≡☆ 鎌倉歴史散策−材木座編 ☆≡
2003/12/14

嘗て材木を扱う商人達が軒を連ねていたことに由来する材木座にも、為政者の庇護を受けて隆盛した寺院や日蓮上人縁の寺院などが点在するの。大寺の装いはここにはありませんが、それでも経てきた時の流れは確実に刻み込まれているの。その一つ一つを辿れば当時の人々の生きた証が今も残されているの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

銚子の井〜日蓮乞水〜長勝寺〜来迎寺〜五所神社〜九品寺〜補陀洛寺〜光明寺〜六角の井

1. 銚子の井 ちょうしのい

長勝寺を訪ねる前に少しだけ寄り道してみたの。JR鎌倉駅から長勝寺を目指して名越街道を歩きますが、横須賀線の踏切を渡り、逗子方面に数100m歩くと左手に御覧の石標が見えてくるの。その石標を目印にして石渡さん宅脇のメチャクチャ (^^; 細い道に入ると、敷地の一角に隠れるようにして鎌倉十井の一つ、銚子の井が残されているの。実は、見当こそつけてはいたものの、ウロウロした挙げ句、近くの方にお伺いしてようやく探し当てることが出来たの。教えて下さった方も非常に分かりづらいところにあるからと、わざわざ近くまで道案内をして下さったの。心優しい方に巡り会えたからこそ辿り着けた銚子の井でした。

簡単な地図を作ってみましたのでお役立て下さいね。今ではすっかり民家に隠れてしまいましたが、嘗てはこの辺りも長勝寺の境内地だったみたいね。残念ながら重そうな石蓋で塞がれていたので未確認ですが、岩盤を刳り貫いて造られた井戸は、全体の形がお酒を入れるお銚子に似ていることから名付けられたのだとか。

民家の軒下を掠め通る小道を線路側に通り抜けると旧道に出ますが、名越切通へと続くこの道は鎌倉最古の道で、嘗ては鎌倉と三浦半島を結ぶ幹線道路でもあったの。尤も当時は馬一頭が通れる程度の狭い道で、古くは日本武尊も東征時にこの道を通り、観音崎の走水から房総に渡っているの。

2. 日蓮乞水 にちれんのこいみず

日蓮乞水 その旧道を逗子方面に向かって100m程歩いたところに日蓮乞水があるの。房総の安房で日蓮宗を開宗した日蓮上人は鎌倉の地で布教しようとこの道を通り鎌倉入りしますが、喉の渇きを覚えた上人が杖を突き立てたところ俄かに水が湧き出したと云われているの。コンクリートの保護柵に囲まれて井戸らしきものがありましたが、水が湧き出しているようには見えず、井戸の中が気になり、簀の子を開けてみたの。But 見るんじゃなかった。(^^; 嘗ては太刀洗水・銭洗水・金龍水・不老水と共に鎌倉五名水の一つにも数えられていたと云うのですが、遠〜い昔のお話しみたいね。

太刀洗水は鎌倉歴史散策・金沢街道編の 大刀洗水 の項を御笑覧下さいね。残る銭洗水は有名な銭洗い弁天に、金龍水は建長寺の門前に湧いていたのですが、埋められてしまったの。不老水も同じく建長寺の鎌倉学園内にあると聞きましたが、未確認なの。その不老水に代えて、浄智寺門前の甘露の井を以て鎌倉五名水とする場合もあるみたいね。

3. 長勝寺 ちょうしょうじ

長勝寺山門 この長勝寺も日蓮上人が鎌倉の地で最初に草庵を結んだところと云われ、妙法寺・安国論寺の二寺と共に松葉ヶ谷法難の聖跡として名乗りを挙げているの。当時、この辺り一帯を治めていた領主の石井藤五郎長勝が日蓮上人に帰依したことから、弘長3年(1263)、伊豆配流から赦されて鎌倉に戻った上人に庵室を寄進したのが始まりとされ、山号寺号の石井山長勝寺はその縁起に由来するの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

長勝寺参道 当初の寺号は本圀寺でしたが、日蓮上人の佐渡配流に伴い、堂宇は破却されているの。再び赦されて鎌倉に戻りますが、師孝第一と云われた高弟・日朗上人等に依り再興され、一時は将軍家の祈願所にもなるのですが、後に京都へ移築されているの。住持を務めた日靜上人が足利尊氏の叔父に当たり、そのこともあってのことでしょうね、後醍醐天皇の勅願所となり、後に南北朝時代の貞和元年(1345)に北朝の光明天皇からの寺地拝領を受けたのを機に移築しているの。その後、変遷を経て現在は京都・山科に建つ本圀寺がそれだと云うのですが、問題なのは移築されてしまった後のこの場所に長勝寺が建つ迄のことなの。どのような経緯を辿って今にあるのかが分からないの。

六地蔵 六角堂 日蓮上人像 四天王像

境内に入ると眼前に聳える巨大な日蓮上人像が能天気な旅人を威圧するの。辻説法を行う上人の姿を再現したこの像は高村光雲作で、昭和41年(1966)に東京・洗足池からこの地に移されて来たもの。その上人像の背後には持国天を初めとする四天王が忿怒の形相で、それこそ仁王立ちしているの。四天王は古代インドでは護世神として崇敬されていた神ですが、仏教に習合されると仏法の四方を守護する護法神になったの。聖なる須弥山は世界の中心でもあり、その山頂に住むというのが帝釈天。四天王はその帝釈天の眷属で、須弥山中腹にある四方の門を護っていたの。元々は貴人の姿をしていたのですが、中国に伝えられると武人化され、日本では忿怒の形相をした武装神に姿を変えたの。

日蓮上人は【立正安国論】で庶民救済護国のために仏教統一を掲げ、他宗、とりわけ当時隆勢していた念仏宗を最大の障壁として排斥したことから、遂には文応元年(1260)8月27日、武装化した念仏宗檀信徒が夜陰に乗じ、日蓮上人の草庵に襲いかかるの。ところが、その直前に白い猿が上人の前に現れて窮地を救い、上人は九死に一生を得たの。それが松葉ヶ谷の法難で、白猿は山王権現(帝釈天)の使いとされたの。左掲の帝釈天堂はその故事に因み、帝釈天出現の霊場とされ、堂内にはその時の様子を模した上人と白猿の像が安置されているの。

八角円堂 境内左手に続く石段を登ると八角円堂があり、中にはタイから寄贈された金色の釈尊像が祀られていたの。掲げられた縁起には−佛都鎌倉の名刹長勝寺に末長く奉祀せられ この御佛の御魂と神通力により日本中から 世界各国から詣らるる人々の上に 平安と幸運がもたらされるよう入魂開眼して奉献さして頂いたのであります。タイ国立ワサケ寺 大僧正 スリウイスメスイ−とありました。国立ですよ国立!(^^; 御利益のほども・・・あなたも是非。

