔頭・白雲庵に向かいましたが、風情ある佇まいの石段が続くの。ガイドブックにも余り紹介されていないせいでしょうね、ここには訪ね来る人も無く、静かな小路はξ^_^ξイチ押しのお薦めスポットよ。

雲頂庵 雲頂庵 雲頂庵 雲頂庵

雲頂庵 雲頂庵

11. 白雲庵 はくうんあん

石段を上りきると程無くして塔頭の白雲庵があるの。円覚寺第10世の東明慧日禅師の塔所ですが、残念ながらこちらも一般公開されず、拝観は出来ないの。禅師は元々は曹洞宗の禅僧で、延慶2年(1309)に鎌倉幕府第9代執権・北条貞時の招きに依り中国から来日し、建長寺や円覚寺の住持を務め、東勝寺(現在は廃寺)や寿福寺などにも住したことから多くの門弟を輩出しますが、興国元年・暦応3年(1340)に自ら開いたこの白雲庵で示寂しているの。拝観料:拝観不可

東明慧日禅師の墓誌銘は同じく渡来僧の竺仙梵遷禅師が書き記していますが、竺仙梵遷禅師は浄智寺住持になった時には背後の天柱峰で、その景観に遙か故国を想い、禅を結んでいたと伝えられているの。東明慧日禅師も晩年には故国を慕び涙することもあったのではないかしら。弘法のためとは云え、遙か異国の地に一生を捧げた禅師の魂が今は静かに白雲庵に眠っているの。

12. 富陽庵 ふようあん

富陽庵 富陽庵 同じく円覚寺塔頭の伝宗庵を眼下に道を進むと北鎌倉幼稚園があり、道を挟んで富陽庵があるの。円覚寺第61世の東岳文昱禅師の塔所で、第二代関東管領足利氏満の執事を務めた上杉朝宗が開基しているの。禅師は寿福寺に住した後は建長寺に移り、その後円覚寺の住持となっているの。この富陽庵には円覚寺第4世の桃渓徳悟禅師の坐像も祀られているの。禅師は建長寺開山・蘭渓道隆に学ぶとやがて渡宋しますが、無学祖元の来日と共に帰国しているの。

伝宗庵の旧石標? 山門に続く石段は風情ある佇まいを見せてくれますが、他の塔所同様一般公開はしていないの。その富陽庵の石段を降りてくると道の反対側にこの石組みが見えたの。台座だけが残され、何を記す石柱だったのか知る由もありませんが、北鎌倉幼稚園は伝宗庵の敷地でもあり、嘗ての入口を示す石標が建てられていたのかも知れないわね。名立たる高僧も遙かなる時を経て歴史の中に消え行くとやがて土に還り、今は将来を担う子供達の嬌声がこだまするの。

13. 円覚寺 えんかくじ

参道 富陽庵の門前を過ぎると道は急な下り坂になりますが、下り切ったところが円覚寺の参道で、眼前に豪壮な三門が聳え建つの。これは内緒のお話し (^^; ですが、このまま円覚寺の境内へと進むことが出来ちゃったりするの。But ここではマジメに拝観受付に立ち寄り拝観料を払いましょうね。受付を済ませたところで石段を登り、三門を潜ります。ところで、傍らには山門と記した案内板が立ちますが、円覚寺では正しくは三門なの。禅宗では解脱を得るために潜らねばならない、空門・無相門・無願門の三解脱門に譬えて三門としているの。拝観料:¥200

その三門の先にあるのが仏殿で、仏=涅槃で解脱した状態のことよね。なので仏殿に安置される本尊のお釈迦さまにまみえるためにはどうしてもこの三門を潜り抜ける必要があるの。と云うことで、ここからは円覚寺の御案内をすべきところですが、姉妹編の 北鎌倉編 で詳しく紹介していますので、この頁では前回の散策時には修復工事などで見学出来ずに終えた仏殿や仏日庵を中心に御案内してみますね。その前にちょっとだけ寺史のお話しに耳をお貸し下さいね。

