≡☆ 鎌倉歴史散策−源氏山公園編 ☆≡
 

桜の便りに誘われて春の一日を散策してみました。コースは北鎌倉の東慶寺を皮切りに、浄智寺脇から葛原ヶ岡ハイキングコースを辿り、源氏山公園に桜を愛で、銭洗弁天や佐助稲荷を訪ねてみたの。桜の名所でもある源氏山公園では家族連れやグループの方が思い思いのお花見を楽しんでいたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

東慶寺〜浄智寺〜葛原岡神社〜源氏山公園〜銭洗弁天〜佐助稲荷〜海蔵寺

今回の散策は起点を鎌倉駅からにするか、それとも北鎌倉駅にしようか悩んだのですが、傾斜の緩やかな北鎌倉側から歩いてみることにしたの。北鎌倉と云えば円覚寺や明月院を期待された方もいらっしゃると思いますが、今回は時間の都合で割愛しています。そんなあ〜と、お怒りの方は姉妹編の 北鎌倉編 を御笑覧下さいね。尚、東慶寺や浄智寺の御案内が北鎌倉編と重複していますが、予め御了承下さいね。今回の散策ルートを簡単な地図にしてみましたが、高低差や景観等は実際とはかなり異なりますので、散策する際にはお手許のガイドブック等を御参照下さいね。それでは御一緒に春の麗らかな一日をお楽しみ下さいね。

1. 東慶寺 とうけいじ

北鎌倉駅から鎌倉街道を東に歩くと最初に見えてくるのがこの東慶寺。開山は北条時宗夫人の覚山志道尼で、夫の菩提を弔うために創建したもので、鎌倉尼五山の中で現存する唯一のお寺なの。鎌倉尼五山とは東慶寺・太平寺・国恩寺・護法寺・禅妙寺の五ヶ寺を指すのですが、東慶寺以外は廃寺となり、太平寺は未だしも、他の三ヶ寺はどこに建てられていたのか不確かなら寺史も不詳なの。太平寺については鎌倉歴史散策−二階堂西御門編の 来迎寺 の項で紹介していますので御笑覧下さいね。拝観料:¥100

鎌倉尼五山のことがが気になる方は、三山進著の『太平寺滅亡−鎌倉尼五山秘話』有隣堂刊がお薦めよ。太平寺中興の青岳尼は鎌倉に攻め入った里見義弘に連れ去られて夫婦になるの。太平寺はその事件を機に衰微したと云われ、鎌倉尼五山の筆頭尼寺の衰退理由の一つが略奪愛とは事実は小説よりも奇なりよね。同書ではその青岳尼を中心に論考されていますが、同氏の青岳尼に対する視線が優しいの。実は、その太平寺と東慶寺にも深〜い繋がりがあるのですが、詳しくは同著をお読み下さいね。

境内 嘗ては駆込寺・縁切寺と呼ばれ、どんな事情があろうとも女性の側からは離縁出来なかった時代に男運に恵まれない女性達を救ってきた東慶寺。けれど幾らお寺だからと云って、夫に離縁を認めさせるにはそれなりの権威の裏づけがあってのことで、開山の覚山尼の息子・北条貞時は鎌倉幕府の第9代執権職。その貞時に願い出て、3年間の修行を経た後には離縁が認められるという縁切寺法が成立したの。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の頃には松ヶ岡(鎌倉)御所として御所寺を名乗り、豊臣秀頼の娘・天秀尼が住持の時には幕府への進言を以て会津40万石を取り潰してしまうほど。

お蔭で妻に駆け込まれた夫に限らず、夫の住む村の名主も連帯責任を負わされて、それはそれは大変だったみたい。離婚調停の、云わば裁判所ですが、その威光に素直に了解する者が殆どで、グダグダと異論を唱えていると寺からの脅迫まがいもあったりして必ず離縁させられたの。(^^;

鐘楼 海棠 その際の調停と云うか離婚費用も勿論夫側の負担。更に夫にその支払能力が無いとなると名主がそれを払わされるはめに。駆け込んだ方には一切の負担を求めぬという徹底ぶり。もっとも今で云う慰謝料等は寺入りする際に冥加金として使われ、その金額に応じて使役の格付けがなされてはいたようですが。

石仏
時代は下りますが、徳川家康は豊臣秀頼を討つと豊臣家の断絶を企り、その娘をこの東慶寺に放り込んでしまうの。家康の孫娘・千姫は秀頼の正室でしたが、この娘は千姫の子では無く養女なの。けれど、千姫の哀願もあったのでしょう、さすがの家康も幼女の首をはねるのは躊躇われたようで、男子禁制の東慶寺に入山させてしまったの。僅か7歳にして尼にさせられた天秀尼が、家康の「何ぞの願いあるや否や」の問いに「開山より今日に到る寺法が絶える事の無きように」と返答したと云いますが、7歳の子供に縁切寺法の何たるかが理解出来ていたとは思えず、多分に廻りが云わせたものでしょうね。そうして東照権現・家康公の絶対的なお墨付を得た東慶寺。その威光を最大限に発揮したのが前述の会津40万石の取り潰しなの。

当時の会津藩主・加藤明成は藩の財政を圧迫する城の改修など強行姿勢の政を家老の掘主水から諫められ対立、やがて身の危険を感じた主水は妻子をこの東慶寺に預けて高野山へ逃げ込むの。けれど、さすがの高野山も彼を庇いきれず殺されてしまうの。明成はその後東慶寺にも妻子の引渡を迫り、遂に男子禁制を破って入境するの。怒った天秀尼は会津藩を取るか東慶寺を取るかと幕府に迫ります。当時の将軍・徳川家光はお家断絶&領地没収を決定するの。

実際には強権発動される前に明成は自ら返上を願い出たようですが、幕府の意志決定をも左右する寺法だったのですね。それにしても世に知られた東慶寺の威光を無視して己が怨念の為に40万石を棒に振るとは、愚かな殿様もいたものですね。境内にある資料館・松ヶ岡宝蔵には重要文化財の日記帳や離縁状が展示されているの。日記帳はどんな駆け込みがあったのかを記載した記録文書、離縁状は夫から妻へと渡された離婚同意書で、云わば三行半(みくだりはん)。 当時の離縁状が三行半位の長さで文面が書かれていた事からこの異名を持つようになったの。

この三行半を速やかに得らえた時は今で云う協議離婚成立で、その場合には寺入りせずに直ちに自由放免。一方、強権発動されて離縁した場合には3年間程寺入りして給仕の生活を送らねばならないのですが、それでも尼さんになる必要は無かったの。なので期間が過ぎれば再婚も出来、男尊女卑の時代にあってトコトン女性に優しい東慶寺だったのです。日記帳も現存するのは2冊だけになっていますが、その記録等から類推して江戸末期の150年間だけでもざっと2,000人余の女性達の駆け込みがあったと云われているの。宝蔵入館料:¥300

用堂尼墓 覚山尼墓 天秀尼墓 覚山尼=北条時宗夫人
用堂尼=後醍醐天皇皇女
天秀尼=豊臣秀頼娘(千姫の養女)
千姫=徳川家康の孫娘

境内を更に奥へと歩みを進めると墓苑入口の高台に覚山尼、用堂尼、天秀尼のお墓が並んでいるの。墓苑には他にも小林秀雄、鈴木大拙、高見順、野上弥生子、和辻哲郎氏など、多くの哲学者や文人達が山懐に抱かれるようにしてひっそりと眠っているの。訪ねる際にはその安眠を妨げることの無いようにして下さいね。

一通りの御案内を終えたところで境内に咲いていた花々を纏めて紹介しますね。東慶寺と云えば梅が有名ですが、それ以外にも目を楽しませてくれる花々が境内に彩りを添えてくれるの。訪ねたのは4月上旬ですので参考にして下さいね。珍しいのは三つ目のミツマタの花ね。

unknown 海棠 三椏 椿

2. 甘露の井 かんろのい

甘露の井 浄智寺の総門前にあるのが鎌倉十井の一つに数えられる甘露の井。往時の湧水の勢いがどの程度であったのか知る由もありませんが、池端からチョロチョロと流れ出しているの。嘗ての湧水は鎌倉五名水の一つにも数えられ、北条時宗も喉を潤しながら「甘露、甘露」と宣うたのかも知れませんね。残念ながら今となってはちょっと飲んでみようかしら?などとはとても思えぬ状態になっていますが。(^^;

3. 浄智寺 じょうちじ

山門 浄智寺は北条時宗の弟・宗政が29歳にして夭折したことから、時宗がその菩提を弔うべく夫人と子供の師時を開基として弘安4年(1281)に創建され、嘗ては鎌倉五山の第4位に列せられるほどの大寺だったのですが、関東大震災の際に堂宇の悉くが倒壊してしまい、現在ある堂宇の多くは後に再建されたものなの。緑に覆われた境内は訪れる人も少なく、静かな佇まいを見せていました。総門をくぐり抜け、緩やかな石段を登るとこの楼門が見えてくるの。尾道ではよく見かける楼門ですが鎌倉では珍しいですよね。階上には梵鐘が架けられ、鐘楼を兼ねているの。拝観料:¥150