法華三昧堂 その八角円堂から鐘楼に続いて法華三昧堂が建てられているの。長勝寺の堂宇の多くは近年に再建されたものですが、この法華三昧堂だけは室町時代初期に造られた建物で、神奈川県の重要文化財に指定されているの。五間堂と呼ばれる鎌倉時代特有の建築様式で造られていると聞き、それなら−と、中を覗いてみたのですが、門外漢のξ^_^ξにはその価値は分かりませんでした。(^^;

境内の一角には水行場がありましたが、毎年2/11に行われる國祷会(大荒行僧成満祭)では、百日間修行を終えた修行僧達が冷水を浴びて満願を祈念する荒行が行われるとのこと。掲げられていたのがこの水行肝文ですが、漢文ですのでトライしてみたのですがやはり (ーー;) でした。意のある方は挑戦してみて下さいね。写真では小さすぎて文字の判別が出来ないと思いますので、申し訳ありませんが長勝寺へ御み足をお運び下さいね。(^^;

徳田兄弟墓 中でもξ^_^ξが気になったのが参道脇に建てられていたこの二基の墓塔なの。左手の墓石には稲村ヶ崎海難徳田兄弟之霊と記された卒塔婆も添えられていましたので、あの徳田兄弟が眠るのでしょうね。事故は後に映画化され、三角錫子女史作詞の哀悼歌「真白き富士の根」と共に人々の涙を誘ったの。あらましなどは 逗子開成中学校・高等学校 を御参照下さいね。そして右側の供養塔には吉良上野介義央公の文字が刻まれているのですが、吉良上野介と長勝寺がどこでどう結び付くのかしら?ちょっと気になるわね。

4. 啓運寺 けいうんじ

啓運寺 妙長寺に向かう途中で石柱を見つけて訪ねてみたのがこの啓運寺。小さな本堂が建つだけのお寺ですが、京都に移築された本圀寺の学僧・啓運日澄上人により、文明15年(1483)に創建されているの。長勝寺との繋がりが深く、日澄上人の没後は長勝寺の住持が兼任しているの。現在の本堂は昭和8年(1933)に再建されたものですが、明治時代の学制導入の際にはこの啓運寺の本堂が小学校の仮校舎として使われたそうですので、以前の本堂は今より大きかったのかも知れないわね。ムセキニン・モードですので鵜呑みにしないで下さいね。拝観料:境内自由

余談ですが、近代日本洋画の父と呼ばれる画家の黒田清輝も一時期この本堂をアトリエとして借りているの。
日記にも大正5年(1915)12/30の頁に「啓運寺ヘ地代ヲ拂フ」と記されているの。

5. 妙長寺 みょうちょうじ

伊豆配流となった日蓮上人を乗せ、沼浦の浜から漕ぎ出でた船はやがて伊東沖に差し掛かるのですが、海が荒れだしたことから上人を篠海ヶ崎(ささみがさき)の俎岩に置き去りにして立ち去ってしまうの。そして潮が満ちてきて上半身までも海水に浸かった上人が、よもやこれまでと覚悟したその時に、上原弥三郎という川奈の漁師の乗った舟が通り掛かり、助けられて九死に一生を得たの。弥三郎夫婦はその日蓮上人を匿い、帰依しますが、後にその弥三郎の子が鎌倉に来て沼浦の地に一宇を建立したのが妙長寺の始まりと伝えられているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

相輪塔 地蔵堂 その子こそが開山の日実上人なのですが、沼浦に建てられていた堂宇が大津波で被災したことから現在地に移転して来たの。左掲は日蓮上人の伊豆法難に因んで建立されたという高さ11m余の相輪塔で、関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の二の鳥居の石材が一部使用されているというのですが、どの部分なのかはわかりませんでした。傍らには配流の際に日蓮上人が乗船した船(法難御用船)の1/6縮尺サイズの模型も展示されているの。境内には明治11年(1878)に漁業関係者らに依り鱗供養塔が建てられていましたが、漁師(の弥三郎)に因むお寺ならではよね。気になったのが境内の一角に祀られていたこちらのお地蔵さまですが、何の説明も無くて、縁起なども不明のままに終えているの。

※追記:ここでは開山日実上人を弥三郎の子と御案内しましたが、弥三郎自身だとする異説もあるの。

6. 乱橋 みだればし

次の興福寺に向かう途中で、亂橋と刻まれた小さな石標を見つけたの。鎌倉十橋の一つに数えられる乱橋ですが、この石標が無ければ気付かずに通り過ぎてしまうところでした。この石標にしても道路の反対側を歩いていたら恐らく気づかなかったでしょうね。乱橋の名は、新田義貞率いる軍勢が鎌倉に攻め入った際に、北条氏を初めとする幕府軍がこの辺りから形勢が怪しくなり乱れ始めたことに由来するのだとか。橋を挟んで両軍が睨み合う様を想像していたのですが、僅か1m足らずの橋でほんのひとっ飛び。当時の景観を知る由もありませんが、ちょっと拍子抜けね。石標も写真では大きそうに見えるけど、実際には膝下位の高さなの。

7. 向福寺 こうふくじ

向福寺は弘安5年(1282)に一向宗の開祖・一向上人により開山されているの。一向上人は初め天台宗に学びますが、後に浄土宗の法然の曽孫弟子・然阿良忠に師事するの。そして34歳の時に浄土真宗の一派としての一向宗を開宗し、踊り念仏を広めようと諸国遊行に旅立つの。時を同じくして時宗開祖・一遍上人も踊り念仏で衆生救済を広めますが、両者とも踊り念仏を民衆布教の手段としていたことから混同され、後に時宗に習合されてしまうの。余談ですが、この踊り念仏が盆踊りのルーツとも云われているの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

石像 一方、祭礼や法会の後に余興として行われていた猿楽を集大成したのが観阿弥・世阿弥親子ですが、当時は歌舞に携わる時宗信徒が多く、南無阿弥陀仏に因んで阿弥陀号を名乗ったの。盆踊りと能楽のおもしろい繋がりね。向福寺の紹介と云うよりも時宗の案内になってしまいましたね。現在の堂宇は関東大震災を経て昭和初期に再建されたものですが、作家・林不忘が当寺の一室を借りて新婚生活をしていたことがあるの。時代劇ファンの方なら林不忘(本名:長谷川海太郎)の名を知らない方でも『丹下左膳』は御存知ですよね。

8. 来迎寺 らいこうじ

来迎寺 向福寺を後に五所神社を目指して歩きますが、神社を一度通り過ぎて長勝寺方面に少し戻るとこの石標が見えてくるの。来迎寺は建久5年(1194)に源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために創建した能蔵寺を前身とし、後に住持を務めた音阿上人が時宗に帰依したことから建武2年(1335)に真言宗から改宗し、寺号も来迎寺と改称したの。ところで三浦義明って何者?という方は少しお付き合い下さいね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

三浦半島一帯を治める豪族・三浦氏を束ねる総帥の三浦義明は源頼朝の挙兵に際し、自身は高齢だったために次男の三浦義澄を遣わして逸早く援軍するのですが、義澄は増水した酒匂川に行く手を阻まれ、進撃出来ずにいる内に頼朝勢の惨敗を知るの。義澄は悄然として衣笠城に引き返すのですが ・・・

