≡☆ 鎌倉歴史散策−扇ガ谷編 ☆≡

前回の 鎌倉歴史散策−源氏山公園編 では廻り切れずに終えていた扇ガ谷東側に点在する史蹟を訪ねてみました。今回の散策では北鎌倉側から亀ヶ谷坂切り通しを経て扇ガ谷に向かい、主な見処をめぐりながら鎌倉駅に抜ける縦走コースを設定してみました。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

薬王寺〜岩船地蔵堂〜相馬師常墓〜浄光明寺〜妙伝寺〜扇谷上杉管領屋敷跡

1.長寿寺 ちょうじゅじ

亀ヶ谷坂 北鎌倉駅で下車したら鎌倉街道を建長寺方面に歩いて下さいね。沿道には東慶寺や浄智寺などの古刹が佇みますが、今回の散策では素通りしています。気になる方は姉妹編の 北鎌倉編 を御笑覧下さいね。北鎌倉駅から15分程歩くと長寿寺がありますが、街道を離れてその脇に続く緩やかな坂道を上って下さいね。左掲はその入口を振り返って見たところですが、左側の木立ちの中に長寿寺が建てられているの。境内には足利尊氏の供養塔があるのですが、残念ながら一般公開されていませんので拝観は出来ないの。5人以上で精進料理を予約すればその際に見学が可能と聞きますが、足利尊氏よりも福沢諭吉が大事なξ^_^ξは今日に到るまで未体験。(^^;

2.亀ヶ谷切り通し かめがやつきりどおし

亀ヶ谷坂 亀ヶ谷坂 嘗てこの道は北鎌倉の山ノ内と扇ガ谷を結ぶ幹線道路で、朝夷奈・極楽寺・巨福呂坂・化粧坂・大仏坂・名越の切り通しと共に鎌倉七口の一つに数えられ、鎌倉防衛を担う戦略上の重要拠点でもあったの。亀ヶ谷坂の名称由来については鶴岡八幡宮の鶴に掛けて亀としたものだとか、当時は亀も転がり落ちるほどの急坂だったことから名付けられたものとも云われているの。

切り通しとは山の尾根部分を掘り下げて通行可能としたもので、今では舗装もされて傾斜も緩く、道幅も広くとられて比較的歩きやすい道となっていますが、造られた当時は置き石や横矢を射掛ける櫓などがそこかしこに設けられ、馬一頭が辛うじて通れるような細い道だったのでしょうね。卒業旅行でしょうか、中学生の一団が駆け下りて行きましたが、新田義貞の鎌倉攻めの際には義貞の軍勢も投石や弓矢が降り注ぐ中を駆け抜けているの。

延寿堂地蔵尊 坂道の途中には延寿堂地蔵尊が岩蔭に隠れるようにして祀られていました。何か云われがありそうな地蔵尊ですが、これと云った案内も無く、詳細は不明です。来る途中の岩肌にも小さな六地蔵が彫られていましたが、鎌倉への出入口でもあるこの道は異界に通じる道でもあり、道行く人々は地蔵尊に手を合わせ、旅の安全を祈願したのでしょうね。当時の旅は今と違い、旅先で病いに伏せて命を失うことも多く、まさに命懸け。村境を越えると云うことは異界への旅立ちでもあったの。

3.薬王寺 やくおうじ

薬王寺門前 亀ヶ谷坂を下ると沿道には閑静な住宅が建ち並びますが、庭先に咲く草花を眺めながら歩くとやがて右手に薬王寺への参道が見えて来るの。現在は大乗山薬王寺を正式な山号寺号とする日蓮宗寺院ですが、嘗てこの地には夜光山梅嶺寺(梅嶺山夜光寺とも)と云う真言宗寺院が建てられていたと伝え、永仁元年(1293)に逗留した日蓮宗の日像上人が、当時の住持と宗教論をめぐり白熱の討議を重ね、論破された住持は日蓮宗に改宗したと云われているの。一説(新編鎌倉志)には不受不施派の僧侶が創建するも、江戸幕府の弾圧を恐れ、薬王寺に改めたとも云われているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

