≡☆ 鎌倉歴史散策−鶴岡八幡宮編 ☆≡
鶴岡八幡宮を徹底的に紹介

鎌倉と云えば鶴岡八幡宮ですよね。ですが、拝殿前での参拝で終えてしまう方も多いのではないかしら?今回はその鶴岡八幡宮をトコトン紹介してみますが、季節がごちゃ混ぜの御案内になっていますので御了承下さいね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。クリックして頂いた方には、隠し画像をもれなくプレゼント。(^^;

段葛〜鶴岡八幡宮〜鉄の井〜志一稲荷〜青梅聖天社〜今宮

1. 段葛 だんかずら

二の鳥居 鎌倉駅から若宮大路を八幡宮方面に歩くと最初に見えてくるのがこの二の鳥居。ここから三の鳥居まで段葛と呼ばれる参道が続くの。段は盛土した壇を指し、葛は縁石のことですので、段葛は石で両脇を固めて盛り土した道のことなの。両脇には桜の木が植えられて、春先にはそれこそ桜吹雪き舞う花道となり、素敵な参道になることでしょうね。【吾妻鏡】の養和2年(1182)3/15の条には「鶴嶽社頭より由比浦に至るまで曲横を直して詣往の道を造る 是れ日來御素願たりと雖も自然日を渉る 而るに御臺所御懷孕の御祈りに依りて 故に此の儀を始めらるるなり」

段葛 と記され、源頼朝が北条政子の懐妊に伴い安産を祈念して造営に着手したものですが、当時の段葛は現在のそれよりも更に長く、材木座海岸まで続くものだったの。ですが、日來御素願たりとあるのは、参詣に利するというよりも、有事の際の軍用目的の方に重点が置かれていたみたいね。万が一、敵に攻め込まれた場合でも、段葛を駆け抜けて海上に辿り着けるように造られた、云わば緊急時の脱出ルートでもあったの。

段葛 鎌倉が武都になると多くの御家人屋敷が段葛沿道に建てられるようになり、馬を駆って走り抜けようとする敵勢には、板塀越しに矢を射かける仕組みにもなっていたの。二の鳥居では5m程の道幅が、三の鳥居に至る頃には3m程に狭められているのですが、遠近法を採り入れて遠くにあるように見せることで、八幡宮の神徳をより崇敬なものとして感じられるようにしたとも、御所に攻め込む敵兵に距離感を惑わす意図があったとも云われているの。

三の鳥居 造営当時の段葛の様子を知る由もありませんが、桜が植樹され、現在のように整備されたのは明治・大正時代のこと。元々は海岸橋辺りまで延びていた段葛も、横須賀線の線路敷設などの理由から切り詰められてしまったの。ところで、ここで皆さんにクエスチョン。(^^; 横須賀線の線路敷設に伴い、参道を線路が横切ることになった古刹が鎌倉市内にあるの。さてどこでしょう?皆さんも一度は訪ねてみたことがあると思いますよ。

2. 太鼓橋 たいこばし

太鼓橋 段葛から車道を渡り、三の鳥居をくぐるとあるのがこの太鼓橋。普通は太鼓橋と云うと朱色の塗橋を想像してしまいますが、御覧のような石橋なの。【吾妻鏡】には赤橋と記されるように、嘗ては朱塗りの木橋だったの。八幡宮の造営当時のこの辺りは水田が広がっていたのですが、放生池(源平池)が造られると、両池を結ぶ水路に橋が架設されたの。残念ながらその太鼓橋も現在は通行禁止になっているの。傾斜がきつく、転ぶ人も多かったからでしょうね。

太鼓橋 今では記念撮影のポイントにもなっている太鼓橋ですが、嘗て和田の合戦では血生臭い戦闘の舞台でもあったの。和田義盛側に与した土屋義清が馬を駆って赤橋前の北条泰時の陣に攻め入ろうとした際に、平家池辺りに潜んでいた敵勢から矢を射かけられ敗死しているの。【吾妻鏡】には「若宮赤橋の砌に於いて流れ矢の犯す所 義清命を亡ぼす 件の箭 北方より飛び來たる これ神鏑の由謳歌す」と記され、八幡神の意向を受けたものとされたの。

北条泰時
北条義時の嫡男で幕府政治に合議制を採用し、武家最初の貞永式目を制定
朝廷との関係にも腐心するなど、その政治的手腕は高く評価されているの。
土屋義清
実父は源頼朝が挙兵した際に逸早く麾下に参じた岡崎義実
頼朝挙兵以来源家に仕えた御家人の一人。因みに和田義盛も岡崎義実も同じ三浦一族

でも、それだけでは何が何だか分からないわ−と云う方に。(^^; 与党があれば野党もいるのはいつの時代も同じよね。でも、駆け引きで事を済ませる昨今と違い、当時はまさに命懸け。元々伊豆武士団と相模武士団は仲が良くなかったのですが、第二代執権の北条義時は云わば伊豆武士団の棟梁で、一方の相模武士団の総帥とも云うべき存在が和田義盛なの。有力御家人として侍所別当でもあった義盛は義時と悉く対立し、遂に武力衝突となるの。義盛にしてみれば「成り上がりの分際で偉そうな口を叩きやがって。俺たちの土地(相模)でふんずりかえるんじゃねえ」と云ったところかしら。

太鼓橋 当時の時代背景とは云え、武力衝突に至るには義盛にもそれなりの理由もあった訳で、一方の義時にすれば権力の座をより強固なものとするには有力御家人達の力を削ぐことが必要だったの。義時は多分に義盛を煽るようなことをしていますが、和田の合戦に限らず、有力御家人達を悉く滅ぼした北条氏は役者が一枚上手。権謀術数の前ではただ腕力が強いだけではダメなんですね。人はそれを評して政治家と云う−な〜んてネ。(^^;

一時は義時誅殺寸前までいくのですが、義時を追い求めて幕府の建物に押し入り、火を放ったことからそれまでの私戦が謀反となってしまうの。難を逃れた義時は空かさず下知を飛ばして一般御家人達の参集を謀り、義盛の追討を命ずるの。当初は義盛に与して機を窺っていた三浦義村も義時の策略で動けず、最大の支援者と期待していた三浦一党の援けを得られない和田軍は敗北してしまうの。常日頃可愛がっていた四男の義直が討たれると義盛は「何のための戦じゃ〜。義直が討たれては最早戦う意味など無いわ!」と慟哭しながら迷走していたところを討たれているの。その時の義盛は齢67歳。武勇で聞こえた義盛も、晩年は父親故に義直の行く末を案じて、義時・泰時を始めとする北条氏一族打倒に立ち上がったのかも知れないわね。

3. 源平池 げんぺいいけ

塗橋 太鼓橋が通行禁止ですので、代わりに左側に設けられたこちらの朱い塗橋を渡りましょうね。参道両脇に大きな池が見えますが、前述のように源平池が広がっているの。頼朝の側室・北条政子が平家討伐の悲願を以て寿永元年(1182)、大庭景義に命じて造営したもので、参道左手の平家池には平家の赤旗に因み紅蓮を植え、四は死なり−と四島を配し、右手の源氏池には、三は産なり−と三島を配して源氏の白旗に因み、白蓮を植えたものなの。とは云うものの、今では双方の池に紅白入り乱れて蓮の花が咲くの。

下の写真は平家池の景観ですが、右端は鎌倉に在住した漫画家・故横山隆一氏の邸宅に植えられていたと云う白木蓮。生前、八幡宮境内の景観を愛した故人の遺志を継いで御家族の方が奉納されたものなの。ですが、白は源氏の象徴ですよね。遙かなる時代の流れを経て互いに啀み合う必要も無くなった訳ですから、この白木蓮はその象徴なのかも知れないわね。源氏池には緋い花を咲かせるボタン園もあることですし。(^^;

替わってこちらは源氏池ですが、三島の一つには旗上弁財天社が祀られているの。木立には沢山の白鷺が羽を休めていましたが、他の二島も同じで、八幡神の御加護を得てのものなのか、白鷺達の楽園になっているみたいね。

4. 旗上弁財天社 はたあげべんざいてんしゃ

源氏池に建てられているのがこの旗上弁財天社。現在の社殿は昭和55年(1980)に鶴岡八幡宮創建800年を記念して復元されたものですが、元々は源頼朝が挙兵した際に夢枕に弁財天が現れ、平家討伐の功績を得られたことからその霊験に感謝して建てられたものなの。境内には源氏の白旗を模した沢山の幟が奉納立されていますが、弁財天は今でこそ商売繁盛・金運を齎す神さまですが、以前は弁才天と記され、守護神としての霊験があったの。

社殿の背後に隠れるようにして置かれているのが縁結びの霊験灼かと云われる政子石。伊豆に流されていた頼朝から恋文を受け取った政子はやがて心を通わすようになるのですが、平家の目を畏れた政子の父・時政は二人の関係を知りながら目代の山木兼隆に政子を嫁がせてしまうの。ところが、その婚儀の最中に、政子は新郎・兼隆の屋敷を抜け出して暴風雨の中を頼朝の待つ伊豆山権現目指してひた走りに走ったの。ドラマチックよねえ。

CoffeeBreak 目代(もくだい)−国司が任命した私的な代理人のことで、国司の四等官の目(さかん)とは別物。実際に国司が現地に赴任することが無い場合には、一切合切を引き受けて職務を遂行することから勢力を持つ場合が多かったの。当時の伊豆守は平時兼で、知行国司は平時忠。兼隆にしても、山木姓を名乗ってはいますが、桓武平氏の一流で、み〜んな平氏なの。まさに「平家に非ずんば人にあらず」の世界ね。

そうして結ばれた頼朝と政子ですが、翌年(1178)には長女・大姫が生れているの。大恋愛の末に結ばれた二人にあやかれば、あなたも願いを成就することが出来るかも知れないわ。その政子石ですが、社殿背後の池際に置かれていますので、気をつけて下さいね。願いに夢中になり、池の中にポチャンと落ちても責任負えませんから。(^^; 余談ですが、頼朝が最初に恋文をしたためた相手は本当は時政の次女で、仲介役の安達盛長が、次女より長女の政子の方が美人だからと勝手に宛名を書き改めて長女の政子に手渡したというのですが、本当なのかしら。盛長の悪戯心から歴史がつくられたとは面白い逸話ですよね。

鎌倉囃子 訪ねた日には八幡宮では本殿正遷座祭が行われていて、特設の櫓からは鎌倉囃子が響き渡っていたの。お囃子を奏でているのは小学生の男の子と女の子。普段から練習しているんでしょうね、リズムも乱れないの。しばらく立ち止まって聞いていたのですが、真ん中でバチを握る女の子の表情が何とも云えないの。少し拗ねたような顔をしてバチを握っているのですが、レンズを向けるとチャンと目線をくれるの。え?写真に撮られるのがイヤだっただけ?ごめんなさい。

5. 舞殿 まいでん

参道を進むと拝殿(本宮)の石段手前にあるのがこの舞殿(下拝殿)で、静御前が頼朝の追討を受けて逃避行を続ける義経を恋い慕いながら舞った静の舞が、頼朝の逆鱗に触れたという逸話の舞台。静御前は追討を知った義経と共に追手から逃れようと、京都を後にして吉野山中に落ち延びるのですが、当時の大峰山が女人禁制でもあったことなどから義経に諭されて都に戻るの。ところが、その道中で道に迷ったところを捕らえられてしまうの。その時の情景を【吾妻鏡】は次のように記しているの。

時に數多の金銀の類を我に與え 雜色の男等を付して京に送らんと欲す
而るに彼の男共 財寶を取り 深き峯の雪中に棄て置くの間 此の如く迷い來たる

まあ、とんでもねえ従者もいたもので、打首獄門!に処すべきヤツラですよね。そうして捕えられた静御前は鎌倉へと送られてくるのですが、義経の消息については頑なに口を閉ざしたの。そんなある日のこと、八幡宮寺で源氏の武運長久を願う奉讃会が催されることになり、頼朝は舞の名手として聞こえる静御前に舞いの奉納を強要するの。拒み続けた彼女ですが、引き出されて仕方無く舞ったのが有名な静の舞。
吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ戀しき
靜や靜 しずのおだ卷きくり返し 昔を今になすよしもがな

その時の様子を【吾妻鏡】は「誠に之社壇の壯觀 梁塵殆ど動くべし 上下皆興感を催す」と伝えるの。けれど、それを聞いた頼朝は、武運長久を願う席上で義経を恋慕するとは何事ぞと激昂するの。それを「暗夜に迷い深雨を凌ぎて君の所に到る 亦 石橋の戰場に出で給うの時 獨り伊豆山に殘留す 君の存亡を知らずして日夜消魂す その愁いを論ずれば今の靜の心の如し」と窘めたのが政子なの。大恋愛の末に頼朝と結ばれた政子にすれば、静御前の恋心は身に染みて共感を覚えたのでしょうね。その政子から「女は儚なき者なれば御召しめ赦し候へ」と諭された頼朝は、卯花重の衣を静御前に与えて舞いへの褒美としたの。

その後身籠っていた静御前は義経の子を産むのですが、悲しいことに即日殺されてしまうの。悲嘆の内に都に帰ることを許された静御前ですが、その後の足取りは再び歴史の中に消え去ってしまうの。ひたむきな愛に生きた静御前に思いを馳せながら舞殿の前に立てば、舞を舞う姿も瞼に浮かんでくるの。

毎年4月の第2日曜から始まる「鎌倉まつり」では静の舞が舞殿で奉納されるの。
華麗な舞いを観てみたいの−という方はお出掛けになってみては?

