≡☆ 鎌倉歴史散策−扇ガ谷編 ☆≡
 

今回の散策は 源氏山公園編 では廻り切れずに終えていた扇ガ谷の東側に点在する史蹟を訪ねてみたの。行程としては北鎌倉側から亀ヶ谷坂切り通しを経て扇ガ谷に向かい、主な見処をめぐりながらJR鎌倉駅に抜ける縦走コースを採ってみたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

薬王寺〜岩船地蔵堂〜浄光明寺〜阿仏尼の墓〜英勝寺〜巌窟不動〜寿福寺

1. 長寿寺 ちょうじゅじ

亀ヶ谷坂 JR北鎌倉駅で下車したら鎌倉街道を建長寺方面に歩いて下さいね。沿道には東慶寺や浄智寺などの古刹が佇みますが、今回の散策では素通りしているの。気になる方は姉妹編の 北鎌倉編 を御笑覧下さいね。JR北鎌倉駅から15分程歩くと長寿寺がありますが、街道を離れてその脇に続く緩やかな坂道を上って下さいね。左掲はその入口を返り見たところですが、左側の木立ちの中に長寿寺が建てられているの。境内には足利尊氏の供養塔があるのですが、残念ながら一般公開されていませんので拝観は出来ないの。5人以上で精進料理を予約すればその際に見学が可能と聞きますが、足利尊氏よりも福沢諭吉が大事なξ^_^ξは今日に到るまで未体験。(^^;

2. 亀ヶ谷切り通し かめがやつきりどおし

亀ヶ谷坂 亀ヶ谷坂 嘗てこの道は北鎌倉の山ノ内と扇ガ谷を結ぶ幹線道路で、朝夷奈・極楽寺・巨福呂坂・化粧坂・大仏坂・名越の切り通しと共に鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉防衛を担う戦略上の重要拠点でもあったの。亀ヶ谷坂の名称由来については鶴岡八幡宮の鶴に掛けて亀としたものだとか、当時は亀も転がり落ちるほどの急坂だったことから名付けられたものとも云われているの。

切り通しとは山の尾根部分を掘り下げて通行可能としたもので、今では舗装もされて傾斜も緩く、道幅も広くとられて比較的歩きやすい道となっていますが、造られた当時は置き石や横矢を射掛ける櫓などがそこかしこに設けられ、馬一頭が辛うじて通れるような細い道だったのでしょうね。卒業旅行でしょうか、中学生の一団が駆け下りて行きましたが、新田義貞の鎌倉攻めの際には義貞の軍勢も投石や弓矢が降り注ぐ中を駆け抜けているの。

延寿堂地蔵尊 坂道の途中には延寿堂地蔵尊が岩蔭に隠れるようにして祀られていました。何か云われがありそうな地蔵尊ですが、これと云った案内も無く、詳細は不明なの。来る途中の岩肌にも小さな六地蔵が彫られていましたが、鎌倉への出入口でもあるこの道は異界に通じる道でもあり、道行く人々は地蔵尊に手を合わせ、旅の安全を祈願していたのでしょうね。当時の旅は今と違い、旅先で病いに伏せて命を失うことも多く、まさに命懸け。村境を越えると云うことは、異界への旅立ちでもあったの。

3. 薬王寺 やくおうじ

薬王寺門前 亀ヶ谷坂を下ると沿道には閑静な住宅街が続きますが、庭先に咲く草花を眺めながら歩くとやがて右手に薬王寺への参道が見えて来るの。現在は大乗山薬王寺を正式な山号寺号とする日蓮宗寺院ですが、嘗てこの地には夜光山梅嶺寺(梅嶺山夜光寺とも)と云う真言宗寺院が建てられていたと伝え、永仁元年(1293)に逗留した日蓮宗の日像上人が、当時の住持と宗教論をめぐり白熱の討議を重ね、論破された住持は日蓮宗に改宗したと云われているの。一説(新編鎌倉志)には不受不施派の僧侶が創建するも、江戸幕府の弾圧を恐れ、薬王寺に改めたとも云われているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

桜 桜 桜 やまもも

不受不施とは聞き慣れないことばかも知れませんが、「法華経に帰依せざる輩から施しを受ける積もりもねえし供養もしてやらん」と云うことなの。その起こりは文禄4年(1595)の方広寺大仏供養に始まるとされ、豊臣秀吉は各宗派から出仕僧を募り、千僧会を開こうとしたの。殆どの宗派は参加を表明したのですが、日蓮宗の日奥上人だけは、「法華経の信心もしてねえヤツから参加を求められたくもねえし、褒美も欲しくはねえ」と拒絶。おまけにその秀吉には、「大仏供養などやめちめえ」と書状を送りつけて諫めているの。信心もせん輩が大仏供養とは聞いて呆れるぜ−と云ったところね。天下人の秀吉を非難するのですから上人の心臓は並外れて強かったのでしょうね。ですが、寺の他の者に危害が及ぶことを畏れた上人は一人寺を離れると流浪の旅に出たの。

ところが、行く先々で上人がその精神を説くと次第に賛同者も増えてくるの。そうなると受施容認派との対立も深まり、遂にはその訴えから幕府に捕えられて流罪にされてしまうの。一時は赦されるのですが再び流罪。と云ってもその時既に上人は入寂していて、何とその遺骨を流罪にしたの。日蓮宗の宗祖・日蓮上人が殉教の使徒となり時代を駆け抜けたのなら、日奥上人もまた然り。精神甚だ脆弱にして不信心なξ^_^ξには驚嘆に値するパワーの持ち主達ね。

主義主張の如何は別にして、歴史上には強者がいるのですね。上人亡き後もその信仰は広く浸透し、江戸幕府は不受不施派の寺院のみならず、その信者達にも徹底的な弾圧を加えるようになるの。隠れキリシタン同様、不受不施派は表向きの改宗をすると夜陰に乗じて密かに土蔵などに集まり、その法話を聞いたと云われているの。その後も全国規模の検挙が幾度となく行われ、江戸幕府が滅んだ後の明治3年(1870)まで弾圧の嵐は吹き荒れたと伝えられているの。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ゴメンナサイ。

寺伝では徳川家との繋がりも深く、寺紋にも三葉葵を用いるほどで、庶民の埋葬など論外の格式高い寺院だったと伝えるの。そうなると【鎌倉志】の記述は何なのよお〜、それとも弾圧に耐えかねて不受不施派から退転してしまったのかしら?などの疑問が湧き起りますが、それはさて置き、明治時代には後盾を失い、廃仏毀釈のうねりを受けて荒廃し、無住の時代が50年余り続いたと伝えるの。その後、大正3年(1914)に日振上人が復興に着手、歴代住持の努力を経て現在に到るの。

境内右手には徳川忠長の供養塔が建てられているの。忠長は徳川幕府第三代将軍・家光の弟で駿府城主となるのですが、粗暴な性格から家臣を手討ちにするなど普段から素行が絶えず、家光から諫められても改心せず不興を買うの。やがて御政道に傷がつくとばかりに父・秀忠からは甲斐国への蟄居を命ぜられ、最期は28歳の若さで高崎城に自刃して果てるの。お話しが前後してしまいますが、忠長は兄・家光の将軍就任時には父・秀忠から「家光は既に天下人。気安く兄貴などと呼ぶんじゃねえ!お前はもう弟ではなく家臣なのだ!」と諫められているの。

忠長は幼少時には利発だったと伝え、周囲からは将来はいずれ将軍の座に就くものとも思われていたようで、本人もその積もりだったのでしょうね。てやんでえ〜、兄貴じゃ無くてこのオレが将軍になるはずだったのによお〜、クソ面白しくもねえ!だったら好き勝手に生きてやらあ〜 と自暴自棄になっていたのかも知れないわね。

将来を期待された忠長でしたが、その蔭で疎まれていたのが嫡男の家光(幼名・竹千代)なの。その家光の乳母を務めていたのがお福こと、後の春日局なの。忠長が世継候補として重んじられるようになると、お福は家康の力を借りて家光を世継ぎにしようと駿府城に向かうの。最初は取り立てて口を挟む素振りも見せなかった家康ですが、後に江戸城を訪ねて家光を前に「元服した後は西の丸へ移る日も近いであろう」と暗に世継ぎとして認めたの。家光が将軍になれたのもお福の働きがあればこそ。その恩に報いるために将軍の座に就いた家光は最大限にお福を厚遇したの。春日局と聞くと陰湿極まりない大奥のイメージを想像してしまいますが、その頃のお福は乳母として全身全霊を傾けて家光を守ろうとしていたのでしょうね。

供養塔は正室・松孝院が忠長の追善供養のために建てたもので、その際に広大な土地の寄進と多額の寄附をしているの。それを元に、嘗ては五重塔を有する七堂伽藍が建てられていたのですが、亨保5年(1720)の大火でその堂宇も悉く灰塵に帰したと伝えるの。松孝院は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の娘ですが、素行に奔る忠長も松孝院には殊の外優しかったのかも知れないわね。そうでなければそんな豪勢な追善供養などして貰えないはずだもの。あなたのところは大丈夫?(^^;

小堂 境内 石仏

4. 岩船地蔵堂 いわふねじぞうどう

薬王寺から30m程歩くとあるのがこの岩船地蔵堂なの。現在は 海蔵寺 の管理下にあり、以前には古い小堂が鄙びた風情を醸し出していたのですが、さすがに老朽化して、平成13年(2001)に再建されたの。地蔵堂は頼朝の長女・大姫を供養するために建てられたもので、堂内には大姫の守り本尊と伝えられる地蔵菩薩像が安置されているのですが、岩船の名はその像が舟形の光背を持つ石造地蔵菩薩像であることに由来するの。その大姫には幼くして許婚を父親(頼朝)に殺され悲嘆に暮れる中、病いを得て夭折してしまった悲恋物語が伝えられているの。幼な心に灯った思慕の念は、やがてその命と共に露となり、今はこの地蔵堂に眠っているの。

