≡☆ 鎌倉歴史散策−北鎌倉編 ☆≡
 

′03の夏は気象庁観測史上でも稀な冷夏−ということで、曇りがちの空模様が続き、灼けつくような陽射しも無いまま。そんな天候のせいもあってどこにも出掛けようという気にもならず、ひと夏が過ぎ去ろうという頃になり、過ぎ行く夏を惜しんで近場の鎌倉散策に出掛けてみたの。鎌倉は以前にも訪ねてみたことはあるのですが昔のことでもあり、通り一遍の物見遊山で終えていましたので、今回は時間を掛けてのんびりと歩いてみたの。

北鎌倉の古刹めぐり

1.JR北鎌倉駅 きたかまくらえき

北鎌倉駅 北鎌倉は鎌倉散策のもう一つの玄関口でもあるの。鎌倉駅の賑わいに較べて、古都鎌倉の名にふさわしい風情を以て旅人を迎えてくれるの。列車を降りて改札に向かう途中には旧漢字で書かれた駅標なども展示されていましたが、横須賀線の歴史が偲ばれるの。調べてみると、北鎌倉に住む方々から大正15年(1926)に夏期簡易停車場設置願が出されたのを受けて、駅が仮設されたのは昭和2年(1927)のこと。北鎌倉を訪れる方々も以前にも増して多くなり、3年後の昭和5年(1930)には正式な駅として開業しているの。

鎌倉駅寄りのホーム端には小さな改札口があるの。円覚寺へお急ぎの方はその改札口を経て道なりに進んで下さいね。But 最初はバスに乗り、建長寺へ行きたいの−という方は、駅前にバス停があるので、正規の改札口へお廻り下さいね。

2. 円覚寺 えんかくじ

参道 改札を経て横須賀線の線路に並行して走る鎌倉街道を建長寺方面に向かうと、程なく左手に円覚寺の参道入口を示す石標が見えてくるの。御覧のように、何と!ここでは参道の途中に踏切があるの。何でも円覚寺の住持が横須賀線の線路敷設の際に境内の通行を許したそうで、参道を横切り、境内の中を電車が走るというのは全国的に見ても珍しいのではないかしら?下掲は踏切側から鎌倉街道を返り見たものだけど、この小さな石橋が架けられているのが白鷺池になるの。

白鷺池 この池には、鶴岡八幡宮の祭神が白鷺に姿を変えて円覚寺開山の無学祖元をこの地に導いたとする逸話が伝えられているの。But 由緒ある池でありながら手入れもされずに放置されているようで、鬱蒼とした雑木に遮られ、今となってはとても白鷺が飛来出来るような状況では無いの。欄干に腰掛けて、水面から顔を覗かせた亀を見ながら当時の景観を思い描こうとしてみたのですが、いきなり踏切の警鐘が鳴りだしたりして。残念ながら往時のよすがを今に求めることは出来そうにないわね。

横須賀線が敷設されたのは明治22年(1889)のことですが、当時は世を挙げて富国強兵策に邁進していた最中なの。軍港・横須賀と大船とを結ぶ軍用路線の敷設には、円覚寺の法威を以てしても抗し難いものがあったのでしょうね。線路敷設の際にはこの白鷺池も半分程が埋め立てられてしまったの。門前の鎌倉街道も元々は円覚寺の境内地でしたが、明治43年(1910)に県道として貸与しているの。その頃は二基あったという外門も未だ残されていたのですが、その外門も関東大震災で倒壊してしまったの。境内を横須賀線のみならず、県道までもが走る景観を、無学祖元が見たら腰を抜かすかも知れないわね。

門前 弘安5年(1282)に創建されたこの円覚寺は、鎌倉幕府8代執権北条時宗が文永及び弘安年間の二度に亙る元寇の役で戦死した両軍兵士の霊を弔うために、宋より招いていた高僧・無学祖元(仏光国師)を開山として建立したもので、造営の際に、地中より円覚経が納められた石櫃が現れたことから円覚寺と命名されたと云われているの。時宗が自軍だけでなく、蒙古軍兵士をも対象に出来たのは、偏に禅宗に帰依していたからでしょうね、きっと。拝観料:¥200

総門 時宗は父の時頼が禅宗に帰依していたことから、小さい頃より建長寺の開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や兀菴普寧(ごったんふねい)に師事していたみたいね。無学祖元はその時宗に招聘されて、弘安2年(1279)に来日しているの。ところで、無学祖元の無学をそのまま受け取ってはダメよ。ここでは、これ以上学ぶべきことが無い−の意なの。その無学祖元には次のようなエピソードが残されているの。無学祖元が未だ宋の能仁寺にいた頃のこと、蒙古軍に攻め込まれて斬られようとした際に「喜び得たり 人空にして法亦空なることを 珍重す大元三尺の劍 電光影裏春風を斬る」と一喝し、感心した蒙古兵はそのままその場を立ち去ったと伝えられているの。

三門 悟りを開いてみれば人も空であり、万物もまた然り。自慢のその大元三尺の剣で我が首を斬るがよかろう!斬ってみたところで稲妻疾る瞬間に春風を切るようなものじゃろうて−と云ったところかしら。斬れるものなら斬って貰おうじゃねえかと云わずに「電光影裏春風を斬る」と諭すあたりが高僧の高僧たる由縁ね。そんな無学祖元に蒙古軍の再来を前にして時宗が教えを求めますが、無学祖元は「煩悩すること莫れ」と諭すの。早い話しがガタガタ騒ぐんじゃねえ!ですね。上記のエピソードを持つ無学祖元ならではの助言に、時宗も大いに安らぎを得たことでしょうね。

山門 鎌倉五山第二位の円覚寺は臨済宗円覚寺派の総本山。北条氏の後盾を得て興隆し、夢想国師が住持となった最盛期には42院もの塔頭が建ち並ぶ大伽藍となるのですが、災禍に依り、現在残るのは僅か18院ほど。後世に再建された堂宇が多いのですが、それでも大寺の風格を今に伝えているの。荘厳な佇まいをみせる山門が、俗人の入境を拒むかのような威圧的とも思えるスケール感で迫りますが、前述の円覚経が入った石櫃が現れたのはこの基壇部分からなの。因みに、今ある三門は天明3年(1783)に再建されたものだそうよ。

山門 ところで、山門は三門と記載されることもあるけど、禅宗では三門とするのが本当は正しいの。三門とは解脱に至る際に潜ぐらなくてはならない、空門・無相門・無願門の三つの法門を指しているの。道理で門を潜らずに迂回してしまった訳よね、思いっ切り俗人のξ^_^ξは無意識の内にも畏敬を感じてしまったみたい。尤も三門を潜ぐったからと云って直ちに解脱が得られる訳では無いのですが、仏殿(=涅槃)を参拝するには解脱門の象徴たる三門をくぐるのが作法というか、常識だったのね。皆さんはこの三門を潜り抜けた上で仏殿に御参り下さいね。

柏槇 威風堂々とした三門の先には仏殿があるのですが、訪れた時には修復工事が行われていたために見学が出来なかったの。防塵布で覆われて、見えるは屋根だけでしたので、掲載出来る写真もありませんので御了承下さいね。その仏殿の手前には左掲の柏槇(びゃくしん)が植栽されていたの。大分老木のようで、蘇生外科治療中ということでしたが、数百年の時を経た今も花を咲かせる、その生命力にはただただ感心させられるわね。

柏槇ですが、方丈の前庭にもあり、円覚寺のみならず建長寺や浄智寺でも見掛けたの。禅宗と柏槇に何か関係でもあるのかしら−と、調べてはみたのですが、左掲にある「庭前柏樹子の禅問答」あたりがその由来となっているのかしら。

選仏場 仏殿の左手にある小さな堂宇が選仏場なの。この場合の仏とは悟りを開いた人のことで、建物はそのための座禅道場になっているの。堂内には運慶作と伝えられる薬師如来立像が安置されているのですが、俗世間に浸りきったξ^_^ξには、俗人の入堂を阻むかの如く威光を放っているようにも見えるの。But 禅宗寺院の円覚寺には座禅道場としての堂宇が他にもあるのですが、物見遊山の一般参詣客が修行の厳しさを窺い知ることが出来るのはこの選仏場だけなので、忘れずにお立ち寄り下さいね。

居士林 居士林 居士林

選仏場の隣にあるのがこの居士林(こじりん)で、在家信者らの座禅道場になっているの。木々に覆われた風情ある佇まいに魅せられますが、建物自体は元々東京・牛込にあった柳生流の剣道場を移築したもので、寄進者の柳生徹心居士の名に因み命名されたものなの。座禅道場ということで一般公開はしていませんが、土・日曜には座禅会が催されているので、志のある方は参禅されてみては?その居士林の佇まいに魅せられてレンズを向けていると、さりげない龍隠庵の案内板が目に留まったの。頂戴してきた栞にも何の記載も無く、どんな塔頭なのかしらと気になり、足を伸ばしてみました。下掲がその龍隠庵に至る道すがらの景観ですが、風情ある佇まいの参道よね。

寸景 寸景 寸景 寸景

岩窟 岩窟 石段を登った先には二庵がありましたが、一方は朽ちかけた茅葺き屋根にビニールシートが掛けられ、殆ど廃寺の印象でした。何の案内も無く、如何なる云われのある塔頭なのかは分かりませんでしたが、その裏手には御覧の岩盤が立ち塞がっていたの。岩窟が所々に掘られていますが、鎌倉では良く見掛ける洞窟墳墓みたいね。嘗ては供養塔なども建てられていたのかも知れないわね。

寸景 一方の龍隠庵は手入れもされていて、庭先からは御覧のような展望が開けるの。手前に見えるのが選仏場で、奥に見える屋根が仏殿になるの。視線を右に振ると、松嶺院の屋根越しに三門も見えて来るの。残念ながらその松嶺院も屋根の葺替工事中でしたので、写真も撮らずに終えているの。さすがに、この龍隠庵に足を向ける方はいらっしゃらないみたいね。But ξ^_^ξイチ押しのお薦めポイントよ。円覚寺拝観の折りには、是非足を伸ばしてみて下さいね。

前庭で暫し佇んでいましたら、炎天下にも関わらず、雑草を抜き取るなどして、庭の手入れをされている方がいらっしゃいました。聞けば、大磯から週末毎にやって来てはこの庵に起居して手入れをされているボランティアの方だそうで。御本人はただ好きでやっているだけだ−と謙遜なさっていましたが、誰に命令されるでも無く、日頃の喧噪を忘れて、こうして庵の手入れをしていると心休まるひと時が過越せるのが何よりも楽しい−と仰っていました。初老を迎えられた方でしたが、会話が弾んで30分以上も立ち話をしてしまいました。夜には庵から満天の星が輝くさまが見えて、自然との一体感が実感できる瞬間であり、円覚寺は身近な存在でもある−とも仰っていました。戒律の厳しい禅宗寺院の円覚寺ですが、清い心根を持った方には殊の外優しいの。

勅使門 居士林から100m程歩くとあるのが方丈で、唐破風の勅使門がその入口になるの。霊柩車の屋根みたい (^^; だけど、両扉に彫られた昇り龍など、見事な透かし彫りが随所に施されているの。方丈の呼称ですが、インドの維摩居士の居室が方一丈であったことに由来するとのことですが、6畳の部屋が最大級という狭い我が家の住人のξ^_^ξには寧ろ広すぎて落ち着かない空間ね。今は住持の居室というよりは、檀信徒の座禅道場として利用されているのだとか。

方丈の庭には柏槇の大樹がありますが、円覚寺の開祖・無学祖元が宋から持ち込み、お手植えされたものだそうよ。創建時の堂宇の尽くが災禍で損壊した中で、この柏槇だけは倒れずに今日に至っている訳で、云わば円覚寺の今昔を知る貴重な生き証人。どんな思いで時代を見据えて来たのかしらね。

石仏 前庭左手には百観音の石像群が塀に沿って建てられていたの。江戸時代に拙叟尊者(せっそうそんじゃ)という方が域内に岩窟をうがち、百体ほどの観音石像を祀ったことに由来するそうですが、明治期になり、洪川禅師が発願して新たに刻んだ観音像が加えられているの。元々は松嶺院にあったものですが、後にこの方丈の庭に移設されてきたの。いずれの観音さまも優しいお顔をされているのですが、写真の石像は他に較べて比較的新しいもののように見えるので、その洪川禅師が彫られたものかしら。

庭園 方丈の裏側には御覧のような枯山水式の庭園が広がっているの。スギゴケかしら、無知なξ^_^ξには分かりませんが、緑色の絨毯でも敷き詰めたように、風情ある佇まいの庭園になっているの。こちらの庭園も手許の栞には記載が無いので無名なのかも知れませんが、個人的には京都・龍安寺の庭園よりも好みよ。エッ?即物的な見方しか出来ない輩には龍安寺の庭園の良さは分からないって?(^^;

参道を挟んで庭園の反対側にあるのが夢窓国師作庭と伝えられる妙香池。創建当時からある池だそうですが、当初のものからは大分形を変えていたみたいね。今の妙香池は江戸時代初期に描かれた絵図に基づいて近年復元されたものだそうよ。虎頭岩と呼ばれる岩が対岸に見えるけど、虎に見えるかしら?位置を変えてみたのですが、ξ^_^ξには一向に虎には見えなくて。強いて似せるとすれば、伸ばした首を思いっ切り左に振ってみた亀といったところ。直感的な視覚でしか理解出来ない凡人には、禅の世界観は殊の外難しいわね。参禅して修行を積めば、亀も虎に見えてくるかしら。(^^;

妙香池 左掲は正続院前からの妙香池の景観ですが、正面から見るよりも風情ある佇まいを見せてくれるの。未だ8月の終りだというのに、植栽されたモミジも心持ち紅葉しているかのように見えましたが、紅葉せずともそんな色合いの葉をした種類のモミジかも知れないわね。ただ枯れてるだけじゃないのお〜 (^^; とは同行の評ですが、ξ^_^ξにはそうは見えないのですが、ホントはどっち?どちらにしても、紅葉期には見事な色彩に埋まるのではないかしら−と大いに期待出来そうな景観よね。

