≡☆ 鎌倉歴史散策−二階堂・西御門編 ☆≡
2003/11/02

鎌倉歴史散策−北鎌倉編 では天園ハイキングコースを縦走して瑞泉寺に抜けてしまいました。今回は立ち寄らずに終えた見処に加えて二階堂と西御門を訪ねてみましたが、散策順路の都合から再度立ち寄ったところもあるの。なので、一部記載が重複しますが御容赦下さいね。

覚園寺〜鎌倉宮〜護良親王墓〜瑞泉寺〜荏柄天神社〜来迎寺

1. JR大船駅 おおふなえき 9:24発

大船駅 前回は百八やぐらを見ずに終えていましたので、今回はそれを見てから覚園寺に向かうコースを採ってみたの。本来なら建長寺から半僧坊を経由して天園ハイキングコースを辿るのが正規ルートなのですが、百八やぐらを見るために、また同じ道を歩くのもつまらないので、何か良い方法が無いかしらと調べていたところ、地図上に半僧坊下BSの文字を見つけて小躍りしてしまったの。詳しい運行経路や時刻表などは 神奈川バス案内WEB を御参照下さいね。
東口交通ターミナル5番乗場 江ノ電バス 鎌倉湖畔行 運賃:¥230 ( ′03.11 現在 )

2. 半僧坊下BS はんそうぼうした 9:41着

半僧坊下BS 半僧坊下BSからは御覧のような歩道が鷲峰山に向かい延びているの。案内標識に従い歩みを進めると程なく今泉6丁目公園に出ますが、その左奥に天園ハイキングコースへの登り口があるの。ですが、公園への案内板が分かりにくい位置に立ちますので、写真の歩道最奥部を左折したら今度は右手方向に最初に現れた道を辿って下さいね。愛犬を連れてお散策する方々にも出逢いましたが、お洒落な景観の散策路よね。加えて、公園にある登り口から天園ハイキングコースの道へは石段が続きますが、半僧坊から登るときに感じた辛さはここにはまるでないの。

半僧坊からのことを考えて気合いを入れて登り始めたのですが、あっという間に天園ハイキングコースに出てしまいました。それもちょうど覚園寺コースと瑞泉寺コースへの分岐点と云う願ってもない位置に。更に、百八やぐらはその分岐点の直ぐ傍にあるの。半僧坊から登った時には離れた場所にあるからと諦めていたのですが、ほんの数10歩の位置にあったなんて。

3. 百八やぐら ひゃくはちやぐら

やぐら やぐらとは鎌倉特有の洞窟墳墓を指すことばで、周囲を山に囲まれた鎌倉では平地が少ないことから墓地の造営が制限され、岩盤を刳り貫いて造る洞窟墳墓が奨励されたの。武士などの特権階級にあった人達の墳墓ですが、鎌倉全体では数千基に及ぶと云われているの。やぐらの内部には石塔やお地蔵さまが祀られているのですが、すべからく首無状態なの。何でも明治期に博打が盛んに行われ、縁起を担いだ博徒がお地蔵さまの首を持っていってしまったのだそうですが、お地蔵さまの首が何で縁起が良いのかしら。どなたか御存知の方、いらっしゃいます?

やぐら 上の写真は散策路から一番最初に見えるやぐらなの。内部には大きなお地蔵さまが祀られていましたが、このお地蔵さまだけは余りにも大きすぎたのでしょうね、お顔が残されているの。そのお顔もしてやったりとお思いなのか心持ち笑っていらっしゃるようにも見えるわね。百八やぐらと呼ばれるだけあり、ここには数多くの洞窟墳墓が密集して掘られているのですが、聞くところに依ると実際には177基もあるのだとか。

やぐら やぐらってお墓なんでしょう、おまけに首が無いお地蔵さんばかりで気持ち悪いから早く次へ行こうよ〜と云う連れを宥めてバチバチ写真を撮ってしまいましたが、百八やぐらの景観写真を掲載するサイトは余り見掛けませんので幾つか紹介してみますね。それにしても鎌倉を散策しているといつも感心させられるのが供養塔や石像に花が手向けられていることね。鎌倉に住む方々の心配りが感じられますよね。

やぐら やぐら やぐら やぐら

苔 幕府が鎌倉の地に開かれていたのは150年程の期間。鎌倉幕府が滅ぼされた後も関東管領が置かれたりするけど、数千基に及ぶやぐらがあるとは、当時の鎌倉に如何に多くの権力者達が集まっていたかを物語るわね。やがて政治経済の中心が鎌倉から離れると、それに併せて特権階級にあった人々も移動してしまい、やぐらが建てられることもなくなったの。苔むすままに風化していく供養塔などもあり、寂寥感あふれる空間ですが、ここにも諸行無常の響きあり−ね。

4. 庚申塚 こうしんづか

覚園寺ハイキングコースの道を下ってくるとこの庚申塚の横に出て来るの。庚申塔は庚申信仰の中で生まれてきたもので、古代中国では人の身体の中に三尸(さんし)と呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜になると身体から抜け出して天に昇り、天帝に宿主の罪過を告げ、天帝はその罪の軽重を計り、悪さするヤツは長生きさせらる訳にはいかねえ−とばかりに、残りの寿命を縮めてしまうと信じられていたの。だったら寝ないで起きていればいいじゃん−と云うことで始まったのが庚申待で、庚申信仰の始まりなの。

5. 覚園寺 かくおんじ

覚園寺 薬師ヶ谷の最奥部にある覚園寺は鎌倉幕府二代執権・北条義時が建保6年(1218)に建てた薬師堂が始まりで、北条貞時が永仁4年(1296)に元寇襲来の再来無きようにと祈念して智海心慧を開山に迎え、正式な寺院として再興したものなの。北条氏をはじめ、南北朝時代には後醍醐天皇の勅願寺にもなり、室町期には足利尊氏が祈願所とするなど、時の為政者を後盾にして寺勢を興隆させたの。現在の覚園寺は落ち着いた佇まいを見せる真言宗寺院ですが、明治の初め頃までは浄土宗・真言宗・禅宗・律宗の兼学道場だったの。 10:00〜15:00 一時間毎に受付 導師の案内付

覚園寺 そうした背景もあってのことなのでしょうね、拝観に際しても決められた時間にのみ可能なの。拝観時間は10:00から15:00迄の一時間毎に設定されているのですが、平日は12:00の拝観受付が無いので注意が必要ね。石段を登った右手に待合所がありますので、早めに来院して導師の方の案内を待ちましょうね。導師の方に従い拝観受付を済ませると、引き続き境内を案内して下さいますが、受付以後は何と周囲の景観を含めた全てが撮影禁止!。なので写真の掲載が出来ずに、ここでは文字に依る情報提供のみとなってしまいますが御了承下さいね。拝観料:¥300