6. 若宮 わかみや

舞殿右手に鎮座するのが御覧の若宮で、本宮の上宮(かみのみや)に対し、下宮(しものみや)とも呼ばれているの。現在の若宮は仁徳天皇・履仲天皇・仲媛命・磐之媛命を祭神とする境内摂社で、社殿は徳川幕府二代将軍・徳川秀忠に依って再建されたものなの。若宮では神前結婚式なども行われますが、見ていると一般の参詣客の方は上の宮の拝殿へ直行ですね。ですが、頼朝が元々由比ヶ浜にあった源氏所縁の八幡宮を遷宮して最初に祀ったのはこの若宮なの。尤も、その時の社殿は今みたいに立派なものでは無くて至って簡素なものだったみたいね。

若宮 八幡宮寺の本格的な造営が始まるのは遷宮した翌年の養和元年(1181)からのこと。But その若宮も建久2年(1191)3/4に発生した大火で悉く灰燼と化し、焼跡を訪ねた頼朝は礎石のみを残す若宮に涕泣し、直ちに再建の大号令を発するの。早くも4/26には宝殿造営の棟上式が行われますが、その宝殿こそが現在の上宮に当たる社殿で、京都の岩清水八幡宮から八幡神(応神天皇)が勧請され、8/27には若宮と境内末社の熱田・三嶋両社も棟上され、11/21に改めて八幡宮の遷宮が行われているの。現在の八幡宮とほぼ同じ陣容の社殿がここに完成したの。

現在とほぼ同じと云っても、その時には未だ舞殿は無かったのよ。 え?だとしたら静御前はどこで舞を舞ったの? 若宮には回廊が設けられていたみたいね。静御前はそこで舞ったの。 じゃあ、舞殿はいつ造られたものなの? 八幡宮の遷宮が行われた2年後の建久4年(1193)よ。 そうなんだ。でも静御前には舞殿の方が似合いそうね。

7. 祖霊社 それいしゃ

祖霊社 祖霊社 舞殿の左手には奉納された酒樽が高々と積まれていますが、その背後の木立の中にひっそりと佇むのがこの祖霊社で、崇敬者の方々の祖霊が祀られているの。八幡宮の境内社の中では一番新しい摂社で、昭和24年(1949)に創建されたもの。訪ね来る人も無く、凜とした空気が漂っているの。

8. 大公孫樹 おおいちょう

紹介する大公孫樹ですが、残念ながら平成22年(2010)3/10の未明に、発達した低気圧に伴う折からの強風で倒れてしまったの。現在は根元を埋め替えるなどして将来に向けた再生がはかられているのですが、ここでは倒木以前のお話しとして御理解下さいね。

再び舞殿に戻り、本宮(拝殿)に向かう石段途中にあるのがこの大公孫樹。樹齢千年を超えるとも云われる巨木は、源実朝を暗殺した公暁が身を潜めていたことから隠れ銀杏とも呼ばれているの。【吾妻鏡】には「當宮の別當阿闍梨公曉石階の際に窺い來たり 劔を取り丞相を侵し奉る」と記される暗殺の舞台。当時は積雪二尺(約60cm)を越える大雪が降っていたようですが、女形に身を隠した公暁が伯父の実朝に斬りかかるという、血塗られた悲劇が、源氏の武運長久を願った八幡宮で展開される皮肉な歴史の一頁。

その公暁の実朝暗殺事件にしても、謎とされる部分がかなりあるの。観光バスのガイドさんが云うように、下から13段目の石段で殺されたとか、大公孫樹の根元で殺されたという記述はホントはどこにも無いの。紹介した【吾妻鏡】の記述にしても、石階の際(きわ)としていて、石段とはしていないの。石階を石橋と解して太鼓橋の辺りだとする説もあり、それじゃあその頃から太鼓橋は石組みの橋だったことになってそれはおかしい、石階は基壇部分に設けられた石段を指すから社殿前だ−などと、諸説紛々なの。実朝の馘を討ち取った公暁のその後の行動も不可思議と云うか奇怪なの。

備中阿闍梨の屋敷に行くと、公暁は食事の最中でも実朝の馘を放さなかったと云うの。そして、「吾こそは東関の長、評議を開き、オレ様を早く将軍職に据えろ」と三浦義村に使いを走らせ迫るの。報せを受けた義村は直ぐさま北条義時に事の次第を知らせるの。空かさず公暁追討の断が下されるのですが、公暁の武勇に尻込みする者も多く、義村は同じく武勇に聞こえある長尾定景に追討を命ずるの。一方、義村からの連絡が遅いと痺れを切らした公暁は、密かに八幡宮の裏山を通り、義村邸に向かっていたの。

その途中で定景に出交し刃を交えますが、公暁は討たれ、その馘は義村を経て義時に差し出されているの。問題なのは公暁が事件後に義村に使いを出したり、邸宅に向かうなど、義村を頼ろうとする節が見えること。そのことから事件の黒幕は三浦義村かとする説もあるの。公暁に実朝と併せて義時を殺させて、よしんば北条氏に代わって執権の座に就こうと思っていたと云うの。じゃあ、何で率先して公暁追討を長尾定景に命じたりしているの?それは黒幕が自分であることを伏せるためのカモフラージュだとも云われているの。義村にしてみれば公暁のことなどどうでも良かったのでは−と云う説。

大公孫樹 北条義時にしてもかなり怪しいの。【吾妻鏡】に依れば、急に気分が悪くなったからと義時は奉剣の役を源仲章に代わって貰い、自分はさっさと自宅に帰ってしまうの。事件の前年(1218)、義時の夢枕に十二神将の一神・戌神(招杜羅大将)が現れて「今年は神拝無事なり 明年拝賀の日供奉せしめ給うこと莫れてえり」と告げたと云うの。今年は大丈夫だが来年は出席するな−とは何かを暗示する記述ですよね。事件の当日、気分が悪くなったのも、眼前に白い犬が現れたことが原因としているの。

その白い犬こそ招杜羅大将の化身で、ちょうどその頃に、義時が造営した大倉薬師堂(現在の 覚園寺 )に祀られていた十二神将の内、招杜羅大将の姿が消えていたと云うの。霊夢に現れたのが戌神なら、驚いて義時が目覚めたのも戌の刻(午後8時前後)。義時が式の当日気分が悪くなったのも同じく戌の刻。その原因となったのが白い犬で戌に通じ、戌神の化身と説くに至ってはちょっとくどすぎて、何等かの意図ありありで、かなり怪しいわよね。そんなことから義時も黒幕の一人として槍玉に上がってるの。

実朝にしても、殺されることを予感していた節があるの。拝賀式に出発する前に、宮内公氏なる人物に、形見だと云って髪の毛を抜き取り与えているの。続けて「出でいなば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」と殆ど辞世の句とも云うべき和歌を詠んでいるの。元になっているのは菅原道真のあの有名な句。菅原道真は太宰府に左遷されて没後に大魔神となって祟りを振り撒き、都では道真の祟りじゃあ〜祟りじゃあ〜と大変なことになるの。北野天満宮はその祟りを鎮めるために造られたものですが、実朝の方は実朝神社が造られたと云う話しも聞かないので、祟りはなかったのでしょうね。

実朝の亡骸は 勝長寿院 (現在は廃寺)の傍らに葬られたと【吾妻鏡】は記しますが、現在の勝長寿院跡地にはその痕跡すら無いの。埋葬に際しても「御首の在所を知らず 五體不具なり その憚り有るべきに依りて 昨日公氏に給う所の御鬢を以て御頭に用い入棺し奉る」としているの。将軍職にもあった実朝の馘を粗末に扱うとも思えず、どこへいってしまったのかしら。寿福寺の墓苑には実朝の墓と伝えられるやぐらがありますが、他にも実朝のものだとする墓所や首塚が各地に存在するの。

9. 上宮 かみのみや

石段 拝殿には舞殿を背にして御覧のような石段を登るの。嘗ては石段を登りきると、遠くには由比ヶ浜を望むことも出来、眼下には仁王門を始め、経蔵や鐘楼などが建ち並ぶ壮大な伽藍を有する境内が広がっていたと云うの。明治の廃仏毀釈を受けて破却されてしまったようですが、拝殿前からの眺めはさぞかし壮観にして優美なものでしたでしょうね。嘗て仁王門に祀られていたと云う仁王尊像ですが、現在は寿福寺の本堂内に祀られているの。御覧になるとその大きさにびっくりすると思いますよ。

石段 あれ〜変よねえ、鶴岡八幡宮って神社じゃなかったの?仁王門や鐘楼があっただなんて変じゃないの?いいえ、その頃は鶴岡八幡宮寺と呼ばれて、立派なお寺だったの。と云うよりも、寺院と神社の区別がなかったのよ。八幡宮が神社扱いになったのは明治以降のことなの。石段の途中で巫女さんに出会いましたが、通い慣れた石段もさすがにちょっと歩きにくそう。けれど、さすがは神さまにお仕えする巫女さんですね、脚の運びも楚々としているの。見習わなくっちゃ。(^^;

随神門 扁額 石段を登りきると眼前に立ちはだかるようにして建つのがこの随神門。平成15年(2003)に行われた修復工事を経て、すっかりお色直しをした社殿となっているの。ここでは先ず掲げられた扁額に御注目下さいね。八幡宮の八の字が鳩を象ったものになっているのがお分かりかしら?鳩は八幡大菩薩の使いとされているの。

随神門 随神門左右に続く回廊に囲まれて建てられているのが本殿で、誉田別尊・比売大神・息長帯比売命の三柱が祀られていますが、この誉田別尊こそが八幡大菩薩で、応神天皇のことなの。息長帯比売命は神功皇后のことで、応神天皇のお母さん。一方、比売大神は天照大神と素戔鳴尊が高天原の天安河で誓約した際に生れた三女神で、田心姫・市杵島姫・湍津姫命のこと。天照大神より「汝(いまし)三神、天孫を助け奉りて天孫に斎かれよ」と命じられて、宗像の地(現・宗像神社)に祀られるようになったことから宗像三女神とも呼ばれているの。《《《 多くの異説あり。

誓約(うけひ)−誓うと云うよりも神意を伺う祈りに近い行為(≒卜占)
誉田別尊−ほんだわけのみこと
息長帯比売命−おきながたらしひめのみこと
田心姫−たごりひめ = 多紀理毘売命
市杵島姫−いちきしまひめのみこと = 市寸島比売命
湍津姫命−たぎつひめのみこと = 多岐都比売命