円覚寺は鎌倉幕府第8代執権の北条時宗が宋から招いた無学祖元を開山に迎えて創建した古刹で、幕府の庇護を受けて隆盛したの。鎌倉幕府の滅亡で為政者の後盾を失い運営が危ぶまれたのですが、第15世の住持となった無窓疎石の時には後醍醐天皇の帰依を受けて、盛時には七堂伽藍が建ち並び、塔頭も42院を数える程になったの。ところが、文中3年(1374)には大火で堂宇の悉くが灰塵に帰してしまうの。それを再興したのが先程紹介した富陽庵でちょっとだけ名前が出て来た関東管領第二代の足利氏満なの。

ですが、現在あるような姿になるには更に室町・江戸両幕府の保護を得て成されたものなの。逆に云えば、庇護が得られたからこそ円覚寺は生き残ったわけで、為政者の後盾を失い、廃寺となった寺院も鎌倉には数多くあるの。頼朝が威信をかけて創建した永福寺(ようふくじ)や勝長寿院は現在では跡形も無いの。前置きが長くなりましたが、三門の先にあるのが仏殿で、昭和39年(1964)に再建されたものですが、修復工事を終えてすっかり綺麗になりましたね。

円覚寺の山号は瑞鹿山ですが、最初に仏殿が建てられた弘安5年(1282)の仏殿落慶法要の際には、無学祖元の法話を聞きに集まった聴衆に交じり、白鹿の群れも一緒に耳を傾けていたと云う奇瑞譚に因むの。禅師にしても−いろはにほへと 囉囉哩哩囉囉囉 勧君飲尽樽中酒 老僧陪笑又陪歌−と、歌も飛び出し、飲めや歌えやと奨めているの。戒律の厳しい禅刹にも関わらず、禅師自ら日本語を交えてララリリラララと歌いながら飲酒を奨めるなんて、余程嬉しかったのでしょうね。そこには禅師の温かな人間性が垣間見える逸話よね。

その仏殿中央に祀られているのが本尊の釈迦如来像ですが、頭部だけが鎌倉期の造営で、胴体は江戸時代に造られたものなの。度重なる仏殿の焼失や倒潰を経て、お釈迦さまも大手術を受けるなど大分苦労されたようね。永禄6年(1563)の大火では辛うじてお顔だけが残され、お躰の方は寛永2年(1625)に修造されたものなの。仏殿の天井には法話を聞きに集まった聴衆に法の雨を降らせると云う雲龍図が描かれているの。法のシャワーを浴びて煩悩の垢を落したところで次の選仏場へ向かいますが、前述の理由から次の仏日庵までの御案内は省略させて下さいね。

石楠花 石楠花 石楠花 石楠花

妙香池を過ぎて坂道を上ると仏日庵の門が見えて来るの。この仏日庵も円覚寺の塔頭の一つですが、元々は円覚寺を開基した北条時宗の廟所だったの。こちらも改修工事を終えて見事な茅葺き屋根が堂宇を覆っているの。残念ながら堂内は撮影禁止ですので紹介出来ませんが、時宗の他にも貞時・高時の像が祀られているの。時宗は円覚寺に最大限の援助を行う一方で自らも参禅修行しているの。元寇襲来と云う未曾有の国難を受けて苦悩する時宗には無学祖元の存在は大きな支えでもあったの。拝観料:¥100 抹茶付:¥500

そんな時宗も開基間も無い弘安7年(1284)には俄に病を得て34歳の若さで病没してしまったの。禅師も「公に托して以て残生を了らんに 料らざりき我に一著を先きんじて去らんとは 世相期し難く 空華落ち易し」と、殊の外嘆き悲しんでいるの。その禅師も時宗没後の2年後には「君が孤寡、人の扶くる無きを念い」、時宗の後を追うようにして入寂するの。為政者とその庇護を受けた高僧と云う覚めた見方もあるかも知れませんが、禅師と時宗は師弟を越えて心通わす間柄だったのかも知れないわね。