頼朝が挙兵すると各地で平氏追討の動きが高まるのですが、覇権を睨み、反平氏の陣営内にも頼朝に反目する者が現れたの。甲斐源氏の木曽義仲もその一人で、その義仲の元へ、同じく頼朝に敵対して敗れた頼朝の叔父・源義広が逃げ込むの。本来ならこの際にとばかりに義広、義仲共々討ち滅ぼされるところなのですが、義仲が嫡男・義高を大姫の許婚として鎌倉に送ることを申し入れ、和議が成立したの。その時義高は若干11歳、大姫は未だ6歳と云う若さで、まさに政略結婚だったわけ。と云うよりも、義高は体のいい人質ね。

上段では頼朝を中心にして木曽義仲を頼朝に反目する者と紹介しましたが、当時は甲斐源氏や信濃源氏などの分流も台頭する群雄割拠状態。井沢元彦氏の言をお借りすれば「後世の人間は歴史を知っているからそう云う表現をする。それは歴史の誤認である」ですね。

そうして大人たちの思惑をよそに、義高と大姫は許婚同志と云うよりも兄、妹のように仲睦まじく接していたようで、やがて大姫の幼な心に芽生えた義高への思慕の念は初恋のそれだったのかも知れないわね。ところが、寿永3年(1184)、頼朝は弟の範頼(のりより)と義経に命じて義仲を討ち取ってしまうの。それを知った義高は身の危険を悟り、密かに鎌倉から抜け出そうとするのですが、非情にも頼朝は追手を差し向けて殺してしまうの。我が身を顧みて、義高を生かしておけばいずれ己が馘を狙うとも限らぬと考えたの。ちょっと長くて恐縮ですが、【吾妻鏡】の元暦元年(1184)4/21の条には義高が鎌倉を抜け出す時の様子が描かれていますので紹介してみますね。ここでは志水の冠者が木曽義高を指し、武衛とは頼朝のことなの。

女房等此の事を伺い聞き 密々姫公の御方に告げ申す
仍って志水の冠者計略を廻らし 今曉遁れ去り給ふ
此の間 女房の姿を假り 姫君の御方の女房 之を圍みて郭内を出しをはんぬ
馬を他所に隱し置きて之に乘らしむ 人をして聞かしめざらんが爲 綿を以て蹄を裹むと
而して海野小太郎幸氏は志水と同年なり 日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し
仍って今之に相替わり 彼の帳臺に入り 宿衣の下に臥して髻を出ず
日闌なるの後 志水の常の居所に出で 日來の形勢を改めず 獨り雙六を打つ
志水雙六の勝負を好み 朝暮に之を翫ぶ 幸氏必ず其の合手たり
然る間 殿中の男女に至るまで 只今に坐せしめ給うの思いを成すの處
晩に及びて縡露顯す 武衞太だ忿怒し給ひ 則ち幸氏を召禁めらる
また堀籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わして
討ち止む可きの由を仰せらると 姫公周章し魂を鎖さしめ給ふ

義高の殺害計画を知った大姫の側近達は義高を女装させ、廻りを取り囲むようにして屋敷外に連れだすと、隠していた馬に乗せたと云うの。その馬も蹄を綿で包む念の入れよう。一方、屋敷内では双六をするなどして義高から片時も離れずにいた海野小太郎幸氏と云う少年が義高の身代わりを演じ、何事も無かったように振る舞っているの。さすがに夕方になると事の次第が露顕して、それを知った頼朝は激昂。小太郎を責めたて、直ちに堀親家に義高殺害を命じるの。それを伝え聞いた大姫は狼狽のあまり心を頑なに閉ざしてしまったと云うの。

義高の遁走ですが、大姫の想いに憐憫した政子の指示に依るものとする見方があるの。確かに、幾ら大姫の近侍だからと云って、頼朝の意に反することを勝手に出来るはずも無く、政子の温情が働いていたのでしょうね。そこには頼朝の妻であり、大姫の母親でもある政子が、二人の間で苦悩する様子も垣間見え、生きてさえいれば再び相まみえさせることも出来よう−との配慮があったのかも知れないわね。けれど、政子のそんな願いも虚しく、事態は最悪のケースを迎えてしまうの。義高追討の命が下った3日後のこと。堀親家の郎党・籐内光澄が帰任して義高の殺害を報告するの。

事は口外無用のはずでしたが大姫の耳にも届き、大姫は食事も喉を通らなくなり、悲嘆に暮れてしまうの。それを傍らで見守る政子も同じように愁嘆。その一方で、それまで義高を担いでいた残党が結集して謀叛を起こすとの風評を伝え聞いた頼朝は、和田義盛や比企能員らに残党征伐を命ずるの。頼朝にすれば大姫の悲しみなど一時的なもので、この先何とでもなろうと考えていたのでしょうね。そんな頼朝の思いとは裏腹に、大姫は日増しに憔悴し、病床に伏すようになってしまうの。政子も頼朝の義高殺害をかなり責めたてたようで、大姫のところへ弁明に訪れた頼朝を追い返しているの。その剣幕に驚いたのか、頼朝は義高を殺害した籐内光澄を誅殺してしまうの。お前が好きだった義高を討ったとんでもねえヤツはパパがちゃんと成敗したから機嫌を直しておくれ−と云うわけですが、梟首された光澄の方はたまらないわよね。殺せと云われて殺したら今度は、誰が殺せと云った?このたわけめが!てめえが義高を殺してしまったから俺の愛娘は病気になってしまったじゃねえか。お前には死んで詫びを入れて貰う!では光澄が余りにも可哀想よね。

その後も勝長寿院(現在は廃寺)に長期静養するなどしますが、大姫の病状は回復しなかったの。精神的なショックから立ち直れず、大姫は鬱病になってしまったみたい。そんな中で頼朝は新郎となる相手が出来れば大姫の鬱病も直るだろうと政子の同意も得て、甥の一条高能に嫁がせようとするのですが、それを聞いた大姫は「然る如きの儀に及ばば身を深淵に沈むべき」と嫌悪感を露にするの。しぶしぶ引き下がる頼朝ですが、その内今度は後鳥羽天皇に嫁がせるべく画策するの。高能に不服なら当代一の御方である後鳥羽天皇ならどうだ、不服あるまい。それに大姫が入内すれば源氏も安泰となろう−と云うわけよね。

そうして頼朝の思惑は功するかに見えたのですが、建久8年(1197)、その大姫が20歳の若さで夭折してしまうの。義高殺害から13年後のことですが、幼な心に宿った義高の面影は終生大姫から離れることは無かったの。政子も大姫の死に際しては同じく死を覚悟したとも伝えられ、婚儀の最中に嫁ぎ先を逃げ出して風雨降り頻る中をひた走り、頼朝の待つ伊豆山権現に逃げ込んだと云う政子には幼な心に宿る恋心が切ない程分かっていたのでしょうね。

愛するひとと共に生きたい−と云う政子のDNAは大姫にも間違い無く引き継がれていたの。その大姫の亡骸が埋葬されたのがこの岩船地蔵堂の建つ地と伝えられているの。左掲は堂内に祀られる前立の木像地蔵菩薩立像ですが、元禄3年(1690)の堂宇再建時に奉納されたもの。大姫の守り本尊とされる地蔵菩薩像は背後に安置されていますので、残念ながら普段は見ることが出来ないの。ですが、この前立像を見やれば、守り本尊の地蔵菩薩に義高の面影を重ね合わせ、一人語りかける大姫の後姿も瞼に浮かんで来るの。

大姫の病死で立ち消えとなった入内ですが、頼朝は懲りずに今度は次女の乙姫を入内させようと画策するの。その仲介役を務めたのが大姫にふられた一条高能ですが、いざ上洛と云う段になり高能は急逝してしまい、翌年には頼朝自身が死去してしまうの。その後を継いで鎌倉幕府第二代将軍となった頼家も頼朝に引き続き乙姫の入内を画策するのですが、不幸にして乙姫もまた病いに倒れ14歳の若さで亡くなってしまうの。入内のことは別にして、女としてひとを愛することの歓びを知ることも無く一生を終えてしまうとは余りにも非情な運命よね。

【編集余話】:奥富敬之氏は著書『鎌倉歴史散歩』新人物往来社刊 の中で、岩船地蔵堂は実際には乙姫の供養のために建てられたもので、乙姫よりも大姫の方が広く知られていたことから誤伝されたものと考えられ、大姫の亡骸は勝長寿院に葬られたのでは?と推考されているの。詳しくは同書をお読み下さいね。

キメラ キメラ 踵を返したところで、次に扇の井を訪ねてみましたが、左掲はその途中の道すがら、民家の塀越しに見事な開花を見せていた桃(?)の花なの。キメラ状態の艶やかな花びらが春の陽射しを浴びて−ねえねえ、わたし綺麗?−と口々に叫んでいるようで。(^^;

5. 扇の井 おうぎのい

扇の井 扇の井 鎌倉十井の一つにも数えられる扇の井ですが、名の由来は扇ガ谷にあることから名付けられたとも、形が扇に似ていることから呼ばれるようになったとも云われているの。別伝では、義経追討の最中に吉野山中で捕えられ鎌倉に送られて来た義経の愛妾・静御前がこの井戸に舞扇を奉納したことに因むとの説もありますが、そこまでいくと些かこじつけの感がしないでもないわね。その静御前のことが気になる方は鶴岡八幡宮編の 舞殿 の項を御笑覧下さいね。

中を覗き込んで見ると珈琲色の水がたたえられていたの。嘗ては清らかな水が湧き出していたのでしょうが、谷奥(やつおく)も造成されて住宅地が広がるようになると水脈も枯渇してしまったのでしょうね。ところで、不思議なことに切り通し近くには必ずと云って良いほど井戸や湧き水が存在しますよね。庶民の生活を支えた湧水は、有事に備えて切り通しに潜む兵士達にとってもまさに命を支える水だったのでしょうね。

石仏 この扇の井ですが、実は個人宅の庭先にあり、おまけに手許にあるガイドブックの幾れもが実際とは異なる場所を指していて、地元の方に訊ね歩きながらようやく辿り着いたの。家人の方は快く見学させて下さいましたが、多くの方に訪ね来られても御迷惑かと思い、ここでは敢えてその場所を御案内しませんので御了承下さいね。ですが、分からないからと云って余りウロウロしないで下さいね。かく云うξ^_^ξは地元の方に白い目で見られてしまいました。そんな時は素直に道を訊ねてみましょうね。