桜 桜 桜 やまもも

不受不施とは聞き慣れないことばかも知れませんが、「法華経に帰依せざる輩から施しを受ける積もりもねえし供養もしてやらん」と云うことなの。その起こりは文禄4年(1595)の方広寺大仏供養に始まるとされ、豊臣秀吉は各宗派から出仕僧を募り、千僧会を開こうとしたの。殆どの宗派は参加を表明したのですが、日蓮宗の日奥上人だけは、「法華経の信心もしてねえヤツから参加を求められたくもねえし、褒美も欲しくはねえ」と拒絶。おまけにその秀吉には、「大仏供養などやめちめえ」と書状を送りつけて諫めているの。信心もせん輩が大仏供養とは聞いて呆れるぜ−と云ったところね。天下人の秀吉を非難するのですから上人の心臓は並外れて強かったのでしょうね。ですが、寺の他の者に危害が及ぶことを畏れた上人は一人寺を離れると流浪の旅に出たの。

ところが、行く先々で上人がその精神を説くと次第に賛同者も増えてくるの。そうなると受施容認派との対立も深まり、遂にはその訴えから幕府に捕えられて流罪にされてしまうの。一時は赦されるのですが再び流罪。と云ってもその時既に上人は入寂していて、何とその遺骨を流罪にしたの。日蓮宗の宗祖・日蓮上人が殉教の使徒となり時代を駆け抜けたのなら、日奥上人もまた然り。精神甚だ脆弱にして不信心なξ^_^ξには驚嘆に値するパワーの持ち主達ね。

主義主張の如何は別にして、歴史上には強者がいるのですね。上人亡き後もその信仰は広く浸透し、江戸幕府は不受不施派の寺院のみならず、その信者達にも徹底的な弾圧を加えるようになったの。隠れキリシタン同様、不受不施派は表向きの改宗をすると夜陰に乗じて密かに土蔵などに集まり、その法話を聞いたと云われているの。その後も全国規模の検挙が幾度となく行われ、江戸幕府が滅んだ後の明治3年(1870)まで弾圧の嵐は吹き荒れたと伝えられているの。余談とするにはちょっと長すぎましたね、ゴメンナサイ。





忠長は幼少時には利発だったと伝え、周囲からは将来はいずれ将軍の座に就くものとも思われていたようで、本人もその積もりだったのでしょうね。てやんでえ〜、兄貴じゃ無くてこのオレが将軍になるはずだったのによお〜、クソ面白しくもねえ!だったら好き勝手に生きてやらあ〜 と自暴自棄になっていたのかも知れないわね。

将来を期待された忠長でしたが、その蔭で疎まれていたのが嫡男の家光(幼名・竹千代)なの。その家光の乳母を務めていたのがお福こと、後の春日局なの。忠長が世継候補として重んじられるようになると、お福は家康の力を借りて家光を世継ぎにしようと駿府城に向かうの。最初は取り立てて口を挟む素振りも見せなかった家康ですが、後に江戸城を訪ねて家光を前に「元服した後は西の丸へ移る日も近いであろう」と暗に世継ぎとして認めたの。家光が将軍になれたのもお福の働きがあればこそ。その恩に報いるために将軍の座に就いた家光は最大限にお福を厚遇したの。春日局と聞くと陰湿極まりない大奥のイメージを想像してしまいますが、その頃のお福は乳母として全身全霊を傾けて家光を守ろうとしていたのでしょうね。

供養塔は正室・松孝院が忠長の追善供養のために建てたもので、その際に広大な土地の寄進と多額の寄附をしているの。それを元に、嘗ては五重塔を有する七堂伽藍が建てられていたのですが、亨保5年(1720)の大火でその堂宇も悉く灰塵に帰したと伝えるの。松孝院は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の娘ですが、素行に奔る忠長も松孝院には殊の外優しかったのかも知れないわね。そうでなければそんな豪勢な追善供養などして貰えないはずよ。あなたのところは大丈夫?(^^;



4.岩船地蔵堂 いわふねじぞうどう


頼朝が挙兵すると各地で平氏追討の動きが高まるのですが、覇権を睨み、反平氏の陣営内にも頼朝に反目する者が現れたの。甲斐源氏の木曽義仲もその一人で、その義仲の元へ、同じく頼朝に敵対して敗れた頼朝の叔父・源義広が逃げ込むの。本来ならこの際にとばかりに義広、義仲共々討ち滅ぼすところなのですが、義仲が嫡男・義高を大姫の許婚として鎌倉に送ることを申し入れ、和議が成立したの。その時義高は若干11歳、大姫は未だ6歳と云う若さで、まさに政略結婚だったわけ。と云うよりも、義高は体のいい人質ね。