前景 前景 前景

浄智寺が建てられた頃は禅宗も盛んで、中国から寺院建築の技工達も多く来日していたようですので、この唐風建築となったのでしょうね。残念ながらこの楼門も前述のように関東大震災で倒壊してしまい、後に再建されたものなの。

高野槙

この楼門を抜けた左手には鎌倉一の大きさを誇る高野槙と鎌倉市指定天然記念物の柏槇の巨木が聳え立ち、右手には仏殿の曇華殿(どんげでん)が建てられているの。その曇華殿には室町時代に作られたという阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩の三尊坐像(県重文)が安置されているの。過去・現在・未来を象徴する三仏を拝むことで三世にわたる苦難から救われるそうですので、是非お参り下さいね。

他にも重要文化財に指定される、伝運慶作の地蔵菩薩像があるのですが、現在は鎌倉国宝館に出張中なの。どうしても見たいの(!)と云う方は、鎌倉国宝館へお出掛け下さいね。但し、国宝館では展示内容が不定期に変わりますので、事前確認をお勧めしますね。お問い合わせは TEL:0467-22-0753 へ

ところで弥勒菩薩の梵名のマイトレイヤ Maitreya は「慈より生じたもの」の意なの。弥勒は実在の人物で、インドの婆羅門に生まれ、釈迦の弟子となりますが、未来には必ず成仏するという授記を受けて今なお兜率天で説法教化していると云うの。そうして釈迦が入滅してから何と56億7千万年(!)の後にこの世に姿を現して、全ての衆生を救済すると云われ、現在は菩薩であってもその時には成仏することから未来仏と呼ばれているの。

観音堂 けれど、あなたが曇華殿で弥勒菩薩に己が未来の安穏を祈念してみたところで救済されるは悠久なる遠未来のこと。既に地球の組成物の一つに過ぎない分子レベルになってしまっているでしょう。えっ?その地球さえ宇宙の塵?そしてこの曇華殿で奇異に思ったのが裏側にある観音堂なの。独立した建物では無く曇華殿の裏側に無理矢理嵌め込まれたような造りになっているの。堂内には鎌倉第三十一番札所の聖観音像が祀られていますが、庶民の信仰対象としての聖観音を阿弥陀如来など高位の仏様達と並べる訳にはいかなかったのかも知れないわね。庶民派のξ^_^ξにはこちらの聖観音の方が慈愛に満ちたお姿に見え、親近感を覚えてしまうのですが。

石塔

傍らには小さな石塔や石仏が並ぶの。右側は幼子を胸に抱く母子像ですが、慈愛に満ちたその顔はまさに観音さまの面持ちなの。おそらくは檀信徒の方が奉納されたものなのでしょうが、素朴な中にも我が子の健やかな成長を願う母親の心が伝わって来ますよね。

横井戸 順路に従い歩みを進めると墓苑に出ますが、その右手最奥部には横井戸が掘られているの。傍らの説明書きに依ると、山からの湧水を溜めるために掘られたもので、30数年程前まではコウモリの棲家だったそうよ。中を覗いてみたのですが真暗で何も見えず、今にもコウモリが飛び出して来そうな雰囲気の洞穴よ。嘗ては仏前に供える閼伽水や墨を溶く水として使用していたのかも知れないわね。

五輪塔 岩窟 その横井戸の手前には無数の五輪塔がひしめき、寂しい風情を漂わせているの。供養塔として建てられたものなのか、それとも墓石なのかは分かりませんが、石塔の主達も遙かなる時を経て皆、土に還っていったのでしょうね。静寂の中で岩窟から流れ落ちる水滴の水音はまさに、諸行無常の響き有り・・・

狸の墓 石仏 横井戸で踵を返して再び順路を辿ると竹林に隠れるようにして二匹の狸が仲良く並んでいるの。狸のお墓と記されるだけで、なぜこんな所に狸の墓があるのかは分かりませんが、嘗ての鎌倉は動物達にとっても豊かな森だったのでしょうね。狸の置物は云わば墓石の代わりと云ったところね。その狸のお墓を後にして矢印に従い歩みを進めると再び墓苑に出ますが、傍らの岩窟には鎌倉・江ノ島七福神の一つ、布袋尊が祀られているの。

布袋さまと云うと立派なお腹を想像してしまいますが、ここの布袋さまは意外とスリム。弥勒菩薩の化身と云われる布袋さまのお腹を撫でれば、金運に恵まれると云われているの。なので欲深い参拝者の手垢にまみれて布袋さまのお腹も黒光りしているの。さてはてホントに腹黒くなったのはどちらやら。(^^; その布袋尊ですが、実在した契此(かいし)と云う中国禅宗僧侶がそのモデルで、予知能力に優れ、肩に背負う袋には信者から喜捨された品物を入れていたの。その袋にはこの世のありとあらゆる物が収められ、富の象徴だったの。

未来を知ることは則ち富を得ることに繋がり、金運を呼ぶ神として崇められるようになったの。実在の弥勒が伝説化されて未来仏の弥勒菩薩に昇華して、予知能力に長けた契此は布袋尊となり、いつの頃からか未来という共通項から結びつけられて布袋さまは弥勒菩薩の化身となったと云うわけ。その布袋さまにジャンボ宝籖が当たりますように (^^; と祈念したところで浄智寺を後にしましたが、拝観入口に続く脇道は葛原ヶ岡ハイキングコースで、源氏山公園を抜けて鎌倉大仏で知られる高徳院に向かう大仏ハイキングコースに繋がっているの。

今回の散策ではその葛原ヶ岡ハイキングコースを辿り、先ずは葛原岡神社を目指しました。ここまでが復習編なら次からはようやく本編へと進みますので、一息入れたところでよろしくお付き合い下さいね。

4. 葛原ヶ岡ハイキングコース くずはらがおかはいきんぐこーす

山桜 生垣 湧水 木の根

浄智寺の拝観受付脇の出口から谷(やつ)奥を目指して道なりに歩くと、やがて細い石段の坂道が見えてくるの。周囲の岩盤からは水がしみ出して路面が泥濘るんでいますので転ばないようにして下さいね。葛原ヶ岡への道程の中で一番の難所と云えばこの坂道位で、その後多少の高低差はあるけど比較的歩き易い道が続くの。But 足許には気をつけて歩いて下さいね。露出した木の根が地表を這い、他所見をしていると躓いて思わぬ怪我をするかも知れないわよ。案の定ξ^_^ξもタイワンリスの鳴き声につられてその姿を追い求めつつ、脇見しながら歩いていたので足元を取られて危うく転倒するところだったの。

天柱峰 森林浴を楽しみながら道なりに歩くと、この天柱峰碑が見えて来るの。ちょうどこの辺りが葛原ヶ岡ハイキングコースの中間点になるの。この天柱峰の名付け親は、元徳元年(1329)、中国より渡来した竺仙梵僊(じくせんぼんせん)禅師で、浄妙寺に住した後は後醍醐天皇の命を受けて浄智寺に移りますが、後山のこの峰からの景観を殊の外愛し、遙か祖国のことを想い、天柱峰と名付けたの。奥に見える石造の五重塔は竺仙禅師の供養塔よ。嘗ては金宝松(金峰松)と呼ばれる老松が天柱峰に風情を添えていたと伝えるの。

ウグイス 和賀江島(材木座海岸)を出入りする漁師もその姿に頭を垂れて大漁と航海の安全を祈るなど、当時は視界も開けていたのかも知れませんが、今では周囲の木立ちに阻まれて何も見えないの。But 天柱峰の地に立てば、そこには黙して座す禅師の姿も浮かび、遙かなる祖国を思慕する禅師の温かな人間性も見えてくるような気がするの。ハイキングコースの後半ではウグイスの谷渡りを耳にすることも出来たの。谷渡りとは風流な呼び方ですが、当のウグイスにとっては一大事よ。ホーホケキョと優雅にさえずり鳴いている内はいいのですが、縄張りに天敵などが侵入した時の鳴き声が谷渡りで、云わば警戒警報なの。

5. 葛原岡神社 くずはらおかじんじゃ

葛原岡神社 ハイキングコースの終点が源氏山公園に続くこの葛原ヶ岡で、一角には葛原岡神社が鎮座しているの。葛原ヶ岡の地名は、嘗てこの辺りに氏祖の葛原(かずらはら)親王を祀る梶原氏一族の祖霊社が建てられていたことに由来し、いつの頃からか「くずはら」と呼ばれるようになったの。But 地名は葛原ヶ岡ですが、神社名にはヶが入らず、葛原岡神社なの。その葛原岡神社は後醍醐天皇の朝臣で、倒幕計画の首謀者として鎌倉幕府に捕らえられ、この地で斬首された日野俊基を祀る神社で、明治20年(1887)に創建されたものなの。

