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前回の源氏山公園編では廻り切れずに終えた扇ガ谷東側に点在する史蹟を訪ねてみました。今回の散策では北鎌倉側から亀ケ谷坂切り通しを経て扇ガ谷に向かい、見処を見学しながら鎌倉駅に抜ける縦走コースを設定してみました。 補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。
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亀ケ谷切り通し〜薬王寺〜岩船地蔵堂〜扇の井〜相馬師常墓
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1.長寿寺
ちょうじゅじ
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北鎌倉駅で下車したら鎌倉街道を建長寺方面に歩いて下さいね。沿道には東慶寺や浄智寺などの古刹が佇みますが、今回の散策では素通りしています。気になる方は姉妹編の北鎌倉編を御笑覧下さいね。北鎌倉駅から15分程歩くと長寿寺がありますが、街道を離れてその脇に続く緩やかな坂道を上って下さいね。左掲はその入口を振り返って見たところですが、左側の木立ちの中に長寿寺が建てられているの。境内には足利尊氏の供養塔があるのですが、残念ながら一般公開されていませんので拝観は出来ないの。5人以上で精進料理を予約すればその際に見学が可能と聞きますが、足利尊氏よりも福沢諭吉が大事なξ^_^ξは今日に到るまで未体験。(^^;
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2.亀ケ谷切り通し
かめがやつきりどおし
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嘗てこの道は北鎌倉の山ノ内と扇ガ谷を結ぶ幹線道路で、朝夷奈・極楽寺・巨福呂坂・化粧坂・大仏坂・名越の切り通しと共に鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉防衛を担う戦略上の重要拠点でもあったの。亀ケ谷坂の名称由来については鶴岡八幡宮の鶴に掛けて亀としたものだとか、当時は亀も転がり落ちるほどの急坂だったことから名付けられたものとも云われているの。
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切り通しとは山の尾根部分を掘り下げて通行可能としたもので、今では舗装もされて傾斜も緩く、道幅も広くとられて比較的歩きやすい道となっていますが、造られた当時は置き石や横矢を射掛ける櫓などがそこかしこに設けられ、馬一頭が辛うじて通れるような細い道だったのでしょうね。卒業旅行でしょうか、中学生の一団が駆け下りて行きましたが、新田義貞の鎌倉攻めの際には義貞の軍勢も投石や弓矢の降り注ぐ中を駆け抜けているの。
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坂道の途中には延寿堂地蔵尊が岩蔭に隠れるようにして祀られていました。何か云われがありそうな地蔵尊ですが、これと云った案内も無く、詳細は不明です。来る途中の岩肌にも小さな六地蔵が彫られていましたが、鎌倉への出入口でもあるこの道は異界に通じる道でもあり、道行く人々は地蔵尊に手を合わせ、旅の安全を祈願したのでしょうね。当時の旅は今と違い、旅先で病いに伏せて命を失うことも多く、まさに命懸け。村境を越えると云うことは異界への旅立ちでもあったの。
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3.薬王寺
やくおうじ
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亀ケ谷坂を下ると沿道には閑静な住宅が建ち並びますが、庭先に咲く草花を眺めながら歩くとやがて右手に薬王寺への参道が見えて来ます。現在は大乗山薬王寺を正式な山号寺号とする日蓮宗寺院ですが、嘗てこの地には夜光山梅嶺寺(梅嶺山夜光寺とも)と云う真言宗寺院が建てられていたと伝え、永仁元年(1293)に逗留した日蓮宗の日像上人が、当時の住持と宗教論をめぐり白熱の討議を重ね、論破された住持は日蓮宗に改宗したと云われているの。 拝観料:境内自由