八幡さまと親しまれる八幡神社は日本全国津々浦々にありますが、その数は4万社を越え、その総本社とされているのが大分県の宇佐八幡宮。八幡神の成立過程には諸説があるのですが、大和朝廷とは別に北九州地方を中心とした倭国が存在し、その土俗神が大和朝廷の覇権拡大と共に熊襲征伐を支える軍神、辺境を守る国家守護神として融合されたの。その後、更に仏教と習合されて八幡大菩薩となったの。その背景には当時の大和朝廷の政治的な意図が隠されているの。

大里長城氏著『八幡神の謎』まんぼう社刊では大里氏が大胆な説を展開されていますが、読んでいくと「ありかも」と不思議に納得出来てしまうの。興味のある方は御一読下さいね。帯文には「倭王朝は祖神の鎮座地として宇佐を選び宗廟として鍛冶神(素戔鳴尊)と託宣神(卑弥呼)を祀った。白村江の大敗で崩壊した倭国を併合した大和朝廷は国史編纂で倭国隠し・倭の宗廟隠しのため大神比義を送り込み徹底した焚書坑倭を行った。そして祭神に八幡大神(応神天皇)・比売大神(玉依姫)を強制した」とあり、卑弥呼が神功皇后に変えられてしまったと云うのですから、好奇心をそそられる見出しでしょ。(^^;

神像 【記紀】には神功皇后をめぐる面白い逸話が記されていますので、ちょっと紹介してみますね。夫君の仲哀天皇が熊襲征伐に向かおうとした際に、神を招来して神意を得ようと琴を鳴らしていたのですが、神功皇后が神懸りしたの。その時の託宣が「西の方に国有り 金銀を本として目の炎輝く種々の珍しき宝 多にその国に在り 吾今其の国を帰せ賜わむ」と金銀財宝がある国を帰属させて与えようという有り難い御神託。仲哀天皇はそれを確かめようと山に登り見渡したのですが「大海原の他には何も見えん。嘘偽りを申す神じゃ」と相手にせず、琴を弾くのも止めてしまったの。

神像 神託した神さまはもう怒り心頭。お前のような奴が治める国なぞ無いわ!死んでしまえ!と怒鳴るの。それを近臣の建内宿禰(たけうちすくね)がとりなして、今一度琴を弾くように進言し、仲哀天皇は不承不承弾き始めますが、やがて琴の音が聞こえなくなってしまったの。不思議に思った建内宿禰が明かりを灯して様子を窺ってみると、仲哀天皇は既に息絶えていたというの。神の怒りの烈しさに畏れ驚いた臣下達は、国中の穢れという穢れを祓い、再び神託を得ようと招来したの。

上の宮 すると今度は「この国は汝の腹の子が治めるべきじゃ」と告げられるのですが、神託を下した神こそが住吉三神で、大王となるべきとされたのが後の応神天皇なの。そうして神功皇后は住吉三神の指示通りに諸神を祀り「吾婦女にして亦おさなし 然れども暫く男の貌を仮りて強に雄しき略を起こさむ 〔 中略 〕 艫船を整えて財土を求む」と軍船を集めて新羅の国に攻め入るの。ところが、遠征の途中でお腹の子が産まれそうになるの。すると皇后は石を裳の腰に結わえて、新羅征伐を達成するまで産まれることがないようにと祈るの。

住吉三神の加護を得た神功皇后ですが、渡海の際には海中の大小の魚達もこぞって軍船を背にして泳ぎ、これを助け、追い風に煽られた勢いで波と共に新羅国の半分まで達してしまうの。その勢いに驚いた新羅王は戦わずして皇后の下に平伏し、以後の朝貢を約束し、皇后は沢山の金銀財宝を船に積み込み凱旋するの。【太平記】には皇后が凡そ人とは思えぬ出で立ちをした磯良なる人物(神?)を呼び出して三韓征伐の道案内をさせようとした時の情景が描かれているの。余談とするにはちょっと長いので恐縮ですが、紹介してみますね。

さて事已に定りて後 軍評定の爲に皇后諸々の天神地祇を請じ給ふに
日本一萬の大小の神祇冥道 皆勅請に隨ひて常陸の鹿島に來り給ふ
雖れども海底に迹を垂れ給るも阿度部の磯良一人召し應えず
是れ如何なる樣故あらんとて諸々の神達燎火を燒き 榊の枝に白和幣・青和幣取取り懸けて
風俗・催馬樂 梅枝・櫻人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井
眞金吹・差櫛・淺水の橋 呂律を調べ 本末を返りて數反哥はせ給たりしかば
磯良感に堪え兼ねて神遊の庭にぞ參りたる 其の貌を御覽ずるに
細螺・石花貝・藻に棲蟲 手足五體に取り付きて 更に人の形にては無かりけり
神達怪み御覽じて「 何故懸る貌には成けるぞ」 と御尋ね有りければ磯良答えて曰く
「 我滄海の鱗に交りて是れを利せん爲に久しく海底に住み侍りぬる間此くの貌に成りて候也
浩る形にて止む無く御神前に參らんずる辱しさに今までは參り兼ねて候つるを
曳々融々たる律雅の御聲に恥をも忘れ身をも顧りみずして參りたり」 とぞ答え申しける
軈て是を御使いにて龍宮城に寶とする干珠・滿珠を召し借え被る 龍神即ち應神が勅の二の玉を奉る

磯良は貝や海藻が絡みつき、殆ど化け物状態で海中から現れますが、海神だったのでしょうね。
皇后はそうして八幡神のみならず、諏防や住吉大明神の加護の許に新羅征伐を行ったの。

上の宮 新羅征伐を終えた皇后は筑紫国で御子(応神天皇)を産むのですが、その縁で呼ばれるようになったのが現在の宇美町なの。神功皇后は応神天皇が幼ないことから69年もの間摂政を務め、百歳を以て薨去せられたと云うの。【日本書紀】では魏志倭人伝を引いて皇后を倭の女王として卑弥呼に擬し、崩かりし後に息長帯比売命と諡されたと伝えるの。飽くまでも卑弥呼が如き倭の女王の意なのですが、注記を加える辺りは何か裏があるような気もしますね。他方で皇后の活躍にすっかり隠れてしまった感のある夫君の仲哀天皇ですが、新羅征伐に反対したことから何者かに殺されたとする説があるの。仲哀という諡号にはそれを暗示するような響きがありますよね。

一方、住吉三神から天照大神の意思でもあると告げられて生れた応神天皇は、西国のみならず、朝鮮半島にも覇権を広げ、東国にも派兵するなど、幾多の戦闘にも勝利したことから、後に宇佐の在来神と習合して八幡神として崇められるようになるのですが、その名を一躍有名にしたのが聖武天皇の東大寺大仏建立の時のことなの。宇佐から禰宜尼の宅女・杜女が上京して「吾全ての天神地祇を引き連れて大仏造立を助けん」と託宣。大いに悦んだ聖武天皇は二人に従五位下の位を与えているの。その後、黄金が不足して唐へ渡ろうとして航海の安全を八幡神に祈ったところ、渡海の必要は無いと託宣されるの。果たして陸奥守百済王敬福が金900両を献じてきたの。八幡神の霊験が如何んなく発揮されたわけで、杜女は大神朝臣の姓を賜っているの。

大仏建立は鎮護国家が目的で、その国家的事業に八幡神が加わり、国家仏教との習合が成されたの。その頃になると杜女も紫の輿に乗り東大寺を参詣するようになりますが、紫の輿は天皇と同格で極めて破格の扱いよね。その後多少の紆余曲折があるのですが、天応元年(781)には「鎧兜を身に着け国家を守護せん」と託宣したことから桓武天皇から護国霊験威力神通大菩薩の称号を贈られ、八幡大菩薩が誕生するの。その八幡大菩薩を京都・岩清水に勧請したのが行教と云う僧侶で【今昔物語集】には

大安寺に行教と云ふ僧ありて彼の宮に參りて候ひけるに大菩薩示し給わく
吾れ王城を護らむが爲に親しく遷らむと思ふ 而るに汝に具して行かむと思ふと
行教此を聞きて謹しみて禮拜し奉りけるに
忽ちに行教の着たる衣に金色の三尊の御姿にて遷り付かせ御ましてなむ御ける
然れば行教大安寺の房に將て安置し奉て恭敬供養し奉る事限り無し

と記載され、岩清水が宇佐の地に比べて遙かに近いことから朝廷の宗廟として奉祀され、伊勢に次ぐ崇敬を集めるようになったの。八幡神が岩清水八幡宮に勧請されたのが源氏の祖でもある清和天皇治世時のことですので、源氏との結び付きも当然と云うか必然でしょうね。源氏の軍旗にも八幡大菩薩の文字が描かれるように、文字通り源氏の守護神にもなったの。でも、大菩薩の尊号を賜ったのは桓武平氏の祖とされる桓武天皇からなの。ちょっとした歴史の悪戯で、味噌醤油味といったところかしら。(^^;

上の宮 その後、陸奥守に任ぜられた源頼義が、前九年の役で安部氏を滅ぼして、京に凱旋する途中で鎌倉に立ち寄り、由比郷にこの岩清水八幡宮から八幡神を勧請するの。その頼義の嫡男・義家は岩清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家と名乗るなど、氏神として八幡神は源氏との結び付きが益々強まっていくの。石橋山の合戦で九死に一生を得た頼朝が、その後の戦に悉く勝利出来たのも、確かに八幡大菩薩の成せる業なのかも知れないわね。合祀される神功皇后も鎌倉時代になると聖母大菩薩と呼ばれるようになるの。

この頃になると、夫君の仲哀天皇は完全にどこかへ飛ばされてしまったみたい。八幡神の応神天皇も、仲哀天皇との間にもうけられた御子と云うよりも、神功皇后が処女懐胎して産まれた神として崇められ、皇后も聖母マリアのような聖母となったの。

聖母大菩薩の聖母は仏教的に「しょうも」と訓んで下さいね。
「せいぼ」ではキリスト教になってしまうわ。(^^;

現在各地に鎮座する八幡神社も、鎌倉時代に御家人達が守護・地頭として各地に赴任し、八幡神を勧請したことから広まったとも云われているの。その八幡神も明治の廃仏毀釈を受けて大菩薩の称号も廃され、現在は八幡大神と改称されているの。為政者の思惑から習合された八幡大菩薩が、再び国家権力の手に依り大神に姿を変えさせられるとは皮肉な結末よね。

10. 建内社 たけうちしゃ

建内社 拝殿左手に小さな社殿が建てられていますが、境内摂社の建内社で、前述の神功皇后伝説に登場する建内宿禰が祀られているの。伝説の中では建内宿禰は審神者(さには)を担い、神辞を判定する役割を果たしているの。大臣の原初の姿がこの審神者と云われ、建内宿禰はその大臣になった最初の人物だとも云われているの。天皇が神を寄せ、皇后が巫女となり神懸りして、その託宣を大臣が審判するという祭政一致。祭事=政(まつりごと)ね。神寄せする天皇と神懸りする皇后の司政に審神者の大臣が加わる新しい政治体勢ここに成る−と云ったところかしら。

【記紀】が記すところでは、建内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えた忠臣で、何と300歳の長寿を全うしているの。また【因幡国風土記】逸文には「大臣建内宿禰御歳三百六十餘歳にして當國に御下向あり 龜金に雙の履を殘して御陰所知れず」と記される超長寿。とりわけ神功皇后・応神天皇との関わりが深く、その繋がりから八幡神の忠臣として本殿脇に祀られるようになったのでしょうね。

CoffeeBreak 岩波書店刊 日本古典文学大系【風土記】では、建内宿禰の段を後世の造作で鎌倉初期以前には遡れない記事と校注を加えているの。と云うことは、逆の見方をすれば、鎌倉時代にはその長寿振りが人々の話題に上っていたと云うことでもあるわね。尚、【古事記】では建内宿禰ですが【日本書紀】では武内宿禰と記されているの。ここでは【古事記】の表記に従いました。