その縁起を語るには正中の変(1324)と元弘の変(1331)を避けては通れませんので少しだけお付き合い下さいね。日野俊基は後醍醐天皇の下で日野資朝らと共に倒幕計画に加わり、無礼講に事寄せて謀議を企るの。【太平記】の無礼講事付玄恵文談事の段にはその時の様子が描かれていますので紹介してみますね。

獻盃の次第上下を云はず 男は烏帽子を脱ぎて髻を放ち 法師は衣を着せずして白衣となる
けんぱいのしだいじょうげをいはず おのこはえぼしをぬぎてもとどりをはなち ほうしはころもをきせずしてびゃくえとなる
年十七八なる女の盻形優に 膚殊に清らかなるを二十餘人
としじゅうしちはちなるむすめのみめかたちゆうに はだへことにきよらかなるをにじゅうよひと
褊の單へ計りを着せて酌を取らせければ 雪の膚すき通りて太掖の芙蓉新たに水を出たるに異ならず
すずしのひとへばかりをきせてしゃくをとらせければ ゆきのはだへすきとほりてだへきのふようあらたにみずをいでたるにことならず
山海の珍物を盡し 旨酒泉の如くに湛えて 遊び戲れ舞い歌ふ
さんかいのちんぶつをつくし ししゅいずみのごとくにたたえて あそびたはぶれまいうたふ
其の間には只東夷を亡ぼす可き企ての外他事なし
そのまにはただとういをほろぼすべきくわだてのほかたじなし

う〜ん、仲々艶なる宴で、出席者は皆、忠臣蔵の大石内蔵助状態だったみたいね。ところが、正中元年(1324)、その謀議が露顕して俊基は資朝と共に捕えられ、鎌倉に送られてくるの。そうして資朝は佐渡配流となるのですが、俊基は赦免されているの。本当は2人とも斬首のはずでしたが、斉藤利行なる人物が後醍醐天皇の告文を読み上げようとしたところ、突然吐血して一週間もしない内に死んでしまったからさあ大変。それまで天皇自らが臣下たる武士に告文を出すことなど有り得ず「天慮、其の憚り有りけるにや」と、罪一等を減じた処分となったの。〔 正中の変 〕

なんだ、斬首になってねえじゃんかよお〜、嘘書くんじゃねえよ−とお怒りのあなたへ。
事件には続きがあるの。だったら早く話せよ〜ですね。(^^;

葛原岡神社 その正中の変の後、後醍醐天皇の倒幕計画は挫折するどころか寧ろ積極策に転ずるの。俊基も山伏姿に身を隠して諸国を行脚し、密かに倒幕の志ある者を募るの。一方、天皇家でも鎌倉宮で紹介した護良親王が天台座主になるなど、寺社の擁する僧兵集団にも接近していくの。ところがまたしても計画が漏洩してしまい、俊基は再び捕えられて鎌倉に送られてくるの。後醍醐天皇は止むなく挙兵するのですが、頼みとしていた延暦寺が土壇場で幕府側についたこともあり、敗退してしまうの。〔 元弘の変 〕

そうして捕えられた俊基も今度ばかりは許されず、「俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば遠国に流すまでも有るべからず」と、元弘2年(1332)6月、この葛原ヶ岡で斬首されたの。【太平記】は俊基被誅事並助光事の段にその時の情景を次のように記すの。

俊基疊紙を取出し頚の回りを押し拭ひ 其の紙を推し開きて辭世の頌を書き給ふ
としもとたたうがみをとりいだしくびのまはりをおしのごひ そのかみをおしひらきてじせいのじゅをかきたまふ
古來一句 無死無生 萬里雲盡 長江水清
こらいのいっく しもなくせいもなし ばんりくもつきて ちょうこうみずきよし
筆を擱て鬢の髮を摩で給ふ程こそあれ 太刀かげ後に光れば頚は前に落けるを自ら抱て伏し給ふ
ふでをさしおきてびんのかみをなでたまふほどこそあれ たちかげうしろにひかればくびはまへにおちけるをみずからかかへてふしたまふ


秋を待たで葛原岡に消ゆる身の 露の恨みや世に残るらん


境内の一角には斬首された場所を示す石碑が建てられていますが、無死無生と詠む一方で、心中はやはり崇徳上皇状態だったみたいね。その俊基も遙かなる時を経て和魂となり、訪れた人々と共に、桜花の下で詠歌に勤しむなどして、うららかな春の一日を楽しんでいるものと思いたいものね。

その葛原岡神社の社務所には御覧の案内図が掲げられていました。
主な見処までの所要時間が記載されていますのでお出掛け時の参考にして下さいね。

桜 桜

6. 日野俊基墓 ひのとしもとのはか

日野俊基墓 源氏山公園に向かう途中には、日野俊基のものとされる宝篋印塔が木立ちに囲まれて建てられているの。日野氏は代々文章博士などを務めますが、俊基の家系は元々は日野氏の家系ではなく、養子となったことから日野氏を名乗るようになったの。その出自からすると俊基の出世は極めて異例のことで、余程の才覚があったのでしょうね。それを見抜いて重用したのが後醍醐天皇なの。葛原岡神社の創建には政治的な匂いがプンプンしますが、俊基が後醍醐天皇の寵臣となり命を捧げたのは、卑賤の身ながら身辺に置いて可愛がってくれたその恩に報らんがための、極めて個人的な理由だったのかも知れないわね。尚、文章博士は「もんじょうはかせ」と訓んで下さいね。元々は大学寮で中国の歴史書や漢文の教授、詩作などを行う職掌のトップなの。今に例えたら大学寮が国立大学なら文章博士はその学部長教授と云うところかしら。天皇の宣旨の文案作成にも携わることから余程の信任が無ければ着任出来なかったの。

ここでちょっと内緒話よ。実は、この日野俊基のお墓は葛原岡神社の創建と時期を同じくして明治時代になってから造られたものなの。この辺りがよかんべえ〜と現在地が選ばれ、墓塔の宝篋印塔にしても他から掻き集めて修造したもので、意図するところが見え見えね。造営にしても当時の海蔵寺の住持や地元の有力者が中心となって行っているのですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で海蔵寺が加担しているというのが味噌醤油味ね。

その日野俊基墓の麓には御覧のように海棠が見事な花を咲かせていました。
今を盛りにと咲き誇る桜も、この海棠の艶やかな色彩の前では霞んでしまいそうね。

7. 源氏山公園 げんじやまこうえん

そしてその、今を盛りにと咲き誇る桜を皆様にもお届けしましょうね。
ですが、見れば見るほど桜餅を連想してしまうのはやはり花より団子かしら。(^^;

源氏山公園の山頂には御覧の源頼朝像が建てられていますが、頼朝の入部以前に奥州征伐に向かう八幡太郎こと源義家はこの源氏山に白旗を掲げて気勢を挙げたと伝えられ、白旗山とも旗立山とも云われていたの。この後紹介する寿福寺が鎌倉における源氏の総本山なら、その背後に迫るこの源氏山は源氏の象徴でもあるの。尚、本当の山頂は源頼朝像の背後に続く石段を登ったところにあり、標高は92.6mよ。像の傍らにはタイムカプセルが埋められているのですが、2000年の源頼朝没後800年記念事業として行われた小中学生作文コンクールの入選作15作品と市民からのメッセージが収められ、2050年に開封の上公開されると云うの。

メッセージのテーマは「21世紀の鎌倉のまち/鎌倉への想い」と題されているようですが、小中学生もその頃には立派なおじいちゃんやおばあちゃんになっている訳で、是非その想いが結実していて欲しいものね。

婆さんや、これ見てみい。儂が若い時に書いたもんじゃ。 わたしが書いたものも入ってるハズですけどねえ。 おお、あった、あった、きっとこれじゃあ。
何々、緑豊かにして歴史文化の香り溢れる鎌倉−かあ。
何ですか、ひとのものを勝手に読んだりして。 それにしても鎌倉からは緑も大分減ってしまったのお。 わたしも努力したんですけどねえ。猫の額みたいな庭に緑をいっぱいにして。 何やそれ、儂への当て付けか?
緑にしても婆さんが努力してみたところで大勢に影響無いやろ。
またそんな憎まれ口を。 婆さんが云い始めたんじゃろうが・・・ 帰ったら早速草むしりを手伝って下さいね。
緑豊かにしておくのは大変なんですから。
・・・・・

