≡☆ 鎌倉歴史散策−材木座編 ☆≡ 03.12.14 [ 1/3 ]
嘗て材木を扱う商人達が軒を連ねていた材木座にも寺社が点在し、遙かなる時の流れを経て苔むす石塔を見やれば貴賤を問わず神仏に平穏安寧を願った当時の人々の姿も瞼に浮かんできます。
補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

銚子の井〜日蓮乞水〜長勝寺〜妙長寺〜向福寺〜来迎寺

1.銚子の井 ちょうしのい
石標 長勝寺を訪ねる前に少しだけ寄り道してみました。JR鎌倉駅から長勝寺を目指して名越街道を歩きますが、横須賀線の踏切を渡り、逗子方面に数100m歩くと左手に御覧の石標が見えてきます。その石標を目印にして石渡さん宅脇のメチャクチャ細い道に入ります。そうすると敷地の一角に隠れるようにして鎌倉十井の一つ、銚子の井が保存されています。
地図 本当は見当はつけていたものの、線路沿いの細い道に入ってしまいましたので案内板も無くウロウロした挙げ句、近くの方にお伺いしてようやく探し当てることが出来たの。教えて下さった方も非常に分かりづらいところにあるからと、わざわざ近くまで道案内をして下さいました。優しい鎌倉の方に巡り会えてようやく辿り着いた銚子の井でした。ことばで説明しただけでは容易には見つけられないと思いますので、簡単な地図を作ってみましたのでお役立て下さいね。
銚子の井 今ではすっかり民家に隠れてしまいましたが、嘗てはこの辺りもこの後訪ねる長勝寺の境内地だったみたいですね。この銚子の井は水質が良くなかった鎌倉の地にあって良質の水が得られたことから鎌倉十井の一つに数えられていたの。岩盤を刳り貫いて造られた井戸は全体の形がお酒を入れるお銚子に似ていることから名付けられたと云います。残念ながら重そうな石蓋で塞がれていましたので内部を覗いてみることは出来ませんでした。
軒下をかすめる細い道を横須賀線側に通り抜けると旧道に出ますが、名越切通へと続くこの道は鎌倉最古の道でもあり、嘗ては鎌倉と三浦半島を結ぶ幹線道路。そうは云っても当時は馬一頭が通れる程度の狭い道だったの。古くは日本武尊も東征時にこの道を通り、観音崎の走水から房総に渡ったの。
2.日蓮乞水 にちれんのこいみず
日蓮乞水 日蓮乞水はその旧道を逗子方面に向かい、100m程歩いたところにあります。房総の安房国で日蓮宗を開宗した日蓮上人は鎌倉の地で布教しようとこの道を通り鎌倉入りします。喉の渇きを覚えた上人がこの地に杖を突き立てたところ俄かに水が湧き出したと云われているの。ですが水が湧き出しているようには見受けられず、竹製の簀の子が掛けられた井戸がありましたのでそれかしら?と簀の子を開けてみたのですが。見るんじゃなかった。(^^;
嘗ては太刀洗水・銭洗水・金龍水・不老水と共に鎌倉五名水の一つにも数えられていたのですが。太刀洗水については金沢街道編を御笑覧下さいね。銭洗水は有名な銭洗い弁天に、金龍水は建長寺境内に湧いていたというのですが現在は埋め立てられてしまいました。不老水も同じく建長寺の鎌倉学園内にあると聞きますが未体験です。尚、不老水に代えて浄智寺門前の甘露水を以て鎌倉五名水とする場合もあります。
3.長勝寺 ちょうしょうじ
長勝寺山門 この長勝寺も日蓮上人が鎌倉の地で最初に草庵を結んだところと云われ、妙法寺・安国論寺の二寺と共に松葉ケ谷法難の聖跡として名乗りを挙げているの。当時、この辺り一帯を治めていた領主の石井藤五郎長勝が日蓮上人に帰依したことから、弘長3年(1263)伊豆配流から赦されて鎌倉に戻った上人に庵を寄進したのが始まりとされ、山号寺号の石井山長勝寺はこの縁起に由来するの。拝観料:境内自由
長勝寺参道 開山時の寺号は本圀寺でしたが、日蓮上人の佐渡配流に伴い、堂宇は破却されているの。再び赦されて鎌倉に戻りますが、師孝第一と云われた高弟・日朗上人等に依り再興され、一時は将軍家の祈願所にもなるのですが、後に京都へ移築されているの。住持を務めた日靜上人が足利尊氏の叔父に当たり、そのこともあってのことでしょうね、後醍醐天皇の勅願所となり、後に南北朝時代の貞和元年(1345)に北朝の光明天皇からの寺地拝領を受けたのを機に移築しているの。
六地蔵 六角堂 その後、変遷を経て現在は京都・山科に建つ本圀寺がそれだというのですが、問題なのは移築されてしまった後のこの場所に長勝寺が建つ迄のこと。どのような経緯を経たものか分かりませんでした。どなたか御存知の方いらっしゃいます?