建内宿禰は最初の宰相(≒内閣総理大臣)とも云われていますが、伝説上の人物で、その功績や長寿を以て神格化されたもの。その背景には【記紀】が編纂された当時の蘇我氏等の政界進出があり、建内宿禰を蘇我馬子や中臣鎌足に比定する見方もあるの。彼等の意向を受けて神話の世界に登場したのが建内宿禰だと云うの。蘇我氏に限らず、誰でも自らの血統は美化したいものよね。【古今著聞集】では何とその建内宿禰が北条義時に生まれ変わっているの。義時は頼朝をして「義時を以て家臣の最と成す」と評される程。頼朝が八幡神なら義時は建内宿禰と云うわけよね。

11. 神輿庫 みこしこ

拝殿左手の回廊には上宮の神輿3基に、若宮の神輿4基を併せた、7基もの神輿が安置されているの。幾れも桃山時代から江戸時代初期に造られたもので、神奈川県の重要文化財に指定されているの。嘗ては華麗な色彩に染め上げられていたものなのでしょうが、遙かなる時を経て、その塗装もすっかり剥げ落ちてしまっているの。けれど、技工を尽した造りには当時の人々が神々を敬い、魂振りを通して神々の加護を願っていた姿が垣間見えて来るの。

12. 宝物殿 ほうもつでん

その神輿庫に続き、回廊内に小さいながらも宝物殿が設けられ、社宝が展示されているの。ξ^_^ξの一番のお薦めは鶴岡八幡宮修営目論見絵図(国重文)で、豊臣秀吉が天正19年(1591)に徳川家康に修造を命じた際に作成されたもので、当時の社殿配置が記載され、往時の様子を窺い知ることが出来るの。現在のそれとは比較にならないほどの荘厳さを呈していて、御覧になると驚かれると思いますよ。その絵図を元に作成された復元模型が、後程紹介する鎌倉文庫に展示されているの。拝観料:¥100

13. 丸山稲荷 まるやまいなり

上宮境内の左手には鳥居が建てられていましたので訪ねてみたのが御覧の丸山稲荷社。【新編鎌倉志】は上宮が建てられる以前から祀られていたもので、八幡宮創建に際し現在地に移築したと伝えるの。現在の社殿は室町時代の造営で、鶴岡八幡宮社殿の中では最古の建造物と云われているの。けれど、実際のところは、応永5年(1398)の、源実朝を祀る柳営社再建時の古材を使い、明治19年(1886)に再建されたものなの。ここでは使用されている建材が最古と云うことで納得しましょうね。(^^;

元々祀られていたのは地主神とする説もありますが、現在の源平池も含む一帯は、嘗て絃巻田と呼ばれる水田地帯で、それを見下ろす大臣山に農民達が五穀豊穣を願う地主神を祀っていたのでしょうね。地主神は恵みを齎す大地の神であり、豊穣を司る神として稲荷神に習合されたのかも知れないわね。

ねえねえ、稲荷神ってお稲荷さんのことでしょ? そうよ。お稲荷さんと親しみを以て呼ばれるほど身近な神さまね。 お稲荷さんにはどうして狐が祀られているの? 狐を祀っている訳ではないの。狐は稲荷神のお使いなのよ。 そうなんだ。じゃあ、お稲荷さんてどんな神さまなの? うかのみたまのかみ−と云う神さまよ。漢字で書くと宇迦之御魂神ね。
他にも宇賀御魂命とか倉稲魂命とも書かれるの。
なんか、難しそうな神さまね。 名前は難しいけど、みんなの願いを聞いてくれる優しい神さまよ。稲荷の語源は「稲生(な)る」にあると云われ、五穀豊穣を司る神さまなの。宇迦は「食(うけ)」に通じ、食べ物のこと。ξ^_^ξ達の主食はお米で「稲」よね。

と云うのが一般的な稲荷神の姿ですが、そのルーツは日本に帰化した秦氏一族の祖霊神だと云われているの。秦氏一族は大勢の農民達と共に日本にやって来て帰化したの。他にも帰化した人達が多く、大和朝廷は機織や建築技術を持つ彼らを畿内に住まわせ、氏や姓(かばね)を与えて優遇するの。秦氏の祖霊神が何故稲荷神になったのか早く教えろって?まあそう焦らずにお付き合い下さいね。

当時の秦氏の農耕技術が幾ら進んでいたからと云って現在のような訳にも行かず、作物の出来高は気象条件に大きく左右されたの。日々の糧が得られるかどうかは最大の関心事で、先祖を祀るということは先祖に護って貰いたいという願望の顕れでもあり、豊作を祖霊神に祈るのは必然のことよね。そうして氏神さまが農耕神に変移していったものと云われているの。祖先神は春になると山から降りて来て田の神となり、秋の収穫が終わると再び山へ帰り山の神となったの。【山城国風土記】逸文では稲荷に伊奈利の字を充て、社の縁起を次のように記しているの。

秦中家忌寸等が遠つ祖 伊侶具の秦公 稻粱を積みて富み裕ひき
はたのなかつへのいみきらがとほつおや いろぐのはたのきみ いねをつみてとみさきはひき
乃ち餠を用ちて的と爲ししかば 白き鳥と化成りて飛び翔りて
すなはちもちひをもちていくはとなししかば しらきとりとなりてとびかけりて
山の峯に居り 伊禰奈利生ひき 遂に社の名と爲しき
やまのみねにをり いねなりおひき つひにやしろのなとなしき

遠祖・秦伊侶具がお餅を作り弓矢の的としたところ、お餅は忽ち白鳥に姿を変えて山の峰へと飛び去ってしまったの。そうして白鳥が舞い降りた場所から稲が生えてきたことから社を建てて祀り、伊奈利社と名付けたと記されているの。白鳥を稲の精霊と見做す伝承は他にも見られますが、山城国では峯に舞い降りてくれたから良いものの、豊後国田野ではその白鳥も南方に飛び去り「百姓死に絶えて遂に荒れ廃て」てしまったの。【豊後風土記】の記述を紹介しておきますね。

郡内の百姓 此の野に居りて多く水田を開きしに
くぬちのおほみたから こののにをりておほくこなたをひらきしに
糧に余りて畝に宿めき 大きに奢り 已に富みて餅を作ちて的と為しき
かてにあまりてうねにとどめき おほきにおごり すでにとみてもちひをもちていくはとなしき
時に 餅 白き鳥と化りて 発ちて南に飛びき
ときに もちひ しらきとりとなりて たちてみなみにとびき

丸山稲荷社 その秦氏の祖霊神が一躍脚光を浴びるようになったのは国家事業として行われた教王護国寺の建立に依るの。31歳にして唐に渡った弘法大師こと空海上人は、帰国後に高尾山寺に住した後、高野山に入り、金剛峰寺を開創。その功績が認められて京都・東寺を託され、教王護国寺の名が附され、嵯峨天皇の帰依を受けて講堂などが建立されますが、その時に建築資材の木材を提供するなど、全面的に協力したのが秦氏一族なの。それが切っ掛けとなり、秦氏の祖霊神だった稲荷神が教王護国寺の守護神として祀られたの。空海は真言密教を集大成した先駆者ですが、出家以前には四国霊山を巡り、入唐以前の10年間の行動は謎とされているの。

お狐さま 吉野山中に修行していたのかも知れず、空海は在来の土俗信仰も受け入れて、稲荷神を守護神としたのかも知れないわね。こうして真言密教と習合した稲荷神は、文字通り弘法大師の弘法(ぐほう)と共に各地へと伝えられていくの。稲荷神には神道系と仏教系があることは鎌倉歴史散策−小町大町編の 八雲神社 の項でも紹介しましたが、仏教系の稲荷神が登場するのはこの頃からのことなの。元々はヒンズー教で自在の神通力を持つと云われたダーキニー神 Dakini が仏教に習合され、荼枳尼と音訳されたの。その荼枳尼天が今度は稲荷神と習合されてゆくの。

CoffeeBreak 荼枳尼天は自在の神通力を持ち、人間の生死を半年前に見抜き、その心臓を喰らう鬼女だったのですが、大黒天に敗れた後は眷属となり、仏教の守護神となったの。その習合過程は 鬼子母神 と何やら似ていますよね。因みに、仏教では荼枳尼天は人心の垢を食い尽くす神さまとして天部に祀られているの。

真言密教と云えば山伏ですが、彼らは荼枳尼天の神通力にも着目したの。山伏達は山から降りると祈祷や呪術を以て病魔退散などを行いますが、稲荷信仰の流布にも一役かったの。元々豊作祈願に祀られていた田の神などの在来信仰に結び付いていくの。狐や狼は米や穀物を食い荒らすネズミを退治してくれる益獣として身近な存在でもあり、荼枳尼天の眷属が狐であったことから、動物霊信仰とも融合していくの。でも、神使とされる狐については本当は諸説あり、荼枳尼天だけでは説明しきれないの。

お狐さま それに、荼枳尼天の使いはホントは狐じゃなくてジャッカルだったの。でも、中国にはいないから同じような容貌の狐が選ばれたの。キリンが麒麟になり、ライオンが獅子に化け、ワニが龍になるよりはかなりマトモよね。その荼枳尼天ですが、インドでは鼠を油で揚げたものが供物として捧げられていたの。殺生を禁じた仏教のもとではそれを模した油揚げとなり、お狐さまも精進料理に替えられたの。(^^; 因みに、いなり寿司の呼称もこれに由来するの。

最後に稲荷神のルーツは秦氏遠祖が密かに崇めていた原始キリスト教とする説を紹介しますね。彩流社刊『猿田彦と秦氏の謎』の中で清川理一郎氏は多胡碑(群馬県吉井町にある日本三古碑の一つ)の傍から発見された石室に INRI の文字が刻まれていたことから、それを J(I)esus Nazarenus Rex Iudaeorum の略と捉え、転訛して稲荷になったと説いているの。傍証を挙げ、論考されていますので、御一読されてみては?

14. 明治天皇野立所 めいじてんのうのだてしょ

明治天皇野立所 明治天皇野立所 丸山稲荷社を後に随神門を横切り本宮右手に進むと明治天皇野立所を示す記念碑が見えて来ますが、明治天皇もここで野点して八幡宮境内の景観を愛でたのかしらと思いきやそれはとんでもない間違いで、こともあろうに八幡宮前で行われた陸軍の野戦演習をここから天覧したの。明治天皇は神仏分離令を発布して徹底した廃仏毀釈を行いますが、御多分に洩れず八幡宮寺に於いても仏教的な色彩を帯びた諸堂や備品等一切合切が破却されているの。殺生を戒める仏教を排除した上で武神・軍神として再び八幡神を担ぎ上げる積もりだったのかしら。今でこそ若宮大路には商店街が続き民家も建ち並びますが、その頃の鎌倉は未だ荒れ地が広がり寒村と呼ぶべき景観だったのでしょうね。

それにしても若宮大路を間にして実弾が飛び交う光景を想像してみて下さい。八幡宮の境内に再び軍靴の靴音が響き渡る時代が来ないように切に願う次第です。八幡神の使いが鳩ならその鳩は平和の象徴でもあり、こうして多くの参拝客が訪れているのですから荒御魂も和魂に昇華したと思いたいものですね。

15. 由比若宮遙拝所 ゆいわかみやようはいじょ

明治天皇野立所からの石段を下ると若宮脇に出ますが、次の白旗神社に向かう途中にあるのがこの遙拝所。治承4年(1180)、鎌倉入りした頼朝はこの地から由比若宮を望み「祖宗を崇めんが爲 小林郷の北山を點じ宮廟を構え 鶴岡宮をこの所に遷」す決意を固めるの。今となっては由比ヶ浜を望むどころか、視界を木立に遮られて何も見えませんが、流刑の身にありながらも挙兵して源氏所縁の地である鎌倉に入部した頼朝にしてみれば、万感の思いがあったのでしょうね。