な〜んて会話にならないように。(^^;
下に掲載する写真は青空に映える海棠の花。
桜のお花見のはずが海棠ばかりになってしまいましたね。ゴメンナサイ。

ここで源氏山公園からは途中下車する形で銭洗弁天を訪ね、佐助稲荷に足を伸ばしてみましたので、引き続きお付き合い下さいね。

8. 銭洗弁天 ぜにあらいべんてん

石標 源氏山公園から急な坂道を下ると途中に鳥居が見えて来ますが、多くの欲深き (^^; 善男善女が福徳を求めて訪ね来る銭洗弁天。傍らに建てられた石標にもあるように、正式な名称は銭洗弁財天宇賀福神社なの。縁起に依れば、源頼朝が鎌倉に入部してから最初の巳年となる文治元年(1185)の巳月巳日巳刻、老翁の姿と化した宇賀福神が頼朝の夢枕に立ち、「之より西方に一つの谷あり 境域清浄にして神泉あり 今より後その霊水を汲み来りて 絶えず城中にて用い 天神地祇両部会の神仏に供養せし時は 人民おのずから信心を起こし 四海の内豊楽の栄を見ん 吾はすなわち隠里が主 宇賀福神なり」と告げたと云うの。その奇瑞に歓喜した頼朝は、その神泉を探索させてこの洞窟に湧く清水を見つけたの。そうしてその場所に社を建て宇賀福神を祀ったと云うの。

隧道 正嘉元年(1257)には北条時頼が頼朝の信心に倣い、「之を信仰するもの 貨幣を持ち来たりてこの霊水にて その心と共に洗い清める時 不浄の塵垢は消えて福銭となり 一粒万倍の功力を顕し 一家繁昌子孫長久の守りとなるべし」と自らも銭を洗い、参詣を奨めているの。それからと云うもの、人々はこの宇賀福神を訪ね来ては懐の銭を洗い清め、福徳を祈念するようになったと伝えられているの。今ではその霊威も増して、流水でお金を洗うと何倍にもなって還ってくると云われているのですが、縁起では飽くまでも「その心と共に洗い清める時 〔 中略 〕 一粒万倍の功力を顕し」としているところが味噌醤油味ね。

宇賀神はその名から連想されるように、稲荷神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一神と見做され、食物を司る神であり、豊作を祈願する農耕の神でもあったの。一方、田植えの時期になると現れる蛇は、古来より恵みの雨を齎す水神として崇められていたのですが、宇賀神はその蛇の水神信仰とも結び付き、やがて鎌倉時代に隆盛する弁才天信仰に習合していくの。

弁財天は元々古代インド神話ではサラスバティ Sarasvati と呼ばれる河の神でしたが、妙なる川の調べから音楽やことば(=弁舌)を造りあげた神として崇められ、智慧の神にもなったの。そのサラスバティも仏教に採り入れられると弁才天となり、智慧は色々なものを生み、名声や富みを齎してくれることから広く信仰されるようになるの。宇賀神はその弁才天の使いである蛇を通して弁才天に習合し、その弁才天も後に金銀財宝など金運を齎す弁財天として更にパワーアップ。智慧は光り輝く金銀財宝の前にすっかり姿を消してしまったみたいね。(^^;

七福神社 宝船 七福神社 七福神
隧道を抜けた右手には七福神社が鎮座しているの。今では弁財天も七福神の一神として祀られることが多くなりましたが、ここではその七福神が勢揃いしているの。見ていると皆さん素通りされて行きますが、福徳が凝縮された七福神社を御参りしない手はありませんよね。

七福神の画像は Harumi's Home Page さんに掲載されるものをお借りしています。
But 現在は閉鎖されてしまったみたい・・・

桃 七福神社の左手には白い桃の花が咲いていました。その姿形はお正月などに飾られる繭玉にも似て、隣にはピンク色の花びらが混じる、キメラ状態の花もありました。キメラとは遺伝子の異なる細胞が混じることで色違いの花をつけることを云い、ギリシャ神話に描かれる、頭はライオン、身体は山羊で尻尾は蛇からなる怪獣に由来するの。ギリシャ神話には他にも翼を持つ馬のペガサスなど、多くのキメラ状態の神々が登場しますよね。

桃 【古事記】でも、黄泉の国から逃げ帰る伊邪那岐命がその実を追手に投げつけ無事に帰還するなど、桃には古来より霊力が存在すると信じられていたの。そして桃と云えば桃の節句ですが、元々は上巳の節句と呼ばれ、川畔で禊をしたことに始まるの。この上巳と云うのが陰暦三月の最初の巳の日のことで、桃と蛇の不思議な関係ですよね。その繋がりを紐解こうとすると深みに嵌まりそうなので省略しますね。と云うか、ホントは知らないの。(^_−)−☆

滝壺 下之水神宮 下之水神宮

上掲は水を司る水波売神(みずはのめのかみ)が祀られる下之水神宮。
左手には湧水が滝壺に流れ落ち、龍神が潜むにふさわしい佇まいを見せているの。

上之水神宮 上之水神宮 替わってこちらは下之水神宮から続く石段の先に鎮座する上之水神宮で、同じく水波売神が祀られているの。社殿の欄間には見事な龍の彫物が施され、傍らの池には金魚が放流されているの。龍神に呑み込まれてしまうのではと心配してしまいますが、水を司る水波売神は生き物達にも福徳を齎す優しい神さまみたいね。

宇賀神 上之水神宮から石段を下ると本宮脇に出ますが、社殿の背後には湧き水を護る龍神像が置かれているの。銭洗弁天の境内に湧く清水は、嘗ては鎌倉五名水の一つにも数えられ、貴重な湧水だったの。当時の人々はその清らかな湧き水に霊力を認め、事ある毎にそのエネルギーにあやかろうとしたの。今ではその水もお金を出して買い求めるような時代となり、宇賀神もさぞかし嘆いていることでしょうね。エッ?怒ってる?そうかも知れないわね。

本宮 本宮には市杵島姫命が祀られていますが、市杵島姫命は天照大神と素戔鳴尊が高天原の天安河で誓約(うけひ)した際に生れた、田心姫・市杵島姫・湍津姫命の宗像三女神の一柱で、三神は天照大神より「汝(いまし)三神 天孫を助け奉りて天孫に斎かれよ」と命ぜられて、宗像の地(現・宗像神社)に祀られるようになったの。その名が示すように市杵島姫命は斎(いつ)き祀る嶋の神子(≒巫女)の意で、天孫降臨を援ける役目を担うことから、やがて航海安全などを司る海の守護神となったの。

誓約(うけひ) = 誓うと云うよりも神意を伺う、祈りに近い行為(≒卜占)
素戔鳴尊(すさのおのみこと)= 須佐之男命
田心姫(たごりひめ)= 多紀理毘売命
市杵島姫(いちきしまひめのみこと)= 市寸島比売命
湍津姫命(たぎつひめのみこと)= 多岐都比売命

以上は【記紀】に描かれる市杵島姫命の誕生譚ですが、実際には玄海灘に浮かぶ島々を神格化したものが宗像三女神で、元々は筑紫国の地方神に過ぎなかったの。熊襲征伐を行い、中央集権化を謀る大和朝廷にしてみれば自らの権威を正当化するために在来の地方神も採り込む必要があったと云うわけ。後に大陸との交易などを通じて航海の守護神としての神威が高まり、とりわけ脚光を浴びたのがこの市杵島姫命なの。

その市杵島姫命はやがて仏教の本地垂迹説に依り弁才天と習合されてしまうの。市杵島姫命が古代インド神話に登場するサラスバティをルーツとする弁財天の仮身とは些か強引過ぎるのでは?と思ってしまいますよね。確かに海を通じてインドを流れる大河と玄海灘は繋がっているのですが。サラスバティは海流に乗り、玄海灘に流れ着いたのでしょうね、きっと。(^^;

と云うことで、本宮には弁財天をお祀りしてもおかしくは無いと思うのですが、明治期の神仏分離令に依り、本来の市杵島姫命の姿を取り戻したと云うことなのかしら。市杵島姫命も弁財天も見目麗しい美貌の持ち主で、女神さまあ〜!と祈念すれば、あなたの願いもきっと聞き届けて下さると思いますよ。ξ^_^ξも買い求めたロウソクを献灯して拝。アレ?神前には榊じゃなかったかしら?気にしない、気にしない。(^^;

奥宮 奥宮 奥宮 奥宮

その本宮脇にぽっかりと口を開けた岩窟が奥宮で、銭洗弁天の銭洗いたる由縁の聖地。洞内は満員御礼状態で竹笊を片手に順番を待つ方々が肩を触れ合わんばかり。なので洞内の全景を収めることが出来ず、天井ばかりになってしまいました。ゴメンナサイ。洞内の一角には奥宮祭神の弁財天を祀る祠がありますが、皆さん誰も見向きもせずに銭洗いの場へまっしぐら。(^^; その流水場の左手には龍(蛇)神を祀る小さな祠が建てられているの。

五名水の碑 福徳を願う皆さんの気迫に負けて奥宮を後にしましたが、奥宮の左手には数多くの奉納鳥居が並ぶの。その手前に控えめに建てられているのがこの石碑で、弁財天像と共に鎌倉五名水・福神銭洗水図の文字が刻まれているの。嘗ての名水はこの場所から湧き出していたのかしら?重なり合う鳥居を抜けると「こくに茶屋」がありますが、土産物が並べられる一角にはガラスケースに入れられて小さな白蛇が祀られていたの。お店の方にお伺いしたところ、ある朝店の扉を開けようとしたら店先に蹲っていたそうで、ちょうどその日がその年最初の巳の日だったことから弁財天の思し召しと鄭重にお祀りしているとのこと。