衣笠城に戻る途中で義澄率いる三浦勢は敵方の畠山重忠の軍勢が布陣しているのを知り、迂回して秘かに波打際を進むの。ところが血気盛んな和田義盛は自軍本体が無事通り過ぎたのを見届けると、百騎ほどの手勢を従えて畠山勢の前に現れて挑発してしまうの。相手の重忠にしてもその時17歳と血気盛ん。義盛の名乗りに「矢の一つ射ずんば平氏の聞こえも怖れあり」と追撃するの。鎌倉に逃げ込んだ義盛は杉本城に急使を走らせ、弟の義茂に援軍を求めるの。対峙する両軍ですが、いずれ義澄勢も駆けつけてくると危惧した重忠はやがて義盛に和議を申し入れるの。

和田義盛は同じく三浦義明の孫に当たり、相模国三浦郡和田郷(現:神奈川県三浦市)を治めていたことから和田姓を名乗っていたの。

畠山重忠の母は三浦義明の娘。重忠にとり、義明は外祖父に当たりますが、父・重能と叔父の小山田有重が平家方について京都守護に任じていたため、その身を案ずると共に、平家への忠義心から仕方なく平家方総大将の大庭景親に従うの。そんな背景から同族相争う無為な戦と諭し、和睦を申し入れたの。和議はすんなりと成立するのですが、そこで事件が起こるの。駆け付けた義盛の弟・義茂は和議が結ばれたことを知らずに重忠の軍勢を襲撃してしまうの。義盛勢が手を振り制止するのを早く攻めよの意に誤解してしまったの。携帯なんて無い時代のことですので仕方無いのかも知れないわね。謀られたと思った重忠は全軍を挙げて義茂勢を迎え撃つの。それを見た義盛も義茂を救おうと再び参戦し、重忠勢に襲いかかるの。

来迎寺 時を同じくして急を知った義澄勢も小坪(材木座海岸東寄)から馳せ戻りつつあり、それを遠望した重忠は三浦勢が長蛇の列に見えたことから、上総・安房からも援軍を得たものと形勢不利を悟り、直ちに退却するの。ところが、実際の三浦勢は僅かに三百余騎。当時の道幅は馬一頭が歩ける程度でしたので、必然的に長蛇の列と成らざるを得なかったのですね。三浦勢は退却する重忠勢を見届けると負傷者や戦死者を収容し、再び衣笠城へ引き上げて行くの。

その二日後、態勢を立て直した重忠は河越重頼・中山重實・江戸重長らの参陣を得て三浦一族の本拠地・衣笠城を襲うの。ところが、ここでも重忠は三浦一族を慮り、意図的に退路を開けて衣笠城に攻め込んだと云われているの。重忠の恩情を知った義明は義澄や義盛らに三浦一族の将来を託すと共に、頼朝を拝してことに当たるよう檄を飛ばし討ち死にするの。義明は齢89歳だったと云われ、【吾妻鏡】にはその時の情景が次のように描かれているの。

義澄等相戰うと雖も 昨今兩日の合戰に力疲れ矢盡き 半更に臨み城を捨て逃げ去る 義明を相具せんと欲するに 義明云く 吾源家累代の家人として 幸いその貴種再興の代に逢うなり 盍ぞこれを喜ばざらんや 保つ所すでに八旬有餘なり 餘算を計るに幾ばくならず 今老命を武衞に投げ 子孫の勳功に募らんと欲す 汝等急ぎ退去して 彼の存亡を尋ね奉るべし 吾獨り城郭に殘留し 多軍の勢を模し 重頼に見せしめんと 義澄以下涕泣度を失うと雖も 命に任せ なまじいに以て離散しをはんぬ

三浦氏は源頼義の頃より源氏の家人でもあり、幼児期の頼朝は番役で京に上洛していた義明の膝に抱かれて過越すこともあったの。頼朝が鎌倉入りした後は頼朝の親衛隊とも云うべき存在となる三浦氏一族。頼朝は89歳にして討ち死にした義明に対し、17回忌まで生きたものと見做すよう周囲に伝えるの。挙兵に際し逸早く一族を率いて味方となった義明は、頼朝にすれば千葉常胤同様第二の父とも祖父とも呼ぶべき存在だったのかも知れないわね。

本堂右手の一角に建てられる二つの大きな五輪塔はその三浦義明と義澄の三男・多々良三郎重春の墓と伝えられているの。重春は石橋山の合戦に加わり、畠山重忠の軍勢に敗れ討ち死にしているの。重春の人物像が不詳ですが、かまくら春秋社刊『鎌倉の寺小事典』には17歳の若さで命を落としたと記されているの。重春は義明の孫に当たりますが、こうして二基が並び建つところを見ると、義明にしてみれば重春は幾つになってもかわいい孫だったのかも知れないわね。ところで「鶴は千年、亀は万年」という文句は皆さん御存知ですよね。実はこの後に「三浦大介百六つ」と続くの。

江戸時代になると門付けしながら物乞いする者が縁起を担いでこの祝い歌を謳ったのですが、人生50年余と云われた当時の89歳は驚嘆に値しますよね。それが更に17年も生きたことになるのですから、義明は長寿の代名詞にもなったのでしょうね。

三浦義明の最期に纏わる逸話には他にも黒雲と老松伝説というのがあるの。秘かに城を抜け出した義明は愛馬の黒雲に股がり先祖を祀る清雲寺を目指しますが、その途中、一本の老松の下まで来ると愛馬の黒雲がその許から一歩たりとも動こうとしないの。愛馬が最期の地を指し示したものと合点した義明は「よう仕えてくれたのお、吾亡き後は良き主を得て再び仕えよ」と鞭打って放逐するの。義明はその老松の根元で自刀して果てるのですが、愛馬の黒雲も山頂から駆け降りて主・義明の死に殉じたと云われているの。ちょっと哀しい伝説ね。

三浦一族の墓 本堂には三浦義明が守り本尊として祀っていたという阿弥陀如来像が安置されているの。その本堂右手から墓苑を失礼して歩かせて頂き、裏手に出てみるとあるのがこの三浦氏一族のお墓なの。多くの五輪塔が立ち並び、その数何と百基を越えるというのですから凄いですよね。本堂背後に侍して守り本尊の阿弥陀如来を奉り、土に還った今も義明を総帥に、三浦氏一族が戦に備えているようにも見え、寂寥感漂う空間が広がっているの。

献花 左掲はその最奥部に祀られる宝篋印塔ですが、墓誌銘が刻まれているわけでもありませんし、風化するに任せた状態の石塔ですので、どんな人物が眠るのかは分からないの。石塔もまた主と共にいずれ土に還りゆくの。それはさておき、鎌倉の地を訪れる度に感心させられるのが、こうした名もない石塔にも生花が手向けられていることなの。枯れた花が放置されたままになっているのを見たことがないの。鎌倉に住む方々の余裕というか、これも歴史に支えられた一つの文化なのでしょうね。