覚園寺 尚、拝観所要時間は約50分程掛かりますので余裕を以てお出掛け下さいね。導師の方がユーモアを交えて丁寧に説明して下さいますので、気が付けば、あれ〜もう終っちゃうの?(^^; 最初に案内されるのが薬師堂ですが、建物の手前左には「神奈川の名木百選」にも数えられる樹齢800年の槙の木があるの。


現在の薬師堂は文和3年(1354)に足利尊氏が再建したものですが、天井の梁にはそれを記した尊氏直筆の銘が残されているの。その堂内に一歩足を踏み入れると大きな三体の仏像が眼前に聳え建つかのように迫り来るけど、本尊の丈六の薬師如来像を中心に、日光菩薩・月光菩薩が左右に脇侍して薬師如来眷属の十二神将がそれを取り囲むの。その薬師三尊像だけど国の重要文化財に指定されているの。堂内に祀られる十二神将だけど面白い逸話が残されているので、紹介してみますね。【吾妻鏡】には

右京兆大倉薬師堂に詣で給う この梵宇は霊夢の告げに依って草創せらるるの処 去月二十七日戌の刻供奉するの時 夢の如く白犬御傍らに見ゆるの後 御心神違乱の間 御剣を仲章朝臣に譲りて伊賀の四郎ばかりを相具し退出しをはんぬ 而るに右京兆は御剣を役せらるるの由 禅師兼ねて以て存知するの間 その役人を守り 仲章の首を斬る 彼の時に当たり この堂の戌神堂中に坐し給わずと

右京兆とは北条義時のことで、大倉薬師堂と云うのがこの覚園寺を指しているのですが、【吾妻鏡】の記述を鵜呑みにすれば、霊夢を見た義時がこの薬師堂を建立し、公暁の源実朝暗殺の際にはその霊夢に見た白い犬が実朝の刀を奉持していた義時の目の前に現れ、心中穏やかではなくなった義時は源仲章に役を代わり、その場から立ち去ってしまったの。結局、仲章も殺されてしまいますが、その時に十二神将の内の戌神(伐折羅大将)の姿が消えていたと云うの。戌神が白犬となり、義時を助けたというのですが、義時は源頼家を幽閉し刺客を以て暗殺、源実朝の暗殺にしても黒幕だったのでは−とも云われているの。薬師如来の眷属の十二神将が義時の救済を許すとは思えませんが、北条氏を好意的に扱う【吾妻鏡】の記述ですから仕方ありませんね。幾れにせよ義時が霊夢に感応して薬師堂を建てたのが事件の前年ですから、実朝の暗殺を事前に知っていたことを窺わせるような記述よね。

堂内右手に祀られている阿弥陀如来像は元は理智光寺(現在は廃寺)の本尊で、小像を胎内に納めていることから鞘阿弥陀とも呼ばれているの。阿弥陀如来は永遠と無限の徳を以て衆生を救済して下さる有り難い仏さま。あなたがその生を終えるとき、あなたの枕元に現れて極楽浄土に導いて下さるの。

堂宇左手の暗闇には伽藍神が祀られているの。聞き慣れない神名ですが、その内の一神はあの三国志で有名な関帝(関羽)が神格化されたもので、禅宗と共に伝えられて寺院の守護神として祀られるようになったの。横浜や神戸などにある関帝廟に祀られる関帝ですが、そのルーツは皆同じなの。関帝は中国後漢時代の武将ですが、その忠誠心から中国の歴代王朝から崇敬を受けて王朝の守護神として祀られるようになったの。また算盤(そろばん)を発明したことから、金運を呼ぶ神さまとして崇められるようにもなったの。なので、そのお姿も異国情緒たっぷり。日本最古の伽藍神像は建長寺にありますが、鎌倉期には神道や道教を初めとして神仏習合が盛んに行われていましたので、異国の神だろうと何だろうと関係なく仏教に取り込んでしまったのでしょうね。と云っても仏教自体が元々は異国のものだったりしますが。堂内には他にも撫で仏のおびんづる尊者の像がありますが、身体の悪い部分を撫でると患部が治ると云われていますのでお試し下さいね。覚園寺にはちょっと変わった仏様達がいらっしゃいます。

次に江戸中期の豪農屋敷を移築した旧内海家住宅に案内されるの。何で境内にそんなものがあるのか聞きそびれてしまいましたが、個人で維持するには大変だったのかも知れないわね。茅葺きは囲炉裏で煮炊きすれば煙で70年位はもつので葺替えも70年に一度で済むのですが、県の重要文化財に指定されているために火気厳禁。なので茅葺きも僅か3年余で駄目になってしまうそうよ。厩が併設されていたと云う土間の前では、導師の方から何で三和土(たたき)というのか御存知ですか?と質問を受けて、一同皆シ〜ンとしてしまいますが、あなたは御存知?答えは御来院時に。(^^;

旧内海家住宅に向かう途中には、薬師堂前の槙にも負けない大樹が聳えますが、樹齢僅かに44年と云うメタセコイアで、その生長スピード(1m/year)には感心されられるの。生きた化石として知られ、生物学者としての昭和天皇との関わりも深く、和名をアケボノスギと命名されたの。次に案内されるのが十三佛やぐらと呼ばれる岩窟で、中央最奥部の壁面に十三仏が祀られているの。十三仏は人が死んでから次の生を得るまでの間(四十九日)と周忌法要に際しての本尊とされるの。母体となるのが十王思想と呼ばれるものですが 円応寺 の項で易しく解説してみましたので、興味のある方は御笑覧下さいね。この後地蔵堂前にて導師の方から説明があるけど、事前にお読み頂いた上でしたら、より理解が深まると思いますよ。CMでした。(^^;

次に巡る地蔵堂には黒地蔵と呼ばれる地蔵菩薩立像(国重文)が祀られていますが、このお地蔵さまにも面白い逸話が残されているの。その昔、このお地蔵さまが地獄に赴いた際に、火あぶりの刑に苦しむ亡者を見かねて獄卒の代わりに火を焚いたのですが、手加減しているのがバレてお地蔵さま自らが火あぶりにされてしまったの。それからというもの、このお地蔵さまは磨いても磨いても直ぐに黒くなってしまうので、黒地蔵と呼ばれるようになったの。お地蔵さまは生前に罪を犯した者でも救済してくれる優しい仏さま。今でも地獄に赴いた際には、罪人達が火あぶりの刑に処せられているのを見ると、獄卒に変わって手加減してしまうのでしょうね。己が身を焦がしてまで罪人の辛苦を少しでも和らげようようとして下さる黒地蔵に、ただただ合掌よ。拝。