正続院 正続院にある舎利殿は元々鎌倉尼五山の一つであった太平寺(現在は廃寺)にあったものを移築したもので、室町時代に建てられた唐様建築としては現存する最古の建物で、国宝にも指定されているの。古都・鎌倉というイメージからすると当然の如く、国宝やそれに準じた建物が多いのでは?と思ってしまいますが、焼失や倒壊の憂き目に合い、実際には後世に再建されたものが殆どなの。かと云って、古都・鎌倉の魅力が損なわれる訳では決して無いのですが、ちょっと意外な感じがするわね。

院内にある舎利殿には源実朝が宋の能仁寺から拝領したものと云われる仏舎利が安置されているの。仏舎利とはお釈迦さまの遺骨のことですが、ここの仏舎利は他と違い、歯!なの。なので、ここでは敢えて仏牙舎利と呼んでいるの。仏牙舎利は仏舎利の中でも更に価値が高いというか貴重品。何でも源実朝の夢の中に現れたことからその入手に固執したようですが、こんな貴重品が日本にあるのは一重に彼の霊夢のお蔭よね。それにしてもお釈迦さまも入滅後にこうして自分の骨が世界各地に散まかれることになるとは思ってもみなかったでしょうね。(^^;

残念ながら正続院は関係者以外は立入禁止なの。例年11/3前後の3日間に行われる宝物の風入れ時に限り、特別拝観できますので、興味のある方は機を捉えてお出掛け下さいね。

仏日庵 この仏日庵にある開基廟には円覚寺を開基した北条時宗の御霊が祀られ、廟内にはその時宗を始め、北条貞時や高時の尊像が祀られているの。時宗は学問の神さまとしても崇められていることから、傍らには合格祈願の絵馬なども奉納されているの。受験や資格取得を控えた方は忘れずに御参拝下さいね。But 禅宗に帰依した時宗ですので、その眼はちょっと厳しいかも知れないわよ。拝観料:¥100 お抹茶:¥500

物差 開基廟の左隣にある建物には鎌倉観音霊場第14番札所の延命地蔵尊が祀られていましたが、軒下には御覧の物差が架けられていたの。三門建立の際に使用されたもので、長さ15mはあろうかという大きな物差には、一尺毎に目盛がふられているの。巻尺が無い時代には採寸するのも大分大掛かりだったのね、長さを計るために15mもの物差を振り回しているさまを想像してみて下さい。エッ?物差を動かしたのではなく、切る方の木材を動かした?

廟内の敷地には臥龍の梅や、魯迅より寄贈されたと云う泰山木がありますが、ふと目にした掲示板に張り出されていた標語に思わず唸ってしまいました。蓋し名言よね、これは。ちょっと長いのですが、書き留めて来ましたので皆さんにも紹介しますね。

高い積りで低いのが教養 低い積りで高いのが気位 深い積りで浅いのが知識
浅い積りで深いのが欲望 厚い積りで薄いのが人情 薄い積りで厚いのが面皮(つらのかわ)
強い積りで弱いのが根性 弱い積りで強いのが自我 少ない積りで多いのが無駄
幾ら立派と云われる資格を持っていても教養が伴わなければ半人前。教養の基本は 気配り 目配り 手配り

抹茶 廟所前の一角には緋い毛氈が敷かれたお休み処がありましたので、暫時の休憩をしていたのですが、導師に引率されて巡礼装束姿をしたグループの方々がやって来ると、徐ろに廟前で読経を始めたの。正続院前でも修行装束に身を纏い、尺八を吹かれていた方がいらっしゃいました。四国霊場などは別にしても、観光地にある寺社でそういった光景を眼にする機会は少なくなりましたが、この円覚寺には確かな信仰が今でも息づいているのですね。グループの方々と共に暫し合掌、拝。

白鹿洞 仏日庵を出て黄梅院へと向かう参道途中には白鹿洞と呼ばれる小さな洞窟があるの。伝えられるところに依れば、円覚寺の落慶奉讃で仏光国師が聴衆を前にして説法をしていると、白い鹿の群れが集まる人々に交じり、禅師の法話を聴いていたそうな。その白鹿達が現れ出たのがこの洞窟で、瑞鹿山と云う円覚寺の山号はこの逸話が元になっているの。因みに、瑞とはめでたいことの意。見るとこんなに狭いところからホントに現れたの?と思ってしまいますが、余り深くは追究しないようにしましょうね。白鹿は辺りの山神さま達の変化身だったのかも知れないわね。

黄梅院 仏日庵の霊廟に御霊が祀られる北条時宗ですが、死去する前年に夫人と共に出家をしているの。この黄梅院のある場所には、出家した夫人の覚山尼が夫の菩提を弔うために建立した華厳塔が元々あったのですが、後に足利氏が夢窓国師の塔所として黄梅院を建立したの。窓夢国師と云えば、各地に残る国師作庭の名勝庭園が有名ですが、円覚寺開祖・仏光国師の孫弟子の一人でもあり、当時は仏光派の絶頂期にあったことから後に「七朝の帝師」とも呼ばれるようになったの。禅師は夢窓国師の称号を始め、その死後にも歴代天皇から諡号を授与されてその数なんと七つ。

CoffeeBreak 禅宗と云うよりも、当時は仏教界の頂点に立つ方だったのですね。
諡号七つを掲げてみますが、ξ^_^ξは夢窓国師しか知りませんでした。深い積りで浅いのが知識−ね。
夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師

黄梅院 黄梅院 黄梅院

境内最奥部には聖観音を祀る小堂がありますが、この黄梅院は禅宗寺院の円覚寺にあって、他とはちょっと違う雰囲気にあるの 。塔頭と云うよりも草庵の趣きで、三方を山に取り囲まれて静かな佇まいを見せているの。藤棚があったり、黄梅が植えられていたりするので、季節毎に異なる風情が感じられるのではないかしら。

洪鐘 一通りの見学を終えたところで踵を返したのですが、三門に戻る途中で洪鐘の案内板を見つけて寄り道してみたの。鬱蒼とした木立の中を歩いていると、大きな鳥居が見えて来たので、あれ〜、お寺なのに神社があるの?そう思いながら140段程の石段を登ったのですが、上り切ったところにあったのがこの洪鐘なの。「おおがね」と訓むのだそうですが、ξ^_^ξは「こうしょう」としか読めませんでした。ここでも、深い積りで浅いのが知識−ね。

この階段ですが、僅か140段程の石段なのに結構キツイ階段で、思わずヨイショと掛け声が洩れてしまうの。登りきった時には肩で息していました。日頃の運動不足を実感した次第よ。最後の石段を上った際にはよっこらしょっと。 後からはダメ押しの「太りすぎよお〜、運動しなさいよ」「う〜ん、死んじゃうぅ〜」「平気よ〜、死ぬ訳無いじゃん」(^^;

名鐘と称されるこの洪鐘は、正安3年(1301)に北条貞時が国家安泰を祈願して奉納したもので、関東最大級の大きさを誇るの。鋳造は名工と云われた物部国光の手に依るもので、創建当時のものとして今に残るのはこの大鐘だけとなってしまったの。現在は鎌倉期を代表する梵鐘として、国宝にも指定されているの。

弁天堂 梵鐘の寄進を思い立ち、鋳造を命じた貞時でしたが、何度も失敗してしまい、江の島の弁財天に祈願するよう勧められて七日七夜日参したところ、夢にその弁財天からのお告げがあり、円覚寺塔頭の正続院内の宿龍池から金銅一塊を得た後は鋳造に成功したそうな。その霊験に感謝して弁財天を円覚寺の鎮守として祀り建てられたのが御覧の弁天堂なの。仏法の象徴たる玉を握る雲龍図を見掛けますが、宿龍池の金塊はその玉だったのかしら?

東慶寺 その弁天堂の右脇にあるのが弁天茶屋。テレビの旅番組などでも紹介されて、今ではすっかり有名になりましたが、ここでは名物のところてんが味わえるの。左掲はその茶屋からの眺めですが、見えているのは駆け込み寺の呼称で有名な東慶寺の伽藍よ。眼の前に広がる景観を愛でながら、木々を伝わる風に涼を求めて気を良くしていると、いきなりどこからかガーッと音がして来たのですが、見れば麓の木立を抜けて、横須賀線の電車が通り過ぎて行ったの。
ところてん:¥500 抹茶(落雁付):¥550

暑い最中の散策でしたので冷たい抹茶を頼んだのですが、緑茶に氷を入れただけの安易な作り。氷が溶けるまで待たねば冷たくならず、これで ¥350 とはちょっと高すぎよ。決して営業妨害する積もりはありませんが、140段の階段を登って原材料を運ぶその労力への代償か、はたまた有名になったから多少高くとも客が来ると思ってのことなのかは分からないけど、もう少し誠意を以て提供して欲しいものよね。

柱には「リスに注意」の張紙が。リスと云っても普通に想像するシマリスではなくて、鎌倉ではタイワンリスなの。江の島で飼われていたものが野生化して繁殖したものだそうだけど、ξ^_^ξに云わせると、どぶ鼠と掛け合わせたような出で立ちのリスよ。こんなことを云うと動物愛護団体の方から攻撃されそうですが、お世辞にも可愛いいと云えないわ。それでも姿を見掛けると皆して落雁を与えたりするの。そんなに落雁ばかり喰べてると糖尿病になっちゃうわよ。(^^;

弁天茶屋で一休みしたところで円覚寺を後にしましたが、境内には他にも松嶺院や帰源院など文人達ゆかりの塔頭があるの。松嶺院では有島武郎が『或る女』を執筆し、墓地には往年の銀幕スターの田中絹代や佐田啓二を始め、小津安次郎監督も眠っているの。一方の帰源院には島崎藤村や夏目漱石も参禅したそうですが、いずれも非公開ということで見学出来ないの。松嶺院は春秋のお彼岸時に一般公開され、帰源院は事前の申し込みがあれば参観可能とのことですので、同院へお問い合わせ下さいね。

看板 円覚寺の総門から階段を降りたところで御覧の看板が目に留まったの。朝来た時には無かったので何かしら?と近付いてみると、人力車の案内だったの。なになに、明月院までなら13分の所要時間で¥2,000?、ふ〜ん、意外に安いじゃん。確か京都の嵐山で乗った時には大枚のお金を取られたけど¥2,000ならちょっと試しに乗ってみてもいいよね、でも止めとこうかな−な〜んて考えていると、どこからか俥夫の方が近付いて来て。結局はその営業力に負けてしまいました。(^^;

先ずは走り出す前に記念写真。ξ^_^ξが乗ると軽く100kgを越えちゃうけど大丈夫?と確認してから乗り込みましたが、聞けば人力車だけで80Kgはあるそうで、しめて200Kg。体育会系の体型をした方でしたが、さすがに走り出すと息が荒くなり ・・・。(^^; 乗車してみると意外に視点が高く「すみませ〜ん、人力車が通りますので道を開けて下さ〜い」と俥夫の方が声を掛けると、沿道を歩く方も皆さん避けて下さって。ちょっとした優越感に浸れる瞬間ね。でも、皆さんの視線を浴びてちょっと恥ずかしい気もしましたが。誰もお前なんか見てねえよ!人力車みてんだ!!それはどうも失礼しました。

3. 明月院 めいげついん

明月院 紫陽花寺の名でも知られる明月院は、御存知の方も多いのではないかしら。ξ^_^ξも数年前に紫陽花の咲く頃に訪ねてみたことがあるのですが、北鎌倉駅から延々と続く人の波に最初から驚かされ、ようやく辿り着いてもひしめく見物客で碌に写真も撮れず、這々の体で逃げ出した記憶があるの。けれど、明月院の紫陽花が知られるようになったのは、そう昔のことでも無く戦後のことで、御住職の方がコツコツと挿木して増やしていったのが始まりなの。その紫陽花も今では境内を埋め尽くす程になっているの。

宗猷堂 紫陽花で知られるようになると訪れる人も多くなったのですが、以前は殆ど荒寺の様相を呈していたみたいね。ですが、寺史を紐解いてみると、盛時には仏殿や方丈などが建ち並び、三重塔も建てられていたと云う七堂伽藍を有する大寺だったの。鎌倉幕府五代執権の座にいた北条時頼が、この地に庵を営み隠棲したのが始まりで、最明寺と呼ばれていたのですが、私的な寺院の性格が強く、当初は小規模なものだったの。その時頼の死後に、嫡男・北条時宗が本格的な寺院として装いも新たに禅興寺を建立したの。

石碑 当時はその禅興寺の塔頭の一つに過ぎなかった明月院ですが、関東管領職にあった深谷上杉家の祖とされる上杉憲方に依る開基故に、上杉家の後盾を得て塔頭と雖もかなりの寺勢があったの。その禅興寺もやがて衰微し、明治期には廃絶、塔頭であった明月院だけが残されたの。猛きひとも遂には滅びぬ、権力者達の栄枯盛衰を経て、ここにも諸行無常の響きあり−といったところね。寺史の紹介が終わったところで境内を散策してみましょうね。エッ?寺史なんてどうでも良かった?まあそう仰らずに。(^^;

最初に目にするのがこの「深谷上杉家ゆかりの寺」と刻まれた石碑よ。明月院と上杉家が何の関係があるの?と思われる方が殆どでしょうが、この頁を御読み頂いている方は既にお分かりですよね。周囲の木々に覆われていますので、皆さん、それと気付かずに通り過ぎてしまいますが、気付いてみたところで石碑を見ただけではどんな関係があるのかは分かりませんよね。拝観料:¥300

北条時頼墓所 拝観受付を済ませて左手に折れた道を辿った先に北条時頼の墓所があるの。宝篋印塔に五輪塔の頭を載せたような墓塔になっているの。傍らにある説明書きに依ると、北条時頼は19歳にして鎌倉幕府の執権職に就き、北条家の最盛期を担う一方で、禅宗に帰依して建長寺を開基。30歳にして出家し、この明月院の地にて37歳の若さで生涯を終えた−とあるの。当時の平均寿命がどの位だったのかは分かりませんが、30歳で出家を志すとは若くして大成したのね。その年齢を遙かに越えたと云うのに、相も変わらず、煩悩の大海を漂うξ^_^ξ・・・