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一説(新編鎌倉志)には不受不施派の僧侶が創建するも、江戸幕府の弾圧を恐れ、薬王寺に改めたとも云われているの。不受不施とは聞き慣れないことばかも知れませんが、「法華経に帰依せざる輩から施しを受ける積もりもねえし供養もしてやらん」と云うことなの。その起こりは文禄4年(1595)の方広寺大仏供養に始まるとされ、豊臣秀吉は各宗派から出仕僧を募り、千僧会(せんぞうえ)を開こうとしたの。
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殆どの宗派は参加を表明したのですが、日蓮宗の日奥上人だけは、「法華経の信心もしてねえヤツから参加を求められたくもねえし、褒美も欲しくはねえ」と拒絶。おまけにその秀吉には、「大仏供養などやめちめえ」と書状を送りつけて諫めているの。信心もせん輩が大仏供養とは聞いて呆れるぜ−と云ったところね。天下人の秀吉を非難するのですから上人の心臓は並外れて強かったのでしょうね。ですが、寺の他の者に危害が及ぶことを畏れた上人は一人寺を離れると流浪の旅に出たの。
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ところが行く先々で上人がその精神を説くと次第に賛同者も増えてくるの。そうなると受施容認派との対立も深まり、遂にはその訴えから幕府に捕えられて流罪にされてしまうの。一時は赦されるのですが再び流罪。と云ってもその時既に上人は入寂していて、何とその遺骨を流罪にしたの。日蓮宗の宗祖・日蓮上人が殉教の使徒となり時代を駆け抜けたのなら、日奥上人もまた然り。精神甚だ脆弱にして不信心なξ^_^ξには驚嘆に値するパワーの持ち主達ね。
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主義主張の如何は別にして、歴史上には強者がいるのですね。上人亡き後もその信仰は広く浸透し、江戸幕府は不受不施派の寺院のみならず、その信者達にも徹底的な弾圧を加えるようになったの。隠れキリシタン同様、不受不施派は表向きの改宗をすると夜陰に乗じて密かに土蔵などに集まり、その法話を聞いたと云われているの。その後も全国規模の検挙が幾度となく行われ、江戸幕府が滅んだ後の明治3年(1870)まで弾圧の嵐は吹き荒れたと伝えられているの。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ゴメンナサイ。
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寺伝では徳川家との繋がりも深く、寺紋にも三葉葵を用いるほどで、庶民の埋葬など論外の格式高い寺院だったと伝えます。そうなると【鎌倉志】の記述は何なのよお〜、それとも弾圧に耐えかねて不受不施派から退転してしまったのかしら?などの疑問が湧き起りますが、それはさて置き、明治時代には後盾を失い、廃仏毀釈のうねりを受けて荒廃し、無住の時代が50年余り続いたと伝えるの。その後、大正3年(1914)に日振上人が復興に着手、歴代住持の努力を経て現在に到るの。
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境内右手には徳川忠長の供養塔が建てられているの。忠長は徳川幕府第三代将軍・家光の弟で駿府城主となるのですが、粗暴な性格から家臣を手討ちにするなど普段から素行が絶えず、家光から諫められても改心せず不興を買うの。やがて御政道に傷がつくとばかりに父・秀忠からは甲斐国への蟄居を命ぜられ、最期は28歳の若さで高崎城に自刃して果てるの。
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忠長は兄・家光の将軍就任時には父・秀忠から「家光は既に天下人。気安く兄貴などと呼ぶんじゃねえ!お前はもう弟ではなく家臣なのだ!」と諫められているの。忠長は幼少時には利発だったと伝え、周囲からは将来はいずれ将軍の座に就くものとも思われていたようで、本人もその積もりだったのでしょうね。てやんでえ〜、兄貴じゃ無くてこのオレが将軍になるはずだったのによお〜、クソ面白しくもねえ!だったら好き勝手に生きてやらあ〜 と自暴自棄になっていたのかも知れませんね。