本堂 そして、最後に案内されるのが阿閦如来・不動明王・愛染明王の三尊を祀る本堂ですが、阿閦如来は怒りと淫欲を絶ち、修行の後に東方浄土に住すると云う仏さま。山嶽修行する修験者達も主尊として信奉した不動明王は元々はヒンズー教の最高神シバ神がそのルーツ。仏教では当初忿怒の出で立ちを以て如来の使者となるの。一方の愛染明王は煩悩の激しさを象徴する赤を意味するラーガ Ragaraja を梵名とする明王で、愛欲などの煩悩を認識することが、則ち、仏の境地に達することと教えているの。知性に限らず、愛欲などの本能さえも円満に発達させることで即身成仏出来るとされ、その忿怒の出で立ちとは似つかない優しい教えなの。

愛染明王の第二手には愛のキューピーッドよろしく弓と矢が握られているの。一つ屋根の下に淫欲を絶つ阿閦如来と、かたや愛欲さえ受容してしまう愛染明王が一緒に祀られるという妙。あなたはどちらを向いて拝まれますか、やはり愛染明王かしら。(^^;

覚園寺の境内最奥部には鎌倉十井の一つ、棟立の井があると聞いていましたので見学させて戴けないかしら−と訊ねてみたのですが、残念ながら不可とのことでした。導師の方の説明に依ると、横穴式に掘られた井戸で、上部が屋根の棟に似ることから棟立の井と呼ばれるようになったとのこと。一部は崩壊してしまったそうですが、それでも構わないから見てみたいものね。見せて貰えぬとあっては余計見たくなってしまいますよね。

覚園寺を後に鎌倉宮へ向かいましたが疎水が右に左にと流れ、沿道には閑静な住宅街が続いているの。中には風流人が住するかのような佇まいの民家もあり、家人が庭の手入れをされていましたが、それなりの御苦労があるようね。あるは僅かに植木鉢の緑だけというξ^_^ξは、やはり鎌倉の地には住めそうにもないわね。

6. 鎌倉宮 かまくらぐう

鎌倉宮 覚園寺からのんびりと歩いても10分足らずでこの鎌倉宮に辿り着くの。明治2年(1869)に明治天皇の勅願に依り創建された神社で、悲運の中で生涯を閉じた護良親王(もりながしんのう)が祀られているの。護良親王は後醍醐天皇の皇子で足利尊氏と対立し、社殿裏手にある土牢に幽閉されてしまうの。9ヶ月間に及ぶ幽閉期間の後、遂には殺害されしまうのですが、鎌倉宮はその護良親王の云わば鎮魂の社でもあるの。拝観:境内自由 但し、土牢及び宝物館見学:¥300

鎌倉宮 皇太子・邦良親王の死去に伴い、後醍醐天皇は同じ皇子の護良親王を皇太子に据えようとしたのですが、当時は鎌倉幕府執権職にあった北条氏が実権を握っており、その北条氏は後伏見上皇の皇子・量仁親王を担ぎ上げたことから対立するの。結局、親王は僅か11歳にして比叡山延暦寺に入山させられてしまうの。この時の称号が大塔宮(だいとうのみや)で、縁起などに大塔宮の呼称が冠せられるのはこれに由来するの。そうして20歳にして天台座主となる親王ですが、父・後醍醐天皇と共に倒幕の願い、止まずにいたの。

密かに倒幕を謀る後醍醐天皇だったのですが、遂に元弘元年(1330)、親王と共にいざ挙兵という段になり、その計画を幕府側に知られてしまい、天皇は捕らえられて隠岐に配流させられてしまうの。その意志を継いだ親王は直ちに還俗し、名を護良と改め、吉野に挙兵するの。そして足利尊氏、楠木正成らの援軍を得て、ついに元弘3年(1333)新田義貞の軍勢に依り、鎌倉幕府は北条氏と共に倒されるの。

鎌倉宮 配流先から還都した後醍醐天皇は足利尊氏の功を認め、鎮守府将軍の任を与えるのですが、尊氏自身は征夷大将軍の地位を欲していたようね。そんな尊氏の言動に不穏な動きを看てとった親王は後醍醐天皇に「尊氏に幕府再興の野望ありと見ゆ」と進言。親王にすれば一度鎌倉幕府を裏切った尊氏に心を許す訳にはいかなかったのでしょうね。そうは云っても尊氏は倒幕の功労者、幾ら息子の云うこととは云え、どうしようもなかったのでしょうね、天皇からは今一度仏門に下ることを勧められてしまうの。

ところが、親王はこれを拒否、血気盛んな親王に遂には征夷大将軍の地位を与えてしまうの。晴れて大義を得た親王が尊氏を討とうとしたのは必然ね。けれど尊氏の方が一枚役者が上だったみたいで、親王の動きを事前に察知した尊氏は後醍醐天皇にその責任を迫るの。苦悩の末に後醍醐天皇は親王を鎌倉に幽閉してしまうの。その監視役が尊氏の弟・直義で、その直義に密かに鎌倉奪還を狙う北条高時の子・時行が残党を集めて襲いかかるの。北条氏一族の怨念が後押ししたのでしょうか、直義軍は敗退を余儀なくされてしまうの。敗退に先立ち、生かしておいては再び挙兵して討たれてしまうのでは−と、大いに危惧した直義は、幽閉の身であった親王の殺害を家臣の淵辺義博に命ずるの。己が手を染めずに家臣に委ねるあたりは直義も親王に対する畏敬の念が少しはあったということかしら。そうして親王は28歳の若さで無念の最期を遂げてしまうの。

土牢 左掲はその護良親王が建武元年(1334)11月から翌年7月迄の約9ヶ月間にわたり幽閉されていたと云う土牢なの。内部は深さ約4m、8畳程の広さと云うのですが、中を覗いてみても一切の明かりが射し込まず、暗黒の闇が広がっているの。土牢と云うよりも岩窟牢なのですが、こんな暗闇に幽閉されても発狂もせずにいたのですから、意志の強い方だったのですね。秋には鎮魂の舞として鎌倉薪能が奉納されますが、この土牢を見ると均しく鎮魂を願わずにはいられないの。

首塚 斬首に際して親王は最後のお茶を所望されたにも関わらず、水さえ与えられずに最期を遂げられたと伝えられているの。左掲は足利直義の家臣・淵辺義博の手に依り伐たれた親王の首が放置されていた場所で、御構廟(おかまへどころ)と記されていました。その放置されていた親王の遺骸を見るに見かねて手厚く葬ったのが当時あった理智光寺の住持。その理智光寺は明治期に廃寺になってしまいましたが、鎌倉宮の北東に位置する理智光寺跡には親王の陵墓が残されているの。些か暗い縁起を有する鎌倉宮ですが、鎮魂の社とあらば致し方ないことですね。