16. 鶴亀石 つるかめいし

その遙拝所の左脇に置かれているのがこの鶴亀石。案内が無ければそのまま通り過ぎてしまう程の何の変哲も無い石ですが、【新編相模国風土記稿】にも記され、水で洗うと鶴亀模様が浮き出てくるという珍しい石だそうよ。残念ながら辺りを見回しても水が得られそうな環境に無く、検証出来ませんでした。(^^; 或いはと、近付いて鶴亀模様を探してはみたのですが、風化してしまったのか見つからないの。雨上がりの日には見ることが出来るかも知れないわね。

17. 白旗神社 しらはたじんじゃ

白旗神社は北条政子と共に鎌倉幕府第二代将軍・源頼家が父・頼朝の菩提を弔うために創建したもので、後に第三代将軍・源実朝も合祀されているの。現在の社殿は明治時代に再建されたものですが、漆塗りの唐破風社殿が重厚な佇まいを見せ、背後からの木立に覆われて霊廟に相応しい面持ちをしているの。後に天下を治めた豊臣秀吉が、頼朝像の肩に触れて「共に天下を治めた者同志じゃが、そちと儂が違うのはそちは貴種じゃが儂は賤しい身じゃ」と話しかけたとか。

18. 鎌倉国宝館 かまくらこくほうかん

鎌倉国宝館 白旗神社から南に歩くと鎌倉国宝館があるの。正倉院を模した建物で、鎌倉の神社仏閣に伝わる仏像書画など貴重な文化財を収蔵し、その数何と4,200点に及ぶの。中でも円応寺の木造初江王坐像と旗上弁財天社の弁才天坐像は必見よ。国宝館では常設展の他にも季節毎の企画展も行われていますので、仏教美術や書画骨董に興味をお持ちの方は見学されてみては?拝観料:¥300(但し特別展を除く) 9:30-16:00 月曜休館

19. 流鏑馬道 やぶさめみち

流鏑馬道 境内を東西に横切るこの道は八幡宮が創建される以前の鎌倉古道でもあり、毎年行われる鶴岡八幡宮例大祭の際には流鏑馬神事が催される道となるの。今でこそ年に一回だけの神事となってしまいましたが、当時は境内では盛んに流鏑馬が行われていたの。武士にとっては騎射の技術が最も重視されたことから笠懸けなどを行い、常日頃から鍛錬していたの。そんな中で流鏑馬は鎌倉時代に神事として定着するようになったの。流鏑馬が本格的な騎射なら笠懸けはどちらから云うと武士達の余興的な競技になるの。自分達の冠る笠を的に見立てて腕前を競ったの。

残酷な気がしますが、縄で囲った円陣に犬を放ち、騎上から矢を射る犬追物(いぬおうもの)なんて云う競技もしているの。当時は生死を賭けた戦がいつ起きてもおかしくはない世情ですので彼等とて徒に虐待していた訳ではないのですが。

20. 稲荷社 いなりしゃ

稲荷社 鶴岡八幡宮で稲荷社と云えば境内西北に鎮座する丸山稲荷社ですが、東鳥居を抜けて八幡宮の脇道を金沢街道に向かうと御覧のような小さな稲荷社が見えて来るの。丸山稲荷社と違い、八幡宮の境内摂社と云うよりも村の鎮守さまの面持ちですが、残念ながらこの地に祀られるようになった縁起などは分からないの。御存知の方がいらっしゃいましら御教示下さいね。

21. 牡丹園 ぼたんえん

稲荷社参拝の後は三の鳥居に抜けて再び八幡宮に戻り、牡丹園を見学しましたが、その牡丹園には170余種2,000株の牡丹が植えられているの。見頃は4月中旬から5月上旬にかけての期間で、紅紫の大輪が園内を彩るの。牡丹園と称してはいるけど、芍薬600株も併せて観賞することが出来ますよ。ねえねえ、牡丹と芍薬はどうやって見分けるの?ちょっと乱暴な云い方だけど、牡丹が木なら芍薬は草なの。艶やかに咲き誇る様はまさに−立てば芍薬、座れば牡丹−よね。入園料:¥600(開花時期)開園時間 9:00-16:30

中国原産の牡丹は嘗て中国の宮廷貴婦人達もこぞって愛でたと云うの。あなたも−歩く姿は百合の花−となり、苑内を散策してみては?そんな暇なんて無いわ−とお嘆きのあなたは、左掲の画像をクリックしてみて下さいね。あなたを素敵な花園へとお誘いします。尚、ピンボケ画像も含まれますがお許し下さいね。それではごゆっくり御鑑賞下さいませ。(^^;

いかがでした?牡丹(プラス芍薬)を堪能して頂けましたでしょうか。
因みに、下の画像は冬牡丹。冠雪がありませんのでちょっと風情に欠けるのですが。
冬牡丹の開花時期は1月上旬〜2月下旬まで。

冬牡丹 冬牡丹 冬牡丹

22. 湖石の庭 こせきのにわ

牡丹園の最奥部にあるのがこの湖石の庭なの。説明に依ると、湖石とは中国江蘇省にある太湖という湖の底から掘り出された石灰岩で、日本でも牡丹との組み合わせは画題にも多く取り上げられ、玉堂富貴と賛えられたのですが実物は存在せず、日中友好を記念して駐日大使の特段の配慮に依り寄贈されたものだそうよ。ξ^_^ξの拙い写真では玉堂富貴には程遠い印象ですので、是非実物を御覧下さいね。但し、湖石の庭は牡丹の咲く頃に訪ねてみて下さいね。秋にも訪ねてみたことがあるのですが、折角の湖石が骨を思わせ(失礼)、寂寥感が漂うの。

23. 散策の小径 さんさくのこみち

湖石の庭を過ぎると源氏池の畔に沿うようにして散策の小径が設けられていますが、ここには訪ね来る人も少なく、静かな時間が流れているの。斎館にある牡丹園の出口までのそぞろ歩きがお勧めよ。参考までに秋景色も幾つかアップしておきましたので、御覧になりたい方は右端の縮小画像をクリックしてみて下さいね。But スライドは完全手動 (^^; ですので御協力下さいね。

石筍 呉竹漢竹 呉竹 漢竹

左端は小径の傍らに立てられていた魚鱗石で、湖石と同じく、中国江蘇省から寄贈されたものなの。表面が魚の鱗に似た模様をしていることから名付けられたもので、竹と共に植栽し、筍に見立てて石筍と称するのだとか。石筍の次に見掛けたのが呉竹(くれたけ)と漢竹(かわたけ)ですが、京都御所清涼殿前の左右に配置される呉竹漢竹に倣い、呉竹は同御所から、漢竹は東京都府中市に鎮座する 大國魂神社 の矢竹※を株分けしたものなの。竹は古来より神聖なものとして扱われて来ましたが、お正月の門松もその一つよね。神さまは竹を通して地に降臨してくると信じられていたの。因みに、左が呉竹で右側が漢竹よ。

※清和源氏の祖とされる源経基が武蔵介に任ぜられたことに始まる源氏と武蔵国の結び付きは強く、挙兵した源頼朝も房総半島から武蔵国を経て鎌倉入りしているの。その途中で武蔵国の総鎮守とも呼ぶべき大國魂神社を訪ねた頼朝は、箙(えびら)から弓矢を抜き出して地に突き立て戦勝祈願したのですが、その矢が根づいたのが「矢竹」と云われているの。その後寿永元年(1182)には政子懐妊に際し安産祈願をするなど、頼朝は大國魂神社を篤く崇敬し厚遇しているの。この漢竹はその矢竹を大國魂神社から株分けしたものなの。因みに、大國魂神社は【吾妻鏡】では武蔵(総社)六所宮の名で記されているの。

さざれ石 斎館を出ると源氏池に面して広場が広がりますが、その一角にあったのがこのさざれ石。何かと物議を醸す「君が代」ですが「さざれ石の巌となりて」と詠まれる、あのさざれ石。石灰石が長い年月を経て二酸化炭素を含んだ雨水で溶解される際に、稀に強い乳状液を生成し、周囲の小石を凝結して巨岩化するそうな。学名は石灰質角礫岩で、現在は岐阜県の天然記念物にも指定されていますが、これは発見者・故小林宗一氏の御遺族の方が奉納されたものなの。ここで皆さんにクエスチョン。(^^; このさざれ石が鎌倉のとある古刹の境内にもあるの。さて、どこでしょう?エッ?ヒント出せって?う〜ん、明治以前は尼寺でした。

イングリッシュオークの樹 色鮮やかな緑に誘われて近付いてみたのがこのイングリッシュオークの樹。日英友好を祈念して植樹されたもの−と説明書きにありましたので UK Now に記載される日英グリーン同盟の植樹活動に伴い、植樹されたものでしょうか。イングリッシュオークはヨーロッパでは神木とされ、家具などにも使用されているの。八幡宮の境内地にあってイングリッシュオークの神さまと八幡神はどんな会話をされているのでしょうね。補:紹介したイギリス政府公式HPの UK Now ですが、残念ながら 2009/3/31 を以て閉鎖されてしまったの。

鴨の親子

そぞろ歩きを終えて源氏池畔で暫時の休憩を。訪ねたのが5月のことでしたので源氏池には小さな蓮の葉が浮かぶのみでちょっとさみしい風情。清少納言は【枕草子】の中で「蓮の浮き葉のいと小さきを池よりとりあげたる」を美しきものとして書き留めていますが、確かに一枚一枚を見ると鮮やかな緑の葉の上で水玉が興を添えているの。その池畔にある藤棚には時期外れの花が僅かに咲いていたの。見頃は4月中旬から下旬にかけてでしょうか。清少納言も

藤の花は しなひ長く色濃く咲きたる いとめでたし
いろあひよく花ふさながくさきたる藤の 松にかかりたる ・・・・・
すべて紫なるは なにもなにもめでたくこそあれ 花も糸も紙も

藤 としたためているの。藤紫色したものなら何でも素敵なの−と無条件の称賛振りですが、清少納言に限らず、藤紫には古来より霊力が備わると信じられていたの。花房が稲穂に似ることから稔りの象徴として女性を連想させるものとなり、松を男性に見立て、その松に藤が絡みつきながら生長する様を男女和合の象徴としたの。ですが、清少納言も「昔おぼえてふようなるもの」として「藤のかかりたる松の木枯れたる」を挙げているの。男性を頼り過ぎてもいけないみたいね。(^^;

松 世間話の序でに (^^; 【古事記】にも藤にまつわる面白い逸話が記されているのでちょっと紹介してみますね。伊豆志袁登売神と云う見目麗しい女神に多くの神さま達が妻に迎えようと結婚を申し込むのですが、悉くふられてしまうの。その中に秋山下氷壮夫と云う神さまがいたのですが、やはりふられてしまうの。秋山下氷壮夫には春山霞壮夫と云う弟神がいたのですが、悔し紛れにその弟神に、おれがダメなのだからお前は推して知るべしと「汝(な)は此の嬢子(おとめ)を得むや」と訊ねるの。ところが、弟神は「易(やす)く得む」と応えたことから兄弟神の賭けが始まるの。

伊豆志袁登売神 = いづしおとめのかみ
秋山下氷壮夫 = あきやまのしたびおとこ
春山霞壮夫 = はるやまのかすみおとこ

兄神は、もし媛がお前になびいたなら今着ているこの服をお前に与え、背丈ほどの甕に酒を醸してやろうじゃないか。何なら山海の産物を全て賭けても良いぞ−とけしかけるの。賭を受けてたった弟神は母神に事の次第を打ち明けたところ、母神は藤蔓で一夜の内に衣袴と足袋を織ると弓矢まで作ってしまうの。そうして織り上げた服を弟神に着せて媛の許へと送り出したの。

藤 ところが、弟神が媛の家に辿り着くと着物も弓矢も忽ち藤の花になってしまったの。弟神は藤の花に変じた弓矢をそっと媛の家の厠(かわや=お手洗い (^^; に懸けておいたの。しばらくして厠に来た伊豆志袁登売神、藤の花を見つけて「あら不思議ねえ、どうしてこのような所に藤の花があるのかしら?」と不審に思いつつ、藤の花を手に取ると母屋に向かい歩き始めたの。弟神は空かさず媛の後を追い、母屋に入るなり媛と契りを結んでしまうの。う〜ん、困った弟神ですね。それでは殆ど犯罪者ですよね。(^^;

その後、媛は一人の御子を産み、弟神は兄神に媛を娶ったことを告げるのですが、兄神は弟の婚姻が妬ましく、賭けた品の何一つ渡さなかったの。それを弟神から知らされた母神は、神の身でありながら人間と同じように約束を破るとはとんでもない兄神じゃ−ともうカンカン。怒りのあまり兄神に呪いをかけてしまうの。その呪いに登場するのが前述の竹なの。川石を塩と混ぜ合わせて竹の葉に包み、目の粗い竹籠に入れて呪詛したの。我が子をそこまでするか−の感があるのですが。

藤

竹の葉が萎びるようにお前も萎びてしまえ!
海水が干涸らびて塩になるようにお前も干涸らびてしまえ!
そしてこの石のように深く沈んでお前も衰弱してくたばっちまえ!