日蓮上人像 四天王 境内に入ると眼前に聳える巨大な日蓮上人像が能天気な観光客を威圧します。辻に立ち、説法を行う上人の姿を再現したこの像は高村光雲作で、昭和41年(1966)に東京・洗足池からこの地に移されたもの。その上人像の背後には持国天を初めとする四天王像が忿怒の形相でそれこそ仁王立ちしています。
四天王像 四天王像 四天王像 四天王像
四天王は古代インドで護世神として崇敬されていた神ですが、仏教に習合されて仏法の四方を守護する護法神になったの。聖なる須弥山は世界の中心でもあり、その山頂に住むというのが帝釈天。四天王はその帝釈天の眷属で、須弥山中腹にある四方の門を護っていたのです。元々は貴人の姿をしていたのですが中国に伝わると武人化され、日本では忿怒の形相をした武装神に姿を変えたの。
帝釈天堂 松葉ヶ谷法難 帝釈天堂は松葉ヶ谷法難の際に山王権現(帝釈天)の使いでもある一匹の白猿が現れて上人を導き窮地から救ったという故事から帝釈天出現の霊場とされているの。堂内中央にはその時の様子を模した上人と白猿の像が安置されています。松葉ヶ谷法難てなあに?という方は安国論寺を御笑覧下さいね。
八角円堂 境内左手に続く石段を登ると八角円堂があり、中にはタイから寄贈された金色の釈尊像が祀られていました。掲げられた縁起には−<前略>佛都鎌倉の名刹長勝寺に末長く奉祀せられ この御佛の御魂と神通力により日本中から 世界各国から詣らるる人々の上に 平安と幸運がもたらされるよう入魂開眼して奉献さして頂いたのであります。タイ国立ワサケ寺 大僧正 スリウイスメスイ−とありました。国立ですよ国立!(^^; 御利益のほども・・・あなたも是非。
法華三昧堂 その八角円堂から鐘楼に続いて建てられているのがこの法華三昧堂。長勝寺の堂宇の多くが近年再建されたものですが、この法華三昧堂だけは室町時代初期に造られた建物で、神奈川県の重要文化財にも指定されているの。五間堂と呼ばれる鎌倉時代特有の建築様式で造られていると聞き、それならばと中を覗いてみたのですが門外漢のξ^_^ξにはその価値の程は分かりませんでした。(^^;
水行肝文 境内の一角には水行場がありましたが毎年2/11に行われる國祷会(大荒行僧成満祭)で、百日間修行を終えた修行僧達が冷水を浴びて満願を祈念する荒行が行われると聞きます。掲げられていたのがこの水行肝文。漢文ですのでトライしてみたのですが(ーー;)でした。意のある方は挑戦してみては?写真では小さすぎて文字の判別が出来ないと思いますので申し訳ありませんが御み足をお運び下さいね。
徳田兄弟墓 そして気になったのは参道脇に建つこの二基の墓標です。左手の墓石には稲村ケ崎海難徳田兄弟之霊の卒塔婆も建てられていましたので、あの徳田兄弟が眠るのでしょうね。事故は後に映画化され、三角錫子女史作詞の哀悼歌【真白き富士の根】と共に人々の涙を誘いました。あらましなどは 逗子開成中学校・高等学校 を御参照下さいね。そして右側の供養塔には吉良上野介義央公の文字が刻まれているのですが、吉良上野介と長勝寺がどこでどう結び付くのかしら?