ですが、この土牢をめぐっては異説もあり、当時この鎌倉宮の建つ場所にあった東光寺に座敷牢のようなものがあり、そこに幽閉されたとする見方もあるの。幽閉中の親王の身辺を世話したのが南の方という女性で、拝殿左手には南方社と呼ばれる摂社がありますが、その女性を祀ったものなの。彼女は親王が薨去せられた時には既に親王の子を身籠っていたのですが、安国論寺北側にある妙法寺を創建した日叡上人がその子供なの。非業の死を遂げた親王にあって、唯一救われるお話しですよね。

獅子頭 親王の父である後醍醐天皇が幾ら何でも己が御子が土牢に閉じ込められることを許すとは思えませんし、当時の身分階級からして皇族は飽くまでも武士の上。加えて身の回りを世話する女性がいたことなどから推して座敷牢とするのが妥当のような気がするわね。だとすると由緒書きにも説明されるこの土牢は何なの?と云うことになってしまいますが、大政奉還から間も無い当時には幕府側の残党も多く、逆賊・足利尊氏の非情ぶりを鼓舞する必要があり、意図的に作られたものなのかも知れないわね。

打出小槌 参拝順路最後に位置する宝物殿には親王の身廻品が展示されているの。ちょっと変わった展示物が、二つに折れてしまった身代り獅子頭のお守りなの。添え書きによると、このお守りを所持していた方が交通事故に遭われたのですが、九死に一生を得たそうで、その霊験に感謝して奉納されたものとのこと。護良親王も戦場ではこの獅子頭を冑に付けていたために武運を呼んだと云われているの。あらゆる災難を身代わりとなって除いてくれるお守りですのでお求めになってみては?拝殿前の遙拝所には、撫でればどんな願いごとも叶うと云う打出小槌もあるの。併せてどうぞ。

7. 護良親王墓 もりながしんのうぼ

護良親王墓 護良親王墓 前回の散策では護良親王墓を見学せずに終えていましたので、今回は足を延ばしてみたの。鎌倉宮の右手に続く路を瑞泉寺方面に向かって歩くとテニスコートが見えて来ますが、その先の理智光寺橋を渡り、道なりに歩くとあるのが護良親王墓への登り口。けれども悲運の皇子に遭うためには更に試練が必要よ。

護良親王墓 薮の中に放置されたままの護良親王の遺骸を見るに見兼ねて手厚く葬ったのがこの地にあった理智光寺の住持。理智光寺は明治初期には廃寺となってしまいましたが、かなりの敷地を有するお寺だったようね。親王の亡骸は寺域の山上に葬られたのですが、墓前に辿り着くまでには急な石段が延々と続くの。左掲は一気に登ることを諦め、一息ついたところで振り返ってみた石段ですが、訪ね来る人も無く、ここには静かな時間だけが流れているの。

護良親王墓 息を切らして登り詰めたところにあるのがこの護良親王の陵墓ですが、残念ながら柵が立てられていてこれより先へは進むことが出来ないの。悲運の中で命を落した皇子と雖も、やんごとなきお方にはそうそう近づけては下さらないようね。護良親王の父・後醍醐天皇の陵墓は吉野にあるのですが、倒幕と云う共通の大義を抱えて共に戦った親子が今はこうして互いに離れて異郷の地に眠っているの。歴史の一頁とは云え、遙かなる時を経た今でも人の世の儚さが去来しますね。

8. 瑞泉寺 ずいせんじ

本堂 瑞泉寺は夢想国師を開山として嘉暦2年(1327)に創建された古刹で、足利尊氏の子・基氏が国師に帰依したことからその塔所として、往時には関東十刹に数えられる程の隆盛をみたようですが、現在ではひっそりと佇む庵といった趣きなの。四季折々の花が境内を彩り、花の寺としても親しまれているの。訪れた時には紫色の花を付けた桔梗を背にして、芙蓉が白い花を咲かせていたの。三門脇には吉田松蔭留跡碑が建ちますが、当時は松蔭の伯父が住持を務めていたこともあり、ペリーの浦賀来港時に密航を企てた際にはこの瑞泉寺に投宿しているの。拝観料:¥100

小説家の立原正秋氏などが眠る瑞泉寺には文人達の碑も多く、
鐘楼前には「男の顔は履歴書である」と書かれた大宅壮一氏の碑も建つの。

庭園 夢想国師の作庭した庭園で国指定名勝との触れ込みに大いに期待して建物の裏側に廻ってみたのですが、些か拍子抜けしてしまいました。手入れも十分になされているとは思えず、すっかり存在を忘れ去られてしまったような趣きにしか見えなかったの。昭和45年(1970)に発掘・復元され、作庭当時に近い造りなのだそうですが、京都の西芳寺や天竜寺の庭園を想像する向きには意外な印象よね。それともこの姿こそが国師が意図した本来の世界観なのかしら?

庭園背後の山頂には徧界一覧亭と呼ばれる建物があり、興味を覚えたのですが、残念ながら立入禁止になっているの。庭園の左奥から一覧亭に登る道があるのですが、柵が置かれていました。一覧亭とはどんな建物なのかしら。その山の斜面には瑞泉寺のやぐら群もあるというのですが。後盾を失い衰微してしまった瑞泉寺を訪れた徳川光圀は再興に尽力し、徧界一覧亭なども再建し、一時は閑居したと伝えるの。前庭にはその光圀のお手植えと伝える樹齢300年の冬桜がありますが、水戸の御老公と瑞泉寺、意外な場所で意外な組み合わせですよね。

どこも地蔵 どこも地蔵 庭園から踵を返したところに風情ある佇まいを見せていたのがこの地蔵堂と呼ばれる建物で、堂内には「どこも地蔵」と呼ばれる、ちょっと変わったお地蔵さまが祀られていました。傍らの説明書きに記されていた逸話をみなさんにも脚色してお届けしてみますね。

むか〜し昔のことじゃけんども、このお地蔵さまが扇ガ谷におられた頃のお話しじゃ。このお地蔵さまの堂守をして暮らす者がおったそうじゃが、毎日毎日お地蔵さまを拝んではみるものの、貧乏な暮らしは一向に良くならんでのお。いっそ堂守なんぞやめて、何ぞ他の仕事でもしようか、そうすれば暮らし向きも良くなるかも知れん、そう思うておったそうじゃ。