−と、弟神の呪文も凡そ神さまと思えないほどの雑言振りね。(^^; そうして竹籠は竃の上に置かれて、その呪いから兄神は8年もの間苦しみ悶えたの。さすがの兄神もこれには懲りて母神に泣いて侘びたの。

そうして呪詛の品々を竃から降ろして貰うと、兄神はようやく安穏な日々を送れるようになったの。めでたしめでたし。ところで、竹籠を置いたのが竃の上と云うのが気になりますが、鎌倉歴史散策−金沢街道編の浄妙寺の項で紹介した荒ぶる神の 竃神 に関係するのかしら?お話しが藤から逸れてしまいましたが、藤の花の薄紫色には媚薬としての効き目もあると信じられていたみたいね。最古の恋愛小説とも云うべき【源氏物語】を書いたのも紫式部なら、紫という色あいは女性の情愛を象徴するものなのかも知れないわね。エッ?わたしの想いは真紅の薔薇色よって?それはそれは御馳走さま。(^^;

ここからは鶴岡八幡宮の境内を離れて、八幡宮界隈の隠れた史蹟を紹介してみますね。足を向ける方も少なく、忘れ去られたような趣きの史蹟ですが、訪ねてみれば貴賤を越えて神仏の加護を願っていた当時の人々の暮らしも見えて来るの。

24. 鉄の井 くろがねのい

鉄の井 三の鳥居から金沢街道を西に向かうと茶房・びせん脇に残されているのが鎌倉十井の一つに数えられる鉄の井。江戸時代にこの井戸から鋳鉄の観音像が出てきたことから名付けられたのですが、その観音像は頭部だけでも1m強あったというのですから驚きですよね。ところで、傍らに立つ案内板を見て皆さん「てつのい」と訓まれていますが、「くろがねのい」と訓んで下さいね。鉄観音ですから、テツと訓みたい気持ちは充分理解出来るのですが。(^^; 傍らの石碑には

鎌倉十井の一つなり 水質清冽甘美にして盛夏といえども涸るることなし 往昔此井中より高さ五尺餘りの首許なる鐡観音を掘出したるにより鐡井と名付くといふ 正嘉2年(1258)正月12日丑の剋 秋田城介泰盛が甘縄の宅より失火し 折柄の南風に煽られ 火は薬師堂の後山を越え寿福寺に到り 郭内一宇も残さず焼失せしめ 餘焔は更に新清水寺 窟堂若宮寶蔵 同別當坊等を焼亡せしめたること東鑑に見えたり 此観音は其の火炎にかかり土中に埋もれしを掘出したるものならん 尊像は新清水寺の観音と傳へ 後此井の西方なる観音堂に安置せられしも 明治初年東京に移せりといふ 昭和16年(1941)3月建 鎌倉町青年團

と記されているの。その鉄観音ですが、新清水寺に安置されていた頃には当然胴体もあったはずよね。それが何故頭部だけがこの井戸に投げ込まれていたのかしら?それに観音さまを普通そんなところに投げ込んだりするかしら。当時の神仏を敬う気持ちは貴賤を問わず今よりも遙かに強くあったでしょうに。残念ながら碑文にはその疑問に応えてくれる記述が無いの。知れば知るほど謎めいてくるエピソードよね。

それにしても鋳鉄製の仏像とは珍しいと思うのですが、当時の鎌倉では行合川※河口辺りで砂鉄が採取されていたと云うので、その砂鉄で造られたものなのかしら。その観音さまですが、明治9年(1876)に東京・人形町にある大観音寺に移されて現在に至っているの。なぜ、大観音寺に遷座されたのかも不詳ですが、その観音さまを見てみたいの−という方はお出掛けになってみては?但し、毎月17日のみの開帳と聞きますので注意が必要ね。現在は都の指定有形文化財にも指定されているの。
※行合川は江ノ電・七里ヶ浜駅近くを流れているの。


〔 編集後記 〕 その鉄観音が遷されたと云う大観音寺 東京都中央区日本橋人形町1-18-9 を訪ねてみたの。残念ながら観音さまの御尊顔を拝することは出来ずに終えてしまいましたが、遷された経緯だけは知ることが出来たの。それだけでも収穫あり−と云うことで、紹介してみますね。

ビルの谷間で今にも消え入りそうな佇まいの大観音寺ですが、お察しのように寺号は本堂に祀られる鋳鉄製の観音菩薩像に由来するの。頭部だけの観音さまですが、それでも高さが170cmに、幅は54cmもあるの。紹介したようにこの観音さまは元々は鎌倉の新清水寺に祀られていたもので、造立当初は勿論ちゃんとしたお姿をされていたの。源頼朝の側室・北条政子は京都の清水寺に倣い、鎌倉の地に新清水寺を創建したのですが、正嘉2年(1258)の1/17に発生した大火で悉くが灰燼に帰してしまうの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

【吾妻鏡】には−丑の刻 秋田城の介泰盛の甘繩の宅失火す 南風頻りに扇き 藥師堂の後山を越え壽福寺に到り 惣門 佛殿 庫裏 方丈已下郭内一宇も殘らず 餘炎新清水寺窟堂竝びにその邊りの民屋 若宮寶藏 同別當坊等燒失す−と記され、本尊として祀られていた観音像だけが寺僧の手で持ち出されて井戸の中に難を逃れたの。その後は新清水寺も再建されることもなく、観音像も忘れられてしまったのですが、江戸時代に井戸が掘り返された際にお顔だけが発見され、畏怖した里人達は鉄観音堂を建てて祀ったの。それが明治期になると廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、観音さまは再び不運に見舞われるの。何と観音さまは由比ヶ浜に捨てられそうになったの。それをすんでのところで救い出したのが人形町に住む石田可村、山本卯助の両人なの。船で蔵前まで運び、明治9年(1876)に堂宇を建立して安置したの。

開帳日(毎月17日)に合わせて出掛けてみたのですが、残念ながら御尊顔を拝することは出来ませんでした。と云うのも、観音さまは御簾にお隠れの上に、前立像に遮られて本堂の最奥部に祀られているの。遍く慈悲の光で世界を照らす観音さまと雖も、ξ^_^ξのような不信心な輩には御簾を上げて微笑んではくれないみたいね。グリコのオマケで門前の景観をお届けしますね。

大観音寺 百度石 防火井戸 路地

25. 志一稲荷 しいちいなり

志一稲荷 鉄の井から鎌倉街道を建長寺方面に歩くと間も無く小径を挟んだ大きな駐車場が見えて来ますが、その道を山側に歩くと石段の先に小堂が建てられているの。普通、稲荷社と聞けば、その使いでもある狐が社殿前の両袖に脇侍する光景を思い浮かべますが、ここにはその姿はないの。ですが、志一稲荷の縁起には、飼い主の志一上人に仕えた狐の哀しい逸話が伝えられているの。志一上人は九州は筑紫国(現・福岡県)の僧侶で、訴訟のために鎌倉に下向して来たのですが、肝心の証文を忘れて来てしまったの。

志一稲荷 すっかり慌ててしまった上人ですが、常日頃可愛がっていた狐がそれを知ると、一夜の内にその証文を筑紫から持ち帰り、上人に手渡すや死んでしまったの。そのお蔭で無事勝訴することが出来た上人は、証文を届けてくれた狐を憐れと思い、この地に祠を建てて祀ったと云われているの。ですので、志一稲荷は稲荷社と云うよりも、その狐の廟所と呼ぶべきもので、この場合の稲荷はイコール狐よね。鎌倉に下向してきたのも土地の帰属問題からでしょうが、具体的な訴訟内容などは分からないの。

志一稲荷 【太平記】の妙吉侍者事付秦始皇帝事の段には、夢窓国師の法弟・妙吉侍者なる僧侶が「仁和寺に志一房とて外法成就の人の有けるに 荼祇尼天の法を習て三七日行ひけるに 頓に法立に成就し 心に願ふ事の聊も叶わざると云ふ事なし」と志一上人に師事したことが記されているの。既にお分かりでしょうが、この荼祇尼天こそ仏教に習合された稲荷神ね。記述に外法成就とあるように、上人は荼祇尼天を操る妖術使いだったみたいね。更に、清氏叛逆事付相摸守子息元服事の段では

敬白荼祇尼天宝前
一.清氏管領四海 子孫永可誇栄花事
一.宰相中将義詮朝臣 忽受病患可被死去事
一.左馬頭基氏失武威背人望 可被降我軍門事
−と、室町幕府第二代将軍・足利義詮の呪詛にも関わっているの。狐の逸話とは裏腹にかなり妖しい怪僧よね。狐の美談の蔭にその呪法に操られた荼祇尼天の姿が見え隠れしているの。逸話は上人の法力と荼祇尼天の霊験が語り継がれる内に美化されていったものなのでしょうね、きっと。

26. 巨福呂坂 こふくろざか

送水管トンネル 志一稲荷への入口から再び鎌倉街道を歩くと、ガーデンハウスと云うラーメン屋さんがありますが、その先を左に折れて坂道を上ります。沿道には民家が建ち並びますが、この坂道は嘗て巨福呂坂と呼ばれ、切り通しを経て山の内(北鎌倉)に抜ける旧道だったの。その坂道を上りきると御覧の巨福呂坂送水管トンネルが見えてくるの。中を覗いてみたのですが、送水管も地中に埋設されているのでしょうね、何も見当たらないの。巨福呂坂切り通しに続く坂道には、残念ながら往時を偲ばせてくれるものは何も無く、おまけに道は行き止まりになっているの。

27. 青梅聖天社 おうめしょうてんしゃ

青梅聖天社 その送水管トンネルの右手に続く道沿いに小さな鳥居が建ち、苔むした石段を登ると大聖歓喜天が祀られる青梅聖天社があるの。聖天の呼称は大聖歓喜天を略したもので、【新編鎌倉志】には「鎌倉の将軍一日疾劇し伏して時ならず青梅を望まれる 諸所を尋ねるに此の宮の前に俄に青梅実る 是を将軍に奉して終に疾癒ぬ」と青梅聖天の由来が記されているの。この鎌倉将軍と云うのは源実朝のことで、たわわに実る青梅を見やれば実朝の我儘振りが垣間見えて来るの。

歓喜天の梵名はナンディケーシュヴァラ Nandikesvara で、ナンディカ nandik は歓喜を表し、イーシュヴァラ esvara は王のことなの。そのルーツは古代インド神話に現れるガナパチ・ガネーシャ gaNapati gaNeza で、毘那夜迦天の別称が示すように、魔障の集団が棲む毘那夜迦天の王ともされているの。何と云ってもユニークなのがその像容で、人身象頭の男女二天が抱き合う双神像なの。歓喜天像には単身像もあるのですが、専ら広まるのは双身像の方で、その教義を唐から伝えたのが、あの弘法大師こと空海上人なの。