家人の御好意に甘える訳ですから、見学を終えたら礼を伝えてからその場を後にしましょうね。呼鈴が鳴るので案内したところ、いつの間にかいなくなっていたと云うケースもあると聞きます。マナーと云うよりも義務だとξ^_^ξは思うのですが。

6. 相馬師常墓 そうまもろつねのはか

相馬師常墓 相馬師常墓 岩船地蔵堂横から続く疎水に沿って歩いていると、道奥に遺蹟らしきものが目に留まり、何かしら?と訪ねてみたのが、この相馬師常のお墓とされるやぐらなの。やぐらとは洞窟墳墓のことで、鎌倉幕府が開かれると狭い鎌倉の地に多くの権力者達が集まったことから、廟所に広い土地を使われては益々狭くなると危惧した幕府はお墓の造営を禁じたの。その代わりに造られたのがやぐらで、山に取り囲まれて平地の少ない鎌倉ならではの独特のものなの。古墳の玄室を思わせるような造りで、鎌倉にあるやぐらの数は小規模なものを含めると3,000基は下らないだろうと云われているの。このお墓の主となる相馬師常ですが、千葉常胤の次男で、治承4年(1180)の頼朝挙兵時には父の常胤と共に参陣しているの。

相馬師常墓 文治5年(1189)の奥州征伐にも付き従い戦功を揚げ、頼朝の上洛時には供奉するなど信任も厚かったみたいね。師常は相馬氏の氏祖ですが、千葉氏一族なのに相馬姓を名乗るのは下総国相馬御厨の地頭職に任命されたことに因むの。その師常も元久2年(1205)に67歳で亡くなりますが、その時の情景を【吾妻鏡】は「相馬次郎師常卒す 端坐合掌せしめ 更に動揺せず 決定往生敢えてその疑い無し これ念仏行者なり 結縁と称し 緇素挙げて之を集拝す」と記しているの。平均寿命が40歳程度と云われた当時のことですので、まさに大往生と云っても差し支えないわよね。

高僧の入定さながらの姿に、結縁を求めて多くの人々が参集したと云うのも凄いわよね。傍らに立てられていた案内板には師常やぐらの特色が記されていましたが、その中に出てくる龕(がん)と云うものが何なのか分からず、光量不足を承知でトライしてみたの。やぐら内には小さな宝篋印塔が建てられていますが、その背後に煉瓦のような石積があるのがお分かり頂けるかしら。それが龕と呼ばれるもので、岩壁や仏塔に仏像や宝物などを納めるために彫られた窪みのことを指し、ここではその龕に納められているのは師常の亡骸と云うことになるのかしら。

相馬師常墓を後に再び疎水沿いの道を鎌倉駅方面に歩きましたが、小さなスーパーと八百屋さんに挟まれた道に出るの。その道を辿ると次の目的地・浄光明寺があるのですが、その前に傍らの自販機で飲料水を買い求め小休止。御覧頂いている皆さんもここでティーブレイクなどして下さいね。書く方も大変だけど、読む方も大変でしょうから。(^^;

7. 浄光明寺 じょうこうみょうじ

参道 浄光明寺は建長3年(1251)に鎌倉幕府第6代執権・北条長時が真阿上人(真聖国師)を開山に迎えて創建したもので、一説には怪僧・文覚上人がこの地に草庵を結び、それを前身として再興したものとも云われているの。元々は浄土宗でしたが、後に後醍醐天皇から寺領の寄進を受けて勅願寺となり、多くの旧仏教系の高僧が住持を勤めたことから浄土・禅・天台・律の四宗兼学道場となったの。現在は泉谷山浄光明寺と号し、古義真言宗泉涌寺派の寺院。縁起では尊皇か謀叛かで揺れた足利尊氏が後醍醐天皇への恭順の意を示すために蟄居したと伝え、後に南北朝に分かれて戦う尊氏・直義兄弟もその頃は未だ互いを思いやり、補完し合う間柄だったの。

文覚上人のことが気になる方は材木座編の 補陀洛寺 の項を御笑覧下さいね。
出家の理由は何と人妻への横恋慕 (^^; で、歴史が苦手なあなたでも思わず好きになる・・・かも。

鎌倉幕府が滅ぼされた2年後(1335)のこと。難を逃れて信濃国の諏訪頼重の許へ身を寄せていた北条高時の遺児・時行は、頼重に推されるようにして幕府再興を掲げ挙兵するの。一時は直義の軍勢を破り、鎌倉を占拠するのですが、事態を知った尊氏は後醍醐天皇の勅許を得ずに直義救援のために軍勢を引き連れて鎌倉に下向してくるの。そうして時行は尊氏の軍勢の前に敢えなく敗退してしまうの。〔 中先代の乱 〕 But それを知った後醍醐天皇は、尊氏のどアホめが!おれの許しも得ずに勝手に軍事行動を起こしやがって。あの野郎、おれに悉く楯突く気だな!と、もうカンカン。

と云うのも、当初、後醍醐天皇は皇子の護良親王を征夷大将軍に任ずるのですが、その護良親王は尊氏と対立。尊氏からは「てめえ、誰のお蔭で天皇に返り咲くことが出来たと思ってんだ。おれと護良親王のどっちを取るんだ!」と脅迫され、止むなく護良親王を鎌倉に左遷させられるの。そんなこともあって、後醍醐天皇にしてみれば尊氏の存在は鬱陶しい限りですが、功労者には違い無く、「尊氏!直ちに上洛して申し開きせんかあ!」と再三の警告を発するの。ところが、尊氏はそれに応ずる気配も無く、痺れを切らせた後醍醐天皇は遂に新田義貞に尊氏の追討を命ずるの。

後醍醐天皇にすれば、やっと武士から政治の実権を取り戻したのに、「尊氏を野放しのままでは後に続くアホな連中が出て来るかも知れん。この際イテコマシたろうじゃねえか!」と云うわけ。尊氏にしても確信犯でしたが、乱の平定後は尊皇か謀叛かと大分揺れていたみたいね。一度は上洛の意志を固めるのですが、直義に引き留められたとも云われているの。苦渋の選択を迫られる内に時機を逸してしまい、悩んだ挙げ句に尊氏は恭順の意を示すために髻を切り、この浄光明寺に蟄居したと云われているの。けれど弟・直義には尊氏の優柔不断さが何とも歯痒かったみたいね。

その尊氏に「兄者!聞くところに依れば後醍醐天皇は出家すと雖も兄者を討つべしとほざいている由。最早これ以上の猶予は無用!」と、重い腰を上げさせたの。その直義が義貞の軍勢に敗れると尊氏も遂に出陣。義貞軍を破るとその勢いで京になだれこむの。しかしまあ面白い取り合わせの二人よね。口が達者な割りには戦さにはめっぽう弱い直義と、優柔不断な割りにはひとたび出陣すれば向かうところ敵無しの感がある尊氏。後に互いの利権や思惑から南北朝に分かれて刃を交わすことになりますが、なまじ仲違いなどしなければ歴史も変わっていたかも知れないわね。

鐘楼 前置きが大分長くなりましたが、足利尊氏が蟄居した縁から浄光明寺は尊氏や直義の帰依するところとなり、寺領や仏舎利の寄進を受けて寺勢を興隆、室町時代には鎌倉公方の祈願所となり、盛時には塔頭9院を数える程になるの。ですが、足利氏の後盾を失うと次第に衰微し、途中、二度の再興を経るも、数度の災禍に依り堂宇の殆どを失ったと伝えるの。

境内 境内 境内 境内

境内中央の奥に続く石段を登ると柏槇と槙の大木に護られるようにして阿弥陀堂が建てられているの。その槙も創建当時に植栽されたものと云われ、推定樹齢は何と750年!で、鎌倉市の天然記念物にも指定されているの。建物自体は二階堂の地に源頼朝が造営した永福寺(ようふくじ=現在は廃寺)から移築されたものとも伝えられ、堂内には過去・現在・未来を表す阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒菩薩の三世仏が安置されているの。その阿弥陀堂の右手の岩肌にはやぐらが並びますが、中程にあるのが鶴岡八幡宮の神主を務めた大伴家のお墓なの。

頼朝の招きを受けて鶴岡八幡宮の初代神主となったのが京都出身の大伴清元と云う人で、文治2年(1186)とも建久2年(1191)のこととも云われ、その後、大伴家は25代まで宮司を務めているの。その大伴家も明治4年(1871)の神仏分離令発布を受けて廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると神主を辞めてしまったの。墓所には第16代の好時から第23代清綱までの神主と親類縁者らの墓塔が並びますが、珍しいのは笏型墓碑と呼ばれる3基の墓塔で、戒名ならぬ神名を刻み、裾には鳥居が彫られているの。

大伴家墓塔 奇異に思われるかも知れませんが、嘗ての鶴岡八幡宮は神社と寺院の習合状態で八幡宮寺と呼ばれていたの。八幡神が八幡菩薩として彫像されたのなら同じく墓石もと云うところね。笏とは儀式や公式行事の際の束帯着用時に持つ一尺余り(≒32cm)の細長い板のことで、元々は式の次第などを書いた紙片を裏に貼り、備忘録としていたのですが、後に社会的な地位を示すものとして儀礼的なものになったの。本来は「こつ」が正しい訓み方なのですが、その音が骨に通じ、「それじゃあ縁起が良くねえ」と、笏の長さを表す尺の音を借りて「しゃく」としたの。

阿弥陀堂の左手にある収蔵庫には国の重要文化財に指定される阿弥陀三尊像を初め、矢拾地蔵の異名を持つ地蔵菩薩像が安置されているの。阿弥陀三尊像は中央に阿弥陀如来を配し、左右に勢至菩薩と観音菩薩が脇侍するの。像は鎌倉時代後期の正安元年(1299)頃の造立と云われ、とりわけ本尊の阿弥陀如来像には当時の鎌倉仏像彫刻独特の土紋技法を採り入れて刺繍のような流麗な紋様が施されているの。残念ながら撮影禁止ですので紹介が出来ないの。気になる方は御自身の眼でお確かめ下さいね。入館料:¥200