その供物として鶏の卵が売られていますが、うずらの卵なら未だしも、鶏卵では大き過ぎるんじゃあないの?と思う程小柄な白蛇なの。白と云うよりも黄金色した神々しいいでたちの白蛇で、爬虫類が苦手なξ^_^ξでも思わず語りかけたくなるような。いずれは鶏卵を呑み込めるほどになるでしょうから、見てみたいなと云うあなた、お早めにお出掛け下さいね。その「こくに茶屋」からは佐助稲荷へと抜ける近道が通じているの。

9. 佐助稲荷 さすけいなり

社務所 嘗てこの辺りは隠れ里と呼ばれ、人が訪ね来ることも余り多くは無かったと聞きますが、今では住宅が密集して建てられているの。その狭間を縫うようにして道なりに歩くとやがてT字路に出ますが、それを右手に折れて谷奥(やつおく)に向かうと、社務所脇に立てられた幟が見えてくるの。こじんまりとした社務所ですが、気になったのは傍らに祀られる縁結び十一面観世音菩薩なの。

略縁起には江戸時代の事として、良縁に薄く諦めて仏門に入られた美しい姫君・赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことを祈念して彫られたもので、後に縁あって足柄郡の尼寺からこの地に移設安置された−と、記されているの。そこには歴史に翻弄された姫君の悲しい物語がありそうな予感がするのですが、詳細は不明なの。どなたか御存知の方がいらっしゃいましたら是非御教示下さいね。社務所前から続く参道には無数の鳥居が建てられ、奉納幟が風に揺れているの。

石標 石標 ところで皆さん、道端に停められている自転車を覚えておいて下さいね。この自転車の主ですが、近在の方のようで、咥えタバコに鼻歌混じりでやって来ると、おもむろに自転車を停めて参道を登り始めたの。最初はこの人いったい何なの?と訝しく思っていたのが正直なところなの。ですが、この後、ある光景を目にして我が身を恥じて猛省した次第なの。

鳥居 佐助稲荷を参拝する前に、ここでその由来などを紹介してみますね。現在は佐助と呼ばれるこの地ですが、嘗てこの辺りには上総介・千葉介・常陸介の屋敷が建てられていたことから三介ガ谷と呼ばれ、その三介が転じて佐助となったとする説もありますが、有名なのが頼朝に由来する縁起譚なの。それに依ると伊豆の蛭ヶ小島へ配流されていた時のこと、ある日病に伏す頼朝の夢枕に一人の老翁が現れて、平家打倒の挙兵を促して時期の到来を告げ、頼朝が老翁にその正体を訪ねると、ただ隠れ里の稲荷神と告げて消え去ってしまったと云うの。補:介は現在の副知事に相当

汝 この薬草を煎じて飲まばその病い必ずや癒えぬ 今や奢れる平氏に 世は紊乱す
汝(な)こそは清和源氏の嫡流にして平家を討ちとらるる天命を負う者なり
既に時節到来す 急ぎ兵を挙げてこれを討つべし 勝つは必定

狐 後に平家討伐の念願がかなった頼朝は、隠れ里の稲荷祠を探し出すと、配下の畠山重忠に命じて稲荷神の加護に感謝してこの地に新たな社殿を造営したの。当時の頼朝が佐(すけ)殿とも呼ばれていたことから、佐殿を助けた稲荷に因み、佐助と呼ばれるようになったと云われているの。縁起では配流の身から後に征夷大将軍となった頼朝に因み、出世稲荷としても広く崇敬されるようになったと記しているの。

CoffeeBreak 佐(すけ):頼朝の配流時の肩書きが右兵衛佐。兵衛は天皇行幸時などに従い雑役を担う職掌で、左右に管掌が分かれて頼朝は右兵衛に属し、兵衛佐を略して単に佐とも呼ばれていたの。尚、【吾妻鏡】が頼朝を指して云う場合の武衛とは兵衛の中国式呼称なの。

鳥居のトンネルを潜り抜けて石段を登るとあるのが本宮で、傍らには狐を従えた稲荷神が祀られているの。その佇まいを写真に収めていたら背後から突然祝詞を奏上する声が聞こえてきたの。神主の方が来られたのかと思いきや先程の自転車の持ち主の方で、ξ^_^ξは思わず目が点になってしまいました。単なる興味本位で訪ねた我が身に比べ、信仰心から訪ね来られたこの方に怪訝な思いをした自分を思わず恥じた次第。失礼かとは思いましたが、祝詞を唱えながら頭を垂れるその姿に感動さえ覚え、一枚収めさせて頂いたの。佐助稲荷にはたおやかな庶民の祈りが今でも息づいているのね。

宇加御魂命(うかのみたまのみこと)= 宇迦之御魂神
大宮女命(おおみやひめのみこと)= 大宮能売神(おおみやのめのかみ)
大巳貴命(おおなむちのみこと)= 大国主命(おおくにぬしのみこと)
佐田彦命(さるたひこのみこと)= 猿田彦命
事代主命(ことしろぬしのみこと)
佐助稲荷の祭神は上記の五柱で、宇加御魂命=稲荷神ね。

聞き慣れない神名の大宮女命ですが、大宮能売神のことで、元々は稲荷神の宇迦之御魂神に仕える巫女が後に神格化されたものと云われているの。稲荷神と共に祀られるようになると、五穀豊穣などの恵みを齎してくれる神さまとして広く崇められたの。稲荷神は後に商業の発達に合わせて商売繁盛にも神徳を顕わすようになりますが、それには市場の守護神としても祀られた大宮能売神が大いに貢献したの。その大宮能売神も現在では大黒さまと共にデパートにも祀られるようになったの。天照大神の侍女とも云われる大宮能売神が商業施設の頂点に祀られるようになるとは、天照大神も想像だにしていなかったでしょうね。(^^;

リス リス 境内は稲荷神の御神徳に護られているせいでしょうか、タイワンリス達の絶好の遊び場にもなっていたの。何かと物議をかもす彼等の存在ですが、元はと云えば人の手に依り持ち込まれたもの。鎌倉の住人でもない無責任な旅人の発言を許して頂けるのであれば、上手く共存共栄していって欲しいものですね。

稲荷塚 奥宮の左手には裏大仏ハイキングコースへの登り道が続きますが、その入口に小さな鳥居が建ち、岩蔭に隠れるようにして二基の祠が並び建てられているの。傍らの案内板に依ると、稲荷の御塚(おつか)と呼ばれ、社と云うものが無かった頃には岩や盛土した塚などを斎場として神さまを招いて祭祀していたもので、この塚は佐助稲荷の最古の祭場と伝えているの。いつ頃からこの地で祭祀されるようになったものかは分かりませんが、稲荷信仰の原初形態なのでしょうね。その稲荷塚から下ると数多くの石祠が建つ一角に出るの。

苔むすままに朽ちゆくその姿形からすると、稲荷神と云うよりも、古の人々が春になると田の神となり、秋になると再び山に帰り行く山の神に五穀豊穣や日々の安寧を願っていたようにも思えるの。稲荷神は在来の自然崇拝の信仰などと習合しながら各地に広まりますが、これらの祠はその境界線上にあるような気もしますね。門外漢の勝手な推論ですが・・・

境内を一巡りして拝殿前に戻りましたが、縁起が書かれた掲示板があり、金兼藁の源十郎弥十郎事の段に記載の佐助稲荷霊験譚と説明書きがされていました。ちょっと長いので恐縮ですが、脚色してお届けしてみますね。

むか〜し昔のことじゃけんども源十郎というもんがおってのお、魚を売り歩くのを業としておった。そんなある日のことじゃった。源十郎が獲れたばかりの魚をしょいこ※に入れて浜を通り過ぎようとした時のことじゃった。一匹の犬が狐を追いかけておってのお、狐はようよう逃げ切れぬと思うてか、源十郎のしょいこの中にヒョイと飛び込んでしもうた。源十郎もその狐が可哀想になってのお、犬を追い払うとその狐を助けてやったのじゃ。 ※しょいこ=背負子。背中に負う竹籠のこと

その晩のことじゃった。一仕事終えて眠りに就いた源十郎じゃったが、夢の中にその狐が現れてのお。狐が云うには「きょうは源十郎殿のお蔭で命拾いをしました。今宵はその恩返しがしたいと思い、やって参りました。源十郎殿、魚売りはやめて左介谷の地を耕し蘿蔔※をつくるべし。さすれば大きな富が得られましょうや」そう告げると狐は消え去ってしもうたのじゃ。そうして夢から覚めた源十郎じゃったが、俄には信じられんかった。じゃけんども源十郎は狐に云われたように左介谷に土地を借りてのお、畠を耕すと蘿蔔をつくりはじめたのじゃ。 ※蘿蔔=らふく。ダイコンのこと