青梅聖天社 空海上人は帰国に際して216部461巻もの経典類を持ち帰りますが、その中に含まれていたのが『大聖天歡喜雙身毘那夜迦法』なの。真言密教の奥義を学んだ上人ですが、師事した中に北インド出身の牟尼室利(むにすり)と云う僧がいたの。恐らくは彼からインド秘伝の修法教示を得たものなのでしょうね。その像容ですが、大聖歡喜雙身毘那夜迦天形像品儀軌に「此相抱像表六處之愛 六處之愛者 一者以鼻各觸愛背 二者以臆合愛 三者以手抱愛腰 四者以腹合愛 五者以二足蹈愛 六者著赤色裙」と記されるように男女の抱擁そのものなの。

禁欲を旨とする当時の僧侶達はこの像容にさぞ驚いたことでしょうね。秘仏とされるケースが多いのですが、その意図するところを理解出来ずに、公開すれば誤解を生むと考えられたのでしょうね。案の定 (^^; 高度な宗教的解釈など分からない庶民には性愛を司る神として、後に、性欲・金銭欲をも肯定する超現世肯定的な神として崇められるようになったの。その像容が特異ならその由来も極めてユニークなの。興味津々のあなたに(笑)ちょっと紹介してみますね。

とお〜い遠い昔のことなの。印度のある国に一人の男がいて、国王にも良く仕えたことから忠臣として重用されていたの。けれど、宮殿に出入りしている内に王妃とも親しく心を通わすようになり、とうとう王妃と関係を結んでしまったの。それを知った国王は殊の外激怒して、その男を殺そうと、毒でもある象の肉を美味だからと騙して食べさせるの。男が象の肉を二口三口飲み込むのを見届けた国王は、「我が妃をたぶらかしおって!お前のような奴は象肉を喰らい死ぬがよかろうて!!」と高笑いするの。男は騙されたことに気付くのですが、既に毒が廻りはじめ、気分が悪くなってきたの。

事の次第を知らされた王妃は男の許へ駆けつけると−愛しいひとよ。象肉を食べさせられるとは何としたことでしょう。人伝てに聞くところに依れば、油の池で沐浴し、鶏羅山に生える蘿蔔根を食すれば助かると聞きます。わたくしの愛馬にて直ぐに鶏羅山に向かいなさい。そなたの罪はわたくしの罪。さすれば、わたくしも国王から罪を問われ、獄中に捕らわれの身となることでしょう。そなたとは二度と会えますまいが、生きてこの世の覇者となられんことを。そう告げたの。

男は王妃に背中を押されるようにしてその場を離れると、王妃の愛馬を駆って鶏羅山へと向かうの。そうして云われた通りに油の池で沐浴し、生えていた蘿蔔根を食べてみたところ、身体から毒が消えてゆき、一命を取り留めることができたの。けれど、男は国王を深く恨み、国王の領地領民に害をなさんとの思いから大魔神・毘那夜迦王に変じてしまったの。その姿は人身象頭で、十万七千(!)の眷属を率いて悪事の限りをはたらくの。

蘿蔔根はダイコンのこと。白ダイコンと云うよりもラディッシュに近いかしら。
歓喜天の供物にダイコンが捧げられるのはこの逸話に由来するの。

やがて国中に悪鬼が蔓延り、国王も領民もすっかり疲弊してしまうの。それを見兼ねて毘那夜迦王の説得に乗り出したのが観音さま。見目麗しい女性に姿を変えて毘那夜迦王を訪ねるのですが、その美しさに感嘆した毘那夜迦王は欲情して何と(!)観音さまに情交を迫るの。ところが観音さまは−あなたが仏法に帰依して善神となるのならその望みを叶えてあげてもいいわ−と答えるの。そうして毘那夜迦王は仏法への忠誠を誓い、人身象頭の姿となった観音さまと抱き合ったの。

補:記述は多分に脚色を含みますので鵜呑みにしないで下さいね。(^^;

双身像では観音さまが毘那夜迦王の脚を踏みつけているケースが多いのですが、それは悪心を封じ込める象徴なの。そうして歓喜を得た毘那夜迦王は歓喜天となり、男女陰陽の両極が結合された宇宙万物の象徴として広大無辺の神通力を持つようになったの。禁欲を説く仏教の中ではまさに歓喜天の双身像は破壊仏の感があるのですが、仏教とは深遠な世界ですね。

青梅聖天社 左掲がその聖天さまが祀られる社殿ですが、村の鎮守さまの趣きね。隙間から中を覗いて (^^; みたのですが何もありませんでした。それもそのはず、歓喜天像は現在は鎌倉国宝館に寄託中なの。国宝館を訪ねた際に拝観する幸運に恵まれましたが、残念ながら巨福呂坂町内会寄託と案内があるだけで、何の説明書きもありませんでした。南北朝時代の作と伝えられ、鎌倉市の文化財にも指定されているの。多くの寺社で秘仏とされることから公開されず、実物を拝観する機会は余り多くありませんので、国宝館で見掛けた際には御堪能下さいね。(笑)

余談ですが、鎌倉歴史散策−小町大町編で紹介した 宝戒寺 にも双身歓喜天立像(国重要文化財)が秘仏として歓喜天堂に安置されているの。それにしても、仏教由来の歓喜天を祀りながら、鳥居を設けて神社扱いとは些か奇異に思ってしまいますが、多神を崇敬する日本人の習俗ならではの光景ですよね。因みに、この青梅聖天社も嘗ては鶴岡八幡宮寺の境外末社だったの。八幡大菩薩もさぞビックリしてたでしょうね。(^^;

庚申塔 青梅聖天社の鳥居から少し離れた道端には御覧のように数多くの 庚申塔 が建てられていたの。嘗ての巨福呂坂は武蔵国に通ずる幹線道路でもあり、この辺りは戦略的にも要害の地だったの。加えて【吾妻鏡】が巨福呂坂を含めた四境で悪鬼の侵入を防ぐ四境祭が行われたことを記すように、異界との接点でもあったの。江戸時代には八幡宮の参拝客をもてなす旅籠や茶屋などが多く建ち、賑わいを見せたと伝えるの。旅人が持ち込む流行り病など、疫神の祟りを畏れた当時の人々は庚申待ちをして、日々の平穏を青面金剛や猿田彦に祈ったのでしょうね。

庚申塔 道祖神の文字を彫刻した石柱がありますが、建ち並ぶ石塔はその多くが庚申塔なの。この石碑を見た方々は庚申塔を含めて道祖神だと思われてしまうわね。確かに神道系の庚申主尊として祀られた猿田彦も、後に天細女命と共に道祖神として祀られるようにもなり、三猿を刻む庚申塔も後に村を守る道祖神と見做されるようにもなりますが、単純に道祖神とするには問題があるような気がするわ。そんなの、どっちでもいいじゃん!と云う方は次へお進み下さいね。(^^; 庚申塔のことが気になった方は画像をクリックしてみて下さいね。少しだけ解説してみました。

庚申塔 庚申塔 庚申塔 庚申塔

青梅聖天社の次は巨福呂坂切り通しを見てみたいの−と思っていたのですが、前述のように道は行き止まりなの。仕方なく踵を返して鎌倉街道に戻り、次なる目的地の今宮(新宮神社)へと向かいました。その途中で八幡宮裏バス停近くの休憩所にて暫時一休み。

28. 今宮 いまみや

今宮 今宮はその休憩所のある駐車場と鶴岡文庫の建物に挟まれた小径を道なりに辿ると見えて来るの。今宮は鶴岡八幡宮の境外末社で、後鳥羽・土御門・順徳の三天皇を祭神としているのですが、都から遙かに離れたこの地に祀られるようになったのには深〜い訳があるの。それを語るには、天皇配流と云う日本歴史史上希有の結末をみた承久の乱から始めなければならないの。ちょっと長くなり恐縮ですが、宜しくおつき合い下さいね。

倒幕の意志を持つ後鳥羽天皇は、第一皇子の土御門天皇に譲位して上皇として院政を始めるのですが、温厚な性格の土御門天皇は、上皇の倒幕計画を諫めたことから弟の守成親王(順徳天皇)に譲位させられてしまうの。順徳天皇は闊達な性格で、後鳥羽上皇のお気に入りだったみたいね。その順徳天皇も、承久3年(1221)4月に皇太子懐成親王(仲恭天皇)に譲位して後鳥羽上皇の倒幕計画を助けるの。そして同年5月、遂に後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発すると共に倒幕の兵を挙げ、承久の乱が勃発するの。実朝が公暁に暗殺されて源氏の血統が絶えると、将軍職の座をめぐり、権謀術数が幕府や御家人達の間にも蠢き、小乱も起きていたことから後鳥羽上皇に与する武士も多く、満を侍しての挙兵だったの。と云うよりも、そのハズだったの。

ねえねえ、何で後鳥羽天皇は譲位してしまうの?
天皇の座にいたらもっと強大な力を使えたんじゃないの?
後鳥羽天皇は自由が欲しかったのよ。

天皇の位にあると政務や宮中での様々な儀式に謀殺されて仲々自由な時間が取れないの。倒幕を密かに狙う後鳥羽天皇にしてみれば、謀をめぐらすには上皇の方が都合が良かったわけ。どこで誰と会おうと自由だもの。それに、天皇は自分の子供だから−親の云うことを聞け!と脅してしまえばそれまでのことよね。天皇に命令出来る唯一の存在なんだからこれ以上の強権は無いわね。おまけに天皇みたいに命令書を出すのに複雑な手続きが要るわけでも無いし。それに後鳥羽上皇には沢山の荘園があり、お金にも困らなかったの。後鳥羽上皇は在位期間24年の間に、何と28回も熊野詣をしてるけど、お金が無ければ出来ない話しよね。その異常な迄の回数から、倒幕の挙兵時には熊野三山の寺社が持つ軍事力を頼るつもりで密談するための隠蓑にもなっていた節があるの。

熊野三山は前に教えて貰った熊野信仰の総本山のことよね。
でも、お坊さん達が武装してたの?信じられない。

お寺を運営するにはそれなりのお金が掛るのは今も昔も変わらないわね。当時それを支えたのが荘園なの。権力者達の帰依を受けて荘園が寄進され領地を広げていったの。でもそうなるとその荘園を守る必要が生じて独自に武装するようになったの。加えて寺社は治外法権的な扱いを受けていたこともあり、荘園をめぐる利害関係から戦闘も起きているの。特に強大な勢力を持っていたのが興福寺や延暦寺で、日本の歴史史上最高の権力を手に入れたと評される白河上皇を以てしても「我が意の及ばざるは賀茂川の水 双六の賽と山法師」と云わせるほど。この山法師と云うのが延暦寺の僧兵のことで、強大な軍事力を背景に度々強訴に及んでいるの。早い話しが脅しよね。後に源氏と因縁浅からぬ関係となる三井寺もそんな武装集団を有する寺社だったの。

ちょっと話しが横道に逸れてしまいましたが、脱線序でにもう一つだけ。(^^; 後鳥羽上皇は和歌にも優れた作品を残しているけど、弓射や騎馬などの武芸も好み、それが高じて院内に刀剣の鍛冶場を造り、自ら刀を作ったりしているの。その時好んで用いたのが菊の華で、天皇家を表す菊の御紋のルーツとも云われているの。武家の棟梁でありながら和歌や蹴鞠に興じた実朝と、片や武芸を好んだ後鳥羽上皇。本来なら逆よね。

