≡☆ 鎌倉歴史散策−源氏山公園編 ☆≡
桜の名所でもある源氏山公園では家族連れやグループの方が思い思いの花見を楽しまれていました。
補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

葛原ケ岡〜葛原岡神社〜日野俊基墓〜源氏山公園

   くずはらがおか
4.葛原ケ岡ハイキングコース
山桜 生垣 湧水 木の根
浄智寺の拝観受付脇の出口から谷やつ奥を目指して道なりに歩くと、やがて細い石段の坂道が見えてきます。周囲の岩盤からは清水が湧き出し、路面が泥濘るんでいますので転ばないようにして下さいね。葛原ケ岡への道程の中で一番難所と云えばこの坂道位で、その後多少の高低差はありますが歩き易い道が続きます。ですが足許には気をつけて歩いて下さいね。露出した木の根が地表を這い、他所見をしていると躓いて思わぬ怪我をするかも知れませんよ。何を隠そうξ^_^ξもタイワンリスの鳴き声につられてその姿を追い求めつつ、脇見しながら歩いていたために足元を取られ、危うく転倒するところでした。
天柱峰 森林浴を楽しみながら道なりに歩くと、この天柱峰碑が見えて来ます。ちょうどこの辺りが葛原ケ岡ハイキングコースの中間点。この天柱峰の名付け親は元徳元年(1329)中国より渡来した竺仙梵僊じくせんぼんせん禅師で、浄妙寺に住した後は後醍醐天皇の命を受けて浄智寺に移りますが、禅師は浄智寺の後山にあるこの峰からの景観を殊の外愛し、遙か祖国を想い、天柱峰と名付けたの。奥に見える石造五重塔は竺仙禅師の供養塔です。
嘗ては金宝松(金峰松)と呼ばれる老松が天柱峰に風情を添えていたと伝えます。和賀江島(材木座海岸)を出入りする漁師もその姿に頭を垂れて大漁と航海の安全を祈るなど、当時は視界も開けていたのでしょうが、今となっては周囲の木立ちに阻まれて何も見えないの。ですが天柱峰の地に立てば、そこには黙して座す禅師の姿も浮かび、遙かなる祖国を思慕する禅師の温かな人間性も見えてくるような気がします。
ウグイス ハイキングコースの後半ではウグイスの【谷渡り】を耳にすることも出来ました。谷渡りとは風流な呼び方ですがウグイスにとっては一大事なの。ホーホケキョと縄張りを主張して鳴いている内はいいのですが、その縄張りに天敵などが侵入した時の鳴き声が谷渡りなの。云わば警戒警報発令ね。別に脅す積もりは毛頭無かったのですがウグイスには侵入者と見做されたと云うわけ。
5.葛原岡神社 くずはらおかじんじゃ
葛原岡神社 ハイキングコースの終点が源氏山公園に続くこの葛原ケ岡で、一角には葛原岡神社が鎮座しています。葛原岡神社は後醍醐天皇の朝臣で倒幕計画の首謀者として鎌倉幕府に捕らえられ、この地で斬首された日野俊基を祀る神社で、明治20年(1887)に創建されたものなの。葛原岡神社の御案内をするには正中の変(1324)と元弘の変(1331)を避けては通れませんので少しだけお付き合い下さいね。
CoffeeBreak 葛原ケ岡の地名は嘗てこの辺りに氏祖の葛原かずらはら親王を祀る梶原氏一族の祖霊社が建てられていたことに由来し、いつの頃からか【くずはら】と呼ばれるようになったの。因みに地名は葛原ケ岡ですが神社名にはケが入らず葛原岡神社なの。
日野俊基は後醍醐天皇の下で日野資朝らと共に倒幕計画に加わり、無礼講に事寄せて謀議を企ります。
【太平記】の無礼講事付玄恵文談事の段にはその時の様子が描かれていますので御紹介してみますね。
獻盃の次第上下を云はず 男は烏帽子を脱ぎて髻を放ち 法師は衣を着せずして白衣となる
けんぱいのしだいじょうげをいはず おのこはえぼしをぬぎてもとどりをはなち ほうしはころもをきせずしてびゃくえとなる
年十七八なる女の盻形優に 膚殊に清らかなるを二十餘人
としじゅうしちはちなるむすめのみめかたちゆうに はだへことにきよらかなるをにじゅうよひと