堂宇の前にある臥龍の梅が風情を添えて、左手前には魯迅が奉納した泰山木、右手には多羅葉の木が立つの。その多羅葉の葉ですが、紙が貴重品だった頃は代用品として使用されていたの。写経にも使われたと云いますが、専ら練習用に使われたのでしょうね。と云うのも、以前、明月院を訪ねた際に落葉を持ち帰りましたが、自分でも何を書いたのかさっぱり分からないほどに茶色く変色してしまいましたので、長期保存は無理みたいね。

But 幾ら写経の練習用に使用したからと云って、葉の一枚一枚には経文が書かれていた訳ですから、枯れるのを待って護摩供養したのかも知れないわね。密教じゃないんだから護摩は焚かない?境内には緋い毛氈が敷かれた茶席が設けられていますので、あなたも抹茶を頂きながら、時宗と禅師の二人が生きた時代に思いを馳せながら、しばし時を忘れてみてはいかがかしら?

仏日庵 ξ^_^ξが訪ねた時には、仏日庵の門前を和服姿で通り過ぎる方々がいらっしゃいました。何か撮影でもあるのかしら−と思ったのですが、そうではないみたいね。不確かですが、宿泊するとお気に入りの和服を貸し出してくれるペンションがあると何かの雑誌に書かれていたような記憶がありますので、そちらに宿泊される方々なのかも知れないわね。大正浪漫を思わせる装いですが、不思議と周囲の景観に溶け込んでいるの。古都鎌倉を和服姿で訪ねる−なんて、ちょっと素敵ですよね。

仏日庵から程無くして参道の傍らに白鹿洞の案内が立てられていますが、前述の仏殿開眼法要の際に禅師の法話を聴衆と一緒になって耳を傾けていたと云う白鹿達が現れ出でたのがこの白鹿洞なの。寺号の由来が、三門の基壇辺りから石櫃に入った円覚経の経巻が現れたことに因むものなら、この白鹿洞は山号の由来ともなっているの。実際に見た限りではどこかに通じているようにも見受けられず、大きさにしてもとても鹿が通り抜け出来るような代物ではないのですが。当時の鎌倉は今よりももっと自然が豊かで鹿もいたのでしょうから、禅師の法話を聞きに集まった聴衆の背後には草を食むなどしてのんびりと過ごす鹿達の姿があったのではないかしら。

それを釈迦の鹿野苑の説話になぞらえて後に逸話化されたものでしょうね、きっと。白猿や白馬のように、白は神聖なものと見做されたことから、栗毛色した鹿もいつしか白鹿に姿を変え、山に囲まれた地に伽藍が建てられたことから、山の神も護法に駆り出されて白鹿と結び付き、白鹿は山神さま達の化身とされたのかも知れないわね。


釈迦の鹿野苑のお話しが気になる方へちょっと紹介してみますね。
説話では釈迦の前世は九つの色を光り放つ美しい鹿だったと云うの。

ある日のこと、その鹿の棲む森へ一人の狩人が迷い込み、彷徨い歩く内に誤って足を滑らせ池の中に落ちてしまうの。誰もいない森に向かい、狩人は必死で助けを求めたのですが応えてくれる者があろうはずも無く、それを聞きつけて助けてくれたのが美しい鹿だったの。その姿は九つの色が彩をなし、まばゆいばかりの輝きを放っていたの。「こんなに美しい毛並みをした鹿には今まで一度も出会うたことがない。此奴を仕留めて都で毛皮を売ればわしは忽ち大金持ちじゃ」と狩人は密かに思ったの。けれど、その鹿のお蔭で九死に一生を得たことから「何人にもこの森のことは知らせぬように」との鹿からの申し入れを承諾したの。

そうして無事に自分の住む村へ帰ることが出来た狩人でしたが、やがてその鹿の居場所を知らせた者に沢山の褒美をとらすとの国王のお触れ書きを目にするの。国王の妃が九つの色に輝く鹿の夢を見たことから、国を挙げての探索が始まっていたの。欲に目が眩んだ狩人は、早速、王宮を訪ねると、自ら先頭に立って森へと案内したの。果たしてそこには美しい毛並みをした鹿が池の畔で水を飲んでいたの。気配に驚き、慌てて森の奥に逃げ込もうとしたのですが、既に大勢の王軍に廻りを取り囲まれ、逃げる術が無くなっていたの。