9. 五所神社 ごしょじんじゃ

五所神社 来迎寺から再び材木座海岸方面に歩いて五所神社の前まで戻り来ましたが、神社の参道脇には駐車場代わりに車が停められていて、見た目には村の鎮守さまの趣きでした。手許のガイドブックには五所神社の記載がなく、ならばと天の邪鬼なξ^_^ξは鳥居を潜り、訪ねてみたの。大きな社殿があるわけではありませんが、社殿前には多くの庚申塔が整然と並び建ち、一大集積地の感があり、まさに圧巻でした。その庚申塔については後程御案内しますね。さて、この五所神社ですが、その名からもお分かりのように合祀されたもので、縁起となると大分複雑みたい。拝観料:境内自由

五所神社 そこでこの五所神社を因数分解 (^^; してみましたので、お付き合い下さいね。嘗ての材木座は乱橋村と材木座村に分かれていたのですが、その乱橋村にはこの五所神社の前身・三島社が村の鎮守として祀られ、村内には金毘羅宮の他にも、能蔵寺(現在の来迎寺)附近に八雲社が祀られていたの。一方の材木座村ですが、鎮守社として諏訪社が祀られ、この後訪ねる補陀洛寺には同じく村の鎮守さまとして見目(視女)明神が祀られていたの。加えて乱橋村の三島社は八雲社を相殿とし、材木座村の諏訪社も実は補陀洛寺持であるなど、互いに関係が深かったみたいね。

明治22年(1889)に乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉大字乱橋材木座と名を変えますが、後の明治41年(1908)、三島神社に他の4社が合祀されたのを機に現在の五所神社へ改称したの。併せて明治16年(1883)に再建された諏訪神社の社殿を移築しますが、大正12年(1923)の関東大震災に依る山崩れで埋没全潰してしまい、現在の社殿は昭和6年(1931)に再建されたものなの。その社殿右手にある御輿庫には華麗な装飾が施された3基の御輿が安置されているの。一基は諏訪神社に、残る二基は見目社に奉納されていたもので、共に江戸期末の作と伝えられているの。

御輿庫 御輿 左掲は神輿庫の右端に据えられていた御輿ですが、中央の御輿と同じように鏡が三枚取り付けられ、造りが同じことからすると見目社に奉納されていたものでしょうね。ところで皆さん、御輿は何のためにあるのか御存知ですか?御輿は神さまの乗物なの。普段は社殿に祀られる神さまに、お祭りの時には御輿にお乗り頂き、間近でその御威光を得ようとするの。

そんな御輿もいつ頃からか揺らせば揺らすほど神さまが元気になる(魂振り)と信じられるようになり、今では威勢がいいのは神さまではなくて専ら担ぎ手の方になってしまいましたね。But 余りにも揺らされては神さまも車酔いならぬ御輿酔いしちゃうかも。

三光尊石上稲荷大明神 境内の一角に祀られていたのがこの三光尊石上稲荷大明神ですが、見ると祠の中に御神体らしき大きな石が祀られているの。お稲荷さんと云うよりも石神さまみたいだけど、石上神宮と何か関係でもあるのかしら。この石祠の左手には弘長2年(1262)の銘を持つ板碑が保存されているの。元々は九品寺近くに建てられていた感應寺境内にあったものが移設されて来たものだそうよ。説明では不動明王の種子(梵字)を刻み、国重要美術品にも指定されると云うのですが、鍵付きの小屋に収められていて見ることが出来ないの。どうしても見たい方は社務所へ声をお掛け下さいね。

ところで、板碑ってな〜に?と云う方に。鎌倉時代に石塔の造立が盛んになると板状に剥離する緑泥岩を加工した簡便な石塔が造られるようになるの。その緑泥岩を多く産出したのが秩父地方なの。荒川流域を中心にして全国各地へと爆発的な普及をみるのですが、鎌倉の御家人達が地頭として各地に赴任して造立したことも大きな普及要因になったみたいね。宝篋印塔などに較べると構造も簡素で経済的だったことから庶民の間でも広まったの。その多くは上部に主尊の種子(梵字)を彫り、その下には願い事などの銘文を刻んだの。

疱瘡老婆さんの石 諏訪神社 石塔群

板碑を収めた小屋の後には左端の疱瘡老婆さんの石が置かれていたの。疱瘡神については鎌倉歴史散策−小町・大町編の 上行寺 の項で触れてみましたが、この石も疱瘡封じに霊験灼かなものとして信仰対象になっていたのでしょうね。見たところ普通の石にしか見えませんが、どんな云われがあるのかしら。その疱瘡老婆さんの石の背後には昭和54年(1979)に材木座諏訪町から遷座して来たと云う諏訪社が鎮座しているの。その社殿前からは裏山に上るようにして石段が設けられていたので、奥の院でもあるのかしら?と気になり登ってみると、石塔が数多く建ち並んでいたの。名も知らぬ神名が刻まれた記念碑や、講中の方々が奉納した供養塔などなど、村の鎮守さまの境内には不思議なものが色々とあるの。

境内には多くの 庚申塔 が集められていますが、左掲右手に建つ庚申塔は寛文12年(1672)の銘を持ち、鎌倉で一番古いと云われるものよ。正面中央に主尊帝釈天の文字を刻み、その両脇には鶏が配置されていますが、庚申信仰では夜明けを告げてくれる鶏は縁起の良いものとして考えられたの。コケコッコー。あ〜、やっと鶏が鳴いてくれたわ。どうやら三尸(さんし)も抜け出さずに済んだみたい。これで次の庚申待ちまで大丈夫よね、きっと。ところで主人はどうしたかしら?夕べは皆んなと一緒に大分飲んでいたみたいだったけど。あらあら、こんなところで寝ちゃダメじゃないの、折角の庚申待ちが意味無いわね、これじゃあ。ほらほら、起きてね、鶏も鳴いたわよ。(^^;

その庚申塔の右隣にはこの摩利支天像があるの。元々はインドの古代神話に描かれる神さまでしたが、仏教に採り入れられ天部に祀られたの。摩利支はサンスクリット語のマリーシ Marici の音訳で、太陽と月の光を意味し、陽炎(蜃気楼)を神格化したもので、帝釈天と阿修羅が争った際にはこの摩利支天が日月の光を遮ったとも云われているの。そんなエピソードから隠れ身の神通力があるとされ、武士の間では護身のための守り本尊として信仰を集めたの。像容は二臂、三面六臂などの形態があり、忿怒の形相と共に天女姿で作られる場合もあるなど、一定しないみたいね。

一方、摩利支天菩薩陀羅尼経ではその摩利支天を「財物を債することなく」とも説いたことから、江戸時代には大黒天や弁財天と共に商売繁盛を願う商人の信仰対象にもなったの。因みに、摩利支天が乗っているのは猪よ。この摩利支天像は表情から判断すると嘗ては武運祈願&護身のために御家人屋敷に祀られていたものかも知れないわね。