Harumi's Home Page 観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

矢拾地蔵は足利直義の守り本尊とも伝えられ、直義が戦場で矢を射尽くして困窮していると、小僧が現れて拾い集めた矢を差し出して助けたの。そのお蔭で戦に勝てた直義は屋敷に戻ると日頃信仰していた守り本尊の地蔵菩薩に感謝するのですが、その地蔵菩薩の手には弓矢が握られていたと云うの。戦場に現れた小僧はその地蔵菩薩の化身だったと云うわけ。拝観する機会がありましたら地蔵菩薩が手にする錫杖の根元に御注目下さいね。弓矢の先のように鏃(やじり)が象られているの。

収蔵庫では拝観の日時や時間が細かく決められているの。
訪ねてみたら閉まっていた−なんてことの無いように気をつけてお出掛け下さいね。
拝観日:木・土日・祝日(但し8月は休止) 拝観時間:10:00-12:00 & 13:00-16:00

石仏

伽藍屋根 石段

収蔵庫背後に続く岩肌には五輪塔や石仏が並びますが、遙かなる時を経てまさに−諸行無常の響きあり−。最奥部からは右手に続く細い石段を登りますが、雨上がりの日などは足許に気をつけて下さいね。その石段を上るとちょっとした広場に出ますが、突き当たりのやぐら内に網引地蔵と呼ばれる石造りの地蔵菩薩像が安置されているの。何でも、由比ヶ浜の漁師の網に掛り、引き揚げられたことから名付けられたそうですが、まさかお地蔵さんが網に掛かるなど思ってもいなかったでしょうから、漁師は鯨でも掛かったかと喜んだでしょうねえ。

ですが、引き揚げてみればそこには地蔵菩薩の御尊顔が。驚いた漁師は地蔵菩薩に平身低頭して艫を漕ぎ出すと一目散に由比ヶ浜を目指したのでしょうね。報せを受けた鎌倉の人々は、海中から現れたと云う地蔵菩薩を一目見ようと、浜には黒山の人だかりが出来たのかも知れないわね。背中には正和2年(1313)の銘が刻まれると聞きますが、鎌倉に運ばれる途中で船が座礁するなどして海中に沈んでいたのかしら?それにしてもかなりの重量に見受けられ、とても漁師一人の力で引き揚げられたとは思えないのですが、どうなのかしら。エッ?地蔵菩薩が力を貸した?(^^;

石段 網引地蔵が祀られるやぐら左手からは再び石段が続きますが、その先には藤原定家の孫で冷泉家の始祖でもある冷泉為相のお墓が建てられているの。為相は父・為家の死後、異母兄の為氏と所領の播磨国(現在の兵庫県)細川荘をめぐり相続争いとなり、訴訟のために鎌倉に下向して来た母の阿仏尼を慕い、同じく東下して来たの。初めの頃はその職掌ゆえに鎌倉と京都を行き来する為相でしたが、判決を得た後に定住するようになったの。

冷泉為相墓 歌道の名門とは云え、それを支える経済的な基盤を失っては生きては行けず、阿仏尼は朝廷を頼るなどしますが埒が空かず、時の最高権力でもある鎌倉幕府を頼り、60歳を前にして鎌倉に下向して来たの。その時の道中の様子や鎌倉滞在期間中の出来事などを和歌を交えて心情豊かに記述したのが【十六夜日記】なの。阿仏尼は都に残した子供達に幾度となく文を認めていますが、書かれていた内容を読んだ為相には母・阿仏尼のことが心配で心配でしょうがなかったのでしょうね。その阿仏尼のことについては後程紹介しますのでお楽しみにね。(^^;

当時は元寇来襲と云う未曾有の事態から幕府もその対応に忙殺され、阿仏尼の訴訟どころではなかったの。結局、阿仏尼は訴訟の判決をみることも無く、4年間の滞在を経て弘安6年(1283)にこの世を去っているの。後に勝訴の判決が下されるのは阿仏尼が死去した6年後のこと。為相は所領や定家旧居、歌花伝などを引き継ぐと冷泉家を起こしたの。滞在期間が長かったことから多くの知己を得て鎌倉歌壇に活躍し、【藤谷和歌集】などを編んでいますが、歌集の名は為相が浄光明寺北西の藤ガ谷に住んだことから藤谷黄門とも呼ばれたことに由来するの。

供養塔 ところで、黄門さまと云えば水戸光國ですが、黄門とは中納言の中国風の呼び名なの。為相の墓塔である宝篋印塔を取り囲む玉垣は、その水戸光國がこの地を訪ねた際に寄進したものと云われ、水戸の黄門さまが藤谷の黄門さまの遺徳を慕び奉納したと云うわけ。後方の山中には大きな岩蔭に無数の五輪塔が捨て置かれたように無造作に建てられていますが、家人達のものなのでしょうか。花を手向けられた様子も無く、ちょっと寂しい風情を漂わせているの。

8. 泉の井 いずみのい

浄光明寺を後にして更に谷奥(やつおく)に向かうとこの泉の井が見えてくるの。鎌倉十井の一つに数えられ、嘗ては綺麗な清水が湧き出していたと伝えるの。これと云った逸話も無く、簡素な佇まいですが、鎌倉十井の中では当初の原型を留めたものとされているの。この辺りを泉ガ谷と呼ぶのはこの泉の井に由来するの。

9. 妙伝寺 みょうでんじ

参道 本堂 石仏 やぐら

泉の井を過ぎて、鈴木造園の角を左折して木立ちの中に続く小さな石段を上るとこの妙伝寺の本堂が建てられているの。元々は東京は文京区白山にあったものが道路拡張工事に伴い新天地を求め、昭和49年(1974)にこの地に移転した来たものと聞きますが、何でまた鎌倉に?縁起など詳細は不明ですが、境内の右手には大きなやぐらがあり、内部には石仏が並び建つの。嘗てこの泉ガ谷には忍性上人が開山したと云われる多宝寺(現在は廃寺)があり、極楽寺や称名寺と共に律宗系の拠点寺院として隆盛したと伝えられることから、やぐらはその時に造られたものかも知れないわね。

10. 扇谷上杉管領屋敷跡 おうぎがやつうえすぎかんれいやしきあと

扇谷上杉管領屋敷跡 寿福寺踏切の少し手前には桜の木に寄り添うようにして史蹟碑が建てられ、嘗てこの地に上杉氏が務めた管領屋敷が建てられていたと伝えるの。上杉氏の祖とされる上杉重房は元々は藤原氏の分流で、建長4年(1252)、鎌倉幕府第6代将軍として東下する宗尊親王に従い下向して来たの。重房は親王の近臣として武家となり、丹波国何鹿郡(現在の京都府綾部市)上杉荘を与えられたことから上杉氏を名乗るようになったの。後に重房の孫・清子が足利貞氏の側室となり、尊氏・直義を生むと上杉氏は足利家の外戚として重用されるようになるの。

南北朝時代の貞和5年・正平4年(1349)には東国を管掌する鎌倉府が設置されますが、最初に関東管領として下向して来たのが足利尊氏の嫡子・基氏で、補佐役の執事に任じたのが上杉憲顕と高師冬なの。混沌とした南北朝時代のことで、簡単には説明出来ないのですが、紆余曲折を経て、執事役は上杉氏の世襲職となるの。ややこしいことに、足利基氏の孫・持氏の代になると関東管領も鎌倉公方と改名され、補佐役の執事も管領と名を変えたの。なので文献を見ても改名前と後の管領が入り乱れていてξ^_^ξの頭も混乱状態。ところでこの持氏ですが、大分血の気が多く大事件を起こしているの。気になる方は小町大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。

後に憲顕の子・憲方が鎌倉山ノ内に居館を構えたことから山内上杉氏を名乗るようになり、そこから更に分流する形で上杉顕定がこの地に住むと、扇谷上杉氏を名乗るようになったの。その扇谷上杉家の6代目・定正の家宰だったのが太田道灌と云うわけ。道奥の岩窟には御覧のような墓塔が並びますが、左側の卵塔には大僧都の文字が刻まれているの。管領屋敷と云っても寺院のそれに近いものだったのかしら、それともこれらの墓塔は嘗てこの辺りに寺院が建てられていてその時のものなのかしら?御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。

桜 桜 史蹟碑の隣には大きな桜が枝を広げていますが、花も見頃を迎えてその見事さに見上げていると、「ねえねえ〜上ばかり見てないで足許も見てよ。わたしもここでちゃんと咲いてるのよ〜」と、根元から声を掛けて来た (^^; のが右側の桜花。花は咲けども 観る人の 一人だに無きぞ悲しき−と云った風情は可憐にして清楚ね。

11. 阿仏尼の墓 あぶつにのはか

上杉管領屋敷跡の側にある寿福寺踏切を渡り、右折して横須賀線沿いを北鎌倉方面に歩きましたが、一度、英勝寺を通り過ぎて100m程足を伸ばすと左手に阿仏尼のお墓があるの。扇の井と同様、この阿仏尼のお墓のある位置を正確に示すガイドブックがなく、道から山中に分け入ったところを指しているのは困りものね。鎌倉駅方面から訪ね来られる方は英勝寺を過ぎたら左手に注意して歩いて下さいね。道脇の草叢に覆われたやぐら内に墓塔が建てられているの。隣には稲荷社の緋い鳥居が建ちますのでそれを目印に訪ねてみて下さいね。

阿仏尼は【十六夜日記】の作者として知られていますが、その出自となると詳しいことが分からず謎なの。姉と妹がいたみたいですが、実父も実母も明らかでなく、父とされる平度繁にしても実際には養父なの。本名も不明で、阿仏の名は夫君・藤原為家の没後に出家してからの法名なの。なので、ここでは出家前のことでも阿仏尼の呼称を使用していますので御了承下さいね。

成長した阿仏尼はやがて後高倉法皇の皇女・安嘉門院の許へ出仕するの。それからどれ位してからのことかは不明ですが、阿仏尼はその出仕期間中にやんごとなきお方と大恋愛したみたいね。結局は失恋するのですが、その痛手から自暴自棄になり、山野を彷徨しているの。その時に尼寺に接して助けられたことから剃髪してもいるの。