褊の單へ計りを着せて酌を取らせければ 雪の膚すき通りて太掖の芙蓉新たに水を出たるに異ならず
すずしのひとへばかりをきせてしゃくをとらせければ ゆきのはだへすきとほりてだへきのふようあらたにみずをいでたるにことならず
山海の珍物を盡し 旨酒泉の如くに湛えて 遊び戲れ舞い歌ふ
さんかいのちんぶつをつくし ししゅいずみのごとくにたたえて あそびたはぶれまいうたふ
其の間には只東夷を亡ぼす可き企ての外他事なし
そのまにはただとういをほろぼすべきくわだてのほかたじなし
う〜ん、仲々艶なる宴で出席者は皆忠臣蔵の大石内蔵助状態だったみたいですね。ところが正中元年(1324)その謀議が露顕して俊基は資朝と共に捕えられ、鎌倉に送られてくるの。そうして資朝は佐渡配流となるのですが俊基は赦免されているの。本当は二人とも斬首のはずでしたが、斉藤利行なる人物が後醍醐天皇の告文を読み上げようとしたところ、突然吐血して一週間もしない内に死んでしまったからさあ大変。それまで天皇自らが臣下たる武士に告文を出すことなど有り得ず「天慮、其の憚り有りけるにや」と罪一等を減じた処分となったの。【正中の変】
なんだ、斬首になってねえじゃんかよお〜、嘘書くんじゃねえぞ−とお怒りの貴方、
事件には続きがあるの。だったら早く話せよ〜ですね。(^^;
葛原岡神社 正中の変の後、後醍醐天皇の倒幕計画は挫折するどころか積極策に転ずるの。俊基も山伏姿に身を隠して諸国を行脚し、密かに倒幕の志ある者を募るの。一方、天皇家でも鎌倉宮で御紹介した護良親王が天台座主になるなど、寺社の擁する僧兵集団に接近していくの。ところがまたしても計画が漏洩してしまい、俊基は再び捕えられて鎌倉に送られてくるの。後醍醐天皇は止むなく挙兵するのですが、頼みとしていた延暦寺が土壇場で幕府側についたこともあり、敗退してしまうの。【元弘の変】
そうして捕えられた俊基ですが今度ばかりは許されず「俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば遠国に流すまでも有るべからず」と元弘2年(1332)6月、この葛原ケ岡で斬首されたの。【太平記】は俊基被誅事並助光事の段にその時の情景を記します。
俊基疊紙を取出し頚の回りを押し拭ひ 其の紙を推し開きて辭世の頌を書き給ふ
としもとたたうがみをとりいだしくびのまはりをおしのごひ そのかみをおしひらきてじせいのじゅをかきたまふ
古來一句 無死無生 萬里雲盡 長江水清
こらいのいっく しもなくせいもなし ばんりくもつきて ちょうこうみずきよし
筆を擱て鬢の髮を摩で給ふ程こそあれ 太刀かげ後に光れば頚は前に落けるを自ら抱て伏し給ふ
ふでをさしおきてびんのかみをなでたまふほどこそあれ たちかげうしろにひかればくびはまへにおちけるをみずからかかへてふしたまふ
斬首跡 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の 露の恨みや世に残るらん
境内の一角には斬首された場所を示す石碑が建てられていますが、無死無生と詠む一方で、心中はやはり崇徳上皇状態だったみたいですね。その俊基も遙かなる時を経て和魂となり、訪れた人々と共に、桜花の下で詠歌に勤しむなどして、うららかな春の一日を楽しんでいるものと思いたいものですね。
その葛原岡神社の社務所には御覧の案内図が掲げられていました。
主な見処までの所要時間が記載されていますのでお出掛け時の御参考にして下さいね。
案内図 桜 桜
6.日野俊基墓 ひのとしもとのはか