庚申塔に混じって小さな石像が祀られていたの。頭を垂れて一心に祈りを捧げる女性を表したものですが、当時の人々はことある毎にこうして祈りを捧げていたのでしょうね。風邪をひいたからと云っては病院へ行き、異常気象や自然災害が起きても理屈で片付けてしまう現代に生きるξ^_^ξですが、神仏の加護を求めて一心に祈るその後姿には心打たれるものがありました。加えて、どなたの手になるのかは分かりませんがお座布が ・・・

手摺石 拝観を終えて踵を返したところで目に留まったのがこの乱橋の手摺石。乱橋では当時の面影を知る由も無かったのですが、意外な所で目にすることが出来たの。この手摺石の大きさからすると嘗ての乱橋は結構大きな橋であったことが窺えるの。写真を撮していたら社務所に詰めていた方がお見えになり、暫しの談笑。帰り際には境内で拾い集めた銀杏を御裾分けまでして下さいました。土地の方と触れ合える機会は左程多くはありませんでしたが、橋が取り持ってくれた縁でした。

五所神社の祭神の一柱となる崇徳院霊ですが、これって崇徳上皇のことかしら?井沢元彦氏は『逆説の日本史4 中世鳴動編』の中で、江戸時代以前の人々の間では崇徳上皇の呪いこそが朝廷が政権を喪失し、武士の政権を誕生させたと信じられていたと述べられているの。崇徳上皇の凄まじい怨念の程は同著をお読み頂きたいと思いますが、崇徳院霊=崇徳上皇なら、意外なところで傍証の一つを得たことになるのですが ・・・

10. 實相寺 じっそうじ

實相寺は日昭上人が弘安7年(1284)に開山した法華堂を前身とする寺院で、嘗てこの地には曾我兄弟の仇討ちで討たれた工藤祐経(すけつね)の屋敷があり、上人の母親はその祐経の娘だと云われているの。15歳で出家して比叡山に学んだ後は日蓮上人に師事し、その日蓮上人が佐渡流罪となると法華堂で一門の教化と統率に努めたの。上人は日蓮上人の弟子達の中でも直弟子六人衆(六老僧)の筆頭で、法器第一・智慧第一と称され、第二の日蓮とも云われたの。現在は弘延山実相寺を正式な山号寺号とする日蓮宗寺院。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

【吾妻鏡】には「子の刻に 故伊東次郎祐親法師が孫子曽我の十郎祐成・同五郎時致 富士野の神野の御旅館に推參致し 工藤左衞門の尉祐經を殺戮す」と記される曾我兄弟の仇討事件。忠臣蔵と並び、仇討物として知られる曾我物語は、一説には仇討ちにかこつけて頼朝暗殺を狙った未遂事件とも云われているの。そんなの知らないわ−という方は 小田原市公式WebSite の「小田原ものしり辞典」を御参照下さいね。※ ごめんなさいね。御案内した「小田原ものしり辞典」は削除されてしまったみたいなの。※

三日月大月天子 實相寺は本堂と庫裡があるだけの、こじんまりとした静かな佇まいの寺院なの。本堂には日蓮上人や日昭上人の坐像が祀られていると云うのですが、残念ながら扉も固く閉ざされていましたので、拝観出来ずに終えているの。左掲は境内の緑に隠れるようにして建てられていた石塔ですが、碑面には三日月大月天子と刻まれているの。傍らには五輪塔も建つので、嘗ての法華堂はこの辺りを中心にして建てられ、同じく本堂に祀られる木像の三日月大月天子像も、元々は工藤祐経の持仏だったのかも知れないわね。But ξ^_^ξの勝手な想像ですので、鵜呑みにはしないで下さいね。

實相寺 實相寺 實相寺 實相寺

11. 九品寺 くほんじ

實相寺からバス通りに抜けるとあるのがこの九品寺で、新田義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたのがこの辺りなの。北条氏一族の怨霊を畏れたのでしょうね、戦死者の霊を弔うために義貞は建武3年(1336)、京都から風航順西上人を開山に迎え、この九品寺を創建したの。山門には『内裏山』、本堂には『九品寺』の扁額が掛けられていますが、幾れも義貞直筆のもの。と云っても、目にすることが出来るのはそのコピー (^^; で、実物は本堂内に保管されているの。現在は内裏山霊獄院九品寺を正式な山号寺号とする浄土宗寺院。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

九品寺の本尊は阿弥陀如来ですが、西方浄土に衆生を導く際には生前の行いや信仰の浅深に応じて9種類の来迎方法があると云うの。造立年代や依拠する経軌により若干の差異があるのですが、概ね次のような印相を結ぶの。本来なら図を以て御案内すべきところなのですが、その方面の才能が皆無の身の上ですのでお許し下さいね。

あぐらを組んで両掌を交叉させて印を結ぶ定印(上生)は阿弥陀さま御馴染みのお姿ですが、胸の前で印を結び、右手を気持ち左手の前に出す説法印(中生)は衆生を説法教化する姿を表し、右手を挙げて左手を垂れる施無畏・与願印(下生)は恐怖を取り除き安心を与え、物を差し出されるお姿を表しているの。この三印に親指と人指し指で輪を作る上品、親指と中指の中品、親指と薬指の下品の三種類が組み合わされて阿弥陀さまの来迎する姿が表され3x3で九品となるの。

九品寺からは次に訪ねる補陀洛寺に向かう積もりで材木座海岸方面に歩いたのですが、左折する道が分からず、材木座バス停まで歩いてしまいました。ようやく左折する道を見つけたのですが、行く手には大きな伽藍の屋根が垣間見え、あれは光明寺の山門じゃないの?行き過ぎてしまったみたい。仕方無く近在の方に声を掛けて道を教えて頂きましたが、本当はどこで左折すれば良かったのかしら?

12. 補陀洛寺 ふだらくじ

補陀洛寺は寺伝に依れば源頼朝が鎌倉入りした翌年の養和元年(1181)に祈願所として文覚上人を開山に迎えて創建されたものと云われているの。嘗ては七堂伽藍を有する大寺でしたが、別名・竜巻寺と云われるように、度重なる竜巻や火災で堂宇を失っているの。本尊は十一面観音菩薩ですが、寺号の補陀洛はサンスクリット語のポータラカ Potalaka が音訳されたもので、元々はその観音菩薩が住む山の名で、転じて観音浄土を表すことばになったの。現在は南向山帰命院補陀洛寺を正式な山号寺号とする真言宗大覚寺派の寺院。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

往時の縁を今に求めることは出来ませんが、本堂内には本尊の十一面観音菩薩立像を初め、平安時代に造られたと伝えられる不動明王像、伝・行基作の薬師如来像には運慶作と伝えられる日光・月光両菩薩像が脇侍するとのことですが、御尊顔を拝さずに終えています。寺務所に申し込めば拝観も可能のようですので、興味のある方はお訊ね下さいね。