その後、紆余曲折を経て奈良に移り住みますが、知人を介して再び出仕するの。その時朋輩にいたのが第一級の歌人として知られた藤原定家の次男・為家の娘であり、彼女を通して才覚を認められた阿仏尼はやがて為家の秘書兼助手となるの。そうなると男と女の関係になるにはそう時間が掛からず、出来ちゃった婚と云うところかしら。そうして定覚・為相・為守が生まれますが、定覚も本来なら為ナントカとなる筈で、僧籍にあることから為家と阿仏尼の当初のそれは秘めた禁断の恋だったのかも知れないわね。年齢にしても為家が50歳半ばなら阿仏尼も30歳を越えていたの。やっべえ〜出来ちゃったのかよお。認知なんか出来ねえぞ。そうだ、そうだ、寺に入れちまえ。(^^;

既に充分週刊誌的ですが、実は為家と結ばれる前に阿仏尼は一男一女をもうけているの。
【十六夜日記】の中でさりげな〜く告白しているだけですので、その経緯もお相手も不明ですが。

阿仏尼はやがて自らの才覚と当代一の歌道の大家である為家の権威を利用して歌壇に於ける地位を不動のものとしていくの。なんでえ、単に和歌を詠んだだけじゃねえか。それがどうしたってんだ? 何て思ったらいけないわ。当時は和歌の嗜みが出世にも繋がり、精通することで社会的な評価も得られたの。詞は言霊でもあり、神の依代としてその霊力に期待して国家安寧や病魔退散を祈願して詠むこともあり、恋愛や季節を謳うだけじゃ無かったの。年初に行われる宮中での歌会始などはその名残りなの。

その頃の為家と阿仏尼を譬えるなら華道の家元と云ったところかしら。家門の反映を願う阿仏尼は強引な態度を取るようになり、所領を巡っては存命中に為家に譲状を書き直させたとも云われているの。と云うのも、為家には先妻がいて、為氏という子供もいたの。為家としてはその為氏を継承者として考えていたみたいね。長男ですから当時としては当たり前なのですが、播磨国(現在の兵庫県)細川荘の譲状と共に、歌伝書や定家の直筆本などを為氏に与えているの。後に阿仏尼は為家と掛け合い取り返しますが、是非とも為相や為守に所領を継がせようとしたの。幾ら歌道の名門と云っても経済的な基盤を失っては生活出来ないもの。多少の強引さはあったのかもしれませんが、そこには子供達の将来を案ずる、母親としての阿仏尼の姿があったように思うの。

為家の死後、彼女は改めて出家して阿仏の法号を得ますが、事態は意外な展開になるの。為家の書いた譲状の内容に曖昧さがあったことから、為氏と阿仏尼の間で所領をめぐり、相続争いとなってしまうの。今も昔も良くある話しと云ってはそれまでですが、為家にすれば、「為氏を後継ぎにしてえが阿仏も怖え〜しなあ。ま、譲状はそこんとこ曖昧にしとこ」 (^^; と思ったのかしら。為氏にしても、「おれは本妻の子だあ〜。何で愛人の子にくれてやる必要がある!」と云ったところね。

諦らめるかと思いきや、阿仏尼はやがて闘争心を剥き出しにするの。ですが、頼りとする為家の亡き今となっては自らが先頭に立つしか無かったの。最初は朝廷へ調停を求めますが裁可を得られず、次に幕府の出先機関である六波羅探題に訴え出るの。ですが、ここでも埒があかぬと知った阿仏尼は、時の最高権力である鎌倉幕府への直訴を決意するの。そうして弘安2年(1279)、自ら鎌倉に下向するの。阿仏尼はその時既に60歳前後の高齢で、当時の感覚からすれば老女の域に達していた訳で、死を覚悟した上での旅立ちだったでしょうね。有り触れた云い方しか出来ませんが、まさに母は偉大なり。

その時の旅の様子を、都への慕情を絡めながら和歌を交えて記述したのが【十六夜日記】なの。実際には鎌倉到着後の滞在期間中に、書き留めておいたメモなどを元に、道中を思い出しながら書いたもののようね。その道中にしてもホントは14日間で、題名も後世に付与されたものなの。十六夜は「いざよう」の掛詞にもなっているの。
さてもなほ東の亀の鏡※に写さば曇らぬ影もや現はるると せめて思ひあまりて よろづのはばかりを忘れ 身をえうなきものになし果てて ゆくりもなく いさよふ月にさそはれいでなんとぞ思ひなりぬる ※鎌倉幕府の模範(=亀鑑)とすべき判断のこと

阿仏尼は鎌倉の月影の谷(つきかげのやつ)に居を構えますが、「浦近き山もとにて風いとあらし 山寺のかたはらなれば 長閑にすごくて 浪の音 松風たえず」の状態。現在の極楽寺南西、江ノ電車庫近くの踏切際に屋敷跡を示す史蹟碑が建ちますので、興味のある方はお出掛け下さいね。

そうして幕府に訴え出るのですが、当時は元寇来襲と云う未曾有の国難から幕府もその対応に忙殺され、阿仏尼の訴状は放って置かれたの。今はそれどころじゃねえんだよ、さっさと京へけえんな! と云うわけ。阿仏尼は八幡宮などにも献歌して裁可の行方に望みを繋ぎますが、その期待の中で病没してしまうの。鎌倉に下向してから既に4年と云う歳月が流れていたの。望みがかなわぬ内にこの世を去るとはその胸中を思うと余りにも辛いものがありますが、子息の為相が同じく下向していたのがせめてもの救いですね。老いた身で一人異郷の地に果てるのは哀しすぎますもの。

CoffeeBreak ここではそうであって欲しいと云う願いを込めて記述しています。実際に阿仏尼が為相に看取られてこの世を去ったのかどうかは不詳なの。と云うのも、為相はその職掌から在京の場合が多く、往来を繰り返し、定住するようになるのは阿仏尼の没後かなりの期間を経てからのことなの。判決にしても為相が勝訴を手にしたのは6年後のことよ。

墓塔には阿仏の銘が刻まれていますが、月影の谷に住んだと云う阿仏尼が、何故この地で眠るのかしら?【新編鎌倉志】は英勝寺の北に阿仏尼の卵塔があり、その地を俗に阿仏卵塔屋敷とも云うと紹介していますが、「長閑にすごくて 浪の音 松風たえず」の環境は老いた身には堪え、この地に移転して来たのかしら。嘗てこの道は幹線道路として沿道には商家が建ち並び、賑わいを見せていたとも伝えますので、阿仏尼はその賑わいの中に都のそれを思い出して慰めとしていたのかも知れないわね。墓塔にしても、現在は多層塔で、【鎌倉志】が記す卵塔とは異なり、墓塔を前にして謎は深まるばかり。

異説には京都の大通寺にも阿仏尼のお墓と伝えられる五輪塔があることから諦めて上洛したとする説もあるの。ですが「身をえうなきものになし果てて」下向して来た阿仏尼が、訴訟を取り上げて貰えないからといって帰京するとはとても思えず、やはり鎌倉の地で亡くなったとするのが妥当のように思えるのですが・・・

12. 智岸寺稲荷 ちがんじいなり

阿仏尼のお墓と隣り合わせで鎮座しているのがこの小さな稲荷社なの。いつ頃からこの地に祀られるようになったものなのかは不明ですが、嘗てはこの辺りも英勝寺の境内地だったと聞きますので、守護神として祀られたものかしら?傍らの由緒書きには佐助稲荷のそれを思わせる記述がありますが、分祠されて来たものか、それとも後世に付与されたものなのかは不詳なの。佐助稲荷の縁起譚が気になる方は源氏山公園編の 佐助稲荷 の項を御笑覧下さいね。

13. 英勝寺 えいしょうじ

東光山英勝寺は徳川家康の側室・お勝の方が家康の死後剃髪出家して尼僧となり、後に先祖伝来のこの土地を譲り受けて寛永13年(1636)に開基したの。お勝の方は太田道潅から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、お梶(於加知)と云う名だったのですが、家康の寵愛を受けて戦場にも連れて行かれたの。ところが行く先々で戦勝を得たことからお勝と呼ばれるようになったの。家康には勝利の女神だったわけね。寺号の英勝寺はそのお勝の法名・英勝院長誉清春に由来するの。

英勝尼は家康の菩提を弔いながら静かに暮らすはずでしたが、徳川幕府三代将軍・家光の信任を受けて水戸家初代・徳川頼房の養母となるの。その縁で頼房の娘・小良姫(さらひめ 法名=玉峯清因院)を開山とし、以来、歴代住持を水戸家の姫君を以て迎えたことから「水戸さまの尼寺」とも呼ばれるようになったの。黄門さまの名で知られる水戸光國も祠堂(英勝院の霊廟)を建て、完成時には訪ね来ていますが、水戸家の庇護を受けて盛時には水戸御殿と称されるほどの寺勢があったの。

英勝寺 水戸家所縁の寺として格式の高い寺院ですので、一般庶民の拝観は専らこちらの通用門脇の勝手口 (^^; からの入場なの。総門を潜り抜けて入ることが出来るのはどんなやんごとなき御方が来訪された時なのかしらと思いきや、今は英勝院の命日のみに開門されるのだとか。その英勝院は寛永19年(1642)8/23に65歳で入寂していますが、旧暦でしょうから新暦の現在ではいつになるのかしら?勝手口を抜けた右手に拝観受付があるの。拝観料:¥200

境内に建つ堂宇も関東大震災の際に庫裡などの一部は倒潰したものの、火災に合わずに現在に至ることから創建当時の建物が比較的多く残されているの。境内中央に建つ仏殿は寛永13年(1636)の創建と、江戸初期の建築様式を今に伝え、神奈川県の重要文化財にも指定されているの。

堂内には徳川幕府第三代将軍・家光が寄進したと伝える運慶作の阿弥陀三尊像が安置されていると聞きますが、覗き見た限りでは暗闇が広がるばかりで分かりませんでした。格式ある寺院ですので一般庶民にはその御尊顔も容易には拝ませては頂けないようね。(^^;

鐘楼 順路を辿るとこの鐘楼が見えて来ますが、袴腰付の楼閣様式で、こちらも江戸初期の建築様式を今に伝え、神奈川県の重要文化財に指定されているの。傍らの案内板に依ると、梵鐘には「寛永二十年五月吉日 法印道春撰 治工大河四郎左衛門吉忠」と記されることから、寛永20年(1643)の建立と知れるとしているの。関東大震災を経て一時は他寺に移されていたのですが、昭和32年(1957)に現在地に戻されてきたの。