上段では頼朝を中心に木曽義仲を頼朝に反目する者と紹介しましたが、当時は甲斐源氏や信濃源氏など分流が台頭する群雄割拠状態。井沢元彦氏の言をお借りすれば「後世の人間は歴史を知っているからそう云う表現をする。それは歴史の誤認である」ですね。

そうして大人たちの思惑をよそに義高と大姫は許婚同志と云うよりも兄、妹のように仲睦まじく接していたようで、やがて大姫の幼な心に芽生えた義高への思慕の念は初恋のそれだったのかも知れないわね。ところが、寿永3年(1184)、頼朝は弟の範頼(のりより)と義経に命じて義仲を討ち取ってしまうの。それを知った義高は身の危険を悟り、密かに鎌倉から抜け出そうとするのですが、非情にも頼朝は追手を差し向けて殺してしまうの。我が身を顧みて義高を生かしておけばいずれ己が馘を狙うとも限らぬと考えたの。ちょっと長くて恐縮ですが、【吾妻鏡】の元暦元年(1184)4/21の条には義高が鎌倉を抜け出す時の様子が描かれていますので御紹介してみますね。ここでは志水の冠者が木曽義高を指し、武衛とは頼朝のことなの。

女房等此の事を伺い聞き 密々姫公の御方に告げ申す
仍って志水の冠者計略を廻らし 今曉遁れ去り給ふ
此の間 女房の姿を假り 姫君の御方の女房 之を圍みて郭内を出しをはんぬ
馬を他所に隱し置きて之に乘らしむ 人をして聞かしめざらんが爲 綿を以て蹄を裹むと
而して海野小太郎幸氏は志水と同年なり 日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し
仍って今之に相替わり 彼の帳臺に入り 宿衣の下に臥して髻を出ず
日闌なるの後 志水の常の居所に出で 日來の形勢を改めず 獨り雙六を打つ
志水雙六の勝負を好み 朝暮に之を翫ぶ 幸氏必ず其の合手たり
然る間 殿中の男女に至るまで 只今に坐せしめ給うの思いを成すの處
晩に及びて縡露顯す 武衞太だ忿怒し給ひ 則ち幸氏を召禁めらる
また堀籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わして
討ち止む可きの由を仰せらると 姫公周章し魂を鎖さしめ給ふ

義高の殺害計画を知った大姫の側近達は義高を女装させ、廻りを取り囲むようにして屋敷外に連れだすと、隠していた馬に乗せたと云うの。その馬も蹄を綿で包む念の入れよう。一方、屋敷内では双六をするなどして義高から片時も離れずにいた海野小太郎幸氏と云う少年が義高の身代わりを演じ、何事も無かったように振る舞っているの。さすがに夕方になると事の次第が露顕して、それを知った頼朝は激昂。小太郎を責めたて、直ちに堀親家に義高殺害を命じるの。それを伝え聞いた大姫は狼狽のあまり心を頑なに閉ざしてしまったと云うの。



事は口外無用のはずでしたが大姫の耳にも届き、大姫は食事も喉を通らなくなり、悲嘆に暮れてしまうの。それを傍らで見守る政子も同じように愁嘆。その一方で、それまで義高を担いでいた残党が結集して謀叛を起こすとの風評を伝え聞いた頼朝は、和田義盛や比企能員らに残党征伐を命ずるの。頼朝にすれば大姫の悲しみなど一時的なもので、この先何とでもなろうと考えていたのでしょうね。そんな頼朝の思いとは裏腹に、大姫は日増しに憔悴し、病床に伏すようになってしまうの。政子も頼朝の義高殺害をかなり責めたてたようで、大姫のところへ弁明に訪れた頼朝を追い返しているの。その剣幕に驚いたのか、頼朝は義高を殺害した籐内光澄を誅殺してしまうの。お前が好きだった義高を討ったとんでもねえヤツはパパがちゃんと成敗したから機嫌を直しておくれ−と云うわけですが、梟首された光澄の方はたまらないわよね。殺せと云われて殺したら今度は、誰が殺せと云った?このたわけめが!てめえが義高を殺してしまったから俺の愛娘は病気になってしまったじゃねえか。お前には死んで詫びを入れて貰う!では光澄が余りにも可哀想よね。