そうして捕らえられてしまった鹿は、国王にどうしてこの場所が分かったのかを訊ねてみたの。事実を知った鹿は狩人との約束を話すのですが、国王は「人間の身でありながら命を助けてくれたものを裏切るとは」と大いに嘆き、捕まえた鹿を森に逃がしてあげたの。それから間も無くして狩人は俄に病を得て死んでしまったと云うの。

鹿がことばを喋るわけなんかねえじゃんかよお〜などと思わないで下さいね。鹿は鹿でも釈迦の前世としての鹿なのですから。九つの色が何色からなるのかは不明ですが、差し詰めレインボーカラーと云ったところかしら。それとも孔雀の羽根のような感じかしら?どちらにしても、釈迦と結びつけられた鹿は、とりわけ仏教では神聖視されるようになったの。

白鹿洞を過ぎて円覚寺境内最奥部にあるのが無窓疎石の塔所である黄梅院。疎石は伊勢(現在の三重県)に生まれ、初め天台宗に学びますが、後に禅宗に転向すると諸師に師事したの。鎌倉下向と上洛を繰り返す疎石ですが、建長寺の一山一寧・高峰顕日に学ぶと法を嗣いだの。ですが、定住することを好まず、各地に隠棲するの。その疎石を南禅寺の住持として招聘したのが後醍醐天皇ですが、その南禅寺も僅か一年足らずで住持を辞すと再び鎌倉に下向して来るの。浄智寺に住し瑞泉寺を開創しますが、その疎石を円覚寺の住持に迎えたのが北条高時なの。

そうして円覚寺第15世として入山するのですが、ここでも僅か一年足らずで辞去。その後甲斐に移ると慧林寺を開創し、臨川寺や天龍寺などの京都禅刹の開山にも迎えられているの。廟所のある臨川寺も後醍醐天皇が開山に迎えて創建したもので、禅師は後醍醐天皇や足利尊氏・直義兄弟を初め、足利家の帰依を受けて活躍したの。実は、後醍醐天皇や足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた最大の理由は、滅ぼした北条氏や南北朝の動乱期に命を失った人々の霊の鎮魂にあるの。禅師はその怨霊を鎮めるべく、諸国に安国寺や利生塔の造営を勧めているの。と云っても、新造と云うよりは、旧来の寺院を指定して保護すると、怨霊鎮魂を祈願させたの。そうして臨済禅は管制化して一大勢力を形成するの。余談ですが、京都の金閣寺・銀閣寺はそれを象徴する寺院でもあるの。天龍寺にしても、禅師が尊氏・直義に勧めて造営した後醍醐天皇の慰霊の寺院なの。

鎌倉幕府が滅び北条氏の後盾を失くした円覚寺が、後醍醐天皇や足利家の庇護を受けられたのも疎石の存在があればこそ。禅師は政治的な手腕にも秀でていたようで、当時建長寺にあった無学祖元(仏光国師)の塔所の正続院を、後醍醐天皇の勅命の形をとり、円覚寺に移してしまったの。あれ〜変よね、無学祖元は円覚寺で死寂したんじゃないの?そう考える方が自然だけど、晩年は建長寺に移り住んだの。実は、この強引とも思える遷塔が、後に建長寺と円覚寺の間に亀裂を生じさせることになるの。持って行く方は権威が高まるけど、逆に持って行かれる方は格が下がっちゃうものね。

疎石には多くの門弟があり、為政者の後盾を得ていたことから円覚寺もその頃に全盛期を迎えるの。禅師は生前・没後に亙り国師を諡号され、その数何と七つもあり、七朝帝師・七朝国師とも呼ばれているの。禅宗と云うよりも仏教界の頂点に立つ僧侶だったわけね。因みに、応安元年(1368)には室町幕府第二代将軍足利義詮の遺骨が黄梅院に分骨され、足利家の菩提寺としての色彩も帯びるようになったの。