そんなことを思いながらいた堂守が、ある夜そのお地蔵さまの夢をみたそうじゃ。夢の中でそのお地蔵さまが堂守に 「 どこもどこも 」 と告げたそうじゃ。どんな意味が込められているのか分からず、不思議に思うた堂守は、偉いお坊さんにその意味を訊ねてみたそうな。そのお坊さん曰く 「 貧しいのはどこも皆同じじゃ。一つところで辛抱が出けんようでは逃げるだけの人生じゃよ 」 と。そう諭された堂守は、その後はずうっと堂守を続けたということじゃ。それからというもの、誰云うとなく、このお地蔵さまを「どこも地蔵」とか、「どこもどこも地蔵」と呼ぶようになったと云うことじゃ。

根付け 瑞泉寺の拝観を終えて、入口近くにある土産物屋(土鈴の店・棚橋)さんを覗いてみると、ひっそりとした店構えの店先には手作りと思える土鈴のほか、民芸調の品々が並んでいたの。御覧の根付け(¥300)には組紐の先に寄木細工で作られたぽっくりと高下駄が下がっているの。問わず語りに御主人が語ってくれたところでは、最初はぽっくりだけのものに、高下駄を一緒に付けてみると、ポツリポツリと売れるようになったそうなの。その後、有名な陸上選手がこれを買い求めたところ、良い記録が出たそうで、口コミで広がり、纏め買いする陸上選手の方が時折いらっしゃるそうよ。

決して縁起を担いで作ってる訳ではないんですがねえ、お客さんが勝手に縁起を担ぐようになってしまって−と至って無欲な御主人。普通ならここぞとばかりに売り出すところなのでしょうが、鎌倉に住む方々は気持ちに余裕がある方が多くいらっしゃるようね。そんな御主人の手作りの根付けですので効能もあるのでしょうね。

9. 荏柄天神社 えがらてんじんしゃ

参道 参道 参道 参道

神門

荏柄天神社は九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ日本三大天神の一つなの。天神さまと云えば菅原道真、菅原道真と云えば学問の神さまよね。なので、社殿脇には受験生の合格祈願の奉納絵馬が溢れ返っているの。受験を控えながらもこの頁を御覧下さっているあなたに、究極の合格祈願を紹介しちゃいますね。それは受験当日の早朝祈祷!初穂料も¥1,000と受験生には殊の外優しい料金設定ね。人事を尽して天命を待つ前にこの早朝祈祷がお薦めよ。早朝祈祷の案内には「受験当日の早朝皆様に代わって神職が住所・氏名・受験校を奏上 合格祈願祭を執行後 申込書を神前へ一日中お上げ致します」とあり、道真公も受験当日一日中見せられてはその願いを聞き届けない訳にはいかないわよね。(^^;

銀杏 縁起に依れば長治元年(1104)黒装束を纏う天神さまの画が雷雨と共に天から舞い降りて来て、畏怖を感じた里人がそこに社殿を建てて祀ったのが始まりと伝えられているの。加えて、社殿造営の際に植えて、御神木としたのが神門右手に聳える銀杏の大樹なの。舞い降りて来たのが天神さま御自身ではなく、画とするあたりが味噌醤油味ね。雷雨と共にと云うのですから、ひらひらと舞い降りて来たわけでも無さそうですので、天神さまを描いた絵巻物だったのかも知れないわね。境内の一角には著名な漫画家達が描いた河童の絵をモチーフにした筆塚もあるけど、縁起の方も負けず劣らずマンガチックよね。荏柄天神さん、ゴメンナサイ。(^^;

ユニークな縁起の荏柄天神社ですが、その後鎌倉入りした源頼朝が大倉幕府から見て鬼門に当たることから守護神として崇め、改めて社殿を造営したの。陰陽道では北東の方角は邪悪な鬼が出入りするところとして忌み嫌われていたの。元文元年(1736)には鶴岡八幡宮修復時の余材で社殿が建てられているの。現在の拝殿も関東大震災の被災を経て鶴岡八幡宮の仮殿を譲り受けて移築したもので、鶴岡八幡宮とは深か〜い繋がりがあるの。この荏柄天神社には木造天神坐像と立像があるのですが、いずれも忿怒の形相をしていることから、怒り天神とも呼ばれているの。

右大臣の地位にまで昇りつめた菅原道真も、娘の嫁ぎ先の斉世親王を天皇に擁立せんと謀ったと藤原時平から讒言され、遂に太宰権帥に左遷されてしまうの。2年後にはその太宰府で死去していますが、その時平も後に病死してしまい、皇子も相次いで死去。都では疫病が流行して天変地異が続き、遂には天皇の御座所の清涼殿に雷が落ちるの。そして駄目押しの醍醐天皇の薨去。道真の祟りじゃあ、祟りじゃあ−と、それはもう大変な騒ぎになったの。像はその時の怨み振り撒く道真公の御姿なのかしら。都を離れる際には「東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と優雅に詠んでいますが、腹の中は煮えくり返っていたのかも知れませんね。(^^;

左は鎌倉に住んだ漫画家・清水崑氏が生前に愛用した絵筆を納めた筆塚なの。清水崑氏と云えば某酒造会社のカッパッパー、ルンパッパー〜のCMに登場する河童が有名ですが、氏の亡き後は小島功氏が引き継いでいるの。なので小島功氏の作品の方に親近感を覚える方も多いかと思いますが、清水崑氏がその元祖になるの。

かく云うξ^_^ξも、実は小島功氏なのですが、正面に描かれる河童は清水崑氏の手になるもので、背面に記載されている「かっぱ筆塚」の文字は、同じく鎌倉に住んだ川端康成氏が揮毫しているの。それにしても漫画の河童と川端康成氏がどうも頭の中では結び付かなくて。お二人にはどんな親交があったのかしら。酒飲み友達?その筆塚の背後にあるのが左掲の絵筆塚。横山隆一氏、小島功氏をはじめとする漫画家154人に依る河童の絵がレリーフされているの。写真は改めて説明するまでもないわよね。荏柄天神社では毎年1/25に、使い古した筆や鉛筆を燃やす筆供養が行われるの。

筆塚 筆塚 筆塚 筆塚

10. 三浦一族のやぐら みうらいちぞくのやぐら

やぐら 大江広元墓に向かう道筋の草叢に隠れるようにして、三浦一族のやぐらがあるの。三浦氏と云えば、源頼朝が挙兵した際には逸早く応じ、以来、頼朝と運命を共にした一族。その功績から有力御家人として頼朝の死後も強大な勢力を持つようになっていたの。ところが、独裁政権を策謀する北条氏にとってはまさに目の上のたんこぶ。難癖をつけて三浦氏を滅ぼそうと画策し、遂に宝治元年(1247)、北条氏側の安達景盛率いる大軍が鎌倉の三浦屋敷に攻め入るの。止むなく、三浦秦村はじめ一族郎党500余人は頼朝墓所の法華堂に立て籠もり、やがて自害してしまうの。三浦氏は云わば頼朝の親衛隊、死に臨んでも今は亡き主の頼朝にその忠誠を誓ったのでしょうね。