4.啓運寺 けいうんじ
啓運寺 次の妙長寺に向かう途中で寺名を刻む石柱を見つけて訪ねてみたのがこの啓運寺です。小さな本堂が建つだけのお寺ですが、京都に移築された本圀寺の学僧・啓運日澄上人により文明15年(1483)に創建されているの。長勝寺との繋がりが深く、日澄上人の没後は長勝寺の住持が兼任しています。明治時代の学制導入の際には本堂が小学校の校舎としても使われたそうですので当時の本堂は結構大きかったのでしょうね。現在の本堂は昭和8年(1933)に再建されたもの。拝観料:境内自由
余談ですが、近代日本洋画の父と呼ばれる画家の黒田清輝も一時期この本堂をアトリエとして借りているの。
日記にも大正5年(1915)12/30の頁に「啓運寺ヘ地代ヲ拂フ」と記されているの。
5.妙長寺 みょうちょうじ
妙長寺 沼浦の浜から漕ぎ出でた船は伊豆配流となった日蓮上人を乗せ、やがて伊東沖に差し掛かるのですが、海が荒れだしたことから上人を篠海ケ崎ささみがさきの俎岩まないたいわに置き去りにして立ち去ってしまいます。そして潮が満ちてきて上半身までもが海水に浸かった上人が、よもやこれまでかと覚悟したその時に、上原かんばら弥三郎という川奈の漁師の舟が通り掛かり、助けられて九死に一生を得ているの。それが後に伝わる伊豆俎岩の奇跡なの。
拝観料:境内自由
相輪塔 弥三郎夫婦は日蓮上人を匿い帰依しますが、後にその弥三郎の子が鎌倉の地を訪れて沼浦に一堂を建立したのが妙長寺の始まりと伝えられているの。その子こそが開山の日実上人なのですが、沼浦に建つ堂宇が大津波で被災したことから現在地に移転して来たの。左掲は日蓮上人の伊豆法難に因み、建立されたという高さ11m余の相輪塔で、関東大震災で倒壊した八幡宮の二の鳥居の石材が一部使用されているというのですが、どの部分なのかはわかりませんでした。傍らには配流の際に日蓮上人が乗船した船(法難御用船)の1/6縮尺サイズの模型も展示されています。
地蔵堂 境内には明治11年(1878)に漁師の方や漁業関係者等の方々に依り鱗供養塔も建てられていますが、漁師の弥三郎に因む寺ならではですね。そして気になったのが境内の一角に祀られるこのお地蔵さんです。説明も無く、残念ながら名前や縁起は一切不明です。どなたか御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。

追記)
ここでは開山の日実上人を弥三郎の子と御案内しましたが弥三郎自身とする異説もあるの。
どちらにしても門外漢のξ^_^ξには真偽の程は不詳です。
5.乱橋 みだればし
亂橋 次の興福寺に向かう途中で見つけた小さな石標には【亂橋】と刻まれていました。鎌倉十橋の一つにも数えられる乱橋ですが、この石標がなければ気付かずに通り過ぎてしまうところでした。その石標にしても道路の反対側を歩いていたら恐らく気がつかなかったでしょうね。乱橋の名は、新田義貞率いる軍勢が鎌倉に攻め入った際に北条氏を初めとする幕府軍がこの辺りから形勢が怪しくなり乱れ始めたことに由来するの。橋を挟んで両軍が睨み合う様を想像していたのですが僅か1m足らずの橋でほんのひとっ飛び。当時の情景を知る由もありませんがちょっと拍子抜けね。石標も写真では大きそうに見えますが実際には膝下位の高さなの。
6.向福寺 こうふくじ
興福寺 向福寺は弘安5年(1282)に一向宗の開祖・一向上人により開山されています。一向上人は初め天台宗に学びますが、後に浄土宗の法然の曽孫弟子・然阿良忠に師事します。そして34歳の時に浄土真宗の一派としての一向宗を開宗し、踊り念仏を広めようと諸国遊行に旅立つの。時を同じくして時宗開祖・一遍上人も踊り念仏で衆生救済を広めますが、両者とも踊り念仏を民衆布教の手段としていたことから混同され、後に時宗に習合されてしまうの。
拝観料:境内自由