梅 梅 鐘楼から程なくしてプレハブ小屋が建ちますが、嘗て山門が建てられていた場所で、建物は関東大震災の災禍を経て人手に渡り、その跡地だけが残されたの。最近、その山門の再建計画が持ち上がり、その工事が始められたみたいね。山門建立の暁にはこの梅も風情を添えてくれることでしょうね。

順路の最奥部には三霊社権現と書かれた札が立ち、大きな穴が岩肌に掘られていたの。覗いて見ると階段が設けられて洞内に下りられるようになっていたので、何があるのかしら?と気になり、下りてみたの。人一人がようやく通り抜けられるような細い洞窟ですが、中程には御覧のような小さな仏像が安置されていたの。三霊社権現とは聞いたことがありませんが、徳川家康・秀忠・家光の三代を指しているのかしら?それにしても地中に祀るとはユニークですが、三者は地湧菩薩と見做されたのかしら。

三霊社権現 三霊社権現 三霊社権現 太子堂

洞窟の右手には石段が設けられて太子堂の案内板が立ちますが、御覧のように建物は無く、灯籠に挟まれて小さな祠が建てられているのみなの。周囲の広さからすると嘗てはそれなりの堂宇が建てられていたのでしょうね。その名称からすると聖徳太子を祀るものかしら?聖徳太子は仏教を保護すると共に、仏像や寺院建築の職人達も厚遇したことから彼らの崇敬も集めるようになるのですが、どんな縁からここに祀られるようになったのかしら。

唐門 唐門 踵を返したところで仏殿まで戻り、左手に建つ祠堂に向かいましたが、その石段下に設けられているのがこの唐門なの。鐘楼と同じく、江戸初期の寛永20年(1643)頃の建立とされ、見事な透し彫りが両面に施されていますが、水戸家の威信を掛けて造営されたものなら、宮大工も技巧の限りを尽してことに当たったのでしょうね。

祠堂 祠堂は開山・英勝院の御霊屋ですが、残念ながら内部は非公開となっているの。ガラス越しに覗いてみたのですが、堂宇の中に極彩色の廟所がそのまま建てられると云う二重構造になっているの。建物は水戸光國が寄進したものと云われ、寛永20年(1643)頃の創建とされますが、極彩色の彩色が施されたのは後の元禄年間(1688-1703)のことと伝えられているの。ところで、この祠堂の背後はどうなっていると思います?そそり立つ岩盤には巨大な龕が掘られ、笠塔婆を脇侍して二基の石仏が並んでいるの。尼寺の細やかな雰囲気の境内にあってここだけが異次元空間のようね。

龕 金毘羅社 右手には金毘羅社も祀られ、不思議な空間が広がるの。一通りの見学を終えたところで次の目的地に向かいましたが、その前に紹介出来なかった景観を纏めて掲載してみますね。英勝寺では尼寺にふさわしく、季節毎に草木が花を咲かせ境内を彩るの。太田道潅の屋敷跡に建つ英勝寺ですので、境内にやまぶきの咲く頃に再び訪ねてみたいものですね。

桜 桜 桜 unknown

14. 巌窟不動 いわやふどう

巌窟不動 寿福寺門前の扇ガ谷踏切を渡り、鶴岡八幡宮方面に歩くとこの巌窟不動があるの。巌窟とあることから洞窟内に祀られる不動明王を想像して訪ねてみたのですが、小さなお堂に忿怒の形相をした不動明王が祀られているのみでした。巌窟不動そのものは頼朝の入部以前からあったものと伝えられますが、縁起などは不明なの。祀られる不動明王像は江戸時代の作と聞いていたのですが、見たところそれよりも大分新しいものに見受けられ、境内?にしても傍らの茶店の敷地に辛うじて建てられている感があり、お堂の直ぐ傍まで客席の椅子が迫るの。茶店で何かを頼まなければ拝観させて貰えないような居住いの悪さに慌てて踵を返しました。

巌窟不動

参道脇には5基の 庚申塔 が並び建てられていますが、嘗て巌窟不動の前に続く道は窟堂道と呼ばれ、鎌倉と六浦郷(現在の金沢八景)を結ぶ六浦道に繋がる古道でもあり、道行く人々は歩みを留めて庚申塔や巌窟不動に頭を垂れて旅の安全を祈願していたのでしょうね。今となっては道行く人達が訪ねるのは専ら茶店の方になってしまいましたね。

後で知ったことですが、この巌窟不動は不動茶屋の敷地内(私有地)に建てられていたの。
なのでお不動さまの方が居候なの。そうと知っていたらお不動さまの顔をたてて何か頼んだのに〜(^^;

15. 愛宕社 あたごしゃ

巌窟不動の近くには愛宕社が祀られると知り、訪ねてみようとしたのですが、山中に祀られることから崩落の危険があり、通行禁止になっていたの。愛宕社は京都の愛宕神社を勧請したもので、防火の神として崇められていたの。【吾妻鏡】にも多くの火災が発生したことが記されていますが、消防設備も何もなかった時代のことですから、人々は火災の被害にあわぬように神さまに祈っていたの。境内の隅に祀られることが多く、その存在は余り目に触れることはありませんが、鎌倉の寺社には愛宕社の他にも、同じく火防の秋葉社が祀られていることもあるの。

余談ですが、巌窟不動や愛宕社がある辺り一帯には、嘗て松源寺と云うお寺が建てられていたの。明治の初めに廃寺になってしまったそうですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で衰微してしまったのでしょうね(推論モード)。その松源寺には赤児のために飴を買い求めて現れた哀しい幽女の逸話が残されているの。

むか〜し巌窟不動のある辺りに松源寺と云う寺があってのお。門前は窟堂道と呼ばれて人通りも多かったそうじゃ。そんなことから寺の前には茶店があったんじゃが、ある日の夜のことじゃった。もう遅いで誰も来んじゃろうと店を閉めようとしておった時のことじゃ。白装束の女が現れて一文銭を差し出して飴を買い求めたそうじゃ。そん時は別に不思議にも思わなんだが、次の日も、また次の日も店を閉めようとする頃に現れると同じように飴を買い求めていったそうじゃ。

そんな日が続いたんじゃが6日目の夜のことじゃった。女は涙を溜めながら「一文銭もこれが最後となりました。もう買いに来ることもありますまい」と、そう云うたそうじゃ。そのことばが気になった店の主人は女の後をつけてみたそうじゃ。すると、寺の墓地まで来ると女の身体は傍らの墓石の中にすう〜っと消えていったそうじゃ。それには腰を抜かさんばかりに驚いた店の主人じゃったが、慌てて住職のところに駆け込んだそうじゃ。聞けば身籠りながら死んだ女を6日前に埋葬したそうな。

翌朝住職と店の主人がその墓を掘り返してみたところ、柩の中から赤児の泣き声が聞こえて来そうじゃ。柩に収める時に女の手に握らせておいた一文銭も皆消えておったそうな。女の霊は柩の中で産まれた我が子のために毎晩一文ずつ飴を買い求めておったんじゃのう。そうして不憫に思った住職は女の霊を懇ろに弔い、店の主人はその赤児を我が子として引き取ると大事に育てたと云うことじゃ。ほんにむか〜し昔のお話しじゃけんども。

怪談話とするには余りにも哀しい逸話ですよね。三途の川の渡賃も我が子の飴に替えて与える母の愛情はまさに広大無辺。松源寺の本尊は地蔵菩薩であったと聞きますので、渡賃無くしても地蔵菩薩に手を引かれて三途の川を渡り終え、無事成仏出来たことでしょうね。逸話は一部創作して紹介してみましたが、茶店の主人の末裔の方が今の不動茶屋を営むのかしら?

愛宕社の拝観を諦めたところで元来た道を戻りましたが、そのまま先に進むと鎌倉十井の一つに数えられる鉄の井(くろがねのい)を経て鶴岡八幡宮に辿り着くことが出来ますよ。

16. 鎌倉彫再興碑 かまくらぼりさいこうひ

寿福寺門前に戻る途中で門の屋根に咲く花を見つけ、その佇まいにどんな風流人の方が住んでいらっしゃるのかしら?と感心して眺めていたのですが、傍らには鎌倉彫再興碑が建てられていたの。邸は鎌倉仏師の流れをくむ後藤家宅で、明治維新後に一時廃れていた鎌倉彫を再興して、明治33年(1900)に博古堂を鶴岡八幡宮の三の鳥居脇の現在地に開業したの。

鎌倉彫再興碑 鎌倉に幕府が置かれると、為政者や御家人達の多くが寺院や持仏堂を創建したことから運慶を初め、多くの仏師も活躍するの。けれど、仏像彫刻には巧みな彼等でしたが、仏具となると中国などから堆朱(ついしゅ)や堆黒(ついこく)の彫漆製品を輸入していたの。堆朱は漆を幾重にも塗り重ねたものを彫刻するもので、手間が掛かる上に輸入品であることから極めて高価なものだったの。それを見ていた鎌倉仏師達は「全部が漆ってのはてえへんだ。だったら木に漆を塗ってそれを彫ればいいじゃん。それならおれ達にも出来るべえ」と始めたのが起源とされているの。仏具を中心に始まった鎌倉彫も、後に茶道が広まると茶器などの茶道具にも応用されたのですが、明治期に廃仏毀釈の嵐を受けて仏具の需要が無くなると一時衰退してしまうの。やがて鎌倉や由比ヶ浜が避暑地として脚光を浴びるようになると、別荘の調度品や生活用具などに活路を見出して復興したの。※堆朱:本来は朱色の漆を塗り重ねたもの。堆黒は黒漆を使用したものなの。

17. 勝の橋 かつのはし

嘗て寿福寺門前を流れる扇川に架けられていた橋は、英勝寺を開基したお勝の方が架設したことから「勝の橋」と呼ばれ、鎌倉十橋の一つにも数えられていたのですが、横須賀線の敷設に伴い、跡形も無くなってしまったの。当時は今小路と窟堂道を結ぶ交通の要所でしたが、今では寿福寺門前に建つ庚申塔群の背後に隠れて小さな石標が建つのみとなっているの。写真では大きそうに見えますが、実際には膝下程度の小さな石標なので、普通に歩いていたら先ず見つけられないと思うわ。ξ^_^ξも散々探し歩いてようやく見つけたの。加えて傍らを通り行く人達の冷たい視線。そんな石っころ撮ってどうすんの?(^^;