補陀洛寺 ところで、開山の文覚上人ですが、仲々の怪僧だったようで、面白い逸話が【源平盛衰記】の文覚發心附東帰節女事の段に記載されていますのでちょっと紹介してみますね。それに依ると出家したのは何と女性問題からなの。文覚上人は出家する前には遠藤盛遠(もりとお)と名乗り、鳥羽上皇皇女の上西門院の警護を務める北面の武士だったの。武芸には優れていたのですが「少より時々物狂しきの気ありけり」と記されるように、粗野な性格の持ち主だったみたいね。その盛遠には衣川という叔母がいたのですが、若い頃には容姿端麗、優美心根と云われていたの。

その叔母に娘(後の袈裟御前)が一人いたのですが、親に似て楊貴妃を思わせる美貌の持ち主。「軒端の梅の匂いと芳 庭上の花實に細にして十四の春を迎」える頃には我も我もと云い寄る男ども (^^; が多かったの。そうして3年の月日を経て盛遠が17歳になったある日のこと。渡邊の橋供養の際に下向する女御達の中に成長した袈裟御前の姿を見つけ、その美しさに一目惚れしてしまうの。But 盛遠はそれが袈裟御前とは知らずに、誰の妻なのか知ろうとその後をつけるの。それって今で云うストーカーよね。

輿は渡辺右衛門尉渡(わたなべうえもんのじょうわたる)の屋敷に入って行くのですが、諦めきれずに盛遠は半年もの間悶々とするの。そしてとうとう叔母の衣川邸に乗り込むと「袈裟を嫁に寄越せ!」と刀を抜いて迫るの。その場は何とか収めた衣川でしたが、娘の袈裟御前に文を送り事の次第を伝えるの。あらましを知らされ、母親の身を案じた袈裟御前は衣川の許へ駆け参じますが、小刀を取り出して我が身を刺すよう懇願する母を前にして一度だけ盛遠に会うことを伝えるの。

補陀洛寺 そうして二人は対面することになるのですが、盛遠は袈裟御前に自分との婚姻を迫るの。命も捨てる覚悟と鬼気迫る盛遠に進退窮まった袈裟御前は仕方なく一計を案ずるの。そうして「そこまでおっしゃるのであれば夫の渡を殺して下さい。実は夫との間はうまくいっていないのです。わたしは屋敷に帰り、夫に髪を洗わせ、お酒を飲ませて眠らせますから、あなたはその濡れた髪をたよりに夫の首をお討ち取り下さい」と助言するの。

大いに喜んだ盛遠は早速夜討ちの準備に取り掛かり、その夜秘かに渡辺屋敷に忍び込み、濡れた髪を確かめると一気に刀を振り下ろしたの。ところが盛遠が「本意をとげぬる嬉しさよ」と歓喜したのも束の間、斬り落とした首を確かめようと取り上げてみると、何とそれは愛しい袈裟御前の首だったの。袈裟御前は夫を寝所の奥へ寝かせ、自分の髪を濡らすと枕元には夫の烏帽子を置いて身代わりとなっていたの。盛遠は刀を捨て、ただただ、その場に泣き崩れるばかりだったの。

そうして事の次第を知った袈裟御前の夫・渡に腰刀を差し出し、我が首を斬り落せと哀願するのですが、渡は「斬首しても自害しても詮無きこと、袈裟は観音菩薩の身を現じて我等を諭したものと知れ」と盛遠を諭すと髻を切り落としたの。それを見た盛遠は渡を七度礼拝し、自分も髪を切ったの。渡は妻の袈裟御前の霊を弔うために出家して渡阿弥陀仏と名乗り、盛遠も同じく盛阿弥陀仏と名乗り、熊野山中で苦行したと伝えるの。その後全国を修行して廻った盛阿弥陀仏は文覚と改名したの。

露深き浅茅が原に迷ふ身の いとゞ暗路に入るぞ悲しき  〔 袈裟御前 〕
闇路にもともに迷はで 蓬生に獨り露けき身をいかにせん  〔 叔母衣川 〕

補陀洛寺 文覚上人は後に京都の神護寺に入りますが、後白河上皇に神護寺修造の援助を強引に迫るの。激情な性格は苦行しても直らず、その後も事件を起こして、遂には「この法師 都に置いては叶わじ 遠流せよ」と伊豆に配流となるの。伊豆と云えば時を同じくして蛭ヶ小島に流されていた頼朝ですよね。交流があった千葉氏一族の胤頼と文覚の父親が知己だったことから二人の関係が始まるの。文覚は「法華経転読し奉る外は他事無し」と応える頼朝に髑髏を取り出して

これこそ御邊の父 故左馬頭殿(源義朝)の頭よ 平治の後は獄舎前の苔下に埋れて後世弔ふ人もなかりしを 文覚存ずる旨ありて獄守に乞ひ 首に懸け山々寺々修行し この二十余年が間弔ひ奉つたれば今は定めて一劫も浮び給ひぬらん

−と平氏討伐の挙兵を勧めるの。やはり文覚上人は上人と云うよりも怪僧よね。

13. 光明寺 こうみょうじ

光明寺 天照山蓮華院光明寺は寛元元年(1243)に鎌倉幕府第四代執権・北条経時が然阿良忠上人を開山に迎えて創建した浄土宗の大本山。上人は浄土宗開祖法然の直弟子・聖光上人に師事し、後に記主禅師とも呼ばれ、浄土宗の第三祖と評されるようになるの。光明寺は経時以降も為政者の後盾を得て念仏道場として興隆したの。念仏を徹底して排斥した日蓮上人所縁の寺院が数多く点在する大町・材木座の地にあって、相手方の大本山があると云う妙。(^^; 左掲の総門を潜り抜けて境内に一歩立ち入ると、眼前には巨大な山門が聳え建つの。拝観料:境内自由

当初の山門は永享8年(1436)に建てられていますが、現在の建物は弘化4年(1847)に再建されたものなの。和様と唐様の折衷様式で建てられ、鎌倉に現存する山門としては最大のもの。楼上には江戸時代に造られた釈迦三尊像、四天王像などが安置されていると云うのですが、残念ながら未体験で終えているの。と云うのも、最初に登楼しようとした際には団体客が大挙して押し寄せていましたので後から見学しようと思い、後回しにしていたのですが、一通り境内の見学を終えて戻った時には時間切れで追い出されてしまったの。(^^;

扁額 階段を登り、踊り場に辿り着いてほっと一息ついていると職員の方が現れて「拝観終了ですのでお降り下さい」と云われてしまいました。それを無理にお願いして慌てて映したのが扁額と周囲の景観写真なの。正面に掲げられた「天照山」の扁額は後花園天皇の御宸筆と伝えられ、裏書に「永享八年十二月十五日賜」の但し書きがあると云うのですが、さすがに見ることは出来ないわね。光明寺は後の明応4年(1495)には後土御門天皇から関東総本山の称号を受け、天皇の勅願寺にもなっているの。