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将来を期待された忠長でしたが、その蔭で疎まれていたのが嫡男の家光(幼名・竹千代)なの。その家光の乳母を務めていたのがお福こと、後の春日局なの。忠長が世継候補として重んじられるようになると、お福は家康の力を借りて家光を世継ぎにしようと駿府城に向かいます。最初は取り立てて口を挟む素振りも見せなかった家康ですが、後に江戸城を訪ねて家光を前に「元服した後は西の丸へ移る日も近いであろう」と暗に世継ぎとして認めたの。家光が将軍になれたのもお福の働きがあればこそ。その恩に報いるために将軍の座に就いた家光は最大限にお福を厚遇したの。春日局と聞くと陰湿極まりない大奥のイメージを想像してしまいますが、その頃のお福は乳母として全身全霊を傾けて家光を守ろうとしていたのでしょうね。
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供養塔は正室・松孝院が忠長の追善供養のために建てたもので、その際に広大な土地の寄進と多額の寄附をしているの。それを元に、嘗ては五重塔を有する七堂伽藍が建てられていたのですが、亨保5年(1720)の大火でその堂宇も悉く灰塵に帰したと伝えます。因みに、松孝院は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の娘ですが、素行に奔る忠長も松孝院には殊の外優しかったのかも知れませんね。そうでなければそんな豪勢な追善供養などして貰えないはずよ。あなたのところは大丈夫?(^^;
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4.岩船地蔵堂
いわふねじぞうどう
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薬王寺から30m程歩くとあるのがこの岩船地蔵堂なの。海蔵寺の管理下にあり、以前には古い小堂が鄙びた風情を醸し出していたのですが、さすがに老朽化して、平成13年(2001)に再建されたの。地蔵堂は頼朝の長女・大姫を供養するために建てられたもので、堂内には大姫の守り本尊と伝えられる地蔵菩薩像が安置されているの。因みに岩船の名はその像が舟形の光背を持つ石造地蔵菩薩像であることに由来するの。その大姫には幼くして許婚を父親(頼朝)に殺され悲嘆に暮れる中、病いを得て夭折してしまった悲恋物語が伝えられているの。幼な心に灯った思慕の念は、やがてその命と共に露となり、今はこの地蔵堂に眠っているの。
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頼朝が挙兵すると各地で平氏追討の動きが高まるのですが、覇権を睨み、反平氏の陣営内にも頼朝に反目する者が現れたの。甲斐源氏の木曽義仲もその一人で、その義仲の元へ、同じく頼朝に敵対して敗れた頼朝の叔父・源義広が逃げ込むの。本来ならこの際にとばかりに義広、義仲共々討ち滅ぼすところなのですが、義仲が嫡男・義高を大姫の許婚として鎌倉に送ることを申し入れ、和議が成立したの。その時義高は若干11歳、大姫は未だ6歳と云う若さで、まさに政略結婚だったわけ。と云うよりも、義高は体のいい人質ね。
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上段では頼朝を中心に木曽義仲を頼朝に反目する者と紹介しましたが、当時は甲斐源氏や信濃源氏など分流が台頭する群雄割拠状態。井沢元彦氏の言をお借りすれば「後世の人間は歴史を知っているからそう云う表現をする。それは歴史の誤認である」ですね。
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そうして大人たちの思惑をよそに義高と大姫は許婚同志と云うよりも兄、妹のように仲睦まじく接していたようで、やがて大姫の幼な心に芽生えた義高への思慕の念は初恋のそれだったのかも知れませんね。ところが寿永3年(1184)頼朝は弟の範頼(のりより)と義経に命じて義仲を討ち取ってしまうの。それを知った義高は身の危険を悟り、密かに鎌倉から抜け出そうとするのですが、非情にも頼朝は追手を差し向けて殺してしまうの。我が身を顧みて義高を生かしておけばいずれ己が馘を狙うとも限らぬと考えたの。ちょっと長くて恐縮ですが【吾妻鏡】の元暦元年(1184)4/21の条には義高が鎌倉を抜け出す時の様子が描かれていますので御紹介してみますね。ここでは志水の冠者が木曽義高を指し、武衛とは頼朝のことね。