ちょうどその年の冬のことじゃった。鎌倉中に疫病がはやってのお。富める者も貧しき者もみな病いに倒れ、死ぬ者も多かったのじゃ。そんな時ある人の夢枕に神さまが立ち「 左介谷の源十郎がつくりたる蘿蔔を食すれば病いはたちどころに癒えるべし」とお告げがあったそうじゃ。その噂は忽ち鎌倉中に広まってのお。そうして源十郎の蘿蔔を食した者は病いも治まり、源十郎のもとにはその蘿蔔を買い求めにやってくる者が絶えなかったそうじゃ。源十郎の蘿蔔は飛ぶように売れてのお、数も少なくなってくると高値で売れるようになったのじゃ。そうして源十郎は忽ち大金持ちになってのお、これもみな狐のお告げのお蔭じゃと、源十郎は社を建ててお祀りしたんじゃと。そのお稲荷さんが今の佐助稲荷だと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

佐助稲荷縁起譚では「寛元の頃 鎌倉に疫病流行せし時 佐介稲荷の大神 再び奇瑞を現し給い 霊種をして薬草を生ぜしめ 病苦の者悉く癒し給いぬ」と続けるの。【吾妻鏡】の寛元2年(1244)4/26の条にも「近日咳病温気流布し 貴賤上下免がるること無し」と記され、佐助稲荷が奇瑞を顕わしたのも、源十郎が蘿蔔で大金持ちになったのもその時のことでしょうね。医学的な知識の無いξ^_^ξには咳病温気がどんな病気で、ダイコンの薬効の真偽も不明ですが、薬味にも使われるダイコンには食当たり防止に効能ありと聞きますので、何等かの効き目があったのでしょうね。

10. 化粧坂 けわいざか

化粧坂 源氏山から扇ガ谷に下る坂道がこの化粧坂。その名の由来については平家方の武将の馘を首実検するために化粧した所だとか、嘗て娼家が建ち並び賑わいをみせていたことから名付けられたとかの諸説があるのですが、化粧の字に拘りすぎの感がしないでも無いわね。と云うのも【吾妻鏡】では気和飛坂と記し、【太平記】では仮粧坂。他にも気生とか形勢なんてものまであるの。早い話が分からないと云うことよね。【吾妻鏡】の建長3年(1251)12/3の条には
鎌倉中の在々處々 小町屋及び賣買設の事 禁制を加うべきの由 日來その沙汰有り 〔 中略 〕 鎌倉中小町屋の事 定め置かるる處々 大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江 大倉辻 氣和飛坂山上

化粧坂 と、記されているの。要は−勝手に町なかに店や家を建てるんじゃねえ!但し、大倉や大町小町、米町、亀ケ谷に和賀江(現在の材木座海岸)、化粧坂の山上には認めてやる!−と云うことよね。大倉や大町小町は現在の様子からしても分かるような気がしますが、奇異に感じてしまうのが亀ヶ谷とこの化粧坂ね。けれど、嘗ては鎌倉七口の一つにも数えられ、亀ヶ谷の切り通しと共に、藤沢から武蔵へと通じる交通の要でもあったの。山上では行き交う人々を相手に賑やかに物売りをする人達の姿があったのかも知れないわね。

前述のお触れ書きには引き続き「牛を小路に繋ぐべからざる事 小路は掃除を致すべき事」と、あるの。勝手に牛を繋ぎ留めるんじゃねえ、道もちゃんと掃除せんかあ!−と云うことで、裏を返せば、その辺りに牛を勝手に繋ぎ留めておく人が多く、道も汚かったと云うことよね。きっと穫れた野菜など商いの品々を牛の背に載せて店先に運び込んでいたのかも知れないわね。そのせいで牛の糞で道が汚れていた?(^^;

化粧坂 ちょっと悪ふざけが過ぎましたので話しを元に戻しますね。嘗ての切り通しは交通の要路であると共に戦略上の要害の地でもあり、この化粧坂切り通しも決して例外ではなかったの。後醍醐天皇の倒幕に加わった新田義貞の軍勢は極楽寺坂・巨福呂坂・化粧坂の三方向から鎌倉に攻め入るのですが、中でもこの化粧坂は市中に一番近い距離にあり、突破されてしまえば陥落せざるを得ない状況から、その攻防は熾烈を極めたの。坂道に残る置き石はその一部始終を見ていたわけですが、黙して語らず、強者共が夢の跡と云ったところね。それにしても新田義貞の軍勢が「いざ鎌倉へ」の道を通って攻め込むとは皮肉な歴史の一頁よね。化粧坂の麓は現在では閑静な住宅地になっていますが、嘗ては娼家が建ち並び、賑わいを見せていたと云うの。【曾我物語】の曾我五郎も遊里の少将と云う女性に熱をあげていたみたいね。その五郎が遊里の少将に書き送ったものとされる歌が残されているの。

逢うと見る 夢路に留まる 宿もかな 辛き分かれに 又も帰らん

少将も五郎亡き後は剃髪して菩提を弔いながら生涯を終えているのですが
添い遂げることは出来なくとも、ここまで想われたら女性としては幸せよね。

11. 景清土牢 かげきよどろう

景清土牢 化粧坂を下り、しばらく歩くと右手に景清土牢が見えてきますが、現在では半分以上が欠落してしまい、水鑑景清大居士と刻まれた墓標が建てられているだけなの。景清とは平(藤原)景清のことで、上総七郎兵衛尉とも、悪七兵衛景清とも呼ばれる平家方の武将で、【平家物語】に描かれる四国屋島の戦いでは、その勇猛さに恐れをなして逃げようとする源氏の武将の錣(しころ)※を掴み、振り回しているの。檀ノ浦の合戦で平家が滅んだ後も、密かに頼朝暗殺の機を窺うなど抵抗を繰り返していたのですが、遂に捕えられて鎌倉に連行されて来たの。※兜の垂れた部分のこと

最初は和田義盛の預かりの身となるのですが、その剛勇振りにさすがの義盛も閉口して預かり役を返上してしまったの。その後を引き継いだのが八田知家と云う武将ですが、義盛同様景清を厚遇するの。けれど源氏が覇者となり隆盛していく様を見て諦観したのか、やがて一人この土牢に入ったの。八田邸からは毎日食事が届けられたのですが、その食も絶ち、読経の声も小さくなると、やがて入滅したと云われているの。

ねえねえ、和田義盛や八田知家はどうして敵だった景清を厚遇したの? いざと云う時にはその豪勇さが役立つと考えて自分の配下となることを期待したの。
どうでえ、平家のことなんぞきれいさっぱり忘れちまって俺と組まねえか?と云うわけ。

けれど、豪勇を以て知られた英雄はそう簡単には死なせては貰えなかったの。頼朝の前に引き出された景清は−てやんでえ、源氏の世など見たくも無いわ−と豪語すると己が両眼を刳り貫き差し出したとか、討ち死を覚悟で剛力に任せて牢破りをして逃げ出した等など、様々な伝説が生み出されていくの。歌舞伎でも盲目となった景清は日向国に流され、人目を避けて遁世したところを娘に探し出され、親子の再会を果たす話しが演じられるなど、枚挙に暇が無いの。この土牢も実際のところは逸話が語り継がれていく中で後世に造作されたものとされているの。But 土牢の傍らに立てば非業の死を遂げた景清の無念の思いが今でもそこに蹲っているような気もしてくるの。水鏡景清大居士の水とは道徳を指すことばで、道徳の鑑で「道徳の手本とすべき人」の意なの。武勇に感嘆した頼朝から源家に仕えぬかと誘われても笑止千万と喝破、敗残の身とは云え敵の施しは一切受けぬと断食して果てた景清は、まさに武士の鑑と云うわけ。

庚申塔 景清土牢を後に海蔵寺へと向かいましたが、その途中で見つけたのがこの 庚申塔 なの。元はやぐらだったと思われる岩窟に、今はこの庚申塔一基のみが静かに祀られているの。掲載の写真では分かりませんが、猿田彦の文字が刻まれているの。猿田彦が庚申の主尊として祀られるようになるのは江戸時代以降のことですから、後世に建てられたものね。景清の娘・人丸は父の菩提を弔うために剃髪して海蔵寺近くに庵を結んだと伝えられますが、このやぐらに嘗ては景清の亡骸が収められていたのかも知れないわね。But 鵜呑みにしないで下さいね、単なる空想ですから。(^^;

12. 底脱の井 そこぬけのい

底脱の井 谷戸に向かい、更に足を進めると海蔵寺への入口が見えて来ますが、その傍らにあるのが鎌倉十井の一つに数えられる底脱の井。説明書きに記される逸話では、安達泰盛の娘・無外如大尼(むがいにょだいに 幼名・千代能)が、ある夜この井戸に水を汲みに来た帰り道、水桶の底がすっぽりと抜けてしまい、「千代能がいただく桶の底ぬけて 水たまらねば 月も宿らず」と詠み、悟りを開いたことから名付けられたと云われているの。桶の底が抜けたことで一切のわだかまりから解放されたと云うことですが、それこそ禅問答の世界で、煩悩の塊みたいなξ^_^ξでは「なあ〜に〜この桶、ちゃっちいのお〜」で、終えてしまうところね。(^^;