替わってこちらはξ^_^ξの好きな :庚申塔 ですが、この庚申塔を写していても通り過ぎる人達の−コイツ、墓石ばかり撮してどうする気なんだ?変なヤツ−とばかりの冷ややかな視線。墓石じゃあ無くて庚申塔なのよ〜と云ってみたところで、確かに興味の無い方には墓石にしか見えないかも知れないわね。

18. 寿福寺 じゅふくじ

総門 嘗ては鎌倉五山の第三位にも列せらた寿福寺は、北条政子が頼朝没後の正治2年(1200)に栄西上人を開山に迎えて創建した寺院。後に執権の北条時頼や時宗が新興仏教である禅宗に帰依して建長寺や円覚寺などを開基しますが、先鞭を付けたのは政子で、寿福寺は鎌倉最初の臨済宗寺院でもあるの。往時には七堂伽藍を備えた大寺で、塔頭も14院を数えたと伝えられているの。現在は亀谷山寿福金剛禅寺を正式な山号寺号とする、臨済宗建長寺派の寺院。

総門 嘗てこの辺りには頼朝の亡き父・義朝の居館が建てられていたことから所縁の地に館を構えようと、鎌倉入りした頼朝はその翌日にはこの地を訪ねているの。けれど其処には義朝の旧臣・岡崎義実が義朝の菩提を弔うために建てた草堂があったの。頼朝も亡き父を祀るとあっては打ち壊すことも出来ず、加えて屋敷を建てるには狭かったと見えて諦めているの。義実は岡崎姓を名乗ってはいますが、三浦一族の首領・三浦義明の弟で、義朝の旧臣であると共に、石橋山の合戦以来頼朝に従った功臣でもあるの。そんなことから草堂の建つ地は義実に安堵されるのですが、亀ガ谷郷の領有権そのものは頼朝にあったの。それが頼朝の死後に意外な展開になるの。

亀ガ谷郷を継いだ政子はこの地に寺院建立を思い立ち、義実から子息・義清に継承されていた草堂を取り上げてしまうの。そうは云っても、石橋山の合戦以来の功臣の直系ですので邪険に扱う訳にも行かず、本願主の地位を与えているの。三浦氏一族は頼朝の親衛隊とも呼ぶべき存在なのですから義清も政子の申し出を承諾するの。着工を前に現地に赴いた時には御馳走を用意して歓待もしているの。そうして名誉に甘んじた義清ですが、義実の方はどうだったかと云うと、政子を訪ねて窮状を訴えているの。【吾妻鏡】の正治2年(1200)3/14の条には

今日 岡崎の四郎義實入道鳩仗に懸かり 尼御台所の御亭に参ず
八旬の衰老迫り 病と愁いと計会し 余命旦暮に在り しかのみならず 事に於いて貧乏し 生涯憑む所無し
幾ばくならずの恩地は 義忠冠者が夢後を訪わんが為に仏寺に施入するの志有り
残る所僅かに錐を立つ 是更に子孫安堵の計に覃ぼし難きの由 泣く泣く愁へ申す
亭主殊に憐愍せしめ給ふ 石橋合戦の比 専ら大功を致す者なり
老後と雖も尤も賞翫せられ 早く一所を充て賜はり給ふ可きの由 羽林に申さるると

と記され、これには政子も憐憫の情を感ぜずにはいられず、石橋山の合戦以来の功臣なのだから速やかに新たな領地を安堵するように鎌倉幕府二代将軍・頼家に使いを走らせているの。【吾妻鏡】ではその後どうなったのかは記されていませんが、将軍と云っても頼家は政子の息子ですし、勲功故の安堵なのですから速やかに承諾が得られたのではないかしら。そんな義実もそれから3ヶ月後には亡くなっているの。齢89歳であったと伝えますが、平均寿命が40歳前後の当時としては大往生ですよね。所領の安堵を得て義実も大いに安心したのかも知れないわね。

開山の栄西上人は二度目の入宋で臨済禅を学び帰りますが、当時の都では比叡山を初めとする旧来仏教が盛んで迫害を受けるの。新天地を求めて鎌倉に下向して来た上人は政子の知るところとなり、頼朝の一周忌法要などの際には導師を務めるようになったの。そうして政子の帰依を受けた上人は寿福寺の開山に迎えられたのですが、新興仏教と云えども為政者の庇護無くしては隆盛しなかったのね。その栄西上人が禅宗と共に宋から伝えたのがお茶なの。お茶自体を伝えたのは伝教大師こと最澄上人ですが、栄西上人が伝えたのはお茶はお茶でも抹茶なの。

今でこそお茶と云えば煎茶ですが、当時は専ら抹茶のことなの。それも嗜好品と云うよりは養生や延命長寿を願い、仙薬として飲用されていたの。寺宝でもあり、国の重要文化財に指定される【喫茶養生記】はその能書き (^^; を記したもので、【吾妻鏡】の建保2年(1214)2/4の条には病に伏す実朝に茶を奨め、併せて写本(?)を献じたことが記されているの。

将軍家聊か御病悩 諸人奔走す 但し殊なる御事無し 是若しくは去る夜御淵酔の余気か
爰に葉上僧正御加持に候するの処 此の事を聞き 良薬と称して 本寺より茶一盞を召し進ず
而るに一巻の書を相副え 之を献ぜしむ 茶徳を誉むる所の書なり 将軍家御感悦に及ぶと云々

実朝が病に倒れた−と聞き、大騒ぎになったのですが、能く能く調べてみれば単なるお酒の飲み過ぎ (^^ゞ だったの。前日に伊豆山権現の参詣から帰着した実朝は「供奉の輩皆参候し 上下盃酌数巡に及ぶ 縡美を尽くし 終夜諸人淵酔」の状態。病と聞いて加持祈祷に駈け付けた上人もこれには拍子抜けしたことでしょうね。ですが、退席せずに茶の飲用を奨めるあたりは護持僧たる由縁でしょうね。抹茶が二日酔いに効能ありとは初めて知りましたが、あなたもお試しになってみては?

総門から続く石畳の参道は京都の二尊院を想わせますが、木漏れ日の降り注ぐ景観は二尊院のそれよりも風情ある佇まいを見せてくれました。その先にある三門を潜ると仏殿があるの。前庭には柏槇の古木が枝を広げますが、神奈川県の天然記念物にも指定されているの。仏殿内部に立ち入ることは出来ませんが、小窓が設けられていますので覗かせて (^^; 貰いましょうね。ですが、残念ながら堂内は撮影禁止なの。

仏殿 本尊は宝冠釈迦如来像で文殊菩薩・普賢菩薩が脇侍するの。釈迦如来像は室町時代に作られたもので、神奈川県の重要文化財にも指定されていますが、像の原型を粘土で造り、その上に布を漆で貼り重ねて乾燥後に粘土を抜き出すと云う珍しい脱乾漆技法で造立されているの。仏殿の左右の暗闇には巨大な仁王像がそれこそ仁王立ちしていますが、明治初めの廃仏毀釈以前までは鶴岡八幡宮の境内にあった仁王門の両袖に祀られていたものなの。その大きさは4m強あるそうで、仏殿の天井に届きそうなくらいよ。

仏殿 照明も無い堂内を小さな覗き窓から見るだけですので細かい表情までは読み取ることは出来ませんが、是非御覧になってみて下さいね。ところで散々紹介しておきながら気が引けるのですが、この仏殿は普段は非公開なの。総門から三門までの参道はいつでも歩くことが出来ますが、三門から先へは入れないの。公開されるのは4月に行われる「鎌倉まつり」の開催期間中だけですので、お出掛けの際には御注意下さいね。そうそう、次に御案内する政子・実朝やぐらの方は墓苑の最奥部にありますので普段でも見学可能よ。

石段 仏殿の拝観を終えたところで一度三門を出て、仏殿の左側に続く小路を谷奥(やつおく)に向かい歩いて下さいね。歴代住持の眠るやぐらがあり、その先の石段を登るとやぐら群が見えてくるのですが、現在は崩落の危険があり、通行不可となっていますので、墓苑の中を通る迂回路を上って下さいね。その墓苑には明治時代の外務大臣・陸奥宗光、俳人・高浜虚子、作家・大佛次郎などの著名人が眠るの。ちょっと変わったところでは鶴岡八幡宮の宮司さんも眠っているの。

実朝の墓 墓苑の最奥部の山肌には多くのやぐらが並ぶの。一時は草木生い茂り、朽ち行くままに諸行無常の響き有りの趣きでしたが、訪ねた時には周囲の草木もすっかり刈り取られ、石塔の主達も久し振りの日光浴をしていたの。右掲は実朝の墓と伝えられるやぐらですが、内壁には唐草紋様が印刻され、胡粉(貝殻の粉)が塗られていたことから唐草やぐらとか画窟(えかきやぐら)とも呼ばれていたと伝えるの。ですが、【吾妻鏡】では実朝の亡骸は 勝長寿院 に葬られたことになっていますので、やぐら内の五輪塔は供養塔なのでしょうね。その勝長寿院も廃寺となって久しい今となっては、どこに埋葬されたのかも分からないの。亡骸にしても公暁に討ち取られた馘は行方不明のまま見つからず、代わりに僅かに残された頭髪を添えて埋葬しているの。そんなことから実朝の首塚と云われるものが各地に残されているの。

政子の墓 実朝やぐらと隣り合わせにしてあるのが政子の墓と伝えられるやぐらですが、彼女の方も勝長寿院で葬儀が行われているの。頼朝は別格の扱いとしても、勝長寿院は父・義朝の改葬以来、一族の氏寺とも呼ぶべき存在ですから、実朝同様、政子も勝長寿院に葬られたのではないかしら。岩船地蔵堂で紹介した大姫も実は勝長寿院に眠ると云う説もあり、政子も勝長寿院に眠ると云う方が自然よね。じゃあ、この五輪塔は何なのよ〜と云うことになりますが、同じく供養塔なのでしょうね。