紫陽花 左掲は境内に植栽されていた木々を写したものですが、俥夫の方に依ると上がナントカあじさいで、下は鎌倉ではこの明月院の他には一ヶ所でしか見られないと仰っていたナントカと云う樹。(^^; ダメねえ、一度聞いただけでは記憶が残らないの。このナントカあじさいは葉の形こそ違え、紫陽花に似た花を咲かせるそうよ。一方のナントカと云う木ですが、紙が貴重品だった頃には葉の裏側に文字を書いて紙の代わりにしたそうなの。

多羅葉 感心して落ちていた葉を一枚持ち帰りましたが、今では葉も固くなって真茶色なの。何が書かれていたのかは当然読み取れず、紙の有り難さを実感した次第よ。この頁を御読み頂いている方の中で名称を御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。こんなことなら、それこそ、この葉に書いておき、帰ったら直ぐに転記しておけば良かったわね。と云ってみたところで After The Carnival よね。追記:何とかという木は、多羅葉(たらよう)と判明しました。

明月やぐら 俥夫の方に連れられて次に見たのがこの明月やぐら。やぐらと聞くと城郭の「櫓」を思い浮かべてしまいますが、ここでは洞窟墳墓を指すことばなの。鎌倉特有のもので、特に明月院のやぐらは開基の上杉憲方を祀るもので、その大きさは鎌倉最大級と云われているの。手前は露出オーバー、奥は光量不足というトンでもない写真では識別不能ですが、やぐら内の壁面には薬師如来や羅漢像が彫られているの。

開山堂(宗猷堂)を挟んで明月やぐらの反対側に瓶(つるべ)ノ井があるの。岩盤を刳り貫いて造られたもので、内部が水瓶のように膨らんでいることから瓶ノ井と呼ばれるようになったものなの。単につるべ井戸と呼ばずに瓶ノ井とするあたりが鎌倉の鎌倉たる由縁かしら。鎌倉十井の一つに数えられ、現在でも使用出来るものとしては貴重な存在になっているの。三方を山に囲まれた鎌倉ですが、意外にも水質は良くなかったようで、良質の水が得られた井戸を鎌倉十井と呼んでいるの。この後、鎌倉の水質が良くないことを身を以て知ることになるのですが、それは後のお楽しみに。

ところで鎌倉十井って瓶ノ井の他はどこにあるの?と気になる方へちょっと紹介してみますね。北から順に

浄智寺=甘露ノ井、海蔵寺=底脱ノ井、扇ヶ谷=扇ノ井、泉ヶ谷=泉ノ井、雪ノ下=鉄ノ井
ちょっと外れて鶴岡八幡宮北東の、覚園寺=棟立ノ井
鎌倉駅から江ノ島方面に向かった、極楽寺坂=星の井(星月夜の井)
方向転換して鎌倉駅から逗子方面に向かった、名越=銚子ノ井
更に南に下った海岸近くの、飯島=六角ノ井

これだけでは互いの位置関係が分からないわね。
御手数ですが、お手許のガイドブックなどで、地図を参照してみて下さいね。ごめんなさいね、無責任で。

瓶ノ井を後に本堂の紫陽花殿へ。俥夫の方の案内に依ると、裏手には菖蒲園が広がり、開花する頃は見事な景観を見せてくれるそうよ。昇殿して御覧になってみては?と勧められたのですが、その裏庭に向かい、刳り貫かれた円窓の先でうら若き乙女達が静寂を楽しむかのように佇み、お邪魔虫になるのも気が引けて諦めました。(^^;

庭園 左掲の枯山水庭園とは道を挟んで植え込みに沙羅双樹の木があるの。別名ナツツバキと説明書きにありましたが、ホントの沙羅双樹はインド北部を原産とする沙羅の木のこと。元々熱帯地方のものですので、日本の気候には合わず、育たないの。じゃあ、どうしてこのナツツバキを沙羅双樹と呼ぶの?

ナツツバキ それはね、むか〜し、昔、あるお坊さんが話しに聞く沙羅の木が日本にも無いものかと山中を探し歩いたところ、このナツツバキを見つけて、これこそ沙羅の木に違いないと思い、このナツツバキを以て沙羅双樹とするようになったの。白い花を咲かせたナツツバキに沙羅双樹を連想させる佇まいがあったのかも知れないわね。沙羅の木は根元から二股に分かれて生長することもあるので沙羅双樹となるの。尤も二股にならなくても沙羅双樹と呼んでしまってはいるけど。(^^; お釈迦さまの入滅された場所には、四方に2本づつ生えていたと云われているの。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
奢れるものは久しからず ただ 春の夜の夢の如し

嘗ての大寺も紫陽花が無かった頃には廃寺の感あり、まさに【平家物語】の世界ね。

明月院の見学を終えて、再び人力車に乗り込み、東慶寺へ向かいました。聞けば俥夫の清水さんは結婚されていて、既に二児のパパでもあるそうな。人力車を始めて既に3年、身体を張った仕事に連れがひとこと、あなたも見習いなさいよお〜。(^^; 写真は東慶寺前でネット上に掲載することをお断りして撮させて頂いたものですが、ちょっと待って下さい、だらしないと思われると困るので−と居住いを正されて。硬派を地でいく方でしたが、それでも笑うと優しいパパの顔になるの。

北鎌倉を人力車に揺られて観て廻るのも一興ね。全てを観て廻るとなると大枚のお金が入用ですが、気軽に利用出来る短時間コースもあるので体験乗車してみては?普段は円覚寺総門前と鶴岡八幡宮門前の茶房・びせん前で客待ちされているそうよ。気になるお値段ですが、他の人力車に較べると4割程お得になっているそうよ。

円覚寺〜明月院、円覚寺〜東慶寺、円覚寺〜浄智寺の各々13分コース:¥2,000
金額内で2人まで乗車出来ますので、友達同士なら1人¥1,000程で体験乗車出来ますね。
因みに、ξ^_^ξが体験した円覚寺〜明月院(見学案内含)〜東慶寺コースは¥5,000でした。
清水さんを御指名で乗車されたい方は「元祖・鎌倉人力車 有風亭」Tel : 0467-24-3739 へ御予約を。

CoffeeBreak 清水さんの親方でもある青木登さんの本が出版されているの。屋号の有風亭を掲げて鎌倉の地で観光人力車を開業して今年( ′03 現在 )で20周年と聞きます。鎌倉では同業他社も参入して人力車も増えましたが、有風亭はその元祖なの。唯一のお弟子さんの清水さんのことにも触れられていますのでお読みになってみては?
光文社刊 青木登著 『人力車が案内する鎌倉』¥700

4. 東慶寺 とうけいじ

開山は円覚寺を創建した北条時宗の夫人・覚山志道尼。円覚寺の黄梅院のところでも触れましたが、時宗は死の前年に夫人と共に出家しているの。東慶寺はその覚山尼が夫の菩提を弔うために創建したもので、鎌倉尼五山の中で現存する唯一のお寺なの。どんな事情があろうとも女性の側からは決して離縁することが出来なかった時代に、駆込寺、縁切寺と呼ばれて、男運に恵まれない女性達を救った東慶寺。ですが、幾らお寺だからと云って、夫に離縁を認めさせるにはそれなりの権威の裏づけがあってのことなの。開山の覚山尼の子・貞時は9代目の執権職。拝観料:¥100

総門 その貞時に願い出て3年間の修行を経た後には離縁が成立するという縁切寺法が成立。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の頃には鎌倉(松岡)御所として御所寺を名乗り、豊臣秀頼の娘・天秀尼が住持になった時には、幕府への進言を以て会津40万石を取り潰してしまうほど。お蔭で妻に駆け込まれた夫に限らず、夫の住む村の名主も連帯責任を負わされて、それはそれは大変だったみたいよ。離婚調停を司る、云わば裁判所であった訳ですが、その威光に素直に了解する者が殆どで、グダグダと異論を唱えていると脅迫まがいもあったりして、必ず離縁させられたの。

その際の調停費用も勿論夫側の負担。更に夫にその支払能力が無いとなると名主がそれを払わされるはめに。駆け込んだ方には一切の負担を求めぬという徹底ぶり。尤も今で云う慰謝料等は寺入りする際に冥加金として使われ、その金額に応じて使役の格付けがなされてはいたみたいね。

鐘楼 豊臣秀頼を討ち、豊臣家の断絶を企り、その娘をこの東慶寺に放り込んだのが徳川家康。家康の孫娘・千姫は豊臣秀頼の正室でしたが(この娘は千姫の子供では無く養女だったのですが)その千姫の哀願もあったのでしょうね、さすがの家康も幼い女の子の首をはねるのは躊躇われたようで、男子禁制の尼寺であったこの東慶寺に入山させてしまうの。僅か7歳にして尼にさせられた天秀尼が、家康の「何ぞの願いあるや否や」の問いに「開山より今日に到る寺法が絶えることの無きように」と返答したそうな。多分に廻りが云わせたものだとは思うのですが。

金仏 そうして東照権現家康公の絶対的なお墨付を得た東慶寺。その威光を最大限に発揮したのが前述の会津藩40万石の取り潰しなの。当時の会津藩領主・加藤明成は藩の財政を圧迫する城の改修など強行姿勢の政(まつりごと)を家老の掘主水から諫められ対立、やがて身の危険を感じた主水は妻子をこの東慶寺に預けて高野山へ逃げ込むの。けれど、さすがの高野山も彼を庇いきれず、主水は殺されてしまうの。明成はその後東慶寺にも妻子の引き渡しを迫り、男子禁制を破って入境、怒った天秀尼は会津藩を取るか東慶寺を取るかと幕府に迫るの。

当時の将軍・徳川家光は会津藩のお家断絶&領地没収を決定。実際には強権発動される前に明成は自ら返上を願い出たみたいだけど、幕府の意志決定をも左右する寺法だったの。それにしても世に知られた東慶寺の威光を無視して、己が怨念の為に40万石を棒に振るとは愚かな殿様もいたものね。

境内にある資料館・松ヶ岡宝蔵には重要文化財の日記帳や離縁状が展示されているの。日記帳はどんな駆け込みがあったのかを記した文書、離縁状は夫から妻へと渡された離婚同意書で、云わば三行半(みくだりはん)。当時の離縁状が三行半位の長さで文面が書かれていたことからこの異名を持つようになったの。この三行半を速やかに得られた時は今で云う協議離婚成立という訳で、その場合には寺入りせずに直ちに自由放免。一方、強権発動されて離縁した場合には3年間程寺入りして給仕の生活を送らなくてはならなかったのですが、それでも尼さんになる必要は無かったの。なので、期間が過ぎれば再婚も出来、男尊女卑の時代にあってトコトン女性に優しい東慶寺だったの。日記帳も現存するのは2冊だけになってしまいましたが、その記録などから類推して江戸末期の150年間だけでもざっと2,000人余の女性達の駆け込みがあったと云われているの。

用堂尼墓 覚山尼墓&天秀尼墓 境内を更に奥へと歩みを進めるとあるのがこの用堂尼墓。 右の写真は手前に少しだけ映っているのが天秀尼墓で、奥は東慶寺を開山した覚山尼墓。

覚山尼=北条時宗夫人
用堂尼=後醍醐天皇の皇女
天秀尼=豊臣秀頼の娘&千姫(家康の孫娘)の養女

東慶寺の墓苑には小林秀雄、鈴木大拙、高見順、野上弥生子、和辻哲郎など多くの哲学者や文人達が山懐に抱かれるようにしてひっそりと眠っているの。訪ねる際にはその安眠を妨げることの無いようにして下さいね。

5. 浄智寺 じょうちじ

浄智寺 浄智寺は北条宗政(時頼の三男&時宗の弟)が29歳にして夭折したことから、時宗がその菩提を弔うべく夫人と子供の師時を開基として弘安4年(1281)に創建したもので、嘗ては鎌倉五山の第四位に列せられる程の大寺だったのですが、関東大震災の際には堂宇の尽くが倒壊してしまい、現在ある堂宇は後に再建されたものなの。緑に覆われた境内は訪れる人も少なく静かな佇まいを見せているの。拝観料:¥150

甘露の井 総門前にあるのが鎌倉十井の一つ、甘露の井。往時の湧水の勢いがどの程度であったのか知る由もありませんが、仕組まれた竹筒からは流れずに、池端からチョロチョロと湧水が流れ出しているの。嘗ての湧水は鎌倉五名水の一つにも数えられ、浄智寺を訪ね来た北条時宗も喉を潤しながら 甘露、甘露 と宣うたのかも知れないわね。残念ながら今となってはちょっと飲んでみようかしら?などとはとても思えぬ状態になっているけど。

楼門 総門を潜り、緩やかな石段を登ると楼門があるの。尾道ではよく見掛ける楼門ですが、鎌倉では珍しいわよね。階上には梵鐘が架けられ、鐘楼を兼ねているの。浄智寺が建てられた頃は禅宗も盛んで、中国から寺院建築の技工達も多く来日していたので、この唐風建築となったのでしょうね。そう書くと、この楼門が創建当時のものと誤解される恐れがあるので申し添えますが、関東大震災で倒壊してしまい、後世に再建されたものなの。この楼門をくぐった右手には仏殿の曇華殿(どんげでん)、左手には鎌倉一の大きさを誇る高野槙と鎌倉市指定天然記念物の柏槇の巨木があるの。

その曇華殿には室町時代に作られたという阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩の三尊坐像(県重文)が安置されているの。各々過去・現在・未来を象徴し、三仏を拝むことで三世に亙る苦難から救われるそうですので、是非、お参り下さいね。浄智寺には他にも運慶作と伝えられる地蔵菩薩像(重文)があるのですが、残念ながら、現在は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に出張中なの。どうしても見たいの!−という方は鎌倉国宝館へお出掛け下さいね。