ところで、この千代能(千代野)という女性はかなり謎めいた女性のようで、金沢(北条)顕時の娘で、足利貞氏(尊氏の父)に嫁いだ−とする説や、顕時は嫁ぎ先だとか、いや、嫁いだのは顕時の父の実時だとか、もう諸説紛々なの。夫に先立たれた後は上洛して禅の修行に邁進し、詠歌はその時のものと伝えられているの。だとすると、この底脱の井を舞台にしたものでは無くなってしまうわね。加えて、その頃は未だ下女として働く身で、詠んだ歌も「兎に角に工みし桶の底ぬけて」だとする異説もあるの。

更なる別伝では「賤の女(しずのめ)がいただく桶の底脱けて ひた身にかかる 有明の月」と詠んだとされているの。いただく桶とあるように、手桶と云うよりも頭に載せる水桶で、その底が脱けたと云うのですから全身ずぶ濡れ状態よね。なので「ひた身にかかる」の掛詞になる訳ですが、ちょっと悲しい情景でもあるわよね。え?そう思うこと自体が煩悩?

その詠歌を献じた無学祖元(仏光国師)からは法嗣を許され、山城国愛宕郡で京都尼五山の筆頭寺院ともなる景愛寺(現在は廃寺)を開山したとも云われ、別伝ではその景愛寺に近い本隆寺の古井戸を無外如大尼の遺徳を慕う人々が後に千代野の井と名付けたと云うの。そうなると、この底脱の井の由来が余計分からなくなってしまうわよね。ですが、女性の身でありながら法嗣を許されたと云うのは、当時としては極めて画期的なことだったの。当時の大寺の多くは国家守護が主目的で、衆生の救済などは眼中に無く、加えて女性の生理や出産の営みは女人垢穢(にょにんくえ)として忌み嫌われていたの。高名な弘法大師こと空海上人に至っては「女人は諸悪の根源」とさえ云い放っているの。何もそこ迄云わなくたっていいじゃん、そんなあなたもその穢れの中から産まれたのよ−と思わず云い返したくもなりますよね。

無学祖元は中国からの渡来僧で、鎌倉幕府執権・北条時宗の招きで建長寺に住した後は円覚寺を開山。
無窓疎石などの高弟を輩出し、入寂後には仏光国師と諡号されたの。

底脱の井 けれど、最初に無学祖元に弟子入りを求めた際にはその美貌から「若い修行者の妨げじゃ」と追い返され、焼きゴテを頬に当てて醜い顔を作るとようやく入門を許されたとも云われているの。長峯五幸氏は「鎌倉趣味の史跡めぐり」の中で、当時の建長寺もまた女人禁制であったことから、入門を許された禅尼は仕方なく塔頭であったこの海蔵寺に仮り住まいしながら禅師の許へ通っていたのでは−と推考されているの。それが縁で、いつの頃からか底脱の井が詠歌の対象としてすり変わっていったのかも知れないわね。

CoffeeBreak 無学祖元の無学を文字通りに受け取らないで下さいね。この場合の無学は「これ以上学ぶべきものが無い」の意味で、同じく無外如大尼は「如大(千代能)を差し置いて他に法統を嗣ぐ者無し」と云うことね。無学祖元については鎌倉歴史散策−北鎌倉編の 円覚寺 の項でも紹介していますので、気が向いた方は御笑覧下さいね。

13. 海蔵寺 かいぞうじ

三門 海蔵寺は関東管領職にあった上杉氏定が応永元年(1394)に鎌倉公方・足利氏満の命を受けて創建したもので、開山は大覚禅師の孫と云われる心昭空外。空外上人は越後の人で総持寺に修行し、法嗣の後は各地に寺院を開山するの。その空外上人を開山塔とする仏超庵など、建長寺の塔頭寺院として室町時代には扇谷上杉氏の保護を受けて栄えたと伝えられているの。正式な山号寺号は扇谷山海蔵禅寺で、現在は臨済宗建長寺派の寺院。

薬師三尊像 境内の左手には安永6年(1777)に浄智寺から移設したものと伝えられる仏殿(薬師堂)が建てられていますが、堂内には御覧の薬師三尊像が祀られているの。中央の薬師如来は啼(なき)薬師とも児護(こもり)薬師とも呼ばれ、その腹部には背後の山中から出土したと云われる薬師像の顔面が収められているのですが、その顔面像には不思議な逸話が伝えられているの。例に依ってその逸話を脚色してお届けしてみますね。

むか〜し昔のことじゃけんども、この海蔵寺には空外上人と云う、それはそれは偉いお坊さんがおったんじゃが、ある年のことじゃった。上人さまが寝床に入ろうとすると、どこからともなく赤児のような泣き声が聞こえて来そうな。じゃけんども風の悪戯じゃろうとその夜は眠りについたのじゃったが、次の日も、またその次の日も、上人さまが眠りに就こうとするとその泣き声が耳許に届いて来たそうじゃ。不思議に思うた上人さまはその夜蒲団を抜け出すと表に出てみたんじゃが、その泣き声は寺の裏山の方から聞こえておったそうな。上人さまはその泣き声につられるようにして裏山に分け入ってみたんじゃが、果たしてそこには苔むした小さな墓石が捨て置かれておったそうな。

泣き声はその墓石の下から聞こえておってのお、小さく開いた穴からは黄金色の光が洩れ輝き、辺りには得も云われぬ芳香が漂っておったそうじゃ。不思議なことがあるものよのお−と上人さまは読経を始めると、着ておった袈裟を脱いで墓石に掛けてやったそうじゃ。するとどうじゃ、それまで聞こえておった泣き声がぴたりと止んでしもうた。そうしてその夜は眠りに就いた上人さまじゃったが、翌朝その場所を掘り返してみると、そこには何と薬師さまのお顔があったそうじゃ。これもなんぞ御仏の御導きならんと知った上人さまは薬師さまの像を新たに彫ってその胎内にそのお顔を納めて祀ったと云うことじゃ。当時は病に苦しむ者も多くおったそうじゃから、それを薬師さまが見兼ねて現れて下さったのじゃろうのお。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

十二神将像 十二神将像 薬師如来坐像に納められている薬師面ですが、残念ながら61年毎の開帳と聞きますので先ずは拝観出来そうにもありませんね。どうしても見たいの!と云う方は原田寛氏の『図説鎌倉伝説散歩』河出書房新社刊をお買い求め下さいね。(^^; 貴重な薬師面の写真が掲載されているの。左掲は薬師如来の眷属の十二神将像になるの。

伽藍神像 実はこの海蔵寺が建つ地には嘗て前海蔵寺と呼ぶべき七堂伽藍が存在していたみたいね。建長5年(1253)、鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王の命に依り、藤原仲能が開基したのですが、鎌倉幕府滅亡の際の戦禍から灰塵と化したの。土中から現れた薬師面はその時に造られた薬師像のものでしょうね。立像だったのか或いは坐像だったのかは不詳ですが、薬師面の大きさから推してかなり大型の薬師像だったみたいね。左掲は薬師堂の右手に並ぶ珍しい伽藍神で、寺院の守護神なの。

本堂 海棠 海棠 海棠

ところで、この海蔵寺にはもう一つ逸話が残されているの。海蔵寺と云うよりも開山の心昭空外上人(源翁禅師)に纏わる物語で、中国で悪行の限りを尽した金毛九尾(二尾とも)の妖狐が日本に渡来して絶世の美女と化し、鳥羽上皇の寵愛を受けたことに始まるの。それが玉藻前(たまものまえ)と殺生石の伝説で、陰陽師や名立たる武士を以てしても退治することが出来ず、源翁禅師の法力を以てようやく退治することが出来たと云われているの。前置きはこの位にしてお話しの始まり、始まり〜。とその前に。宮廷ことばにまるで疎いことから武士ことばになるなど支離滅裂状態ですが、余り深く追究しないで下さいね。(^^;

むか〜し、昔のことよ。院政を行っていた鳥羽上皇のもとに、ある日玉藻前と云う美しい女性が宮仕えにのぼって来たの。その艶やかさは立てば芍薬、座れば牡丹で、歩く姿はまさに百合の花。その姿を一目見た上皇は鼻の下がすっかり伸びきって床に届きそうになったの。(^^; 御前に進み出でた玉藻前に上皇は臣下に御簾を揚げさせ「もっと近う、近う」と膝を乗り出して誘なったの。