その後も勝長寿院(現在は廃寺)に長期静養するなどしますが、大姫の病状は回復しなかったの。精神的なショックから立ち直れず、大姫は鬱病になってしまったみたい。そんな中で頼朝は新郎となる相手が出来れば大姫の鬱病も直るだろうと政子の同意も得て、甥の一条高能に嫁がせようとするのですが、それを聞いた大姫は「然る如きの儀に及ばば身を深淵に沈むべき」と嫌悪感を露にするの。しぶしぶ引き下がる頼朝ですが、その内今度は後鳥羽天皇に嫁がせるべく画策するの。高能に不服なら当代一の御方である後鳥羽天皇ならどうだ、不服あるまい。それに大姫が入内すれば源氏も安泰となろう−と云うわけよね。

そうして頼朝の思惑は功するかに見えたのですが、建久8年(1197)、その大姫が20歳の若さで夭折してしまうの。義高殺害から13年後のことですが、幼な心に宿った義高の面影は終生大姫から離れることは無かったの。政子も大姫の死に際しては同じく死を覚悟したとも伝えられ、婚儀の最中に嫁ぎ先を逃げ出して風雨降り頻る中をひた走り、頼朝の待つ伊豆山権現に逃げ込んだと云う政子には幼な心に宿る恋心が切ない程分かっていたのでしょうね。



大姫の病死で立ち消えとなった入内ですが、頼朝は懲りずに今度は次女の乙姫を入内させようと画策するの。その仲介役を務めたのが大姫にふられた一条高能ですが、いざ上洛と云う段になり高能は急逝してしまい、翌年には頼朝自身が死去してしまうの。その後を継いで鎌倉幕府第二代将軍となった頼家も頼朝に引き続き乙姫の入内を画策するのですが、不幸にして乙姫もまた病いに倒れ14歳の若さで亡くなってしまうの。入内のことは別にして、女としてひとを愛することの歓びを知ることも無く一生を終えてしまうとは余りにも非情な運命よね。

【編集余話】:奥富敬之氏は著書『鎌倉歴史散歩』新人物往来社刊 の中で、岩船地蔵堂は実際には乙姫の供養のために建てられたもので、乙姫よりも大姫の方が広く知られていたことから誤伝されたものと考えられ、大姫の亡骸は勝長寿院に葬られたのでは?と推考されているの。詳しくは同書をお読み下さいね。

キメラ キメラ 踵を返したところで次に「扇の井」を訪ねてみましたが、左掲はその途中の道すがら、民家の塀越しに見事な開花を見せていた桃(?)の花なの。キメラ状態の艶やかな花びらが春の陽射しを浴びて−ねえねえ、わたし綺麗?−と口々に叫んでいるようで。(^^;

5.扇の井 おうぎのい

扇の井 扇の井 鎌倉十井の一つにも数えられる扇の井ですが、名の由来は扇ガ谷にあることから名付けられたとも、形が扇に似ていることから呼ばれるようになったとも云われているの。別伝では、義経追討の最中に吉野山中で捕えられ鎌倉に送られて来た義経の愛妾・静御前がこの井戸に舞扇を奉納したことに因むとの説もありますが、そこまでいくと些かこじつけの感がしないでもないわね。その静御前のことが気になる方は鶴岡八幡宮編の 舞殿 の項を御笑覧下さいね。

中を覗き込んで見ると珈琲色の水がたたえられていたの。嘗ては清らかな水が湧き出していたのでしょうが、谷奥(やつおく)も造成されて住宅地が広がるようになると水脈も枯渇してしまったのでしょうね。ところで、不思議なことに切り通し近くには必ずと云って良いほど井戸や湧き水が存在しますよね。庶民の生活を支えた湧水は、有事に備えて切り通しに潜む兵士達にとってもまさに命を支える水だったのでしょうね。

石仏 この扇の井ですが、実は個人宅の庭先にあり、おまけに手許にあるガイドブックの幾れもが実際とは異なる場所を指していて、地元の方に訊ね歩きながらようやく辿り着いたの。家人の方は快く見学させて下さいましたが、多くの方に訪ね来られても御迷惑かと思い、ここでは敢えてその場所を御案内しませんので御了承下さいね。ですが、分からないからと云って余りウロウロしないで下さいね。かく云うξ^_^ξは地元の方に白い目で見られてしまいました。そんな時は素直に道を訊ねてみましょうね。