観音堂 この曇華殿で奇異に見えるのが裏側にある観音堂なの。独立した建物では無く、曇華殿の裏側に無理矢理嵌め込まれたような造りになっているの。建物脇の崖が崩れてその修復工事の車が停まっていたので、それを避けて上部しか写しませんでしたので判りづらいとは思いますが。堂内には鎌倉第三十一番札所の聖観音像が祀られていますが、庶民の信仰対象としての聖観音を、阿弥陀如来など高位の仏さま達と並べる訳にはいかなかったのかも知れないわね。

横井戸 五輪塔 順路に従い歩みを進めると墓苑に出ますが、その右手最奥部には横井戸があるの。案内に依ると、この横穴は山からの湧水を溜めるために掘られたもので、30数年程前まではコウモリの棲家だったそうよ。中を覗いてみたのですが、真暗で何も見えず、今にもコウモリが飛び出して来そうな雰囲気の洞穴よ。

その横井戸の手前では無数の五輪塔がひしめいていましたが、収入を得るために新たに墓地として造成した際にこの場所に集めらて来たのかしら。立派な墓石が建ち並ぶ墓苑にあって、この一角だけは寂しい風情を漂わせているの。石塔の主達も数百年の時を経て、皆、土に還っていったのでしょうね。

踵を反した所でポンプ付の井戸を見つけてその懐かしさに思わずポンプを押してみたの。二、三度押すと綺麗な水が流れ出し、飲めるんじゃないの?甘露の井がある位なんだからきっと飲めるよ−と飲んでしまいました。額に汗していましたので、ひんやりとした喉越しはまさに甘露の味が。どお?大丈夫?と云う不安げなことばにも、臭みも無いし、なんか水道の水とは違ってまったりとしているような気がする、飲んでみたら−と勧めたのですが、まさか家に帰ってからとんでも無いことになるとは、この時は想像だにしなかったの。

帰宅すると多発の特急列車状態で。くれぐれも皆さんはこの水は飲まないで下さいね。浄智寺の名誉のために申し添えますが、墓前に献花する際の用水で、決して飲料に適すと書かれていた訳ではないの。水質が良く無い鎌倉の地にあり、良質の水が得られたという鎌倉十井ですが、鎌倉の水質が良くないと身を以て知りました。(^^; と云っても、水質が悪かった−というのは、海に近い鎌倉では湧水に海水が交じる場合が多かったことを云うのだそうで、この場合の水質とはちょっと意味合いが違うわね。

涼を得たところで、再び順路を辿って歩き始めたのですが、そのポンプ井戸から程無く、竹林に隠れるようにして狸の置物があったの。何と狸の墓だそうで、置物は云わば墓石といったところ。何でこんな所に狸の墓が?その所縁の程は知る由もありませんが、嘗ての鎌倉は動物達にとっても豊かな森だったのでしょうね。道なりに順路を辿り、岩穴を潜り抜けると再び墓苑に出ますが、その右端にある岩窟に祀られていたのが御覧の布袋さまなの。普通は布袋さまと云うと立派なお腹を想像しますが、ここの布袋さまは意外とスリムよ。

あなたのお腹と大して変わらないわねえ〜 (^^; とは連れの評ですが、ξ^_^ξのお腹を撫でても何の功徳もありませんが、弥勒菩薩の化身と云われる布袋さまのお腹を撫でると金運に恵まれると云われているの。なので、欲深い参拝者の手垢にまみれて布袋さまのお腹も黒光りしているの。さてはて、ホントに腹黒くなったのはどちらやら ・・・

曇華殿にも安置される弥勒菩薩ですが、梵名のマイトレイヤ Maitreya は慈より生じたもの−の意。弥勒は実在の人物で、インドの婆羅門に生まれ、釈迦の弟子となるの。未来に必ず成仏するという授記を受けて今なお兜率天で説法教化しているの。そして、お釈迦さまが入滅してから56億7千万年(!)の後に、この世に姿を現して全ての衆生を救済すると云われ、現在は菩薩であってもその時には成仏することから未来仏と呼ばれているの。けれど、あなたが曇華殿で弥勒菩薩に己が未来の安穏を祈念してみたところで救済されるは悠久なる遠未来のこと。既に地球の組成物の一つに過ぎない分子レベルになってしまっていることでしょう。(^^;

一方の布袋尊ですが、こちらも予知能力に優れていたという契此(かいし)と云う中国禅宗僧侶がそのモデルになっているの。背負った袋には信者から喜捨された品物を入れていたの。袋にはありとあらゆる物が収められていたと云われ、富の象徴だったのかも知れないわね。未来を知ること、則ち富を得ることに繋がり、金運を呼ぶ神として崇められるようになったの。

どちらも実在の人物が伝説化されて、未来仏の弥勒菩薩と布袋尊がいつ頃から結びつけられて考えられるようになったのかは不詳ですが、未来という共通項で繋がっているの。因みに、この布袋さまは鎌倉・江ノ島七福神の一つに数えられているの。

浄智寺脇を通る一本道は葛原ヶ岡ハイキングコースになり、銭洗弁天などを経て高徳院に向かう大仏ハイキングコースにも繋がっているの。大分昔に挑戦してみたことがありますが、かなり起伏も激しくてキツイ道程だったように記憶するの。昔のことゆえ記憶も定かではありませんが、労力の割りには見処も少なく、報われぬ行脚だったようにも思うの。遙かなる時を経て体力に自信も無くなった今は次の目的地である円応寺へと向かいました。

6. 長寿寺 ちょうじゅじ

長寿寺 建長寺に向かう道すがら、お腹空いたわよねえ、どこかで食事でも−と脇見しながら歩いていたところ目に留まったのがこの長寿寺なの。風情ある門構えに誘われたのですが、残念ながら拝観不可!何でも精進料理を予約すれば特別拝観させて頂けるそうな。境内にはあの足利尊氏の墓(頭髪を収めた供養塔?)があるの。見せて貰えぬとあっては観たくなるのが人情ですが、精進料理は一人¥4,600!オマケに5名以上での申し込み要。素直に断念せざるを得ないようね。(^^;

辺りには嘗て足利尊氏の屋敷があり、その跡地に初代関東管領となった足利基氏が父の尊氏の菩提を弔うために長寿寺を創建。御多分に洩れず、嘗ては七堂伽藍を有する大寺だったみたいね。長寿寺に限らず、鎌倉に残る多くの寺院が時の権力者達の菩提を弔うためなど、云わば氏寺とも呼ぶべき性格で創建されたものなの。幕府開設で政治経済の中心地として興隆をみた鎌倉も、室町時代から戦国時代へと移り変わり行く中で、権力者達の後盾を失い、衰微してしまった寺院も多いの。ですが、時の流れを経て大伽藍を失った今でも落ち着いた佇まいを見せてくれるのは、その血脈の良さでもあるの。

7. 第六天社 だいろくてんしゃ

第六天社 その長寿寺を過ぎて建長寺の少し手前にあるのがこの第六天社。傍らに建つ石碑に安部清明の文字を見つけて興味を覚えたのですが、残念ながら此方も立ち入り禁止になっていました。安部清明と云えば昨今話題の陰陽師。平安時代の頃は都からすれば鎌倉の地と雖も魑魅魍魎の輩が住む異郷の地と思われていたでしょうに。その名を見掛けたξ^_^ξは大いに気になり、傍らの説明書を読んではみたのですが、それらしき記述は見つかりませんでした。その説明書き(加藤利雄氏寄稿)に依るとこの第六天社は概ね次のことのようよ。

建長寺の四方鎮守には中央の五大尊と共に東=八幡、西=子神、南=第六天、北=熊野があり、第六天は南側の守護神。仏教では他化自在天と呼び、魔王の如き力を持つと云われ、神道では第六天神に当たる。徳川光圀が記した鎌倉日記にも−円覚寺を出て南行して第六天の森を見る−とあり、現在では建長寺の四方鎮守の中でその位置と沿革が明らかなのはこの第六天社のみ。社殿の形式は一間社流造で第六天像を中心として四方を護持する持国天・広目天・増長天・多聞天の四天王像が安置されている。

第六天はこの上町の氏神さまでもあり、例祭が毎年7/15から7/22にかけて行われるそうですので、その時には建物などの全貌を見ることが出来るかも知れないわね。そうは云っても、この第六天社と安部清明の関係は気になるわよね。どなたか御存知の方、いらっしゃいます?

後髪を引かれるようにして第六天社を後に円応寺へと向かいましたが、朝食もとらずにいましたので建長寺門前のお蕎麦屋さんに入りました。貼り出された−けんちんうどん・そば−につられてけんちんうどんを頼みましたが、ここ建長寺はけんちん汁の発祥の地なの。ある日、修行僧がお豆腐を床に落してしまい困っていると、傍を通りかかった建長寺開祖の蘭渓道隆がそれを野菜屑と一緒に煮込んでみたところ殊の外美味だったの。以来、建長寺汁として親しまれ、呼び名もけんちん汁になったの。

ところで出されたけんちんうどんですが、太い玉うどんを想像していたのですが、パスタみたいに細い麺。個人的には讃岐うどんのような太玉うどんが好きなのですが、創建当時の建長寺に多く在籍していた中国僧にとってはこの細めの麺が普通だったのかしら。禅宗を伝えた彼らですが、うどんや饅頭などの食文化も同時に伝えてくれたの。

8. 円応寺 えんのうじ

円応寺 建長寺を一度通り過ぎて鶴岡八幡宮寄りに200m程歩くと、この円応寺があるの。参道も無く、車道からいきなり石段を登るので、大寺を観た後では少しばかり貧弱に見えてしまうのは否めないの。境内には閻魔堂の他には鐘楼と庫裡しかありませんが、こじんまりとした風情は寧ろξ^_^ξの好むところよ。その閻魔堂では静かに瞑想される方の姿も。道路から左程離れている訳でも無いのに、不思議な静けさが境内を包んでいるの。円応寺は元々は鎌倉大仏のある見越獄(見輿ガ獄)辺りに建てられていたのですが、足利尊氏が由比ガ浜に移築、更に元禄16年(1703)の大地震の被災を経て現在地へ移転して来たの。拝観料:¥200

山門 本尊は閻魔大王なのですが、地獄を牛耳る大王も元禄の大地震にはさぞ驚いたことでしょうね。その大王が祀られる閻魔堂ですが、残念ながら堂内は撮影禁止なの。なあんだ〜閻魔大王を見せてくれないの〜と御不満の方は恐れ入りますが、お御足を御運び下さいね。閻魔大王を本尊に祀る所なんて他に無いんじゃないの?でも何で閻魔さまなの?と不思議に思われた方はしばらくおつき合い下さいね。そんなの、どうでもいいじゃん−という方は次の建長寺へお進み下さいね。

境内 信心深い方でなくとも死後に極楽浄土へ行けるのか、はたまた地獄へ突き落とされてしまうのかは気になるところよね。そんなことをしていると地獄に落ちるよ−なんて今でも耳にしますが、云われた方は一瞬ドキッとしますよね。現在でも地獄ということばには人を恐れさせるに充分なインパクトがありますが、当時は源平の合戦などで多くの血が流れ、幕府が開設されてもなお政権奪取を巡る血生臭い政争が繰り広げられていたの。身内が身内を惨殺する骨肉の争いに、殺す方も殺される方でも死後の地獄行は最も恐れていたの。地獄に堕ちるか極楽に行けるかは閻魔大王に象徴される十王の裁き如何なの。

石仏 その十王を敬うことで安穏を得ようとしたのが十王思想と呼ばれるもので、当時の暗い世情を反映して大いに流行したの。七日毎に七王が亡者の生前の善悪所業を取り調べ、その結果を踏まえて最終的に断を下すのが閻魔大王なの。その間、亡者の魂は極楽へ行くことも出来ず、さりとて地獄に落される訳でもなく、死後の世界を彷徨うことになるのですが、その魂を安らかたらしめ、審判を有利に運ぶために生者が力を貸すべく行われるのが初七日や四十九日の法事なの。生前に善行あらばその死を多くの生者が哀れむはず−と十王達は冥府から娑婆の様子をじっと窺っているの。

鐘楼 ところで十王の裁きってどんなものなの?−という方に。
御一緒に冥府の世界をちょっと覗いてみましょうか。
エッ?縁起でもねえって?まあそう仰らずに。(^^;
※王は仏の化身とされ、( )内はその本地仏を指すの。

初七日−秦広王(不動明王)
冥府の世界であなたが最初に出会うのがこの秦広王。人がこの世に生を授けた時より、その人の両肩には倶生神が宿り、片方の神は悪行を、もう一方の神は善行を生涯にわたり監視するの。あなたの死後に秦広王はその倶生神からの報告を受け、あなたの生前の行いを帳面に記載するのですが、その帳面こそが世に云う閻魔帳なの。この秦広王の判断で、あなたが三途の川のどこを渡ることが出来るのかが決定されるの。川を渡る場所には次の三ヶ所があり、故に三途の川と呼ばれているの。

1. 濁流渦巻く深淵 ‥‥‥ 生前の罪が重い者
2. 川の水が急流をなすところ  ‥‥‥ 比較的罪の軽い者
3. 金銀七宝に飾られた橋 ‥‥‥ 罪を犯さなかった者

罪を犯さなかった者は金銀七宝に飾られた橋を渡り終えるとお地蔵さまに手を引かれてそのまま天上界へと行けるの。ですが、生前に何の罪も犯さない方など先ずいらっしゃらないでしょうね。それでもお地蔵さまに手を引かれて極楽へ行きたいよお〜と云う方は、今からでも決して遅くはありません。日々の行いに善行の限りを尽くしましょうね。そうすれば、お地蔵さまも小指の先位だったら貸してくれるかも知れないわ。(^^;