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女房等此の事を伺い聞き 密々姫公の御方に告げ申す
仍って志水の冠者計略を廻らし 今曉遁れ去り給ふ
此の間 女房の姿を假り 姫君の御方の女房 之を圍みて郭内を出しをはんぬ
馬を他所に隱し置きて之に乘らしむ 人をして聞かしめざらんが爲 綿を以て蹄を裹むと
而して海野小太郎幸氏は志水と同年なり 日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し
仍って今之に相替わり 彼の帳臺に入り 宿衣の下に臥して髻を出ず
日闌なるの後 志水の常の居所に出で 日來の形勢を改めず 獨り雙六を打つ
志水雙六の勝負を好み 朝暮に之を翫ぶ 幸氏必ず其の合手たり
然る間 殿中の男女に至るまで 只今に坐せしめ給うの思いを成すの處
晩に及びて縡露顯す 武衞太だ忿怒し給ひ 則ち幸氏を召禁めらる
また堀籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わして
討ち止む可きの由を仰せらると 姫公周章し魂を鎖さしめ給ふ
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義高の殺害計画を知った大姫の側近達は義高を女装させ、廻りを取り囲むようにして屋敷外に連れだすと、隠していた馬に乗せたと云うの。その馬も蹄を綿で包む念の入れよう。一方、屋敷内では双六をするなどして義高から片時も離れずにいた海野小太郎幸氏と云う少年が義高の身代わりを演じ、何事も無かったように振る舞っているの。さすがに夕方になると事の次第が露顕して、それを知った頼朝は激昂。小太郎を責めたて、直ちに堀親家に義高殺害を命じるの。それを伝え聞いた大姫は狼狽のあまり心を頑なに閉ざしてしまったと云うの。
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その義高の遁走ですが、大姫の想いに憐憫した政子の指示に依るものとする見方があるの。確かに、幾ら大姫の近侍だからと云って、頼朝の意に反することを勝手に出来るはずも無く、政子の温情が働いていたのでしょうね。そこには頼朝の妻であり、大姫の母親でもある政子が、二人の間で苦悩する様子も垣間見え、生きてさえいれば再び相まみえさせることも出来よう−との配慮があったのでしょうね。けれど、政子のそんな願いも虚しく、事態は最悪のケースを迎えてしまうの。
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義高追討の命が下った三日後のこと。堀親家の郎党・籐内光澄が帰任して義高の殺害を報告するの。事は口外無用のはずでしたが大姫の耳にも届き、大姫は食事も喉を通らなくなり、悲嘆に暮れてしまうの。それを傍らで見守る政子も同じように愁嘆。その一方で、それまで義高を担いでいた残党が結集して謀叛を起こすとの風評を伝え聞いた頼朝は、和田義盛や比企能員らに残党征伐を命ずるの。頼朝にすれば大姫の悲しみなど一時的なもので、この先何とでもなろうと考えていたのでしょうね。
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そんな頼朝の思いとは裏腹に、大姫は日増しに憔悴し、病床に伏すようになってしまうの。政子も頼朝の義高殺害をかなり責めたてたようで、大姫のところへ弁明に訪れた頼朝を追い返しているの。その剣幕に驚いたのか、頼朝は義高を殺害した籐内光澄を誅殺してしまうの。お前が好きだった義高を討ったとんでもねえヤツはパパがちゃんと成敗したから機嫌を直しておくれ−と云うわけですが、梟首された光澄の方はたまらないわよね。殺せと云われて殺したら今度は、誰が殺せと云った?このたわけめが!てめえが義高を殺してしまったから俺の愛娘は病気になってしまったじゃねえか。お前には死んで詫びを入れて貰う!では光澄が余りにも可哀想ですよね。