そうして「汝(な)は名を何と申す?」の問い掛けに「玉藻前と申すものにござりまする」と殆ど消え入りそうな声で応えたの。「おお、愛(う)い奴、愛い奴。その音(ね)、玉を転がしたるが如き調べ。して、如何なる者の縁(えにし)たらんか?」と続けて訊ねると、玉藻前は、「わらわは神仏のお導きに依り、お傍にお仕え致すべく天上界より遣わされし者。こうしてお目通りかないますれば明日より参上仕りますゆえお見知りおき下さいますよう」と、鄭重に頭を下げ、御前を辞していったの。上皇にしてみれば玉藻前の姿形はまさに観音さまの化身とも思えたの。

ところが次の日も、その明くる日も玉藻前は姿を現さなかったの。玉藻前の出仕を今か今かと待ちあぐねていた上皇はもう大騒ぎ。臣下を掴まえてはなり振り構わず「玉藻前を知らぬか?そなたは知らぬか?ええ〜い、たれか玉藻前をここに連れておじゃれ!」とその声は御所中に響き渡るほど。それから数日してからのこと。その玉藻前が上皇のところに出仕して来たの。「玉藻前、如何致した?きょうは参るか明日こそ参るかと待ちかねておったぞ。如何なる事由ありや否や?ええ〜い、そのような不粋な事も聞くまいて。よもや朕の側を離れるでないぞ。これは朕の厳命じゃ」そうして玉藻前は上皇の側を片時も離れず、上皇の寵愛を一身に受けたの。

ところが上皇が歓びに浸っていたのも束の間で、俄に病いを得て日増しに衰弱していったの。施薬をしてみたり、名立たる高僧が祈祷してみたのですがどれも効き目が無かったの。困り果てた臣下達は陰陽師の安部泰成を呼びつけて病いの原因を占わせたところ、伏せる上皇を前にして泰成はとんでもない事を云い始めたの。それに依ると中国で悪事の限りを尽した妖狐が渡来して下野国(現在の栃木県)の那須野に住みつき、今は玉藻前の姿と化して上皇の精気を吸い取り、その生命を縮めていると云うの。泰成が云うにはその妖狐は既に800年を生き、長さは雄に七尺を越えると云う九つの尾を持つ化け物狐だったの。

上皇はもうすっかり驚いて、慌てて玉藻前の姿を追い求めたのですがどこにも見えなかったの。俄には信じられなかった上皇も、玉藻前の姿が見えないことに事の次第を合点して、泰成に悪霊退治の祈祷をするよう命じたの。そうして御所内に祭壇が設けられ、陰陽道最強の呪法とされる泰山府君祭が執り行われることになったの。臣下達もまた護符を片手に手分けして玉藻前の行方を追い求め、やっとの思いで掴まえて来たの。そうして祭壇前に引き出された玉藻前は御弊に囲まれ、祈祷が始まると耐え切れず、狐の姿に戻ると祭壇を飛び越えて逃げ去ったの。

そうして那須野の棲みかに逃げ戻った妖狐ですが、生かしておいては平癒しないと泰成に告げられた上皇は、直ちに三浦義明と千葉広常を呼び出して追討を命じたの。相手はたかが一匹の狐と云えども化け狐。二人は大軍を率いて那須野に向かうの。そうして討ち逃してはなるまいと準備も周到に、犬を放ち狐狩りの練習もしているの。武芸の犬追物はこの時の練習が元になったとも云われているの。そうしてさすがの妖狐も多勢に無勢の軍勢に囲まれて逃れる術を失い、最期は二人の手に依りとどめが打たれ、死に絶えたと云われているの。

以上は逸話の第一幕とも云うべき玉藻前の伝説で、物語は第二幕の殺生石へと続くの。愈々源翁禅師の登場となりますので、引き続きお楽しみ下さいね。ですがその前にちょっと一息入れましょうね。先程から紹介しています本堂前に咲く海棠ですが、訪時には満開の見頃を迎え、その装いはまさに玉藻前の趣きよ。

海棠 海棠 海棠 海棠

妖狐が三浦義明と千葉広常の手に依り討ちとられると上皇の病いも平癒したの。けれど今度は玉藻前の霊が石と化して、それに触れた者を悉く死に至らしめるばかりでなく、その祟りは広く人々に災いをもたらしていたの。そんなことから土地の人々はその石を殺生石と呼んで恐れていたの。そんなある日のこと、那須野を通りがかった源翁禅師は、村人達の話しを耳にして、その祟りを鎮めようと殺生石のある場所へやって来たの。

果たしてそこには玉藻前の霊に祟られて無くなった人達の白骨が山積していたと云うの。「何と惨いことよのお、罪も無き者達をこうして亡き者にするとは」そう嘆息すると禅師は徐ろに殺生石に向かうと声高に読経を始めたの。やがて念力を込めた杖を振り翳すと殺生石目掛けて一気に振り下ろしたの。そうして禅師の法力を前にして殺生石も粉々に砕け散り、玉藻前の霊もようやく成仏することが出来たの。それからと云うもの、村人達も安心して暮らすことが出来るようになり、以来、源翁禅師の威徳に因み、金槌のことを玄能と呼ぶようになったとも云われているの。

如何でした?お楽しみ頂けましたでしょうか。
ですが、話しを創作した部分もありますので鵜呑みにはしないで下さいね。(^^;

十六の井への道 玉藻前の余韻に浸ったところで海蔵寺を離れる前にもう一つの見処「十六の井」を紹介しておきますね。薬師堂手前の細い道を蛇行しながら歩くとこの尾根の突き出しが見えて来るの。この岩盤を刳り貫いただけの短いトンネルを抜けると尾根の脇腹にぽかりと口を開けたやぐらの前に出ますが、やぐらには扉が設けられ、いつでも見学出来る訳でも無さそうですので注意が必要ですね。また見学に際しては別途見学料(¥100)が必要よ。と云っても受付がある訳でも無く境内にある料金箱への志納ですが。

十六の井 内部の床面には水をたたえた穴が16個整然と並んでいるの。その湧水は金剛功徳水と呼ばれ、縁起では禅師の夢に観音菩薩が顕れ、埋まってしまった十六の井を掘り出して掃除をすれば再び清水が湧き出し、その水を加持して薬と共に病いに苦しむ者に与えれば平癒するであろうとのお告げがあり、その通りにすると果たして霊験灼かであったと云われているの。そうは云ってもその外観からすると井戸とするよりも元々は「やぐら」であったような気がしますね。

歴史家の間でも墓所とするのが定説のようですが、縁起では16と云う数字に拘り、湧水地を墓所とするのはおかしいと墓所説を否定しているの。ですが、嘗て壁面には嘉元4年(1306)銘の板碑が嵌め込まれていた等の状況証拠からは墓所とするのが正しいような気がしますね。時を経て埋もれてしまった墓所を不憫に思い、後世の住持が掃除したところ、いつの間にか清水が湧き出したとするのが妥当なのでしょうね。海蔵寺さん、ごめんなさい。

寺伝が拘る16の意味が気になった方へ。密教では大日如来の徳=宇宙の森羅万象と捉え、その理智を現す世界観として金剛界・胎蔵界が編み出されたの。その金剛界にはその大日如来を中心に阿閦・宝生・無量寿・不空成就如来の四仏が配され、各々の四方を取り巻く形で四菩薩が配置されているの。寺伝にもその名が見えるように、その教義を大陸から伝えたのが弘法大師こと空海上人ですが、その内容となると哲学的で門外漢にはとても手が負えませんので配置関係のみを掲載しておきますね。因みに、菩薩は菩提薩埵の略で、勇猛果敢に精進する修行者−の意なの。仏教の深遠な世界に触れ、眩暈がして来たところで海蔵寺を後にして今回の散策もこれにて終了よ。

位置 四仏名称 四菩薩名称
阿閦如来 金剛薩埵・金剛愛・金剛王・金剛喜菩薩
西 無量寿如来 金剛因・金剛語・金剛法・金剛利菩薩
宝生如来 金剛光・金剛笑・金剛幢・金剛宝菩薩
不空成就如来 金剛牙・金剛拳・金剛護・金剛業菩薩


源氏山公園での花見を兼ねた今回の散策では扇ガ谷の西側を中心に訪ね歩いてみましたが、当時の人々の生きた証が今でも語り継がれているの。そこには無念の死を遂げた人々の魂の叫びも聞こえ、神仏の加護を求めてひそやかな幸せを願った庶民の姿も瞼に浮かんでくるの。春のうららかな一日、ほんの少し足を伸ばして逸話に耳を傾けてみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
葛原岡神社・俊基卿遺蹟保存会発行 復刻版 日野俊基卿御事績に就て
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
青春出版社刊 歴史の謎研究会編 謎解き「兄弟」の日本史
角川ソフィア文庫 佐藤謙三 校注 平家物語(上)・(下)
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
角川書店社刊 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
新人物往来社刊 鎌倉・室町人名事典
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
河出書房新社刊 日本異界絵巻
海蔵寺略縁起

【太平記】の記述に際しては 日本文学電子図書館 を参照させて頂きました。






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