罪を犯した者は三途の川を渡らなければなりませんが、この時必要なのが渡り賃。地獄の沙汰も金次第−とはここから生まれ出たことばなのですが、お金を払ったからと云って、安穏に川を渡して貰える訳ではないの。川幅は何と300kmに及ぶ巨大な大河で、それこそ数多の苦行難行があなたに襲いかかるの。やっとの思いで川を渡り終えたあなたを次に待ち受けているのが奪衣婆で、あなたの着衣を無理矢理剥ぎ取ると傍らの懸衣翁に渡すの。懸衣翁はそれを衣領樹の枝に掛けてその枝の下がり具合で生前のあなたの罪の軽重を計るの。ところで、奪衣婆は脱衣婆とも記されることから「だついばばあ」と訓む方もいるけど、ここでは「だつえば」と訓んで下さいね。「だついばばあ」では水木しげるの世界になってしまうわ。(^^;

二・七日(14日目)−初江王(釈迦如来)
初江王はあなたの生前の殺生行為を裁くの。釈迦如来の化身ということで、十王の中では一番慈悲深い王ですので、無益な殺生は大罪ですが、生きるための止むを得ない殺生は大目にみてくれるのかも知れないわ。ボーガンの矢が刺さったままで餌をついばむ野鳥の姿などをニュースで見るにつけ、殺伐としたものを感じてしまう昨今ですが、そんなことをすれば間違いなく初江王の逆鱗に触れるわ。※円応寺の初江王像ですが、現在は鎌倉国宝館に出張中よ。

三・七日(21日目)−宋帝王(文殊菩薩)
あなたが次に裁かれるのが邪淫の罪。宋帝王は化け猫と大蛇を使い、あなたの罪を裁くの。あなたに邪淫の罪あらば化け猫が身体を裂き破き、大蛇に縛り上げられて骨が砕かれてしまうの。

四・七日(28日目)−五官王(普賢菩薩)
五官王の前に押し出されたあなたが次に裁かれるのが目・耳・鼻・舌・皮膚の五官で犯した罪。自分を褒める一方で、他人の過失や罪過を責めたりしてはいけないの。五官王は妄言誹謗だけでなく飲酒の罪も裁くの。う〜ん、これは困りましたねえ。お酒飲んじゃいけないの?(^^;

五・七日(35日目)−閻魔王(地蔵菩薩)
そして、冥途を代表する閻魔大王のもとへと送り出される訳ですが、意外なことに罪を裁く側にありながら、閻魔大王にも大きな苦しみがあるの。大王の罪は何かといえば亡者の罪を裁く罪。日に三度大銅钁(だいどうかく)が現れると、それまで大王に仕えていた獄卒や亡者が謀反、真赤に焼けた鉄板の上に大王を傅かせ、その口をこじ開けてドロドロに溶かした灼熱の銅を流し込むの。その時の苦しみは亡者の比ではないの。そのために大王は喉から腸に至るまで焼け爛れているの。そんな大王の望みは亡者が生前に罪を犯さぬこと。そうすれば大王とてそのような苦しみを味わう必要も無いの。

六・七日(42日目)−変成王(弥勒菩薩)
閻魔大王から六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)の幾れに輪廻転生することが出来るか決定されたあなたは、変成王から転生する場所を決められるの。猫に生まれ変わって御主人さまの膝でゴロニャ〜ンしていたいの、否、どこにでも好きな所に行ける犬の方がいいや−と思ってみても、優しい飼い主に出会えるかどうかは閻魔大王と変成王が決めること。野良猫や野良犬として生まれ変わってしまったらどうしようかしら。エッ?その前に地獄に堕ちるかも知れない?(^^;

七・七日(49日目)−泰山王(薬師如来)
罪過の裁きを経た後に、泰山王からは輪廻転生の際に、あなたは男女どちらで生まれ変われるのかが決められるの。この時にあなたの寿命も決定されてしまうの。因果応報ということで、前世でどんな行いをしたのかが重要なの。男女をどう判断するのか不詳ですが、今度生まれて来る時には男に生まれてきたいわ!、いや、絶対女の方がいい!と云ってみたところで、その望みが叶えられるかどうかは前世の行い次第。尤も、その前に人間として生まれ変われるかどうか、そっちの方がもっと心配。(^^;

この後更に百ヶ日:平等王(観世音菩薩)、一周忌:都市王(勢至菩薩)、三回忌:五道転輪王(阿弥陀如来)と続くの。更に、十王達の裁きを経た後も七回忌には蓮上王(阿閦如来)、十三回忌には抜苦王(大日如来)、三十三回忌には慈恩王(虚空蔵菩薩)が亡者の縁故者を監視しているの。ですので善行を積み重ね、節目節目には亡者の生前の善行を慮って追善供養をする必要があるの。お墓参りの際に十三回忌追善供養などと書かれた卒塔婆を目にしますがこのことなの。因みに、亡者は何を食しているのかお分かりですか?答えは香りよ。なのでお供え物は生前に好きだった香りを発するものを供えるのが本来の形で、その代わりがお線香なの。香典も元はこの香りを供えることを指していたの。お金じゃ無かったのね。

閑話休題。お話しが思いっ切り横道に逸れてしまいましたが、円応寺の閻魔大王座像は運慶作とも伝えられ、国の重要文化財にも指定されているの。その運慶ですが、面白い逸話がありますのでちょっと紹介してみますね。

頓死した運慶は閻魔大王の前に引き出されたのですが、生前の見事な彫刻の腕前を知っていたのでしょうね。−汝、生前の慳貪心深き者なれば地獄に堕つるべし。なれど我が身を彫像し、見る者悪行之を戒め、善縁に赴くとあらば汝今一度命得たるべし−と云ったとか。そうして再び生を得た運慶が、喜びながら彫ったのがこの閻魔さま。なので、強面の閻魔大王もどことなく笑っているようにも見えるの。※慳貪心(けんどんしん)= 物を出し惜しみし、欲深いこと。

この閻魔大王像の前で合掌しながら三度唱えると、今まで犯した罪が許されるという懺悔文が頂いた栞に記載されているの。悪いことなんてしてないわよ〜と云うあなたも、気付かぬ内に罪を犯してしまっているかも知れないの。是非、御参詣の上で閻魔さまの御前にて懺悔文の御奏上を。(^^;

9. 建長寺 けんちょうじ

建長寺は鎌倉五山第一位に序する名刹で、臨済宗建長寺派の大本山。巨福山建長興国禅寺が正式名称で、禅寺を号する日本最初の禅宗寺院なの。禅宗に深く帰依した北条時頼が蘭渓道隆を招いて建長5年(1253)に創建したもので、当時の伽藍は総門・三門・仏殿・法堂などを直線上に配置する禅寺特有の様式を採り入れ、嘗ては49院もの塔頭を有する大規模なもの。その後幾度かの火災に依り多くの堂宇が焼失してしまったの。残念ながら開創750年を経て大規模な修復工事が境内の随所で行われていましたので、落ち着いた雰囲気の中での参詣という訳にはいきませんでしたが、広大な敷地の境内や、再建された三門などに往時の壮観が偲ばれるの。

総門 この総門は天明3年(1783)の建立と古いのですが、元は京都・般舟三昧院にあったものを昭和18年(1943)に移築したものなの。お出掛けの際には掲げられた巨福山の扁額に御注意下さいね。当用漢字にはないので表示出来ませんが、巨の文字に御注目下さいね、棒が一本多いの。臣から上の縦棒を一本無くしたような文字になっているの。栞に依ると、巨に筆勢による一点を加えて百貫の価を添えたもので、故に百貫点と呼ぶのだとか。ホントに意識してたのかしら?(^^; 拝観料:¥300

三門 拝観受付を済ませて振り返ると壮大なスケールの三門が参詣者を圧倒するの。円覚寺の項でも触れましたが、三門は三解脱門。安永4年(1775)に再建されたもので、階上には五百羅漢が祀られるというのですが、残念ながら登楼出来ず非公開なの。何でも、この三門の建立時には寺域で育てられた狸がその恩義に報いようと、僧侶に化けてその再建を手伝ったことから狸の三門とも呼ばれているのだとか。だったら最初から三門に化けりゃあいいじゃん ...(((^_^)

鐘楼 その三門脇に佇む鐘楼ですが、三門の大きさに圧倒された目には殊の外小さく見えてしまうわね。ですが、その鐘楼に架かる梵鐘は名工・物部重光の手になるもので、建長7年(1255)に鋳造されたものなの。国宝にも指定され、大船・常楽寺の梵鐘、円覚寺の洪鐘と共に鎌倉三名鐘の一つにもなっているの。どんな音色を響かせてくれるのか大いに気になるところですが、国宝とあってはむやみやたらには撞かせては貰えないようで。ゴオ〜〜〜ン。(御想像に御任せよ)

仏殿 三門を潜り抜けた先には仏殿が建てられ、参道脇には柏槇の巨木が立つの。幹廻り7m余と云われる大樹は蘭渓道隆のお手植えとも云われ、750年の時を経た今でも生長を続けているの。創建当時の堂宇の多くが焼失してしまった中で被災を免れた、云わば貴重な生き証人。見上げてみたところで語ってくれることばもありませんが、時の流れに何を見据えてきたのかしら。

仏殿 仏殿の建物は正保4年(1647)に東京・芝の増上寺にあった崇源院(徳川家二代将軍秀忠の夫人)の霊廟を移築したものなの。建物はさておき、建長寺でユニークなのがこの仏殿に祀られる本尊の地蔵菩薩。早い話しがお地蔵さまなの。もっと高位の釈迦如来などを本尊として祀るのが普通なのでしょうが、開祖・蘭渓道隆の後を継いだ兀菴普寧に至っては、この本尊を敬うどころかまるで無視したと云うの。悟りを開いた自分は仏の位に位置する者、菩薩は位が下なのだから地蔵菩薩の方こそ仏たる我が身を礼拝せよと宣もうたとか。

釈迦如来などの尊像よりも、お地蔵さんの方に親近感を覚えてしまうξ^_^ξなんぞは、それはないんじゃないの、だったら祀らなければいいのに〜と思ってしまいますが、それだけ仏(悟り)の境地には程遠い証左でもあるわね。(^^;

CoffeeBreak 兀菴普寧は来日した当初は京都・東福寺に住しましたが、北条時頼に招かれてこの建長寺の住持となるの。ところが僅かに5年足らずで離日してしまうの。当時は元からの使者が訪れ蒙古襲来も危惧され、スパイの嫌疑をかけられた兀菴普寧がそれを嫌い帰国したとする説もあるの。地蔵菩薩に我が身を礼拝せよと云ってみたり、スパイの嫌疑あり−などと聞くと、何やら胡散臭い匂いがして来ますが、真偽の程はどうだったのでしょうね。

地蔵菩薩 参詣時に頂いた栞にもこの地蔵菩薩に関する記載が無くて、やはり無視されてしまっているようですね。ならばと天の邪鬼なξ^_^ξが調べてみたところ概ね次のことのようよ。建長寺が建てられる以前のこの辺りは地獄谷と呼ばれ死者を葬るところだったの。葬ると云っても当時は風葬なの。早い話が放ったらかし状態ね。後に罪人の処刑場となり、やがてその罪人をも救済してくれるという地蔵菩薩を本尊として地蔵堂(心平寺)が建てられたの。

まンだ建長寺が建てられる前の頃のことじゃ。この辺りは地獄谷と呼ばれておってのお、死人(しびと)が捨てられる場所じゃった。白骨が散らばっておって、そりゃあそりゃあおどろおどろしていてのお、誰も近付く者などおらんかった。そんな地獄谷に罪人を処刑する刑場が作られたんも、自然と云えば自然のことじゃのお。首をはねた後は放り捨ててしまえば良かったんじゃからのお。やがて罪人の傍らにはお地蔵さまが祀られるようになったのじゃが、罪を犯す者も絶えずにおってのお。そんな地獄谷にも地蔵堂が建てられると、罪人と雖もお救い下さるというお地蔵さまが祀られるようになったそうな。

そんなある日のことじゃ。斎田左衛門という者がその犯した罪の重さから斬首の刑に処されることになったのじゃ。さて斬首の当日になり、差し出された左衛門の首に役人が何度刀を振り下ろしてみてもその首を斬り落とすことが出来なかったそうじゃ。不思議に思うた役人が左衛門の首筋を調べてみたところ、髻※の中から幾つもの刀傷を負うた小さなお地蔵さんが出てきたのじゃ。左衛門は日頃からお地蔵さんを信仰しておってのお、いつも肌身離さず身につけておったそうじゃ。その熱心な信心ぶりが認められて斬罪を赦され、お地蔵さんのお蔭で命拾いしたというわけじゃ。その左衛門を助けたというお地蔵さんじゃが斎田地蔵と呼ばれるようになってのお、地蔵堂にお祀りするお地蔵さまの頭ン中へ収められたそうじゃ。そして建長寺が建てられると丈六のお地蔵さんの胎内に移されたということじゃ。※髻:もとどり。髪の毛を束ねたところ

と云うことで、さすがの高僧・蘭渓道隆も無視出来なかったのでしょうね。【吾妻鏡】にも「建長寺供養なり 丈六の地藏菩薩を以て中尊と爲す また同像千體を安置す」と記載されているの。千体とは些か誇張の感は拭えませんが、かなりの数のお地蔵さんが地獄谷にあったみたいね。But 供養の主旨は「皇帝萬歳 將軍家及び重臣の千秋天下太平を祈り 下は三代の上將 二位家竝びに御一門の過去數輩の沒後を訪い御う」と云うことで、下々の輩の安穏などは対象外。鎌倉幕府五代執権職にあった北条時頼の開基とあってはそれもやむなきことなのでしょうね。地獄谷に眠る罪人達の御霊は成仏出来たのかしら。

仏殿背後に建つのが法堂ですが、禅宗寺院では法堂と書いて「はっとう」と読むのだそうで、この時までξ^_^ξは「ほうどう」と訓んでいました。住職が仏に代わり聴衆に説法を行うための施設がこの法堂なの。建物自体は文化11年(1814)に再建されたものですが、神奈川県の重要文化財に指定されているの。と云っても門外漢のξ^_^ξにはその価値も分かりませんが、覗き込んだ堂内には何も無くガランとしているの。関東最大と云われる法堂内部は巨大な空間が広がり、なあんだ、何にもないじゃないの、でも何かあってもよさそうね−と見上げた先に見えたのが天井に描かれた巨大な雲龍図。