日野俊基墓 葛原岡神社から源氏山公園に向かう途中には、日野俊基の墓と伝えられる宝篋印塔が木立ちに囲まれて建てられています。日野家は代々文章博士などを務めますが、俊基の家系は元々は日野家の家系にはなく養子となったことから日野氏を名乗るようになったの。その出自からすれば俊基の出世は極めて異例のことで、余程の才覚があったのでしょうね。それを見抜いて重用したのが後醍醐天皇なの。葛原岡神社の創建には政治的な匂いがプンプンしますが、俊基が後醍醐天皇の寵臣となり命を捧げたのは、卑賤の身ながら身辺に置いて可愛がってくれたその恩に報らんがための、極めて個人的な理由だったのかも知れませんね。
文章博士:【もんじょうはかせ】と訓んで下さいね。元々は大学寮で中国の歴史書や漢文の教授、詩作などを行う職掌のトップ。大学寮が国立大学なら文章博士はその学部長教授と云うところかしら。天皇の宣旨の文案作成にも携わることから余程の信任が無ければ着任出来なかったの。
日野俊基墓 ここでちょっと内緒話よ。実はこの日野俊基の墓は葛原岡神社の創建と時期を同じくして明治時代になってから造られたものなの。この辺りがよかんべえ〜と現在地が選ばれ、墓塔の宝篋印塔にしても他から掻き集めて修造したもので、意図するところが見え見えね。造営にしても当時の海蔵寺の住持や地元の有力者が中心となって行っているのですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で海蔵寺が加担しているというのが味噌醤油味ね。
その日野俊基墓の麓には御覧のように海棠が見事な花を咲かせていました。
今を盛りにと咲き誇る桜も、この海棠の艶やかな色彩の前では霞んでしまいそうね。
海棠 海棠 海棠 海棠
7.源氏山公園 げんじやまこうえん
そしてその、今を盛りにと咲き誇る桜を皆様にもお届けしましょうね。
ですが見れば見るほど桜餅を連想してしまうのはやはり花より団子かしら。(^^;
桜 桜 桜 桜
源頼朝像 源氏山公園の山頂には源頼朝像が建てられていますが、頼朝入部以前に奥州征伐に向かう八幡太郎こと源義家はこの源氏山に白旗を掲げて気勢を挙げたと伝えられ、白旗山とも旗立山とも云われていたの。後に御紹介します、麓に建つ寿福寺が鎌倉における源氏の総本山なら、その背後に迫る源氏山は源氏の象徴なの。補:ホントの山頂は像の背後に続く石段を登ったところ。因みに標高は92.6mよ。
像の傍らにはタイムカプセルが埋められているの。2000年の源頼朝没後八百年記念事業として行われた小中学生作文コンクールの入選作15作品と市民からのメッセージが収められ、2050年に開封の上公開されると云うの。メッセージのテーマは「21世紀の鎌倉のまち/鎌倉への想い」と題されているようですが、小中学生もその頃には立派なおじいちゃんやおばあちゃんになっている訳で、是非その想いが結実していて欲しいものですね。
婆さんや、これ見てみい。儂が若い時に書いたもんじゃ。
わたしが書いたものも入ってるハズですけどねえ。
おお、あった、あった、きっとこれじゃあ。
何々、緑豊かにして歴史文化の香り溢れる鎌倉−かあ。
何ですか、ひとのものを勝手に読んで。
それにしても鎌倉からは緑も大分減ってしまったのお。
わたしも努力したんですけどねえ。猫の額みたいな庭に緑をいっぱいにして。
何やそれ、儂への当て付けか?
緑にしても婆さんが努力してみたところで大勢に影響無いやろ。
またそんな憎まれ口を。
婆さんが云い始めたんじゃろうが・・・
帰ったら早速草むしりを手伝って下さいね。
緑豊かにしておくのは大変なんですから。
・・・・・
な〜んて会話にならないように。(^^;
下に掲載する写真は青空に映える海棠の花。
桜の花見のはずが海棠ばかりになってしまいましたね。ゴメンナサイ。
海棠 海棠 海棠 海棠
ここで源氏山公園から途中下車する形で銭洗弁天を訪ね、佐助稲荷に脚を延ばしてみましたので引き続きお付き合い下さいね。
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