黄梅院 お話しが前後して恐縮ですが、元々この黄梅院の地には北条時宗の正室・覚山尼が夫の菩提を弔うために創建した華厳塔が建てられていたの。創建当時の仏殿には盧遮那仏が安置されるなど、円覚寺は華厳経に依拠した寺院ですので、華厳塔はその象徴なの。覚山尼は時宗の三回忌には華厳経80巻も奉納しているの。その経文も華厳塔に収められたのでしょうね、きっと。ですが、時宗の菩提を弔う地に無窓疎石の塔所が設けられ、足利義詮の遺骨が分骨されて来るとは皮肉な歴史の一頁ですよね。黄梅院の建つ地が天地鳴動したとも聞きませんので、喧嘩している訳でもなさそうですので、三人で参禅しながら禅問答に明け暮れているのかも知れないわね。

14. 安倍清明碑 あべせいめいひ

円覚寺の参詣を終えたところで一通りの散策は終了なのですが、円覚寺の近くに謎の安倍清明碑があると知り探してみたの。場所は円覚寺門前から鎌倉街道を建長寺方面に歩き、横須賀線の踏切近くに隠れるようにして建てられているとのことでしたが、ようやく見つけたのがこの安倍清明碑なの。踏切を越えたところにお蕎麦やさんがありますが、その左手の木立ちの蔭にひっそりと建てられていたの。碑面には安倍清明大神と刻まれているだけで、云われも不明ですが、嘗てこの辺りには安倍清明の屋敷が建てられていたとも伝えられているの。

But 安倍晴明が活躍したのは源頼朝が入部する以前のお話しよね。鎌倉に東下してきた理由は何だったのかしら。四境祭をするにしては余りにも都から離れすぎていますし、屋敷を構えたからにはそれなりの理由があってのことでしょうね。この石碑ですが、古くからこの地に建てられているものかと思いきや、意外に新しいもので、背面には明治39年(1906)の銘が刻まれているの。

安倍清明碑を後に鎌倉街道を歩いて鎌倉駅に向かいましたが、その途中の建長寺手前にある第六天社の石段脇にも安倍清明碑が建てられているの。建長寺や円応寺など、沿道の見処が気になる方は姉妹編の 北鎌倉編 を御笑覧下さいね。今回の散策もこれにて全行程を終了ですが、以降では、鎌倉歴史散策シリーズでは初めてですが、鎌倉での宿泊を紹介してみました。気が向いた方は引き続きお付き合い下さいね。

15. 割烹・魚佐次 うおさじ

鎌倉街道から小町通りを経て鎌倉駅に着きましたが、お昼御飯も食べずに歩き廻っていましたので、何か食べてから帰ろうよお〜と責め立てられて (^^; 向かった先が和食割烹の魚佐次なの。元々は逗子駅前で鮮魚店を営む魚佐次の姉妹店が鎌倉にあると聞き、機会があれば訪ねてみようと思っていたの。知ってしまえば何のことは無いのですが、最初に訪ねるにはちょっと分かり辛いところにあるの。ξ^_^ξも彷徨い歩いた挙げ句にようやく見つけたの。鎌倉駅西口から御成通りを南に歩くと直ぐに東日本銀行の建物が見えて来ますが、その裏手に位置するの。通りを更に10m程先に歩くと100円ショップがありますが、その手前右手に脇道が続きますので、後はそれを道なりに歩いてみて下さいね。紹介するにあたり写真があれば良いのですが、脳味噌が空腹を満たすことだけに専念していたもので一枚も無いの。お酒が入る頃には嗜好が優先して思考はどこかへ飛んでってしまったし。なので文字情報しかありませんが御許し下さいね。

刺身盛

お魚やさんの直営店と聞いて迷わずに頼んだのがお刺身の盛り合わせよ。1人前¥3,000とお品書きに書かれ、3人連れでしたので3人分をお願いしようとしたのですが、「そんなに頼まなくても大丈夫ですよ。2人前でも多い位だと思いますよ」とアドバイスを受けて2人分にしたの。そうして出されて来たお刺身の何と厚みの豪快なこと。値段を見た時には「なあんだ、お魚やさんの直営だから安いんじゃないかと期待したのに安くないじゃん」と思っていたのですが、この厚みには納得よね。