家人の御好意に甘える訳ですから、見学を終えたら礼を伝えてからその場を後にしましょうね。呼鈴が鳴るので案内したところ、いつの間にかいなくなっていたと云うケースもあると聞きます。マナーと云うよりも義務だとξ^_^ξは思うのですが。

6.相馬師常墓 そうまもろつねのはか

相馬師常墓 相馬師常墓 岩船地蔵堂横から続く疎水に沿って歩いていると道奥に遺蹟らしきものが目に留まり、何かしら?と訪ねてみたのがこの相馬師常のお墓とされるやぐらなの。やぐらとは洞窟墳墓のことで、鎌倉幕府が開かれると狭い鎌倉の地に多くの権力者達が集まったことから、廟所に広い土地を使われては益々狭くなると危惧した幕府はお墓の造営を禁じたの。その代わりに造られたのがやぐらで、山に取り囲まれて平地の少ない鎌倉ならではの独特のものなの。古墳の玄室を思わせるような造りで、鎌倉には小規模のものを合わせると、その数3,000基は下らないだろうと云われているの。このお墓の主となる相馬師常ですが、千葉常胤の次男で、治承4年(1180)の頼朝挙兵時には父の常胤と共に参軍しているの。



相馬師常墓 文治5年(1189)の奥州征伐にも付き従い戦功を揚げ、頼朝の上洛時には供奉するなど信任も厚かったみたいね。師常は相馬氏の氏祖ですが、千葉氏一族なのに相馬姓を名乗るのは下総国相馬御厨の地頭職に任命されたことに因むの。その師常も元久2年(1205)に67歳で亡くなりますが、その時の情景を【吾妻鏡】は「相馬次郎師常卒す 端坐合掌せしめ 更に動揺せず 決定往生敢えてその疑い無し これ念仏行者なり 結縁と称し 緇素挙げて之を集拝す」と記しているの。平均寿命が40歳程度と云われた当時のことですので、まさに大往生と云っても差し支えないわよね。



相馬師常墓を後に再び疎水沿いの道を鎌倉駅方面に歩きましたが、小さなスーパーと八百屋さんに挟まれた道に出るの。その道を辿ると次の目的地・浄光明寺があるのですが、その前に傍らの自販機で飲料水を買い求め小休止。御覧頂いている皆さんもここでティーブレイクなどして下さいね。書く方も大変だけど、読む方も大変でしょうから。(^^;

7.浄光明寺 じょうこうみょうじ

参道 浄光明寺は建長3年(1251)に鎌倉幕府第6代執権・北条長時が真阿上人(真聖国師)を開山に迎えて創建したもの。一説には怪僧・文覚上人がこの地に草庵を結び、それを前身として再興したものとも云われているの。元々は浄土宗でしたが、後に後醍醐天皇から寺領の寄進を受けて勅願寺となり、多くの旧仏教系の高僧が住持を勤めたことから浄土・禅・天台・律の四宗兼学道場となったの。現在は泉谷山浄光明寺と号し、古義真言宗泉涌寺派の寺院。縁起では尊皇か謀叛かで揺れた足利尊氏が後醍醐天皇への恭順の意を示すために蟄居したと伝え、後に南北朝に分かれて戦う尊氏・直義兄弟もその頃は未だ互いを思いやり、補完し合う間柄だったの。

文覚上人のことが気になる方は「鎌倉歴史散策−材木座編」の 補陀洛寺 の項を御笑覧下さいね。
出家の理由は何と人妻への横恋慕 (^^; で、歴史が苦手なあなたでも思わず好きになる・・・かも。




と云うのも、当初、後醍醐天皇は皇子の護良親王を征夷大将軍に任ずるのですが、その護良親王は尊氏と対立。尊氏からは「てめえ、誰のお蔭で天皇に返り咲くことが出来たと思ってんだ。おれと護良親王のどっちを取るんだ!」と脅迫され、止むなく護良親王を鎌倉に左遷させられるの。そんなこともあって、後醍醐天皇にしてみれば尊氏の存在は鬱陶しい限りですが、功労者には違い無く、「尊氏!直ちに上洛して申し開きせんかあ!」と再三の警告を発するの。ところが、尊氏はそれに応ずる気配も無く、痺れを切らせた後醍醐天皇は遂に新田義貞に尊氏の追討を命ずるの。