因みにこの踊り念仏が盆踊りのルーツとも云われているの。一方、祭礼や法会の後に余興として行われていた猿楽を集大成したのが観阿弥・世阿弥親子ですが、当時は歌舞に携わる時宗信徒が多く、南無阿弥陀仏に因んで阿弥陀号を名乗ったの。盆踊りと能楽のおもしろい繋がりですよね。
お地蔵さん 向福寺の解説というよりも時宗の案内になってしまいましたね。現在の本堂は関東大震災を経て昭和初期に再建されたものですが、嘗てこの寺の一室を借りて新婚生活をしていたのが作家の林不忘。時代劇ファンの方なら林不忘(本名:長谷川海太郎)の名を知らない方でも「丹下左膳」は御存知ですよね。写真は境内の一角に祀られる石仏ですが縁起のほどは不詳です。
[ 鎌倉三十三所観音霊場第15番札所 ]
7.来迎寺 らいこうじ
来迎寺 向福寺を後に五所神社を目指して歩きますが、神社を一度通り過ぎて長勝寺方面に少し戻ると見えてくるのがこの石標です。来迎寺は建久5年(1194)に源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために創建した能蔵寺を前身とし、後に住持を務めた音阿上人が時宗に帰依したことから建武2年(1335)に真言宗から改宗し、寺号も来迎寺と改名したの。ところで三浦義明って何者?という方は少しお付き合い下さいね。拝観料:境内自由
三浦半島一帯を治める豪族・三浦氏を束ねる総帥の三浦義明は源頼朝の挙兵に際し、自身は高齢だったために次男の三浦義澄を遣わして逸早く援軍するのですが、義澄は増水した酒匂川に行く手を阻まれ、進撃出来ずにいる内に頼朝勢の惨敗を知ります。義澄は悄然として衣笠城に引き返すのですが・・・
衣笠城に戻る途中で義澄率いる三浦勢は平氏側の畠山重忠の軍勢が布陣しているのを知り、迂回して秘かに波打際を進みます。ところが血気盛んな和田義盛は自軍本体が無事通り過ぎたのを見届けると、百騎ほどの手勢を従えて畠山勢の前に現れ挑発してしまうの。相手の重忠にしてもその時17歳と血気盛ん。義盛の名乗りに−矢の一つ射ずんば平氏の聞こえも怖れあり−と追撃するの。鎌倉に逃げ込んだ義盛は杉本城に急使を走らせ、弟の義茂に援軍を求めます。対峙する両軍ですが、いずれ義澄勢も駆け付けてくると危惧した重忠はやがて義盛に和議を申し入れるの。
和田義盛は同じく三浦義明の孫に当たり、相模国三浦郡和田郷(現在の神奈川県三浦市)を治めていたことから和田姓を名乗っていたの。
畠山重忠の母は三浦義明の娘。重忠にとり、義明は外祖父に当たりますが、父・重能と叔父の小山田有重が平家方について京都守護に任じていたため、その身を案ずると共に平家への忠義心から仕方なく平家方総大将の大庭景親に従うの。そんな背景から同族相争う無為な戦と諭し、和睦を申し入れたの。和議はすんなりと成立するのですが、そこで事件が起こります。駆け付けた義盛の弟・義茂は和議が結ばれたことを知らずに重忠の軍勢を襲撃してしまうの。義盛勢が手を振り制止するのを早く攻めよの意に誤解してしまったの。ケイタイなんて無い頃のことですので仕方無いのかも知れませんね。謀られたと思った重忠は全軍を挙げて義茂勢を迎え撃ちます。それを見た義盛も義茂を救おうと再び参戦し、重忠勢に襲いかかるの。
来迎寺 時を同じくして急を知った義澄勢も小坪(材木座海岸東寄)から馳せ戻りつつあり、それを遠望した重忠は三浦勢が長蛇の列に見えたことから、上総・安房からも援軍を得たものと形勢不利を悟り、直ちに退却するの。ところが実際の三浦勢は僅かに三百余騎。当時の道幅は馬一頭が歩ける程度でしたので、必然的に長蛇の列と成らざるを得なかったのですね。三浦勢は退却する重忠勢を見届けると負傷者や戦死者を収容し、再び衣笠城へ引き上げて行くの。