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その後も勝長寿院(現在は廃寺)に長期静養するなどしますが、大姫の病状は回復しなかったの。精神的なショックから立ち直れず、大姫は鬱病になってしまったみたい。そんな中で頼朝は新郎となる相手が出来れば大姫の鬱病も直るだろうと政子の同意も得て、甥の一条高能に嫁がせようとするのですが、それを聞いた大姫は「然る如きの儀に及ばば身を深淵に沈むべき」と嫌悪感を露にするの。しぶしぶ引き下がる頼朝ですが、その内今度は後鳥羽天皇に嫁がせるべく画策するの。高能に不服なら当代一の御方である後鳥羽天皇ならどうだ、不服あるまい。それに大姫が入内すれば源氏も安泰となろう−と云うわけよね。
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そうして頼朝の思惑は功するかに見えたのですが、建久8年(1197)その大姫が20歳の若さで夭折してしまうの。義高殺害から13年後のことですが、幼な心に宿った義高の面影は終生大姫から離れることは無かったの。政子も大姫の死に際しては同じく死を覚悟したとも伝えられ、婚儀の最中に嫁ぎ先を逃げ出して風雨降り頻る中をひた走り、頼朝の待つ伊豆山権現に逃げ込んだと云う政子には幼な心に宿る恋心が切ない程分かっていたのでしょうね。愛するひとと共に生きたい−と云う政子のDNAは大姫にも間違い無く引き継がれていたのですね。
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その大姫の亡骸が埋葬されたのがこの岩船地蔵堂の建つ地と伝えられているの。写真は堂内に祀られる前立の木像地蔵菩薩立像ですが、元禄3年(1690)の堂宇再建時に奉納されたもの。大姫の守り本尊とされる地蔵菩薩像は背後に安置されていますので、残念ながら普段は見ることが出来ないの。ですが、この前立像を見やれば、守り本尊の地蔵菩薩に義高の面影を重ね合わせ、一人語りかける大姫の後姿も瞼に浮かんで来るようで。
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大姫の病死で立ち消えとなった入内ですが、頼朝は懲りずに今度は次女の乙姫を入内させようと画策するの。その仲介役を務めたのが大姫にふられた一条高能ですが、いざ上洛と云う段になり高能は急逝してしまい、翌年には頼朝自身が死去してしまうの。その後を継いで鎌倉幕府第二代将軍となった頼家も頼朝に引き続き乙姫の入内を画策するのですが、不幸にして乙姫もまた病いに倒れ14歳の若さで亡くなってしまうの。入内のことは別にして、女としてひとを愛することの歓びを知ることも無く一生を終えてしまうとは余りにも非情な運命ですよね。
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編集余話:奥富敬之氏は著書「鎌倉歴史散歩」 新人物往来社刊 の中で岩船地蔵堂は実際には乙姫の供養のために建てられたもので、乙姫よりも大姫の方が広く知られていたことから誤伝されたものと考えられ、大姫の亡骸は勝長寿院に葬られたのでは?と推考されています。詳しくは同書をお読み下さいね。
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踵を返したところで次に扇の井を訪ねてみました。左掲はその途中の道すがら、民家の塀越しに見事な開花を見せていた桃(?)です。キメラ状態の艶やかな花びらが春の陽射しを浴びて−ねえねえ、わたし綺麗?−と口々に叫んでいるようで。(^^;
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5.扇の井
おうぎのい
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鎌倉十井の一つに数えられる扇の井ですが、名の由来は扇ガ谷にあることから名付けられたとも、形が扇に似ていることから呼ばれるようになったとも云われているの。別伝では、義経追討の最中に吉野山中で捕えられ鎌倉に送られて来た義経の愛妾・静御前がこの井戸に舞扇を奉納したことに因むとの説もありますが、そこまでいくと些かこじつけの感がしないでもありませんね。その静御前のことが気になる方は鶴岡八幡宮編を御笑覧下さいね。
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中を覗き込んで見ると珈琲色の水がたたえられています。嘗ては清らかな水が湧き出していたのでしょうが、谷奥(やつおく)も造成されて住宅地が広がるようになると水脈も枯渇してしまったのでしょうね。ところで不思議なことに切り通し近くには必ずと云って良いほど井戸や湧き水が存在しますよね。庶民の生活を支えた湧水は、有事に備えて切り通しに潜む兵士達にとってもまさに命を支える水だったのでしょうね。