雲龍図 天井に龍が描かれた建物は他の寺院でも見掛けることがありますが、大雨を降らす龍神は説法を聴聞する者達に法の雨を降らせるの。この雲龍図は建長寺創建750年記念事業として小泉淳作画伯の手により描かれたもので、畳み80畳分はあるという巨大な水墨画。覗き窓のような小さな窓から手を延ばして撮影したものですので出来の良い写真ではありませんので、皆さんの目でお確かめ下さいね。

庫裡 法堂に続くのがこの庫裡で、御朱印所にもなっているの。庫裡の背後には紫雲閣と呼ばれる建物がありますが、こちらは創建750年記念に先駆けて近年再建されたもので、白木の御殿のような面持ちね。後世に再建された堂宇と雖も遙かなる時を経て傷みもひどくなったのでしょうが、記念事業とやらで堂宇の悉くが何等かの手を加えられてしまったようですね。歴史の重みに耐えかねて鎌倉らしい趣きある風情も建長寺からは遠のいていくようね。

庭園 参道最奥部にあるのが方丈の龍王殿。夢想国師作庭と云われる名勝庭園を期待したのですが御覧の有様で。あれ〜国指定名勝じゃなかったの、寺側の意志で勝手に造作出来るの?記念事業もここまでくるとξ^_^ξには暴挙としか思えず、どのような庭園であったのか知る由もありません。写真は機械化部隊と化した現代の夢想国師達が操る重機ですが、自走するロボットのようでもあり。壊してしまった以上仕方ありませんね、現代の夢想国師達に期待しましょう。

庭園は大覚禅師が作庭し、後に夢想国師が手を加えたものだったのですが、江戸時代に一度改修されているの。上記からでは作庭時から姿を変えていない−と誤解を招きそうなので、敢えて補足させて頂きますね。まあ、今となってはどうでも良いことかも知れないわね。

さて、建長寺の境内を一巡りしたところで普通なら踵を返すところですが、それでは未だ建長寺の全てを観たことにはならないの。龍王殿の背後に続く参道を更に進めば、建長寺の奥院ともいうべき半僧坊があるの。更にその先からは鎌倉アルプスと呼ばれる山並みの稜線を辿る天園ハイキング・コースが続いているの。日頃の運動不足を少しは解消出来るかしら−と挑戦してみましたので、興味をお持ちの方は引き続きお付き合い下さいね。

竜峰院&天源院 天源院参道 龍王殿を左手に抜けて緩やかな石段を登ると塔頭の龍峰院と天源院があるのですが、残念ながら非公開ですので中には入れないの。ですが、石段からの景観は風情ある佇まいを見せ、建長寺境内の中では唯一趣きが感じられる場所のようにも見えるの。関係者以外の立ち入りを拒むことでその風情も護られているのでしょうね、きっと。

石段を下り、元の道に戻ると、その先に何やら不思議な出で立ちの石像があったの。近付いて見ると儒教の聖者のような面持ちをした石像で、脇からは鬱蒼とした木立に囲まれて参道が続いているの。石像につられて何か変わったものがあるかも知れないわ−と参道を登ってみたのですが、こちらの塔頭も同じく拝観不可になっていました。正統院と呼ばれる塔頭ですが、何があるのかしら?それにしても参道の石段を登らせておきながら拝観不可の案内とは。だったら最初から参道入口にその旨掲示しておいてくれても良さそうなものを。エッ?そんな塔頭なんて普通の人は拝観しないって?

再び幹線ルートに戻り、道なりに半僧坊目指して歩き出しました。その半僧坊がある辺りまでが建長寺の寺域だそうですが、沿道には民家と覚しき家が軒を連ねるという不思議な参道よ。その民家の連なりに最後に位置して『招寿軒』という茶店がありました。中では年配の御夫婦の方が話しをしながら客待ちされていましたが、ここの名物はあんころ餅だそうな。甘いもの大好き!という方はこの先天園峠まで休憩所がありませんので、ハイキングコースを縦走する前にお立ち寄りになってみては如何かしら?

10. 河村瑞軒墓 かわむらずいけんぼ

河村瑞軒墓 その茶店の傍らに河村瑞軒遺跡登り口の石標を見つけて何があるのかしら?と石段を延々と登ってみたのですが、あったのは御覧のような墓誌。何でも河村瑞軒なる人物は海運と治水工事で財を成し、元禄11年(1698)に旗本になった立志伝中の人物のよう。二基ある墓誌はその瑞軒父子のもので延々と文字が刻まれていましたが、正直なところ余り興味をそそられるものでも無く、早々に退散してしまいました。

井戸 傍らの井戸ですが、幽霊でも現れそうな風情よね。今にもお岩さんが井戸水を滴らせながら恨めしそうな面持ちでドロドロドロ〜と浮き上がって来そう。う〜〜、誰が作ったのか知らないけれど趣味ワル〜ッ。階段途中には「スズメバチ営巣中につき注意」の貼り紙もあり、身の危険を感じながら労して訪ねた割りには報われぬ場所でした。元の道に戻ったξ^_^ξに連れがひとこと。気ぃ済んだ?(^^;

11. 半僧坊 はんそうぼう

参道 茶店から200m位かしら、寺域だというのに鳥居がありました。その先から石段が続くのですが、登るに従い急になるというシンドイ石段よ。その参道脇には各地の講の方々が奉納した石碑などが建ち並び、半僧坊が庶民の信仰対象となっていることを物語っているの。未だか未だかと石段を登り行くと、ようやく現れるのが斜面に並ぶ烏天狗達。実はこの天狗達を是非見てみたいと思っていたの。そして彼らの大親分の半僧坊を。

半僧坊 半僧坊 さて、この半僧坊ですが、元は静岡県引佐町の奥山半僧坊にその源を発しているの。なので、建長寺の半僧坊を語るには、先ず最初に初見したという静岡県奥山半僧坊から語らなくてなりませんね。

半僧坊奥院 静岡県の引佐という所に方広寺という寺があるんじゃが、開山は無文元選禅師と云うてのお、後醍醐天皇の皇子でもおられてのお、中国で学んだこともあるという、それはそれは偉いお坊さんじゃった。その方広寺も未ンだ建てられてなかった頃のことじゃ。禅師が領主の奥山六郎治郎朝藤というもんの案内で入山しておった時のことじゃが、白髪の一人の翁が禅師の前に現れて、我は此の奥山に住する者なれば汝の弟子たらんと欲す。然らば此の山を永きに亙り護りなむ−と云うたそうじゃ。翁の申し入れを聞き入れて禅師は弟子としたのじゃが、その出で立ちは半俗半僧じゃったことから禅師は半僧坊と呼んでおったそうじゃ。山で修行する修験者だったのかもしれんのお。

半僧坊

禅師はやがて方広寺という堂宇を建てたそうじゃ。そうして半僧坊も禅師によく仕えておったのじゃが禅師が亡くなるといずこかへ姿を消してしもうてのお、それからというもの、奥山には悪い出来事が続いたのじゃ。これは山を護る半僧坊がいなくなってしもうたからじゃ−と都から偉い仏師を招いてのお、その半僧坊を彫像して山に祀ってみようということになったのじゃ。その仏師が斎戒沐浴して参籠した末に夢枕に現れたのが身の丈一丈はあろうかという翁じゃった。高鼻乱髪白衣に金色の袈裟を纏った出で立ちはまさしく半僧坊だったのじゃ。その霊夢に感応して彫られたという半僧坊の像を祀ったところ、それからというものまた静かな奥山となったそうじゃ。その半僧坊なんじゃが今でも方広寺の鎮守として祀られておるということじゃ。とんとむか〜し、昔のお話しじゃけんども。

上記はξ^_^ξの勝手な脚色(デッチ上げとも云う)を含みます。
なので、あんまり鵜呑みにしないでね。(^^;

烏天狗 烏天狗 烏天狗 烏天狗

さて、半僧坊の出自が分かったところで建長寺の半僧坊に話を戻しましょうね。
境内にある「半僧坊縁起」に依ると、勧請されたのは左程昔のことでも無くて、ちょっと意外な感じがするわね。

今の住職から数えて五代前の霄(おおぞら)貫道禅師がある夜霊夢をみたそうじゃ。夢の中で禅師は山中を歩いておったのじゃが、坊さんのようでもあるし、俗人とも見受けられる不思議な風体をした老人に出会ったそうじゃ。その白髪をした老人が云うには−我を関東いずれかの清浄地に招くべし 然らば其の地愈々栄えあり 有り難き事絶えざらん−そう云うとどこかへ消え去ってしまったそうじゃ。夢から醒めた禅師は「これこそ霊夢じゃ。その姿正(まさ)しく半僧坊。これぞ御仏の御導きに相違ない。さすれば建長寺の鎮守といたさん」と早速方広寺に赴いて半僧坊の御分身を願われたのじゃ。そうしてのお、勧請した半僧坊は霊夢で告げられたように、建長寺でも最も景色が良いとされる勝上獻に祀られたのじゃ。

勝上獻の獻の字ですが、ホントは更に山冠が付くの。表示出来ないので御了承下さいね。
巘の異体字なのですが、山の険しい峰のことを云うの。

霄貫道禅師が半僧坊を勧請したのは明治23年(1890)のことですが、日清戦争勝利の好景気から堂宇創建の資金も意外に早く集まったみたいね。一時は講社数百十余社を有し、信者数は五万余人にものぼり、一都二十数県に及んだそうよ。道理で参道脇の講社奉納の石碑が多い訳よね。鎌倉春秋社刊 大藤ゆき著 「鎌倉の民俗」に依ると、遠くは南房総の千倉や三浦半島の秋谷・諸磯などから漁があるとイワシやアジなどを供えに来たそうよ。中でも千倉の漁師は8月に漁の切り替えがあり、8月末にサンマ漁に出掛ける前にお参りに来たのだとか。今でこそサンマも多く獲れなくなり、電車で代表が代参するようになったものの、嘗ては家族を船に乗せて材木座に着岸していたそうなの。

御利益ですが、家内安全・商売繁盛・厄災消除・安産祈願・大漁祈願・交通安全・合格祈願と、何でもござれ状態。禅寺の建長寺にあって些か風変わりな半僧坊ですが、殊の外霊験灼かみたいよ。皆さんも建長寺を訪れた際にはちょっと足を延ばして御参り下さいね。

12. 天園ハイキングコース てんえんはいきんぐこーす

石段 建長寺奥院とも云うべき半僧坊の社殿右手には天園ハイキングコースの入口があるの。いきなり急な石段が続いて修験者のように鎖を伝いながら登るのですが、最初からこんな所を歩かされるとは先行きに大いに不安を感じてしまいますよね。ですが、そんな急階段も束の間のことで、直ぐに展望台へと辿り着きますので御安心下さいね。展望台と云ってもウッドデッキが設営されて丸太の椅子が据えられているだけなのですが、眼下には建長寺の全域が見下ろせるの。

展望台 壮大な建長寺の三門もさすがにここからだと小さく見えてしまうわね。画面中央に撮るのが山門の屋根なの。北鎌倉の豊かな緑の先には相模湾も見渡すことが出来るの。この展望台からは鎌倉アルプスと呼ばれる山の連なりを尾根伝いに辿るのですが、露出した岩石にはやぐらが掘られていたりして、寂寥感漂う山の道になるの。緑に覆われた山々の姿からは想像出来ませんが、いざ分け入ってみると奇岩怪石が連なり、結構起伏に富んだ道程となっているの。

十王岩 十王岩 峠の茶屋

その展望台から10分程歩くと左端の十王岩があるの。円応寺の項で紹介しました地獄の十王達がこの岩にも彫られていたことから十王岩と呼ばれていたのですが、時の流れを経て十王達のお顔も朧になり、それらしきと思えるのも二体のみになってしまったの。中央はその十王岩からの展望ですが、「神奈川の景勝50選」にも数えられているの。右端は十王岩から更に一時間程歩いたところにある「峠の茶屋」なの。小腹も空いたのでここで暫しの休憩よ。梢を渡り来る風に涼を求めて、ふと見上げれば一羽のトンビが大空に悠々と舞っていました。案外「おでん」を狙っていたのかも知れないわね。名物おでん:¥500 ところてん:¥350

山道 山道 一息ついたところで再び歩き出したのですが、所々では御覧のような険しい道が続くの。途中でマウンテンバイクを担いで縦走する一団に出会いましたが、こんな所を登って来られたのですね。聞けば、最初の内は乗りながら登って来られたのだそうですが、途中からは諦めた (^^; と仰っていました。それにしても世の中には強者の方々もいらっしゃるのね、自転車で山登りをしようなんて。

貝吹地蔵 上掲の切り通し近くには御覧の貝吹地蔵が祀られていたの。上半身だけのお地蔵さんですが、傍らの説明書きに依ると、元弘3年(1333)、新田義貞の軍勢に攻められて自害した北条高時の首を守りながら敗走する重臣達をお地蔵さんが貝を吹き鳴らして助けたそうなの。義貞の鎌倉攻めに伴い、北条氏は高時はじめ一族800余名が東勝寺にて自決、150年余に亘った鎌倉幕府は滅亡しますが、この貝吹地蔵はどんな思いでそれを見つめていたのかしら。

貝吹地蔵が吹き鳴らす法螺貝の音に助けられながら、高時の首を拝して夜陰に乗じて切り通しを敗走して行く重臣達の鎧姿には鬼気迫るものがありますね。彼らがその後どこで終焉を迎えたのかは不詳ですが、ここにも栄枯盛衰を経て諸行無常の感あり。鎌倉の地を一望出来る十王岩辺りで自決したのかしら。歴史の表舞台には現れることもありませんが、貝吹地蔵の逸話に思いを馳せれば、遠い昔のこととは云え、人間の哀しい性を感じてしまいますね。