【編集余話】 寿福寺の建つ辺りには嘗て源義朝の屋敷があったと先程御案内しましたが、実はその前に平家方の平直方(なおつね)の屋敷があったの。鎌倉散策の案内書には頼朝の入部以前のことに触れたものが見受けられませんので、ちょっと紹介してみますね。ですが、話を進めるためには平家が東国にやってくる場面から始めなくてはならないの。なので、長くなってしまいますので暇潰しのときにでもお読み下さいね。

参道 鎌倉の地で武家政権を初めて樹立した頼朝が清和源氏なら、北条氏は元々桓武平氏の流れをくむ一族なの。平安時代の寛平2年(890)、平家の氏祖とされる平高望(たかもち)が5人の息子達を引き連れて上総介(かずさのすけ)として上総国(現在の千葉県中央部)に赴任するの。息子達もまた常陸国(茨城県)や下総国(千葉県北部)に根をおろして地方豪族になるの。次男の良兼は孫の代で断絶しちゃうけど、長男・国香からは北条・熊谷氏が、三男・良将からは相馬氏、四男・良文からは千葉・秩父(後に畠山・河越姓を派生)氏が、五男の良茂からは鎌倉(後に大庭・梶原姓を派生)・三浦(後に杉本・和田・朝比奈姓を派生)氏へと繋がっていくの。

※本当はもっと多くの家系が生れていますが、鎌倉歴史散策シリーズの頁に頻出する氏姓に留めましたので御了承下さいね。

当時は東国に限らず、国司は赴任地で盛んに開墾を行い私物化する一方、その地位を利用して租税免除を謀り私服を肥やしたの。当然分捕り合戦が起きるわよね。アイツんところの田圃は米がよう穫れるみたいじゃ。郎党もおらんし、刀を振り回して攻め込めば赤児の手を捻るようなもんじゃ−と云うわけよね。でも、折角開墾したのに分捕られては大変よね。当時は警察も裁判所もありませんから、皆んな武士団をつくるようになるの。力には力で対抗よね。そうして闘争がエスカレートするとその武士団も統合組織化されていくの。そんな中で起きたのが長元元年(1028)の平忠常(ただつね)の乱。忠常は平高望の五男・良文の孫にあたり、千葉氏の祖とされる人物ですが、安房国(千葉県南部)守を殺害して覇権を広めようとしたことから朝廷は平直方(なおつね)を追討使として派遣するの。その直方が忠常追討の前線基地として館を構えたのが現在の寿福寺が建つ地なの。

鐘楼 直方は平高望の嫡男・国香から数えて4代目。庶子家の忠常に嫡宗家の直方が追討にあたるという同族戦なの。嫡宗家と云うイメージからすると直方の方が強そうに感じられますが、実際はまるで逆だったの。上総・下総・安房国の国司を追い払い、房総半島を手中に収めた忠常には直方は敵ではなかったの。着任して2年を経ても忠常を追討出来ない直方は召喚され、追討使の職を解任されてしまうの。ところが、長元4年(1031)、新たに追討使に任じられた源頼信が東国に下向してくると忠常はあっさりと降伏してしまうの。頼信は清和源氏の棟梁ですが、上野国(群馬県)・常陸国(茨城県)の国司を歴任しているの。

何の木? 一説には忠常はその頃頼信の郎党として主従関係にあった(今昔物語集)ことから、親方に刃を向けるわけにはいくまいて−と矛先を収めたのかも知れませんね。(忠常降伏の背景には他にも諸説あり)。頼信に捕らえられた忠常は、京都への護送途中で美濃国(岐阜県)に病没してしまうの。忠常の嫡男・常将(つねまさ)は頼信の執り成しもあったのでしょうか、許されて房総に戻り、礎を固め、後に千葉氏を名乗るの。一方、追討使を罷免された直方は頼信の嫡男・頼義を娘婿に迎えているの。強い者と縁戚関係を結ぶのは世の常、人の常。そうして頼義に嫡男・義家が生れると直方は鎌倉の領地を委譲するの。鎌倉が源氏所縁の地となるのはこの時からね。

【左経記】には追討使の任にあったときの直方を「一塵を残さず収奪を重ねたり」とあり、忠常討伐よりも私腹を肥やすことに専念していた節もあることからかなりの領地があったのでしょうね。その直方の子孫は伊豆国田方郡北条に流れると土着して後に北条氏を名乗ることになるの。と云うことで、源義朝の館があったとされる地は、政子にしてみれば源家所縁と云うよりも北条氏所縁の地との認識だったのかも知れないわね。

19. 八坂神社 やさかじんじゃ

八坂神社 八坂神社は相馬大王とも呼ばれ、相馬師常墓のところで紹介した千葉常胤の次男・師常が建久3年(1192)、自邸に京都の八坂神社を勧請したことに始まるとされているの。ですが、祭神を素戔鳴尊・桓武天皇・葛原親王・高望王とすることから氏祖も合祀しているの。高望王とは平家の氏祖とされる平高望(たかもち)のことで、葛原親王は平氏の分流・梶原氏の氏祖。勿論、桓武天皇はそのルーツとも云うべき存在よね。尚、葛原親王の葛原は「かずらはら」と訓んで下さいね。葛原岡神社の鎮座する葛原ヶ岡は親王の名に由来しますが、「くずはら」に転訛するのは後のことなの。

元神輿碑 自邸に祀られた社も後に浄光明寺裏山の地や寿福寺本堂脇を経て現在地に遷座しているの。その時々で寺院の守護神として祀られたのかも知れませんが、明治初期の神仏分離令の発布を受けて独立すると、相馬大王も八坂大神と名を変えて、八坂神社として村社に列格されたの。本殿左手奥には御覧の元神輿之碑が建てられていましたが、嘗て八坂神社の神輿は何と!鉄で造られていたことから怪我をする担ぎ手が絶えず、木製の神輿に作り替えられたと云うので、その鉄製神輿の一部が埋設されているのかしら?その大きさは知る由もありませんが、さぞ重たかったことでしょうね。力自慢の若衆しか担ぎ手になれなかった?(^^;

20. 巽神社 たつみじんじゃ

巽神社の創建は何と延暦20年(801)のことで、蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂が葛原ヶ岡の地に勧請したのが始まりとされているの。その神威を得たものかしら、田村麻呂は翌年には胆沢城を、翌々年には志波城を築いて北上川中流域まで北進鎮定しているの。永承4年(1049)には源頼義が社殿を修復したとも伝えられ、いつのことかは不明ですが、現在地に遷宮されて来たの。その位置が寿福寺の巽(東南)の方角に当たることから守護神として崇敬され、改称されたみたいね。一時は浄光明寺持ちとなり、明治6年(1873)に村社に列格されたと伝えるの。

祭神は奥津日子神(おきつひこのかみ)・奥津日女神(おきつひめのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)の三柱で、最初の二神は元々は在来の土俗信仰から生まれた神さまで、煮炊きをする竈(かまど)に宿るとされた精霊をルーツとするの。古来より焔々と燃え上がる火には穢れを祓い浄める力があると信じられていたこともあり、火防の神として、また食材を煮炊きする竈は日々の生活を支える象徴でもあることから家の中心として豊穣を齎し、家族の守護神として崇められるようになったの。

一方の火産霊神は【記紀】の中では火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の名で登場するの。伊邪那岐命と伊邪那美命が 「あなにやしえをとめを」 「あなにやしえをとこを」 と唱和して数多の神々が生まれていますが、火之迦具土神が生まれた際に伊邪那美命はその熱で大火傷を負い、そのことが原因で亡くなってしまうの。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は激怒の余り、手にした剣で火之迦具土神の頚を切ってしまうの。その鮮血や身体からは火の神さまや雷神、雨や水の神さまに加え、多くの山の神さまが生まれているの。そのことから火之迦具土神は火山の噴火の様子を擬神化したものとも云われているの。

庚申塔 火山列島でもある日本列島は温泉の宝庫で、その湯に浸かれば日々の疲れも大いに癒されるように、火山の営みは人々に恵みと安らぎを齎してくれますが、一度噴火すると甚大な被害を及ぼしますよね。同じように、火は恵みと脅威の二面性を併せ持つことから、当時の人々は竈の焔に火産霊神の存在を感じて猛り狂うことが無いようにと祈ったの。先程紹介した愛宕社や秋葉社に祀られるのもこの火之迦具土神なの。その烈しさから男神かと思いきや、火之迦具土神は女神なの。男性に比べ、普段は静かな女性もひと度猛り狂うと手に負えなくなくることを【記紀】の編者は火山の噴火に譬えたのかも知れないわね。あなたのお家の火之迦具土神は大丈夫?(^^;

巽神社の参拝を終えたところで今回の散策も終了よ。今小路を南下して市役所前の交差点を曲がれば鎌倉駅があるの。嘗ては幹線道路として賑わいを見せていたと云う今小路も、今ではすっかり小町通りにその座を奪われてしまったみたいね。その小町通りに抜けてお土産やさんを覗いて帰りたいの−と云う方は、八坂神社方面に少しだけ戻って下さいね。加美尾花と云う雑貨屋さんがありますので、その手前を右折して、今小路踏切を渡って下さいね。後は道なりに進めば小町通に出ることが出来ますよ。


寺社の縁起を語る時、そこには猛き者も均しく頭を垂れて神仏の加護を求めた姿が浮かんでくるの。鎌倉幕府が滅ぼされた後も、足利氏の帰依を受けて隆盛した浄光明寺や、水戸徳川家の庇護を受けて繁栄した英勝寺。そこには、権力者の座にありながらも、一人の人間として喜怒哀楽に揺れた人々の心模様が今に残されているの。印象に残るのは家門の繁栄を願い、60歳と云う高齢の身をおして鎌倉に下向して来た阿仏尼の姿でしょうか。墓塔の前に佇めば、晩年の阿仏尼の静かでいて熱い思いが伝わって来るの。あなたも穏やかな一日を扇ガ谷に訪ね、当時の人々の心模様に想いを馳せてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
角川ソフィア文庫 佐藤謙三 校注 平家物語(上)・(下)
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
講談社刊 森本元子著 十六夜日記・夜の鶴 全訳注
講談社刊 安西篤子著 歴史を彩った悪女才女賢女
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
人文書院社刊 吉野裕子著 易と日本の祭祀
里文出版社刊 川尻祐治著 鎌倉を歩く
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
岩波書店 龍肅訳注 吾妻鏡
各寺院発行の栞・由緒書等






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