鳥居 その三浦一族のやぐらの傍にある鳥居から石段を登ると島津忠久、大江広元、毛利季光の墓所が三基並ぶの。鬱蒼とした木立ちに陽射しも遮られて足許に草木が絡みつき、道があって無いような小径を辿るのですが、さすがにこんなところまでやってくるのは余程物好きな方でもない限りいらっしゃらないようね。女性の一人歩きにはとてもお勧めできませんので、どうしても見てみたいの−と云う方は、グループでお出掛け下さいね。

11. 島津忠久墓 しまづただひさのはか 大江広元墓 おおえひろもとのはか 毛利季光墓 もうりとしみつのはか

墓所 墓所 墓所 島津忠久墓 大江広元墓 毛利季光墓

島津忠久は比企能員の妹・丹後局を母として生まれ、源頼朝の庶子とも云われているの。【新編相模国風土記稿】の記述あたりをその根拠にしているようですが、頼朝の庶子とするには異説もあり、門外漢のξ^_^ξには真偽の程は不詳です。ゴメンナサイ。忠久は薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護に任じられたことから九州・島津氏の祖となるの。

大江広元は公家の出身ですが、源頼朝に請われて鎌倉入りするの。公文所別当となり、後に政所も統括して幕府の組織造りを行った功労者なの。公家出身と云うことからそのコネクションを使い、幕府と朝廷の争議にも調整役として活躍し、頼朝亡き後も北条氏の執権独裁体制を支えた人物。腕力には強い関東武士も決め事は苦手だったみたいね。(^^;

毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖と云われ、相模国毛利荘(現:神奈川県厚木市辺)を領したことから毛利姓を名乗るの。上述の宝治の乱の際は当初幕府側につく積もりでしたが、夫人が三浦義村の妹であり、その夫人に諫められて三浦氏側に加担。敗れて三浦氏一族と共に頼朝の法華堂で自害してしまうの。本来なら三浦氏と共に毛利氏も絶える筈でしたが、越後国佐橋荘(現:新潟県柏崎市辺)を領する四男・経光だけが難を逃れて毛利姓を後世に残すことになるの。

大亀 事件の際に執権職に就いていたのは北条時頼で、その側室は毛利季光の娘。いくら政略結婚とは云え、嫁いだ娘を慮り北条氏側に加勢するか、それとも夫人の云い分を聞いて三浦氏側に加担するか、季光も辛い選択をせねばならず、縁戚を結ぶことで一族の安泰を願ったことが、逆に悲劇を生む結果になってしまったの。歴史とは云え、辛い時代ですよね。その毛利季光墓の左脇にはこの大亀碑が建てられているの。大江広元墓にも同じものがありますが、石川県の月照寺にある大亀にも似た風情で、背中に石碑を負っているの。墓は後に修復されていますので、その時に造られたものなのでしょうね、きっと。ところで墓誌銘を背負う大亀には、どんな意味合いが込められているのかしら?

道 墓所からは左手に道が延びているのでどこかへ通り抜けられるのかしら?と辿ってみたところで左掲の急段の上に出たの。見るとそこは源頼朝のお墓があるところだったの。以前、頼朝墓を訪ねたとき気付かずに終えていましたが、ガイドブックには記載されない近道だったの。この頁を御覧の方はこの急段を登って大江広元墓に足を延ばしてみては。登ってしまえば後は割合歩きやすい道が続くの。鎌倉方面から来られた方にはこちらの道が断然お薦めよ。山道には違いないのですが、下草も生えてないし、木漏れ日も射し込むの。尤も、三浦一族のやぐらを見たいの−となると、やはり先程の道無き道を歩かなくてはならないけど ・・・

12. 源頼朝墓 みなもとのよりとものはか

神社 源頼朝墓への石段手前にはこの白旗神社があるの。見ていると人力俥で廻る殆どの方が社殿前で俥夫の方からの説明で満足されていますが、鎌倉と源頼朝とは切っても切れない関係なの。頼朝のお墓を見たからと云って、どうなる訳でも無いのですが (^^; 是非、俥を降りて見学してみましょうよ。それはさておき、傍らの石碑には「堂はもと頼朝の持佛を祀れる所にして頼朝の薨後其の廟所となる」とあるように、生前は持仏堂が建てられていたの。この辺りは嘗て頼朝の大倉御所や大倉幕府があった場所になるの。頼朝は死後にその持仏堂に葬られ、法華堂と名を変えたの。

江戸時代には鶴岡八幡宮の管理下に置かれ、明治期の神仏分離令でその法華堂も廃され、白旗神社になったの。石碑には更に続けて「寶治元年六月五日三浦泰村此に籠りて北條の軍を邀へ刀折れ矢盡きて 一族郎党五百餘人と供に自盡し滿庭朱殷に染めし處とす」と、この地が三浦氏一族の終焉の地でもあることが記されているの。北条氏に攻められ、行き場を失った三浦一族はこの法華堂に籠り、頼朝の神霊の前で自刃したの。その数500余人。当然、女性や幼子も含まれていたでしょうに。目を背けずにはいられない凄惨な光景だったと思うの。時代が時代だったからと片付けてしまうには、余りにも辛い歴史の一頁よね。

その白旗神社の前に続く石段を登ると源頼朝墓があるの。あれ〜?変よねえ、さっき法華堂に葬られたって云ってたじゃないの。実はその遺骸を、後に島津藩八代藩主・島津重豪(しげひで)が石段上に改葬したの。近くには頼朝の強力なブレーンだった大江広元と、その息子・毛利季光、忠臣の島津忠久のお墓もあるのですが、島津家の祖とされる忠久は頼朝の庶子※との噂も。(^^; 墓塔は高さ2m余の石積みと至って簡素な造りに加え、鬱蒼とした木立に覆われ、夏場だと云うのにさしたる光も射し込まず、幕府を開き、時の最高権力者として君臨した頼朝の墓にしては寂しい風情ね。頼朝は建長10年(1199)に53歳で世を去りますが、一説には落馬が原因とも云われているの。お墓のある場所から見下ろす辺り一帯が大倉幕府跡になるのですが、北条氏に実権が移ると、現在の小町2丁目辺りの地(宇都宮辻子幕府)に移されてしまうの。歴史を作った頼朝ですが、その手を離れても歴史の流れは止まることがないの。
※庶子:余りいいことばではないけど、妾の子のことを云うの。