景観 景観 景観 景観

楼内に安置される諸仏については再訪する機会がありましたら
改めて紹介したいと思いますのでお許し下さいね。

繁栄稲荷大明神 参道の最奥部に建てられる本堂ですが、気になったのはその本堂手前右手に祀られていた繁栄稲荷大明神なの。鎌倉市の天然記念物に指定されるクロガネモチの大木に隠れるようにして小さな社が建てられていますが、お寺の境内にお稲荷さんの緋い幟が旗めき、何が祀られているのかしら?と不思議に思ったの。

光明寺は院号に蓮華院とあるように、当初は佐介ヶ谷の地に創建された蓮華寺が前身なの。現在地に移転して来たのは後のこと。領地の寄進を受けたのを機に現在の光明寺へと改称したのですが、以下の逸話は佐介ヶ谷にあった頃のお話しなの。

むか〜し昔のお話しじゃけんども、鎌倉の佐介ヶ谷に蓮華寺と云うお寺があってのお、良忠上人と云う、それはそれは偉いお坊さんが住んでおったそうな。ある日のこと、境内を散策しておった時のことじゃった。どこからか聞き慣れぬ泣き声が聞こえてきたそうな。どことなく悲しいような泣き声にも聞こえてのお、上人はその泣き声を辿ってみたそうじゃ。それはお寺の裏山の方から聞こえておったそうな。そうして上人が辿り着いてみると、果たしてそこには一匹の子狐が傷を負って蹲っておったそうじゃ。優しい上人は狐とて同じく生を受けたるもの、等しく御仏の御加護あるべしと連れ帰り、介抱してあげたそうな。

その晩のことじゃった。上人が眠っていると夢の中にその子狐の母親が現れてのお、上人さま、わが子を助けて頂き感謝に堪えませぬ。なれど我が身は狐故とりたててお返しも出来ませぬ。之なるはわたくしが山中にて日頃求めたる薬草の種。病に伏されたみぎりにはきっとお役に立ちましょうや−そう云い置いて消え去ったそうな。不思議な夢を見たものよのおと目覚めた上人じゃったが、はたして枕元には薬種の入った袋が置かれておったそうじゃ。

それからしばらくしてからのことじゃが、鎌倉に流行り病が広まってのお、命を落とすものが多かったそうじゃ。それを伝え聞いた上人は、早速母狐が置いていった薬草の種を蒔いてみたそうじゃ。すると三日目には生長して大きな葉を付けたそうな。上人は早速その葉を煎じて病に伏す者に飲ませてみたのじゃが、はたして薬効はたちどころに現れて病魔は退散したそうじゃ。そうして母狐の薬種のお蔭で鎌倉からは流行り病もすっかり消え去ったということじゃ。あの母狐は稲荷大明神の使いだったのかも知れんのお−と得心した上人は、祠を建ててお祀りしたそうじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

脚色を交えて紹介してみましたが、いかがでしたでしょうか?今ではすっかりタイワンリスの勢力圏となってしまいましたが、当時の鎌倉には狐も多く棲んでいたのでしょうね。因みに、佐介ヶ谷と云うのは佐助稲荷がある辺りのことで、狐と薬草の逸話には別伝も伝えられているの。気になる方は鎌倉歴史散策−源氏山公園編の 佐助稲荷 の項を御笑覧下さいね。

延命地蔵尊

本堂には神奈川県重要文化財にも指定される阿弥陀如来像が本尊に祀られ、観音・勢至両菩薩像が脇侍します。本堂には回廊が設けられていますので靴を脱いで昇殿させて頂きましょうね。先ずは本尊の阿弥陀さまに手を合わせ、右手に廻り込むと枯山水の石庭・三尊五祖来迎之庭があります。置かれた石は各々本尊の阿弥陀三尊を初め、お釈迦さまと浄土宗の五大祖を現しているの。掲載写真では記主禅師が頭だけ出して鎮西上人に隠れてしまいました。ホントは全景を写し込みたかったのですが、これ以上画角を広げられず諦めました。お釈迦さまだけつまはじきにしてしまいましたが、きっとお許し下さいますでしょう。(^^;



阿弥陀如来
勢至菩薩   観音菩薩
記主禅師 鎮西上人 法然上人 善導上人 釈尊

日向ぼっこ 善導上人は法然上人が師事した唐の高僧、その法然上人は浄土宗の宗祖、鎮西上人は第二祖にして良忠上人の師でもあり、良忠上人が諡された記主禅師は浄土宗第三祖と崇められているの。既に御案内済みですが、この光明寺を開山したのも記主禅師ね。その石庭を前にして気持ち良さそうに日向ぼっこしながら微睡んでいるネコがいました。御仏の御加護に見守られてここでは優しい時間が流れているの。境内の一角には可愛がられたペット達が眠る動物慰霊塔もあり、境内のあちらこちらでのんびりと過ごす猫達に出逢えますよ。

記主之庭 境内左手にある記主之庭は小堀遠州が作庭したものと伝えられ、庭池には2,000年前の種から復活させたと大賀蓮が植えられているの。その大賀蓮も夏には美しい華を咲かせるとのことですので、そのときには2,000年の時を経て、蓮の華が咲き乱れるという極楽浄土が記主之庭に現出するのかも知れないわね。大賀蓮は東京大学農学部教授も務めた故・大賀一郎博士が、昭和26年(1951)に弥生時代の泥炭層(現在の東大検見川総合運動場)から数個の蓮の実を発見し、千葉県農業試験場の協力を得て発芽・開花を成功させたの。

陽も傾きかけて来ましたので、きょうの最終目的地・六角の井へ向かいました。光明寺前からバス通りを逗子方面に歩くと小坪トンネルが見えて来ますが、その直前で右手に続く細い道に曲がりましょうね。道の両脇には民家が建ち並びますが、その背後には相模湾が迫り、こんな海辺の土地でホントに良質の真水が得られたのかしら?と思ってしまうわね。

14. 六角の井 ろっかくのい

こんなところにホントにあるの?と些か不安になるような雰囲気ですが、気持ちを奮い立たせて歩きましょうね。嘗ては鎌倉十井の一つにも数えられた六角の井ですが、正直な感想は崩壊寸前の物置小屋と云った風情で、周囲に瀟洒な家々が建つ中に突如現れた廃屋 (^^; を最初に見た時には早く壊してしまえばいいのに〜と。傍らに案内板が立てられていなければ通り過ぎてしまうところでした。六角の井は六角形に石を積み上げて造られたことから名付けられ、四角は材木座村分、二角は小坪村分に分けられていたそうなの。

その昔、源為朝が伊豆大島から矢を射たところ、この井戸に落ちて鏃(=矢の根)が残ったという逸話から別名・矢の根井とも呼ばれているの。鏃は今でも竹筒に収められ、井戸の中段に祀られるというのですが、どこにあるのかは分からないわね。嘗ては井戸替の際に竹筒も新しくしていたのですが、それを怠ると疫病が流行ったと云われているの。塵と一緒に (^^; 円筒形の物体が浮かんでいるけど、ひょっとしてそれがそうなのかしら?ところで、源為朝って何者なの?何で伊豆大島から矢が飛んでくるのよお〜?という方に。