鐘楼 前置きが大分長くなりましたが、足利尊氏が蟄居した縁から浄光明寺は尊氏や直義の帰依するところとなり、寺領や仏舎利の寄進を受けて寺勢を興隆、室町時代には鎌倉公方の祈願所となり、盛時には塔頭9院を数える程になるの。ですが、足利氏の後盾を失うと次第に衰微し、途中、二度の再興を経るも、数度の災禍に依り堂宇の殆どを失ったと伝えるの。

境内 境内 境内 境内





大伴家墓塔 奇異に思われるかも知れませんが、嘗ての鶴岡八幡宮は神社と寺院の習合状態で八幡宮寺と呼ばれていたの。八幡神が八幡菩薩として彫像されたのなら同じく墓石もと云うところね。笏とは儀式や公式行事の際の束帯着用時に持つ一尺余り(≒32cm)の細長い板のことで、元々は式の次第などを書いた紙片を裏に貼り、備忘録としていたのですが、後に社会的な地位を示すものとして儀礼的なものになったの。本来は「こつ」が正しい訓み方なのですが、その音が骨に通じ、「それじゃあ縁起が良くねえ」と、笏の長さを表す尺の音を借りて「しゃく」としたの。


阿弥陀堂の左手にある収蔵庫には国の重要文化財に指定される阿弥陀三尊像を初め、矢拾地蔵の異名を持つ地蔵菩薩像が安置されているの。阿弥陀三尊像は中央に阿弥陀如来を配し、左右に勢至菩薩と観音菩薩が脇侍するの。像は鎌倉時代後期の正安元年(1299)頃の造立と云われ、とりわけ本尊の阿弥陀如来像には当時の鎌倉仏像彫刻独特の土紋技法を採り入れて刺繍のような流麗な紋様が施されているの。残念ながら撮影禁止ですので御紹介が出来ないの。気になる方は御自身の眼でお確かめ下さいね。入館料:¥200

 Harumi's Home Page 観音さまの画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・


矢拾地蔵は足利直義の守り本尊とも伝えられ、直義が戦場で矢を射尽くして困窮していると、小僧が現れて拾い集めた矢を差し出して助けたの。そのお蔭で戦に勝てた直義は屋敷に戻ると日頃信仰していた守り本尊の地蔵菩薩に感謝するのですが、その地蔵菩薩の手には弓矢が握られていたと云うの。戦場に現れた小僧はその地蔵菩薩の化身だったと云うわけ。拝観する機会がありましたら地蔵菩薩が手にする錫杖の根元に御注目下さいね。弓矢の先のように鏃(やじり)が象られているの。

収蔵庫では拝観の日時や時間が細かく決められているの。
訪ねてみたら閉まっていた−なんてことの無いように気をつけてお出掛け下さいね。
拝観日:木・土日・祝日(但し8月は休止) 拝観時間:10:00-12:00 & 13:00-16:00







石段 網引地蔵が祀られるやぐら左手からは再び石段が続きますが、その先には藤原定家の孫で冷泉家の始祖でもある冷泉為相のお墓が建てられているの。為相は父・為家の死後、異母兄の為氏と所領の播磨国(現在の兵庫県)細川荘をめぐり相続争いとなり、訴訟のために鎌倉に下向して来た母の阿仏尼を慕い、同じく東下して来たの。初めの頃はその職掌ゆえに鎌倉と京都を行き来する為相でしたが、判決を得た後に定住するようになったの。

冷泉為相墓 歌道の名門とは云え、それを支える経済的な基盤を失っては生きては行けず、阿仏尼は朝廷を頼るなどしますが埒が空かず、時の最高権力でもある鎌倉幕府を頼り、60歳を前にして鎌倉に下向して来たの。その時の道中の様子や鎌倉滞在期間中の出来事などを和歌を交えて心情豊かに記述したのが【十六夜日記】なの。阿仏尼は都に残した子供達に幾度となく文を認めていますが、書かれていた内容を読んだ為相には母・阿仏尼のことが心配で心配でしょうがなかったのでしょうね。その阿仏尼のことについては後程御紹介しますのでお楽しみにね。(^^;