閑話休題。お話しを元に戻しますね。北条義時追討の院宣を受けた幕府側は空かさず嫡男の泰時、朝時、時房が19万もの大軍を率いて京に向かうの。ところが、迎え撃つ上皇側は兵力召集に手間取り、僅か1万7千騎余り。慌てふためいた上皇は延暦寺に応援を求めますが、拒否されてしまうの。挙兵してみたものの、事前準備の詰めが甘かったみたいね。それに比べると幕府側の結束力が光りますが、早い段階で倒幕計画を察知した義時は、伊賀光季や大江親広を京都守護に上洛させて、後鳥羽上皇や倒幕に加担する意志を持つ御家人達を監視させていたの。ところで、幾ら執権の座に在った北条義時でも、直ぐに大軍を集められた訳でもないの。その最大の功労者が尼将軍と呼ばれる北条政子で、御家人達を前にして弁舌を奮うの。【吾妻鏡】には

皆心を一にして奉るべし これ最期の詞なり 故右大将軍朝敵を征罰し関東を草創してより以降 官位と云い俸禄と云い その恩既に山岳より高く溟渤より深し 報謝の志これ浅からんか 而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる 名を惜しむの族は早く秀康・胤義等を討ち取り 三代将軍の遺跡を全うすべし 但し院中に参らんと欲する者は只今申し切るべし

−と記され、政子の並々ならぬ決意が看てとれますよね。

故右大将軍:源頼朝
秀康:藤原秀康−後鳥羽上皇方の中心人物
胤義:三浦胤義−三浦義澄を父とする三浦一族の一人

源実朝暗殺に伴う次期将軍選出の際に胤義は、妻の連れ子・禅暁が二代将軍・頼家を父とすることからその継承の正当性を主張するのですが、北条義時の密偵に殺されているの。血脈故の悲劇ですよね。胤義はその義時への恨みつらみから後鳥羽上皇側に味方したの。乱の勃発に先立ち、兄・義村の説得を試みるのですが、失敗してしまうの。合戦に敗れて自刃。【吾妻鏡】は引き続き「武家天気に背くの起こりは舞女亀菊の申状に依り 摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由 二箇度院宣を下さるるの処 右京兆諾し申さず」と記して、後鳥羽上皇が寵姫・亀菊の領する摂津国長江・倉橋両荘の地頭職を罷免する院宣を発したので、北条義時は弟の時房を一千騎の軍勢と共に上洛させ、これを拒否したことが発端になったとしているの。亀菊は白拍子の出身で、上皇の寵愛を受けて宮中に上がると伊賀局と呼ばれていたの。上皇は「愛いヤツ、愛いヤツ。そなたの領地に地頭を置くとは不届き千万。朕に任せておくが良いぞ。亀菊、もっと近う近う」とデレデレだったのかも知れないわね。(^^;

北条政子の弁舌に衆知一致して闘うことを決意した御家人達ですが、上皇に敵対すると云うことは謀反人となることで、これには皆二の足を踏み、その戦術も含めた合議がなされるのですが、仲々結論が出せなかったの。守戦論に傾きつつある中で「右京兆(義時)殿、例え一騎たりとて直ちに京に攻め入るべし!」と急き立てたのが、何と幕府の顧問弁護士 (^^; でもあった大江広元なの。元々公家出身の彼は戦闘とはおよそ掛け離れた存在。おまけに広元の嫡男・親広は上皇側に味方しているの。広元に背中を押されるようにして僅かな兵力で出陣した義時の嫡男・泰時らの姿を見た御家人達は、「武州殿(泰時)に続くべし」と方々から参集し、広元の読みは見事に当たったの。

乱の後、北条義時は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳天皇を佐渡に配流してしまうの。倒幕に加わらなかった土御門天皇は京に留め置く積もりでしたが、両院の配流を悲しんだ土御門天皇は自ら配罪を望み、承久3年(1221)、土佐に配流となるの。翌年阿波に移されて寛喜3年(1231)に37歳の若さで薨去。後にその遺骨は山城国乙訓郡(現・長岡京市)の金原陵に改葬されているの。

佐渡配流となった順徳天皇は21年間の配流生活の末に46歳で崩御。その遺骨は佐渡・真野陵に葬られた後、現・京都市左京区の大原陵に移されているの。隠岐に流された後鳥羽上皇は僅かな近侍者と共に隠遁生活を強いられ、帰京の望みも叶えられることなく60歳の生涯を終えているの。配流の際には寵姫・亀菊も上皇に同行していますが、上皇にはせめてもの救いだったのかも知れないわね。それとも「虞や虞や汝を奈何んせん」と思い悩む日々だったのかしら。亀菊がどんな女性だったのか、ちょっと気になるわね。

以上が承久の乱の顛末ですが、これで終えてしまっては今宮の解説にはならないわね。配流となった上皇は隠岐院と呼ばれていたのですが、身罷りし後は顕徳院と謚号されているの。ところが、再び後鳥羽院と改名されているの。極めて異例のことで、それには深〜い訳が。【吾妻鏡】は後鳥羽院の追善・追福供養や菩提供養が幾度となく行われたことを記しますが、後鳥羽上皇の怨霊が現われて猛威を奮ったの。【吾妻鏡】の宝治元年(1247)4/25の条には「巳の一点暈在りと 今日後鳥羽院の御霊を鶴岡乾の山麓に勧請し奉らる これ彼の怨霊を宥め奉らんが為 日来一宇の社壇を建立せらるる所なり」と今宮の造営が記されますが、その一月前には怪異現象が立て続けに起きているの。

3/11−由比浜の潮変色す 赤くして血の如し
3/12−大流星 (中略) 大きさ圓座の如し 比類無しと
3/17−黄蝶群飛ぶ 凡そ鎌倉中に充満す これ兵革の兆なり

【吾妻鏡】は事実関係の記述で終えていますので後鳥羽院の祟りとしている訳ではありませんが、赤潮の知識も無い当時のことなのでそれを悪霊の成せる業として畏怖したことは充分考えられますよね。翌月には

4/14−御台所御不例 ・・・・・ 炎魔天供を修し大般若経を転読すと
4/20−彼の御不例の事 御邪気たりと

と記され、第五代将軍九条頼嗣の正室・檜皮姫が病に倒れているの。この邪気と云うのが後鳥羽院の祟りを指しているのでしょうね。5日後には今宮の造営が行われていますが、その甲斐も無く檜皮姫は18歳の若さで亡くなってしまうの。檜皮姫は北条経時の妹で、16歳の時に将軍頼嗣に嫁がされますが、その時新郎は僅かに7歳。政略結婚以外の何物でも無く、幼少の頼嗣相手では夫婦と云うよりも姉弟の関係でしたでしょうに。時代の成せる業とは云え、恋に胸ときめかせることも無く生涯を終えるとは悲しい運命の悪戯ですよね。

今宮 話が前後してしまい恐縮ですが、今宮造営の前年にはその経時も病に倒れ側室も病死。死を覚悟した経時は弟・時頼に執権職と家督を譲り23歳で没しているの。その幾れもが後鳥羽上皇の祟りと思われていたのかも知れないわね。今宮はその後鳥羽上皇と共に、順徳天皇とその護持僧・長賢を合祀。土御門天皇を併祀するようになったのは明治以降のことですが、草葉の陰で親子喧嘩していないかちょっと心配よ。お前が味方せんから負けてしまったじゃねえか!(^^;

明治期の廃仏毀釈運動で当初併祀されていた長賢は土御門天皇に変えられてしまったみたいね。その長賢がどんな人物だったのか詳しいことは分かりませんが、【吾妻鏡】の建長4年(1252)1/12の条には天狗と化した長賢の怨霊が少女に乗り移り霊託したことが記されているの。

隠岐法皇の御使として去る比より関東に下向せしむに於いて 日来相州の第に住せしむの処
隆弁法印彼の亭に陪し転経するの間 護法天等の柱杖に件の類追い出されをはんぬ
今に於いては帰洛の時 院の御所にこれを申しての後 明年重ねて下向すべきなり

今宮 今宮に祭祀した後も冥府魔道からは機会ある毎に後鳥羽上皇の霊が現れていたのでしょうね。事件に前後して陰陽道最強の呪法とされる泰山府君祭も数多く執り行われていますが、関連するのかしら。その泰山府君祭については機会がありましたら紹介しますね。訪ね来る人も無く森閑とした風情の今宮ですが、訪ねた時には奉斎する禰宜の方にも出会いました。遙かなる時を経た今でもそうして祀られていることを知り、取り敢えず一安心のξ^_^ξでした。

お願い:三天皇の名称と称号は理解の容易さを基に記述しているの。
使い分けしていませんので、厳密には誤りなのですが余り深く追究しないで下さいね。

29. 鶴岡文庫 つるがおかぶんこ

今宮から戻り鎌倉街道に出る角地には鶴岡八幡宮が運営する鶴岡文庫があるの。鶴岡八幡宮の古文書や書籍を保存する一方で、鎌倉の歴史を知る上で貴重な資料や書籍が数多く収集されているの。入館に際しては受付窓口に記帳するだけで誰でも気軽に利用することが出来るの。おまけに無料 (^^; なの。残念ながら館外への貸し出しは行っていませんので館内での閲覧に限定されてしまいますが、時間のある方は足を運ばれてみては?入館料:無料 休館日:月曜日と年末年始−但し臨時休館日有り 開館時間:9:00-17:00 お問い合せ:TEL 0467-22-9144

八幡宮模型 館内には嘗ての鶴岡八幡宮を際限した大きなジオラマが展示されていますが、天正19年(1591)に描かれた鶴岡八幡宮修営目論見絵図を元に復元されたもので、当時の八幡宮の陣容が如何に荘厳なものであったかが分かる逸品よ。活字は苦手とおっしゃる方も是非このジオラマだけは御覧になってみて下さいね。境内には夷や大黒の名も見えて【吾妻鏡】に記される境内社などを見つけると、その時代にタイムトリップしたような気分になるの。ですが、館内には書物を紐解き、調べ事をされている方もいらっしゃいますので、迷惑とならないようにして下さいね。

お詫び:WBの設定を忘れて失敗写真となりましたので白黒に変換しました。
実際の模型は色彩豊かに彩色されていますので皆さん御自身の眼でお確かめ下さいね。

鎌倉文庫では研究者を講師に招き、【古事記】や【吾妻鏡】などの文献解説、鎌倉の歴史と伝承など複数の教養講座が開設されているの。残念ながらその幾れもが平日の開講ですので、お勤めされている方にはちょっと聴講が難しいわね。鎌倉国宝館館長の三浦勝男さんを迎えての講座は、ξ^_^ξも是非聴講させて頂きたいものですが、平日の開講に加え、鎌倉と離れて住む我が身にはちょっと残念。教養講座の詳しいことは上記の連絡先にお問い合わせ下さいね。


今回は鶴岡八幡宮を紹介してみましたが、話題の中心が逸話の紹介になってしまいました。鎌倉を象徴する鶴岡八幡宮ですが、訪ねる度に違う表情を見せてくれるの。残念ながら源平池に蓮の花が咲き乱れる景観を目にすることなく今日に至りますが、季節を捉えて是非訪ねてみたいものですね。その時は改めて皆さんにも御案内してみますね。社殿を前にして紹介した逸話を少しだけでも思い出して頂けたら幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
岩波書店刊 日本古典文学大系 秋本吉郎 校注 風土記
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
集英社刊 円地文子監修 人物日本の女性史@ 華麗なる宮廷才女
新人物往来社刊 安田元久編 鎌倉・室町人名事典コンパクト版
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
角川ソフィア文庫 佐藤謙三 校注 平家物語(上)・(下)
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
大和書房社刊 前田晴人著 神功皇后伝説の誕生
青弓社刊 長谷川明著 歓喜天とガネーシャ神
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
彩流社刊 清川理一郎著 猿田彦と秦氏の謎
角川書店刊 飯沼賢司著 八幡神とはなにか
弘文堂社刊 大林太良著 日本神話の構造
鎌倉国宝館発行 鎌倉国宝館和文案内書
まんぼう社刊 大里長城著 八幡神の謎
吉川弘文館社刊 国史大系 続日本紀
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
岩波文庫 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
塙書房社刊 速水侑著 観音信仰
河出書房新社刊 日本霊界絵巻
【太平記】の記述に際しては 日本文学電子図書館 を参照させて頂きました。






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