出口 左掲は貝吹地蔵から更に歩くこと20分余りでようやく辿り着いた出口なの。こちらから登り始める方もいらっしゃいましたが、最初に延々と急な坂道を歩かされることになりますので余りお勧め出来ないわね。坂を登り切った所で立ち往生する方に出会いましたが、この先更に進むべきか、それとも断念すべきか思案されているようで、肩で息をされていました。(^^; 確かにこちらの坂道を最初に経験したら先行きに不安を感じて嫌になっちゃうかも知れないわね。それでも敢えてこっちから歩くの!という方はこの入口に注意して下さいね。気をつけないと通り過ぎてしまうかも知れないわ。

鎌倉駅方面から瑞泉寺を目指して来られた方はその瑞泉寺手前右手に注意しながら歩いて下さいね。
民家の脇に隠れるようにして小さな案内標が立てられているの。

所要時間は建長寺奥院の半僧坊から歩くこと約2時間半といったところかしら。途中では「峠の茶屋」での休憩もありましたが、健脚の方なら2時間は切れると思うわ。中にはザックを背にジョギングする強者のハイカーもいたりと、出会った方も人それぞれでした。但し、足許はしっかり固めた上でお出掛け下さいね。平坦な道もありますが、結構起伏のあるハイキング・コースで、岩場を歩いたりしますので間違ってもヒールなんて履いて歩かないで下さいね。

13. 瑞泉寺 ずいせんじ

本堂 その出入口近くにあるのがこの瑞泉寺。あの夢想国師を開山として嘉暦2年(1327)に創建された古刹。足利尊氏の子・基氏が国師に帰依したことからその塔所として、往時には関東十刹に数えられる程の隆盛をみたようですが、現在ではひっそりと佇む庵といった趣きなの。四季折々の花が境内を彩り、花の寺としても親しまれているの。訪れた時には紫色の花を付けた桔梗を背にして、芙蓉が白い花を咲かせていたの。拝観料:¥100

三門脇には吉田松蔭留跡碑が建ちますが、当時は松蔭の伯父が住持を務めていたこともあり、ペリーの浦賀来港時に密航を企てた際にはこの瑞泉寺に投宿しているの。小説家の立原正秋氏などが眠る境内には文人達の碑も多く、鐘楼前には−男の顔は履歴書である−と書かれた大宅壮一氏の碑が建てられていたの。

庭園 夢想国師の作庭した庭園で、国指定名勝との触れ込みに大いに期待して建物の裏側に廻ってみたのですが、些か拍子抜けしてしまいました。手入れも十分になされているとは思えず、すっかり存在を忘れ去られてしまったような趣きにしか見えなかったの。昭和45年(1970)に発掘・復元され、作庭当時に近い造りなのだそうですが、京都の西芳寺や天竜寺の庭園を想像する向きには意外な印象よね。それともこの姿こそが国師が意図した本来の世界観なのかしら?

庭園背後の山頂には徧界一覧亭と呼ばれる建物があり、興味を覚えたのですが、残念ながら立入禁止になっているの。庭園の左奥から一覧亭に登る道があるのですが、柵が置かれていました。一覧亭とはどんな建物なのかしら。その山の斜面には瑞泉寺のやぐら群もあるというのですが。後盾を失い衰微してしまった瑞泉寺を訪れた徳川光圀は再興に尽力し、徧界一覧亭なども再建し、一時は閑居したと伝えるの。前庭にはその光圀のお手植えと伝える樹齢300年の冬桜がありますが、水戸の御老公と瑞泉寺、意外な場所で意外な組み合わせですよね。

どこも地蔵 どこも地蔵 庭園から踵を返したところに風情ある佇まいを見せていたのがこの地蔵堂と呼ばれる建物で、堂内には「どこも地蔵」と呼ばれる、ちょっと変わったお地蔵さまが祀られていました。傍らの説明書きに記されていた逸話をみなさんにも脚色してお届けしてみますね。

むか〜し昔のことじゃけんども、このお地蔵さまが扇ガ谷におられた頃のお話しじゃ。このお地蔵さまの堂守をして暮らす者がおったそうじゃが、毎日毎日お地蔵さまを拝んではみるものの、貧乏な暮らしは一向に良くならんでのお。いっそ堂守なんぞやめて、何ぞ他の仕事でもしようか、そうすれば暮らし向きも良くなるかも知れん、そう思うておったそうじゃ。

そんなことを思いながらいた堂守が、ある夜そのお地蔵さまの夢をみたそうじゃ。夢の中でそのお地蔵さまが堂守に 「 どこもどこも 」 と告げたそうじゃ。どんな意味が込められているのか分からず、不思議に思うた堂守は、偉いお坊さんにその意味を訊ねてみたそうな。そのお坊さん曰く 「 貧しいのはどこも皆同じじゃ。一つところで辛抱が出けんようでは逃げるだけの人生じゃよ 」 と。そう諭された堂守は、その後はずうっと堂守を続けたということじゃ。それからというもの、誰云うとなく、このお地蔵さまを「どこも地蔵」とか、「どこもどこも地蔵」と呼ぶようになったと云うことじゃ。

根付け 瑞泉寺の拝観を終えて、入口近くにある土産物屋(土鈴の店・棚橋)さんを覗いてみると、ひっそりとした店構えの店先には手作りと思える土鈴のほか、民芸調の品々が並んでいたの。御覧の根付け(¥300)には組紐の先に寄木細工で作られたぽっくりと高下駄が下がっているの。問わず語りに御主人が語ってくれたところでは、最初はぽっくりだけのものに、高下駄を一緒に付けてみると、ポツリポツリと売れるようになったそうなの。その後、有名な陸上選手がこれを買い求めたところ、良い記録が出たそうで、口コミで広がり、纏め買いする陸上選手の方が時折いらっしゃるそうよ。

決して縁起を担いで作ってる訳ではないんですがねえ、お客さんが勝手に縁起を担ぐようになってしまって−と至って無欲な御主人。普通ならここぞとばかりに売り出すところなのでしょうが、鎌倉に住む方々は気持ちに余裕がある方が多くいらっしゃるようね。そんな御主人の手作りの根付けですので効能もあるのでしょう。足腰に自信の無い方も、天園ハイキング・コースを縦走するの!と息巻くあなたも、ちょっと立ち寄って買い求めてみては?

14. 永福寺跡 ようふくじあと

永福寺跡 瑞泉寺を後に鎌倉宮へと向かう途中には永福寺跡があるの。永福寺は源頼朝が義経を初め、奥州討伐で滅ぼした藤原一族や戦没者の霊を弔うために平泉の二階大堂大長寿院を模して建立した寺院なの。南北100m以上という広大な苑池を前面に配する伽藍は二階堂を中心に、薬師堂、阿弥陀堂を脇持するユニークなもので、鶴岡八幡宮寺、勝長寿院と並ぶ頼朝建立の三大寺院の一つで、荘厳な伽藍を擁する大寺だったようね。尚、永福寺はここでは「ようふくじ」と訓んで下さいね。【吾妻鏡】には

此の間御厩を建てらる 奧州駒の中上馬三十疋を撰ばれ 始めて之を立て置かる 景時別當たるべきの由之を奉ると 今日永福寺の事始めなり 奧州に於て泰衡管領の精舍を覽ぜしめ 當寺華構の懇府を企てらる 且は數萬の怨靈を宥め 且は三有の苦果を救わんが爲なり 抑も彼の梵閣等宇を竝べるの中 二階大堂有り 專ら之を模せらるるに依りて 別して二階堂と號すか

と記されているの。飼馬は奥州討伐の戦利品だったのでしょうね。そんな奥州出身の駿馬を見るにつけ、頼朝は義経や奥州藤原氏一族の怨霊を感じていたのかも知れないわね。奥州藤原氏一族の云わば勅願寺とも呼ぶべき中尊寺の大長寿院・二階堂を観て感激していた頼朝は、その霊を弔うべく、その堂宇を模倣して造営したのがこの永福寺なの。

【吾妻鏡】は当時の中尊寺が堂塔40余基、禅院300余坊を有する大規模なものであったことを記しますが、それを観た頼朝がカルチャーショックを受けたのも想像に難くありませんよね。加えて発掘調査に依ると、10円玉で御馴染みの宇治平等院のように巨大な池も配置されていたと云うのですから、毛越寺の池に園遊する藤原氏の栄華をも真似たのかも知れないわね。それはまさに極楽浄土を思わせる佇まいだったのでしょう。その永福寺も後盾を失うと衰微し、応永12年(1405)には堂宇を焼失。江戸時代初めには廃寺となってしまい、現在は草木が茂るのみとなっているの。ここにも「奢れるものは久しからず ただ 春の夜の夢の如し ・・・」

15. 鎌倉宮 かまくらぐう

鎌倉宮 鎌倉宮は後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)を祭神とする神社で、明治天皇が親王終焉のこの地を訪れ「朕之を憶ふ毎に未た嘗て歔欷して泣下らずんばあらざるなり 今親しく遺跡を弔ひ感慨殊に深し」と勅願されて、明治2年(1869)に創建されたものなの。徳川幕府から大政奉還させた明治天皇にすれば、時代を異にせよ、同じ倒幕を志して非業の死を遂げた親王に、遙かなる想いを馳せ涙したというのは至極当然のことなのかも知れないわね。土牢・宝物館:¥300

鎌倉宮 皇太子・邦良親王の死去に伴い、後醍醐天皇は同じ皇子の護良親王を皇太子に据えようとしたのですが、当時は鎌倉幕府執権職にあった北条氏が実権を握っており、その北条氏は後伏見上皇の皇子・量仁親王を担ぎ上げたことから対立するの。結局、親王は僅か11歳にして比叡山延暦寺に入山させられてしまうの。この時の称号が大塔宮(だいとうのみや)で、縁起などに大塔宮の呼称が冠せられるのはこれに由来するの。そうして20歳にして天台座主となる親王ですが、父・後醍醐天皇と共に倒幕の願い、止まずにいたの。

密かに倒幕を謀る後醍醐天皇だったのですが、遂に元弘元年(1330)親王と共にいざ挙兵という段になり、その計画を幕府側に知られてしまい、天皇は捕らえられて隠岐に配流させられてしまうの。その意志を継いだ親王は直ちに還俗し、名を護良と改め、吉野に挙兵するの。そして足利尊氏、楠木正成らの援軍を得て、ついに元弘3年(1333)新田義貞の軍勢に依り、鎌倉幕府は北条氏と共に倒されるの。

鎌倉宮 配流先から還都した後醍醐天皇は足利尊氏の功を認め、鎮守府将軍の任を与えるのですが、尊氏自身は征夷大将軍の地位を欲していたようね。そんな尊氏の言動に不穏な動きを看てとった親王は後醍醐天皇に「尊氏に幕府再興の野望ありと見ゆ」と進言。親王にすれば一度鎌倉幕府を裏切った尊氏に心を許す訳にはいかなかったのでしょうね。そうは云っても尊氏は倒幕の功労者、幾ら息子の云うこととは云え、どうしようもなかったのでしょうね、天皇からは今一度仏門に下ることを勧められてしまうの。

ところが、親王はこれを拒否、血気盛んな親王に遂には征夷大将軍の地位を与えてしまうの。晴れて大義を得た親王が尊氏を討とうとしたのは必然ね。けれど尊氏の方が一枚役者が上だったみたいで、親王の動きを事前に察知した尊氏は後醍醐天皇にその責任を迫るの。苦悩の末に後醍醐天皇は親王を鎌倉に幽閉してしまうの。その監視役が尊氏の弟・直義で、その直義に密かに鎌倉奪還を狙う北条高時の子・時行が残党を集めて襲いかかるの。北条氏一族の怨念が後押ししたのでしょうか、直義軍は敗退を余儀なくされてしまうの。敗退に先立ち、生かしておいては再び挙兵して討たれてしまうのでは−と、大いに危惧した直義は、幽閉の身であった親王の殺害を家臣の淵辺義博に命ずるの。己が手を染めずに家臣に委ねるあたりは直義も親王に対する畏敬の念が少しはあったということかしら。そうして親王は28歳の若さで無念の最期を遂げてしまうの。

土牢 左掲はその護良親王が建武元年(1334)11月から翌年7月迄の約9ヶ月間にわたり幽閉されていたと云う土牢なの。内部は深さ約4m、8畳程の広さと云うのですが、中を覗いてみても一切の明かりが射し込まず、暗黒の闇が広がっているの。土牢と云うよりも岩窟牢なのですが、こんな暗闇に幽閉されても発狂もせずにいたのですから、意志の強い方だったのですね。秋には鎮魂の舞として鎌倉薪能が奉納されますが、この土牢を見ると均しく鎮魂を願わずにはいられないの。

首塚 斬首に際して親王は最後のお茶を所望されたにも関わらず、水さえ与えられずに最期を遂げられたと伝えられているの。左掲は足利直義の家臣・淵辺義博の手に依り伐たれた親王の首が放置されていた場所で、御構廟(おかまへどころ)と記されていました。その放置されていた親王の遺骸を見るに見かねて手厚く葬ったのが当時あった理智光寺の住持。その理智光寺は明治期に廃寺になってしまいましたが、鎌倉宮の北東に位置する理智光寺跡には親王の陵墓が残されているの。些か暗い縁起を有する鎌倉宮ですが、鎮魂の社とあらば致し方ないことですね。

ですが、この土牢をめぐっては異説もあり、当時この鎌倉宮の建つ場所にあった東光寺に座敷牢のようなものがあり、そこに幽閉されたとする見方もあるの。幽閉中の親王の身辺を世話したのが南の方という女性で、拝殿左手には南方社と呼ばれる摂社がありますが、その女性を祀ったものなの。彼女は親王が薨去せられた時には既に親王の子を身籠っていたのですが、安国論寺北側にある妙法寺を創建した日叡上人がその子供なの。非業の死を遂げた親王にあって、唯一救われるお話しですよね。