来迎寺 その二日後、態勢を立て直した重忠は河越重頼・中山重實・江戸重長らの参陣を得て三浦一族の本拠地・衣笠城を襲います。ところがここでも重忠は三浦一族を慮り、意図的に退路を開けて衣笠城に攻め込んだと云われているの。重忠の恩情を知った義明は義澄や義盛らに三浦一族の将来を託すと共に、頼朝を拝してことに当たるよう檄を飛ばし討ち死にするの。義明は齢89歳だったと云われ、【吾妻鏡】はその時の情景を次のように描きます。
義澄等相戦うと雖も昨今両日の合戦に力疲れ矢尽き半更に臨み城を捨て逃げ去る
義明を相具せんと欲するに義明云く
吾源家累代の家人として幸いその貴種再興の代に逢うなり 盍ぞこれを喜ばざらんや
保つ所すでに八旬有余なり 余算を計るに幾ばくならず
今老命を武衛に投げ子孫の勲功に募らんと欲す
汝等急ぎ退去して彼の存亡を尋ね奉るべし
吾独り城郭に残留し多軍の勢を模し重頼に見せしめんと
義澄以下涕泣度を失うと雖も命に任せ なまじいに以て離散しをはんぬ
三浦氏は源頼義の頃より源氏の家人でもあり、幼児期の頼朝は番役で京に上洛していた義明の膝に抱かれて過越すこともあったと聞きます。頼朝が鎌倉入りした後は頼朝の親衛隊とも云うべき存在となる三浦氏一族。頼朝は89歳にして討ち死にした義明に対し、17回忌まで生きたものと見做すよう周囲に伝えます。挙兵に際し逸早く一族を率いて味方となった義明は、頼朝にすれば千葉常胤同様第二の父とも祖父とも呼ぶべき存在だったのかも知れませんね。
三浦義明の墓 本堂右手の一角に建てられる二つの大きな五輪塔は三浦大介義明と三浦義澄の三男・多々良三郎重春の墓と伝えられています。重春は石橋山の合戦に加わり畠山重忠の軍勢に敗れ討ち死にしています。重春の人物像は不詳ですが『鎌倉の寺小事典』かまくら春秋社刊には17歳の若さで命を落としたと記載されています。重春は義明の孫に当たりますが、こうして二基並ぶところを見ると、義明にしてみれば重春は幾つになってもかわいい孫だったのでしょうね。
ところで「鶴は千年、亀は万年」という文句は皆さん御存知ですよね。実はこの後に「三浦大介百六つ」と続きます。江戸時代になると門付けしながら物乞いする者が縁起を担いでこの祝い歌を謳ったのですが、人生50年余と云われた当時の89歳は驚嘆に値しますよね。それが更に17年も生きたことになるのですから義明は長寿の代名詞にもなったのでしょうね。
三浦義明の最期に纏わる逸話には他にも黒雲と老松伝説というのがあるの。秘かに城を抜け出した義明は愛馬の黒雲に股がり先祖を祀る清雲寺を目指しますが、その途中、一本の老松の下まで来ると愛馬の黒雲がその許から一歩たりとも動こうとしないのです。愛馬が最期の地を指し示したものと合点した義明は「よう仕えてくれたのお、吾亡き後は良き主を得て再び仕えよ」と鞭打って放逐します。義明はその老松の根元で自刀して果てるのですが、愛馬の黒雲も山頂から駆け降りて主・義明の死に殉じたと云われているの。ちょっと哀しい伝説ですね。
三浦一族の墓 本堂には三浦義明が守り本尊として祀っていたという阿弥陀如来像が安置されています。その本堂右手から墓苑を失礼して歩かせて頂き、裏手に出てみるとあるのがこの三浦一族の墓。多くの五輪塔が立ち並び、その数何と百基を越えるというのですから凄いですよね。本堂背後に侍して守り本尊の阿弥陀如来を奉り、土に還った今も義明を総帥にして三浦一族が戦に備えているようにも見受けられ、寂寥感漂う空間が広がっています。
献花 写真はその最奥部に祀られる宝篋印塔です。墓誌銘が刻まれているわけでもありませんし、風化するに任せた状態の石塔ですので、どんな人物が眠るのかは分かりません。遙かなる時を経て、主と共にいずれ土に還りゆく石塔です。それにしても鎌倉の地を訪れる度に感心させられるのが、こうした名もない石塔にも手向けられる生花です。枯れた花が放置されているのは見たことがありません。鎌倉に住む方々の余裕というか、歴史に支えられた文化なのでしょうね。
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