13. 来迎寺 らいごうじ

来迎寺 白旗神社に隣接する小さな公園の脇道を鶴岡八幡宮方面に歩くと西御門跡碑があるの。普通ならそこを左折して横浜国大付属小中学校を廻り込むようにして鶴岡八幡宮に向かうところですが、ちょっと来迎寺へ足を伸ばしてみたの。来迎寺が建つ辺りには嘗て鎌倉尼五山第一位に序する太平寺があり、今となっては門前にそれを記す石碑があるのみなのですが、太平寺と云えば、現在国宝にも指定されている円覚寺の仏殿が元々建てられていた寺院なの。その石碑には次のように記されているの。

石碑 太平寺は比丘寺にして相傳ふ 頼朝池禅尼の舊恩に報いん爲 其の姪女の所望に聴き 姪女をして開山たらしめし所なりと 足利の代管領基氏の族裔清渓尼の中興する所となれるが 天文中里見氏鎌倉を鹵掠せる時 住持青岳尼を奪ひて房州に去りてより遂に頽破せり 今の高松寺は寛永中紀州徳川家の家老水野氏が其の太平寺の遺址を改修せるものなり 〔 一部修正加筆 〕

池禅尼は平清盛の継母で、平治の乱に敗れて捕らわれの身となった源頼朝が死んだ我が子・家盛の生き写しに見えたことから清盛に助命を嘆願するの。そのお蔭で本来なら斬首されるところを減刑されて伊豆・韮山の蛭ヶ小島へ流刑となったの。太平寺はその頼朝が命を救ってくれた池禅尼に感謝して、その姪を開山にして創建されたものなの。その後、足利基氏の正室であった清渓尼が中興してからは代々足利家に所縁ある女性が住持となっているの。

次に登場する青岳尼は足利義明の娘ですが、房総の安房で当時勢力を伸ばしていた里見氏の嫡男・義弘に輿入れが決まっていたみたいね。これも政略結婚なのでしょうが、それがどこでどうなったのかは不詳ですが、太平寺の住持となるの。ところが、その後鎌倉に攻め入った里見義弘はその青岳尼を連れ去ってしまうの。仏門の身にあった青岳尼を連れ去るとは義弘は余程惚れていたのでしょうね。その後、還俗した青岳尼は義弘に終生連れ添い、仲睦まじくあったみたい。どんな女性だったのかしら?ちょっと気になりますよね。

以後廃寺となってしまった太平寺跡に紀州徳川家家老・水野重良が寛永年間(1624-1644)に高松寺を創建。石碑には−今の高松寺は−と記載され、昭和6年(1931)記す−ともあるので、その頃は未だ高松寺があったみたいね。その高松寺も水野家の私寺であったことから宮城県へと移転してしまうの。その跡地に建つ来迎寺ですが、建物も近年再建されたもので、往時のよすがを今に求めることは残念ながら出来ないの。

本堂(別途拝観料¥200要)には本尊・阿弥陀如来像が安置されますが、脇侍する木造如意輪観音半伽像は鎌倉期特有の土紋装飾(透彫紋様を粘土や漆を混ぜたもので型抜きしたもの)を施したもので、県重要文化財に指定されているの。如意輪観音は法輪(仏の教え)に依り衆生の願いを叶え、苦を救い、とりわけ財宝を施すことで衆生に物心両面の利益を与えて下さる−という有り難い仏さまなの。京都・広隆寺の半伽思惟像のように頬に第一手右手を頬に添えているの。仏さまは男女の区別は無いのですが、この来迎寺の如意輪観音は優しいお顔に加えて、その優美な土紋装飾からくるのでしょうか、女性的な面持ちなの。寺伝にはその如意輪観音像に纏わる悲しい逸話も残されているの。

むか〜し、昔、由比ヶ浜に住む長者に一人娘があったのじゃが、浜で遊んでおった時のことじゃ。娘の頭上に大きな鷲が現れたかと思うとそのまま娘をさらっていってしまったそうじゃ。八方を必死で探し回る長者じゃったがその内娘は変わり果てた姿となって見つかったそうな。嘆き悲しんだ長者は娘の遺骨をこの如意輪観音さまの胎内に納めて供養したそうじゃ。何でも娘の遺骨は今でもこの寺に残されておるそうな。

来迎寺には他にも頭痛・腰痛・眼病に霊験灼かと云われる跋陀婆羅尊者像があるの。通称、自休さまと呼ばれ、実は、あの歌舞伎でも有名な稚児ヶ淵伝説の主人公だとも云われているの。その稚児ヶ淵伝説が気になる方は「鎌倉歴史散策番外編−江ノ島」の 稚児ヶ淵 の項を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

14. 八雲神社 やくもじんじゃ

神社 来迎寺門前左手に建つ神社がこの西御門八雲神社。普通ならそのまま通り過ぎてしまうところですが、鳥居にワカメが掛けられているのが目に留まったの。傍らに建てられた案内板に依ると、鎮座の由来は不詳とのことですが、素戔鳴尊を祭神とする社とありました。八雲と冠し、祭神は素戔鳴尊を祀り、更にワカメとあることから島根県の日御碕神社を思い出しますが、末社なのかしら。出雲から遠く離れた鎌倉の地で意外なものに出遭いました。

ワカメ 鎌倉の地で「め刈神事」が行われるとは聞きませんがどうなのかしら。単にξ^_^ξが知らないだけ?日御碕神社や「め刈神事」が気になる方は出雲紀行の 日御碕神社 の項を御笑覧下さいね。ここでは門外漢のξ^_^ξが憶測のもとに記述していますので、とんでもない誤りをしているかも知れませんので、間違いがありましたら御指摘下さいね。

参道脇には御覧のような 庚申塔 が三基並んで建てられているの。前述の覚園寺近くにある庚申塔よりも青面金剛像の輪郭がはっきりしているの。元々の青面金剛は病を流行させる神だったのですが、祟りを畏れて祀られるようになると病魔悪鬼を辟除する神に変身し、道教を源とする庚申信仰と融合して主尊となるの。像の下部には三猿が彫られていますが、三猿と云えば日光東照宮(栃木県)が有名ですが、彫師・左甚五郎が活躍したのは江戸時代のことね。

庶民の間で庚申信仰が隆盛をみるのは室町時代以降のことですが、元々は干支の申から猿に転じ、後に三尸になぞらえて三猿となったの。天帝に罪業を報告されてはたまらないわと−見ざる(猿)、云わざる(猿)、聞かざる(猿)−が描かれるようになったの。庚申信仰は庶民信仰ですので、地域や時代でその形態や信仰対象の尊像なども形を変えますが、八雲神社にある庚申塔はその代表的な作例といったところかしら。画面右手の正面金剛の左手に御注目下さいね。