源為朝は頼朝の叔父さんに当たるの。幼い頃から横暴な振る舞いが多くて、父親の為義の云うことなんてまるっきり聞かなかったみたいね。粗野な性格は直らず、手がつけられなくなってしまい、13歳の時には遂に九州に追い払われてしまうの。ところが、在地豪族に婿入した為朝は、その九州でも暴れまくったと云うのですから豪傑よね。戦も20余度を数え、僅か3年余で九州を席捲、自らを鎮西八郎為朝と名乗り、我こそは鎮西の惣追捕使なるぞ−と、勝手に自称するようになるの。朝廷にしてみれば、太宰府をさしおいて九州を翼下におくとはとんでもねえ野郎!ですよね。召喚の命令にも従わず無視する為朝に業を煮やし、お前は父親なのに手をこまねいて見ているとは何事ぞ!と為朝の父・為義を検非違使の役職から罷免してしまうの。これにはさすがの為朝も堪えたのでしょうね、釈明のために郎党を引き連れて上洛するの。

成長した為朝は身長七尺(210cm)!、戦で手にした弓も八尺五寸(250cm余)の大弓。そんな為朝が矢を番えて立ちはだかっていたら誰でも怖くなって逃げ出したくなりますよね。そんな為朝が上洛して間も無く、崇徳上皇と後白河天皇の権力争いから保元の乱が起こるの。為朝は父・為義に従い崇徳上皇側について奮戦しますが、敗れて伊豆大島へ流罪となってしまうの。崇徳上皇は讃岐へ配流、為義は斬首の刑に処されているの。ホントは為朝も斬首させられるところだったのですが、後白河天皇が武功を惜しみ、罪一等を減じて配流としたの。それだけが減刑の理由とは思えないので、或いは為朝の兄・義朝が後白河天皇に味方していたこともあり、助命を嘆願してくれたのかも知れないわね。

But 伊豆大島へ流罪となった為朝ですが、その豪傑振りは収まらず、今度は周辺の島々を翼下に治めてしまうの。俺さまの領地で暴れ廻るとはふてえ野郎だ、ぶっ殺してやる!と領主・伊豆狩野介工藤茂光が軍勢を送りますが、さすがの為朝もこれには観念し、自刃して果てたと云うの。以上は【保元物語】や滝沢馬琴の【椿説・弓張月】に描かれる為朝の人物像ですが、大島では死なずに琉球へ生き延びて初代琉球国王となる子をもうけた−という琉球渡来伝説もあるの。この為朝琉球渡来伝説と源義経のチンギスハン伝説、何やら似ていますよね。配流先から「我、大悪霊となりて悉く人の世を呪わん」と呪詛のことばを残して悶死した崇徳上皇と共に、悲運の憤死を遂げた為朝の祟りを畏れた後の人々がそういう伝説を信じるようになったのかも知れないわね。

それにしてもなぜ為朝はこの鎌倉目掛けて矢を射たのかしら?為朝は狙った的は外さなかったと云うのですから、工藤茂光の軍勢を射た時の流れ矢だったとはちょっと考えられないし。土地の人々が語り継いで来た云い伝えにはどんな意味合いが込められているのかしら、ちょっと気になるわね。為朝の恨みを買うような人物が、この辺りに住んでいたのかしら?(^^;

15. 和賀江嶋 わかえじま

和賀江嶋 来た道を戻る道すがら、岩場に石碑が建つのを見つけたの。生憎と潮が満ちていて近付くことは出来ませんでしたが、鎌倉青年団の方々が建てた和賀江嶋の石碑なのでしょうね。和賀江嶋は現存する最古の築港遺跡。当時の材木座海岸は和賀江津と呼ばれていたのですが、名前の通り、砂浜が広がっていて、船が接岸するには甚だ不適当な地形だったの。鎌倉幕府が開かれて政治経済の中心地となり、各地から物資が集まるようになると、荷の上げ下ろしが殊の外不便。おまけに風波が強く、難破する船も多くて難儀を極めていたの。そんな中で往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)という勧進聖(かんじんひじり)が鎌倉幕府三代執権の北条泰時に築港を申し出たの。

勧進聖とは各地を行脚しながらその土地土地で人々に説教をして寄附を募り、寺院造営や仏像造立をする修行僧のことなの。中には架橋や道普請等のインフラ整備事業まで手懸ける僧侶もいたりして、当時は全国各地にいたみたいね。

【吾妻鏡】には貞永元年(1232)の7/12の条に「今日 勸進聖人往阿彌陀佛の申請に就いて 舟船着岸の煩い無からんが爲 和賀江嶋を築くべきの由と 武州 殊に御歡喜 合力せしめ給う 諸人また助成す」とあり、泰時が往阿弥陀仏の申し出でを殊の外喜び、援助を指示したことが記されているの。更に−7/15 「今日和賀江嶋を築き始む」 8/9 「和賀江嶋 その功を終ゆ」とあるように工事期間は一月にも満たない突貫工事。今みたいに重機のなかった当時は人手に頼らねばならなかったはずですが、権力者の後盾に上下を越えて鎌倉の住人達も総動員されたのでしょうね、きっと。

港と云っても長さ約200m、幅は40m程の石積みの堤だったようですが、今みたいに何万トンという貨物船が接岸する訳でもないのですから、充分な規模だったのでしょうね。築港跡は海水に覆われ、その全体像は見ることが出来ませんが、画面中央にそれらしき浅瀬が見えているの。大潮の日には潮が引くと歩いて渡れるようですが未体験よ。陸地から遠望する限りでは巨岩を配したものではなくて、漬物石程度の大きさの石を積み上げて造った堤みたいね。それでも盛時には数百艘の船が荷揚げを待っていたと云うのですから、その賑わい振りの程を窺い知ることが出来ますよね。

16. 材木座海岸 ざいもくざかいがん

夕景 夕景 夕景 夕景

陽も暮れかけて来ましたので、のんびりと砂浜を歩きながら夕陽が沈むのを待ちました。
砂浜には愛犬を連れて散策する地元の方の姿も多くありました。遊び疲れて日が暮れて・・・(^^;


北鎌倉と違い、余り大きく取り扱われることもない材木座界隈ですが、ここにも貴賤を超えて神仏に平穏を願った古の人々の姿が垣間見えてくるの。嘗ては材木を扱う商人達が軒を連ねていたことに由来する材木座。往時の賑わいを知る由もありませんが、遙かなる時を経て今は静かな佇まいの街となっているの。この頁が皆様のお出掛け時の一助となればうれしいな。俄勉強で得た知識を元に記述していますのでお気付きの点がありましたら併せて御指摘頂ければ幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
実業之日本社刊 鎌倉なるほど事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記祝詞
PHP研究所社刊 中江克己著 日本史「謎の人物」の意外な正体
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
講談社刊 窪 徳忠著 道教百話






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