獅子頭 親王の父である後醍醐天皇が幾ら何でも己が御子が土牢に閉じ込められることを許すとは思えませんし、当時の身分階級からして皇族は飽くまでも武士の上。加えて身の回りを世話する女性がいたことなどから推して座敷牢とするのが妥当のような気がするわね。だとすると由緒書きにも説明されるこの土牢は何なの?と云うことになってしまいますが、大政奉還から間も無い当時には幕府側の残党も多く、逆賊・足利尊氏の非情ぶりを鼓舞する必要があり、意図的に作られたものなのかも知れないわね。

打出小槌 参拝順路最後に位置する宝物殿には親王の身廻品が展示されているの。ちょっと変わった展示物が、二つに折れてしまった身代り獅子頭のお守りなの。添え書きによると、このお守りを所持していた方が交通事故に遭われたのですが、九死に一生を得たそうで、その霊験に感謝して奉納されたものとのこと。護良親王も戦場ではこの獅子頭を冑に付けていたために武運を呼んだと云われているの。あらゆる災難を身代わりとなって除いてくれるお守りですのでお求めになってみては?拝殿前の遙拝所には、撫でればどんな願いごとも叶うと云う打出小槌もあるの。併せてどうぞ。

16. 源頼朝の墓 みなもとのよりとものはか

白旗神社 源頼朝の墓への石段手前にあるのがこの白旗神社。傍らの碑文には「堂はもと頼朝の持佛を祀れる所にして頼朝の薨後其の廟所となる」と記述されることから生前は持仏堂が建てられていたのですね。この辺りは頼朝の大倉御所や大倉幕府があった場所。頼朝は死後にその持仏堂に葬られ、法華堂と名を変えたの。江戸時代には鶴岡八幡宮の管理下に置かれ、明治期の神仏分離令で法華堂が廃寺、白旗神社になったの。石碑には更に続けて「寶治元年六月五日三浦泰村此に籠りて北條の軍を邀へ刀折れ矢盡きて 一族郎党五百餘人と供に自盡し滿庭朱殷に染めし處とす」と、この地が三浦氏終焉の地でもあることが記されているの。

北条氏に攻められ、行き場を失った三浦一族はこの法華堂に籠り、頼朝の神霊の前で自刃したの。その数500余人。当然、女性や幼子も含まれていたでしょうに。目を背けずにはいられない凄惨な光景だったと思うの。時代が時代だったからと片付けてしまうには、余りにも辛い歴史の一頁よね。

頼朝墓 その白旗神社の前に続く石段を登ると源頼朝墓があるの。あれ〜?変よねえ、さっき法華堂に葬られたって云ってたじゃないの。実はその遺骸を、後に島津藩八代藩主・島津重豪(しげひで)が石段上に改葬したの。近くには頼朝の強力なブレーンだった大江広元と、その息子・毛利季光、忠臣の島津忠久のお墓もあるのですが、島津家の祖とされる忠久は頼朝の庶子※との噂も。(^^; 墓塔は高さ2m余の石積みと至って簡素な造りに加え、鬱蒼とした木立に覆われ、夏場だと云うのにさしたる光も射し込まず、幕府を開き、時の最高権力者として君臨した頼朝の墓にしては寂しい風情ね。※庶子:余りいいことばではないけど、妾の子のことを云うの。

頼朝は建長10年(1199)に53歳で世を去りますが、一説には落馬が原因とも云われているの。お墓のある場所から見下ろす辺り一帯が大倉幕府跡になるのですが、その大倉幕府も北条氏に実権が移ると、現在の小町2丁目辺りの地(宇都宮辻子幕府)に移されてしまうの。歴史を作った頼朝ですが、その手を離れても歴史の流れは止まることがないの。

源頼朝墓を後に次の鶴ヶ丘八幡宮を目指して歩き始めたのですが、近道の表示につられて脇道に入り、道を見失い思案していたところ、近所の方が道の落葉を掃除されているのを見つけて訊ねてみたの。御丁寧な案内に礼を伝えて歩き出そうとすると、お気をつけて御参り下さいね−と見送って下さいました。ちょっと普通では口に出て来ませんよね。鎌倉に住む方々と直接ことばを交わす機会は左程多くはありませんでしたが、気持ちに余裕のある方々ばかりでした。

17. 鶴岡八幡宮 つるがおかはちまんぐう

横浜国大付属小中学校のグランドに沿って歩くと鶴岡八幡宮の東鳥居に辿り着くの。その鳥居をくぐり、右手に折れると鎌倉国宝館があるの。生憎と時間切れで見学せずに終えていますが、鎌倉の神社仏閣に伝わる文化財を収め、その数何と3、500点にも及ぶの。浄智寺の地蔵菩薩や円応寺の初江王像などもこの国宝館に展示されているの。仏教美術や書画骨董の類に御興味をお持ちの方は足を運ばれてみては?入館料:¥300(特別展を除く) 9:30-16:00 月曜休館

白旗神社 頼朝の霊を弔うために頼家が北条政子と共に造営したのがこの白旗神社。八幡宮の域内にあって他の社殿が朱色の華やかさを以て建てられている中で、鎌倉武士の質実剛健振りを思わせる黒塗りの社殿となっているの。現在の社殿は明治時代に再建されたもの。同名の白旗神社が源頼朝墓の石段下にもありましたが、頼朝の霊を祀るならそちらに建ててあげれば良かったのにね。この黒塗りの社殿に較べると本家(?)の白旗神社は余りにも寂しい風情よね。

鶴亀石 その白旗神社から境内にある若宮に向かう途中で見つけたのがこの鶴亀石。説明書きが無ければ通り過ぎてしまうほどの、見た目には何の変哲も無い石ですが、【新編相模国風土記稿】にも記載され、水で石を洗うと鶴亀紋様が浮き出てくるのだとか。近付いて良く見てみたのですが、風化してしまったようで、残念ながらその痕跡も見つけられませんでした。やはり水で洗ってみないとダメなのかしら。水に濡らした途端に色を変える石もありますので、鶴亀石もそんな組成になっているのかしら。だとしたらやはり水を掛けてみたいな。(^^;

タイワンリス 左掲は若宮の手前で見掛けたタイワンリス。円覚寺の弁天茶屋の項でも触れましたが、江ノ島で飼われたいたものが野生化したのだそうよ。ξ^_^ξにはやっぱりどぶねずみと掛け合わせたような感じにしか見えず、とても愛らしいとは思えないのですが皆さんは?けれど、そこはやはりリスね、大きさの割りにはすばしっこく、レンズを向けていると忽ちスルスル〜ッと木先に駆け登ってしまったの。人に慣れているので食べ物を持っていたりすると向こうから近付いて来ることもあるのだとか。一匹だけならまだしも、集団で餌をねだられたりしたら怖いものがあるわね。

下宮 若宮は仁徳天皇・履仲天皇・仲媛命・磐之媛命を祭神とする境内摂社で、本宮の上宮(かみのみや)に対し、下宮(しものみや)とも呼ばれているの。その大きさからどうしても本宮の方に目が行ってしまいますが、鎌倉入りした頼朝が由比ヶ浜にあった八幡宮を遷宮して最初に祀ったのはこの若宮なの。当初の若宮は建久2年(1191)に焼失してしまい、流権現造と呼ばれる現在の社殿は徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の命に依り再建されたものなの。

現在の鶴岡八幡宮の元となった由比若宮が材木座1丁目に鎮座しているの。その由比若宮は頼朝から遡ること五代前の頼義が源氏の守護神として岩清水八幡宮を勧請したの。当時はその辺りの土地が由比郷鶴岡と呼ばれていたことから鶴岡八幡宮の呼称となったの。時を経て治承4年(1180)年に鎌倉入りした頼朝は新たな社殿を造営してその由比若宮を現在地に遷宮したのですが、建久2年(1191)には大火で焼失。源氏の守護神たる若宮が焼け落ちたとあってはさすがの頼朝も焦ったのでしょうね、直ちに再建に取り掛かるの。3月に焼失したにも関わらず、11月には再び岩清水八幡宮から分霊を迎えるという、極めて短期間で再建されているの。社殿が現在のような上下両宮の形態になったのはこの時のこと。尚、舞殿が設営されたのは建久4年(1193)よ。

本宮 と云うことで、その本宮の写真を掲載したいところなのですが、残念ながら訪時には大規模な修復工事が進行中で、ビニール・シートに覆われて豪壮にして華麗な社殿を垣間見ることは出来ませんでした。代わりに石段下に臨時の遙拝所が設けられていたの。祭神は比売神・応神天皇・神功皇后と云うことですが、左掲はその三柱が工事期間中に限り下々の者達の願いに耳を傾けんがために降臨して来た−と云ったところかしら。その祭壇左手に見えるのが源実朝を暗殺した公暁が身を潜めていたと云われる大銀杏。樹齢千年を超える巨木は「隠れ銀杏」とも呼ばれているの。

その大銀杏ですが、平成22年(2010)3/10の未明に、発達した低気圧に依る強風で倒れてしまったの。現在は根元を埋め替えるなどして将来に向けた再生がはかられているのですが、ここでは倒木以前のお話しとして御理解下さいね。

【吾妻鏡】には「当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり 劔を取り丞相を侵し奉る」と記される暗殺の舞台。当時は積雪二尺(約60cm)を越える大雪が降っていたみたいだけど、女形に身を隠した公暁が伯父の実朝に斬りかかるという、血塗られた悲劇が源氏の武運長久を願う八幡宮で展開されるという皮肉な歴史の一頁。

その本宮への石段手前にはこの舞殿(下拝殿)が建つの。静御前が兄の頼朝に追討される義経を恋い慕いながら舞った「静の舞」が頼朝の逆鱗に触れたという逸話の舞台。静御前は追討を知った義経と共に吉野に落ち延びるのですが、諭されて都に戻るの。【吾妻鏡】に依れば「数多の金銀類を我に與え雑色男等を付け京に送らんと欲す 而るに彼の男共財宝を取り深き峯雪の中に棄て置くの間 此の如く迷い来たる」ところを捕えられてしまうの。とんでもねえヤツラで、打首獄門!に処すべき従者共よね。捕えられた静御前は鎌倉へ送致され、義経の消息を詰問されるのですが、頑として口を割らなかったの。

そんなある日、頼朝から八幡宮での舞の奉納を要請されるの。
辞退することを許されず、頼朝の意に反してその切ない想いを歌に託して舞ったのが後に云う「静の舞」なの。

吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
静や静 しずのおだ巻きくり返し 昔を今になすよしもがな

その時の様子を【吾妻鏡】は「誠に之社壇の壮観 梁塵殆ど動くべし 上下皆興感を催す」と伝えるの。けれど、それを聞いた頼朝は激昂するの。それを「暗夜に迷い 深雨を凌ぎ 君の所に到る 又 石橋の戦場に出で給うの時 独り伊豆山に残留す 君の存亡を知らずして 日夜消魂す その愁いを論ずれば 今の静の心の如し」と窘めたのが妻の政子なの。その政子から「女は儚なき者なれば御召しめ赦し候へ」と進言された頼朝は、卯花重の衣を静御前に与えて舞への褒美としたの。その後身籠っていた静御前は義経の子を産むのですが、悲しいことに即日殺されてしまうの。悲嘆の内に都に帰ることを許された静御前ですが、その後の足取りは再び歴史の中に消え去ってしまうの。ひたむきな愛に生きた静御前に思いを馳せながら、舞殿の前に立てば舞を舞う姿も瞼に浮かんで来るの。

源平池 舞殿を後に帰路につきましたが、鳥居前の参道両側には源平池が広がるの。頼朝夫人の政子が平家討伐の悲願を以て寿永元年(1182)大庭景義に命じて造らせたもので、東の源氏池には三島を配して、源氏の白旗に因み白い蓮を植え、「三は産なり」と祝い、西の平家池には平家の赤旗に因む紅蓮を植えて四島を造り、「四は死なり」としたものなの。

旗上弁天社 その源氏池に建つのがこの旗上弁財天社。明治の神仏分離に依る破壊を経て再興され、現在の社殿は鶴岡八幡宮創建800年を記念して昭和55年(1980)に復元されたもの。頼朝が旗上げした際にはこの弁財天が現れて、遂に平家討伐の功績を得たことから旗上弁財天社と呼ばれるようになったの。社殿の背後には政子石と呼ばれる石があり、縁結びの霊験灼かと云われているの。大恋愛の末に結ばれた頼朝と政子にあやかれば、願いを成就することも出来るかも知れないわ。尚、鶴岡八幡宮のことをもっと知りたい−と云う方は姉妹編の 鶴岡八幡宮編 を御笑覧下さいね。周辺の見処も含めて徹底的に紹介しています。CMでした。(^^;

18. JR鎌倉駅 かまくら


二日間にわたり散策した北鎌倉の寺院めぐりですが、その多くが為政者の後盾を得て建てられたもの。その創建に際してはそれぞれに背景があり、それを知ることで楽しみも増すのではと思うの。古都と云っても王朝絵巻の京都とは違い、武士が造り上げた武家社会にその基盤を有するために、採り入れられたのも禅宗を基礎とする質実剛健の文化。その一方で、骨肉を分けた身内同士が血を流すなど、悲しい歴史の舞台でもある鎌倉です。通り一辺ではその全てをお伝えすることは出来ませんし、それに値する知識の持ち合わせもありませんが、この頁が皆さんの鎌倉散策へお出掛けの際の一助となれば幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
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〔 参考文献 〕
実業之日本社刊 鎌倉なるほど事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・史都のロマン編
廣済堂出版社刊 湯本和夫著 鎌倉謎とき散歩・古寺伝説編
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
河出書房新社刊 原田寛著 図説鎌倉伝説散歩
光文社刊 青木登著 人力車が案内する鎌倉
各社寺拝観時に頂戴、若しくは買い求めた栞・パンフレット
【吾妻鏡】の記述に際しては 三浦三崎ひとめぐり を参照させて頂きました。
改めて御礼申し上げます。






どこにもいけないわ
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