15. 鉄の井 くろがねのい

八雲神社の見学を最後に二階堂散策を終えてJR鎌倉駅へと向かいました。八雲神社からは来た道を戻り、金沢街道に出ましたが、道なりに鶴岡八幡宮に向かい、小町通りに折れるところにあるのが鎌倉十井の一つに数えられる鉄の井。江戸時代にこの井戸から鋳鉄の観音像が出てきたことから名付けられたとのことですが、その観音像は頭部だけでも1m強あったというのですから驚きよね。傍らの石碑には次のように記されているの。

鎌倉十井の一つなり 水質清冽甘美にして盛夏といえども涸るることなし 往昔此井中より高さ五尺餘りの首許なる鐡観音を掘出したるにより鐡井と名付くといふ 正嘉2年(1258)正月12日丑の剋 秋田城介泰盛が甘縄の宅より失火し 折柄の南風に煽られ 火は薬師堂の後山を越え寿福寺に到り 郭内一宇も残さず焼失せしめ 餘焔は更に新清水寺 窟堂若宮寶蔵 同別當坊等を焼亡せしめたること東鑑に見えたり 此観音は其の火炎にかかり土中に埋もれしを掘出したるものならん 尊像は新清水寺の観音と傳へ 後此井の西方なる観音堂に安置せられしも 明治初年東京に移せりといふ 昭和16年(1941)3月建 鎌倉町青年團 〔 一部修正加筆 〕

新清水寺に安置されていた頃には当然胴体もあったはずよね。それが何故頭部だけがこの井戸に投げ込まれていたのかしら?それに観音さまを普通そんなところに投げ込んだりするかしら。当時の神仏を敬う気持ちは身分の上下を超えて今よりも遙かにあったでしょうに。残念ながら碑文にはその疑問に応えてくれる記述が無いの。知れば知るほど謎めいてくるエピソードよね。

それにしても鋳鉄製の仏像とは珍しいと思うのですが、当時の鎌倉では行合川河口辺りで砂鉄が採取されていたというので、その砂鉄で造られたものなのかしら。その観音さまですが、明治9年(1876)に東京・人形町にある大観音寺に移されて現在に至っているの。なぜ、大観音寺に遷座されたのかも不詳ですが、その観音さまを見てみたいの−という方はお出掛けになってみては?但し、毎月17日のみの開帳と聞きますので注意が必要ね。現在は都の指定有形文化財にも指定されているの。
補:行合川は江ノ電・七里ヶ浜駅近くを流れているの。


その鉄観音が遷されたと云う大観音寺 東京都中央区日本橋人形町1-18-9 を訪ねてみたの。残念ながら御尊顔を拝することは出来ずに終えてしまいましたが、遷された経緯を知ることが出来たの。それだけでも収穫あり−と云うことで、紹介してみますね。

ビルの谷間で今にも消え入りそうな佇まいの大観音寺ですが、お察しのように、寺号は本堂に祀られる鋳鉄製の観音菩薩像に由来するの。頭部だけの観音さまですが、それでも高さが170cmに、幅は54cmもあるの。紹介したように、この観音さまは元々は鎌倉の新清水寺に祀られていたもので、造立当初は勿論ちゃんとしたお姿をされていたの。源頼朝の側室・北条政子は京都の清水寺に倣い、鎌倉の地に新清水寺を創建したのですが、正嘉2年(1258)の1/17に発生した大火で悉くが灰燼に帰してしまうの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納

【吾妻鏡】には−丑の刻 秋田城の介泰盛の甘繩の宅失火す 南風頻りに扇き 藥師堂の後山を越え壽福寺に到り 惣門 佛殿 庫裏 方丈已下郭内一宇も殘らず 餘炎新清水寺窟堂竝びにその邊りの民屋 若宮寶藏 同別當坊等燒失す−と記され、本尊として祀られていた観音像だけが寺僧の手で持ち出されて井戸の中に難を逃れたの。その後は新清水寺も再建されることもなく、観音像も忘れられてしまったのですが、江戸時代に井戸が掘り返された際にお顔だけが発見され、畏怖した里人達は鉄観音堂を建てて祀ったの。それが明治期になると廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、観音さまは再び不運に見舞われるの。何と観音さまは由比ヶ浜に捨てられそうになったの。それをすんでのところで救い出したのが人形町に住む石田可村、山本卯助の両人なの。船で蔵前まで運び、明治9年(1876)に堂宇を建立して安置したの。

開帳日(毎月17日)に合わせて出掛けてみたのですが、残念ながら御尊顔を拝することは出来ませんでした。と云うのも、観音さまは御簾にお隠れの上に、前立像に遮られて本堂の最奥部に祀られているの。遍く慈悲の光で世界を照らす観音さまと雖も、ξ^_^ξのような不信心な輩には御簾を上げて微笑んではくれないみたいね。グリコのオマケで門前の景観をお届けしますね。

大観音寺 百度石 防火井戸 路地

16. 鎌倉五郎本店 かまくらごろうほんてん

鉄の井を後にして鎌倉駅へと向かいましたが、その小町通りには民芸品や和菓子などを扱う土産物店がひしめいているの。中でもξ^_^ξのお気に入りが鎌倉駅寄りに位置する鎌倉五郎本店の栗どらなの。普通、どら焼きというと小倉餡ですが、ここの餡は小倉クリームなの。大粒の栗入りで餡にクリームを加えたことで甘さ控えめの上品な仕上がりになっているので、甘い物が苦手な方にもお薦めの逸品よ。1個¥200ですのでお求めになってみてはいかが?その大きさにびっくりされると思いますよ。※ごめんなさい。紹介した栗どらですが、販売中止になってしまったの。あのお値段では採算がとれなくなってしまったのかも知れないわね。※


当初の予定では、二階堂・西御門界隈の散策を終えた後に小町、大町を訪ね歩くつもりでいたのですが、時間切れで断念したの。京都の歴史遺産が1,200有余年の時の流れの中で醸成されて来たのに対し、鎌倉が政治経済の中心地であったのは僅かに150年程のことなのに、京都に負けない位の歴史遺産が密集しているの。関東武士が馬に股がり、明日の生死さえ知らずして、それこそ流鏑馬のように駆け抜けた時代。神仏に多くの救いを求めたのでしょうね。遙かなる時を経た今も人の世の儚さが垣間見え、訪れる旅人の心を捉えて離さないのかも知れませんね。多くを紹介することが出来ませんでしたが、この頁が皆さんのお出掛けの際の一助となれば幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
実業之日本社刊 鎌倉なるほど事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
有隣堂社刊 三山進著 太平寺滅亡−鎌倉尼五山秘話
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
光文社刊 青木登著 人力車が案内する鎌倉
講談社刊 週間 TIME TRAVEL 再現日本史 平安3
講談社刊 週間 TIME TRAVEL 再現日本史 平安6
各社寺拝観時に頂戴、若しくは買い求めた栞・パンフレット






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