当時は元寇来襲と云う未曾有の事態から幕府もその対応に忙殺され、阿仏尼の訴訟どころではなかったの。結局、阿仏尼は訴訟の判決をみることも無く、4年間の滞在を経て弘安6年(1283)にこの世を去っているの。後に勝訴の判決が下されるのは阿仏尼が死去した6年後のこと。為相は所領や定家旧居、歌花伝などを引き継ぐと冷泉家を起こしたの。滞在期間が長かったことから多くの知己を得て鎌倉歌壇に活躍し、【藤谷和歌集】などを編んでいますが、歌集の名は為相が浄光明寺北西の藤ガ谷に住んだことから藤谷黄門とも呼ばれたことに由来するの。

供養塔 ところで、黄門さまと云えば水戸光國ですが、黄門とは中納言の中国風の呼び名なの。為相の墓塔である宝篋印塔を取り囲む玉垣は、その水戸光國がこの地を訪ねた際に寄進したものと云われ、水戸の黄門さまが藤谷の黄門さまの遺徳を慕び奉納したと云うわけ。後方の山中には大きな岩蔭に無数の五輪塔が捨て置かれたように無造作に建てられていますが、家人達のものなのでしょうか。花を手向けられた様子も無く、ちょっと寂しい風情を漂わせているの。

8.泉の井 いずみのい



9.妙伝寺 みょうでんじ



泉の井を過ぎて、鈴木造園の角を左折して木立ちの中に続く小さな石段を上るとこの妙伝寺の本堂が建てられているの。元々は東京は文京区白山にあったものが道路拡張工事に伴い新天地を求め、昭和49年(1974)にこの地に移転した来たものと聞きますが、何でまた鎌倉に?縁起など詳細は不明ですが、境内の右手には大きなやぐらがあり、内部には石仏が並び建つの。嘗てこの泉ガ谷には忍性上人が開山したと云われる多宝寺(現在は廃寺)があり、極楽寺や称名寺と共に律宗系の拠点寺院として隆盛したと伝えられることから、やぐらはその時に造られたものかも知れないわね。

10.扇谷上杉管領屋敷跡 おうぎがやつうえすぎかんれいやしきあと

扇谷上杉管領屋敷跡 寿福寺踏切の少し手前には桜の木に寄り添うようにして史蹟碑が建てられ、嘗てこの地に上杉氏が務めた管領屋敷が建てられていたと伝えるの。上杉氏の祖とされる上杉重房は元々は藤原氏の分流で、建長4年(1252)、鎌倉幕府第6代将軍として東下する宗尊親王に従い下向して来たの。重房は親王の近臣として武家となり、丹波国何鹿郡(現在の京都府綾部市)上杉荘を与えられたことから上杉氏を名乗るようになったの。後に重房の孫・清子が足利貞氏の側室となり、尊氏・直義を生むと上杉氏は足利家の外戚として重用されるようになるの。

南北朝時代の貞和5年・正平4年(1349)には東国を管掌する鎌倉府が設置されますが、最初に関東管領として下向して来たのが足利尊氏の嫡子・基氏で、補佐役の執事に任じたのが上杉憲顕と高師冬。混沌とした南北朝時代のことで簡単には説明出来ないのですが、紆余曲折を経て執事役は上杉氏の世襲職となるの。ややこしいことに足利基氏の孫・持氏の代になると関東管領も鎌倉公方と改名され、補佐役の執事も管領と名を変えたの。なので文献を見ても改名前と後の管領が入り乱れていてξ^_^ξの頭も混乱状態。ところでこの持氏ですが、大分血の気が多く大事件を起こしているの。気になる方は小町大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。



桜 桜 史蹟碑の隣には大きな桜が枝を広げていますが、花も見頃を迎えてその見事さに見上げていると、「ねえねえ〜上ばかり見てないで足許も見てよ。わたしもここでちゃんと咲いてるのよ〜」と、根元から声を掛けて来た (^^; のが右側の桜花。花は咲けども 観る人の 一人だに無きぞ悲しき−と云った風情は可憐にして清楚ね。
(C)opyright by myluxurynight.com 2002-2011