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この扇の井ですが実は個人宅にあり、おまけに手許にあるガイドブックの幾れもが実際とは異なる場所を指していて、地元の方に訊ね歩きながらようやく辿り着いたの。家人の方は快く見学させて下さいましたが、多くの方に訪ね来られても御迷惑かと思い、ここでは敢えてその場所を御案内しませんので御了承下さいね。ですが、分からないからと云って余りウロウロしないで下さいね。かく云うξ^_^ξは地元の方に白い目で見られてしまいました。そんな時は素直に道を訊ねてみましょうね。
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家人の御好意に甘える訳ですから、見学を終えたら礼を伝えてからその場を後にしましょうね。呼鈴が鳴るので案内したところ、いつの間にかいなくなっていたと云うケースもあると聞きます。マナーと云うよりも義務だとξ^_^ξは思うのですが。
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6.相馬師常墓
そうまもろつねのはか
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岩船地蔵堂横から続く疎水に沿って歩いていると道奥に遺蹟らしきものが目に留まり、何かしら?と訪ねてみたのがこの相馬師常の墓とされるやぐらなの。やぐらとは洞窟墳墓のことで、狭い鎌倉の地に多くの権力者達が集まったことから廟所に広い土地を使われては益々狭くなると危惧した幕府はその造営を禁じたの。その代わりに造られたのがやぐらで、山に取り囲まれて平地の少ない鎌倉ならではの独特のもの。古墳の玄室を思わせるような造りで、鎌倉には小規模のものを合わせるとその数3,000基は下らないだろうと云われているの。
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相馬師常は千葉常胤の次男で、治承4年(1180)の頼朝挙兵時には父の常胤と共に参軍しているの。文治5年(1189)の奥州征伐にも付き従い戦功を揚げ、頼朝の上洛時には供奉するなど信任も厚かったみたいですね。師常は相馬氏の氏祖とも云われていますが、千葉氏一族なのに相馬姓を名乗るのは下総国相馬御厨の地頭職に任命されたことに因むの。
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その師常も元久2年(1205)に67歳で亡くなっていますが、その時の情景を【吾妻鏡】は「相馬次郎師常卒す 端坐合掌せしめ 更に動揺せず 決定往生敢えてその疑い無し これ念仏行者なり 結縁と称し 緇素挙げて之を集拝す」と記しているの。平均寿命が40歳程度と云われた当時のことですので、まさに大往生と云っても差し支えないでしょうね。高僧の入定さながらの姿に、結縁を求めて人々が参集したと云うのも凄いですよね。
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傍らに立てられた案内板には師常やぐらの特色が記載されていますが、その中に出てくる龕(がん)と云うものが一体何なのか分からず、光量不足を承知でトライしてみたのがこの写真です。小さな宝篋印塔が建てられていますが、その背後に煉瓦のような石積が見えるのがお分かりでしょうか。それが龕と呼ばれるもので、岩壁や仏塔に仏像や宝物などを納めるために彫られた窪みを指し、勿論、ここではその龕に納められているのは師常の亡骸ね。
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相馬師常墓を後に再び疎水沿いの道を鎌倉駅方面に歩きましたが、小さなスーパーと八百屋さんに挟まれた道に出ます。その道を辿ると次の目的地・浄光明寺があるのですが、その前に傍らの自販機で飲料水を買い求め小休止。御覧頂いている皆さんもここでティーブレイクなどして下さいね。書く方も大変ですが読む方も大変でしょうから。(^^;
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