お銚子 目の前にお刺身があればやはりお酒よね。食事もせずに一日歩いた我が身に少しばかりの御褒美を。(^^; 腰越港や小坪港に揚がった新鮮な魚介類が味わえると地元でも評判のお店のようで、訪ねたときにも同窓会の帰りかしら、地元の主婦の方々が集まり、歓談されていたの。コース料理なども設定されていますが、お品書きを見ながら好きなものを頼むのも楽しみよね。お刺身も美味でしたが、もう一つのお薦めはカレイの唐揚よ。お出掛けの際には是非御賞味下さいね。御主人のお話しに依ると、お昼時は大変な混雑だそうで、僅かな人数でこなしているので「頼んだものが未だ出て来ないんだけどどうなってるの!」と厨房にまで押し掛けてくるお客さんもいるのだとか。お昼時以外はそんな混雑もないので、出来たらお昼時を外して来て頂けると嬉しいんですがねえ〜と仰っていました。

カレイ 割烹とあるとどうしても敷居が高く感じられてしまいますが、ここでは肩肘を張る必要はないの。こんな云い方をしては失礼かも知れませんが、寧ろ定食屋の趣きよ。なので、お洒落な雰囲気を求める方には不向きですが、気のおけないお友達や仲間同士なら気兼ね無く立ち寄れるお店よ。残念ながらHPは開設されていないようですので、連絡先を掲載しておきますので、コース料理などの詳しいことはお問い合わせ下さいね。住所は@nifty地図にリンクしていますので御参照下さいね。
割烹・魚佐次 住所:神奈川県鎌倉市御成町11-17 TEL:0467-24-7622

魚佐次で海の幸を堪能したところで鎌倉駅に向かいましたが、お酒に浸された脳味噌は怠惰な思考を始め、これから小一時間も掛けてお家に帰るの、やだなあ〜、ビジネスホテルでもいいからどこか安く泊まれるようなところは無いかなあ?と。その時思い出したのが以前鎌倉駅のホームから見えた、素泊まり¥4,000〜の案内板。既に食事は終えた後なので寝るだけで充分。けれど素泊まりと聞くと何やら怪しげな印象を受け、ちょっと様子を見てみようよ−と連れの二人の後押しもあって歩いてみたの。

16. ホテルニューカマクラ

夜目に見ただけですのでその時は詳しい外観が看てとれた訳ではありませんが、いかがわしい (^^; ホテルにも見えず、話のタネに一回位泊まってみても面白いんじゃないの?と能天気な連れのことばに勢いを得て恐る恐る中に入ってみたの。前庭は駐車場になり、受付には女性の方がいらっしゃいましたので訊ねてみたの。

鷲尾いさ子さん 「大丈夫よお〜、変なホテルじゃないから。素泊まりと云ったってちゃんとお風呂も有るし、浴衣も歯ブラシも容易してあるわよ。女の人だって大丈夫よ〜」と快達な返事に「未だ空きがありますか?」と訊ねると 「ちょうど3人部屋なら空いてるわよ。但し、一人¥6,800になっちゃうけど」。そこは乗り掛かった船、否、お酒の勢いもあり、宿泊することに。そうして建物に案内されたのですが、途中で「あれ〜お酒飲んでるの?いいわねえ、あたしなんか未だこうして仕事してんのよお〜、羨ましいね。あはははは」と、豪快なお姉さんでした。今思うとこの大らかな対応があればこその宿泊でしたね。以上が ホテルニューカマクラ に宿泊するまでの経緯ですが、由緒あるホテルだとはお部屋に案内されてから初めて知ったの。壁には取材に訪ね来られた紺野美沙子さんや鷲尾いさ子さんを始め、芸能人の方々の記念写真が貼り出され、ホテルを紹介した新聞記事なども掲示されていたの。鎌倉市の観光ポスターにはξ^_^ξの思いを見透かしたかのように、「春も、夏も、秋も、冬も・・・。気がつくと鎌倉」のキャッチコピーが。

DAISUKI! 伊藤裕子さん 紺野美沙子さん

素泊まりと聞いて入浴はダメかしらと最初は思っていたのですが、ちゃんと入浴も出来るの。何と云っても疲れを癒すには入浴が一番よね。浴室もリニューアルされて、小さいながらも清潔感溢れるものになっているの。内側からは鍵も掛けられますので、これなら女性の方でも安心して入浴出来ますね。その浴室の右手にはコインランドリーがありますのでお洗濯も出来ちゃうの。遠方から来られて連泊される方もいらっしゃると聞きましたので、そのような設備があるのでしょうが、旅先で転んでしまい、汚れが気になる場合もありますよね。そんな時にもうれしい仕様よね。

水森亜土さん 紹介記事 ベッド 照明

浪漫 ところでこのホテルニューカマクラですが、嘗てこの地には京都の料亭・平野屋の別荘があり、その跡地に鎌倉初のホテルとして建てられたのが山懸ホテル。本館の建物は大正末期のもので、木枠の上げ下げ窓が当時の面影を今に伝えているの。戦前は避暑地として脚光を浴びる鎌倉ですが、平野屋の経営が芳しくなかったことから当時は避暑する人達に間貸ししていたの。

その平野屋に投宿した岡本かの子は同じく投宿していた芥川龍之介と出逢うの。その時の情景を岡本かの子は後にデビュー作となる『鶴は病みき』の中で回想していますが、文学論を芥川龍之介と交える場面は凡庸な脳味噌しか持ち合わせの無いξ^_^ξには難解で、さすがは岡本太郎氏の母親ね−と納得させられるわね。(^^;

「白梅の咲く頃となると、葉子はどうも麻川荘之介氏を想い出していけない。いけないというのは嫌という意味ではない。むしろ懐しまれるものを当面に見られなくなった愛惜のこころが催されてこまるという意味である」の書き出しで始まる『鶴は病みき』ですが、云うまでも無く、ここでは麻川荘之介が芥川龍之介で、葉子が岡本かの子のことね。内容が気になる方は 青空文庫 を御参照下さいね。題名の『鶴は病みき』が何に由来するかは、全文を読んで頂かないと分からないの。

こちらは翌朝ホテルを出る際に撮した新館の建物ですが、御覧の窓から昨日のお姉さんに「良かったら上がって見てもいいよ。もうお客さんもいないから」と声を掛けられて、その気になってちょっと見学させて貰っちゃいました。鏡台の置かれた和室もあり、「建物が新しいんだから、こんな古い鏡台なんか捨てちゃえばと云ってるんだけど、社長が古いものの方がいいんだと云ってきかなくて」と。(^^; 本館階段ホールの壁には記念写真に一緒に収まる社長の姿があり、仲々紳士然とした方ですが、そう云う拘りがあればこそ歴史を重ねた建物が今に残されているのでしょうね。

和室 館内 館内

本館の目の前には大きな桜の木が枝を広げていましたので、春先には窓辺からのお花見が出来そうね。気さくなお姉さんの笑顔に見送られてホテルニューカマクラを後にしましたが、近い内にまた宿泊してしまいそうな予感が。(^^;


今回の散策では余り知られない北鎌倉の魅力を紹介してみました。草花が彩りを添えて迎えてくれた光照寺にはおしゃぶきさまや子育地蔵が残され、為政者から離れて庶民の祈りの場であったことを窺わせるの。山門のクルス紋からは、仏教とキリスト教の垣根を越えて幸多からんことを願い頭を垂れていた当時の人々の想いも伝わってくるの。一方、鎌倉幕府が開かれていた頃には四角四境祭が催されるなど、結界の地でもあった山ノ内には陰陽師・安倍清明に因む清明石や石碑が残され、旅人をミステリアスな世界へと誘ってくれるの。八雲神社から続く小径は北鎌倉の風情を楽しむには絶好のお散歩道でした。あなたも穏やかな一日をいつもとは違う北鎌倉に訪ねてみませんか?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
円覚寺発行 瑞鹿山円覚寺 開山開基七百年大遠諱記念
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
人文書院社刊 吉野裕子著 易と日本の祭祀
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡






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