≡☆ 東松山・高坂のお散歩 ☆≡
2010/08/24

東松山の箭弓稲荷神社を訪ねた際に頂いた観光パンフに、高坂にある巌殿観音のことが紹介されていたの。風情ある佇まいと共に、嘗ては板東三十三所観音霊場の第10番札所として賑わいを見せた古刹と知り、物見遊山 (^^; に出掛けてみたの。いつものことながら、帰宅後に調べてみると他にも気付かずに終えた史跡などがあることを知り、幾度か再訪することに。なので掲載画像は季節が入り乱れていますが御了承下さいね。補:掲載画像の一部は拡大表示が可能よ。

常安寺(米山薬師)〜足利基氏塁跡〜鳴かずの池〜判官塚〜正法寺(巌殿観音)

1.東武東上線・高坂駅 さかさかえき 12:05着発

ポイント毎に主な見処は訪ねてはいたのですが、紹介するにはやはり散策コースとして通しで歩いてみないことにはどれ位掛かるのかも分からないわね−と思い立ち、計画性のないままに飛び出してしまいました。気が付けば夏も未だ残暑厳しい、と云うか、未だ未だ夏の真っ盛りのことで、無謀にも炎天下の中を半日も彷徨い歩いてしまいました。犬も歩けば棒に当たる−の譬えではないけど、今では自販機がどこにでもあるわよね。普段は余り意識することも無いけど、今回の散策ではそのありがたさを身を以て知ったの。

2.彫刻通り ちょうこくどおり

高坂駅西口から続く駅前通りの両側には、彫刻家・高田博厚(たかたひろあつ)氏の作品32体が置かれているの。氏は既に故人になってしまわれていますが、これらの作品は、昭和57年(1982)に氏がこの東松山で作品展と講演を行った縁により、駅周辺の整備に併せて設置されたものだそうよ。置かれている像は全て 三郷工房 さんが鋳造されたもので、サイト上では彫刻通りの32体全部が作者のコメントと共に紹介されていますよ。

左掲はξ^_^ξが一番最初に目にした作品ですが、アラン(1932年作)と題されたものよ。氏が作品に寄せているコメントには「彼はモンテーニュやゲーテの直系子孫なのである。哲学とはもっとも深い意味において自分を見出すことである。人間の連続を」とありましたが、およそ芸術や哲学とは無縁なξ^_^ξには超難解な世界ね。いきなり炎天下に放り出されたξ^_^ξの脳みそは陽射しを避けることに専念していて、最初からこれでは彫刻通りを過ぎない内に知恵熱で倒れるかも知れないわね。(^^;

関越道 彫刻通りの終端が西本宿の交差点になるのですが、常安寺へは関越道を越さずに一度右折して下さいね。100m程歩くとわらび整形外科医院があるので、その先の横断橋を渡ります。次に紹介する常安寺ですが、下調べをしていた際に地図上で見掛け、敷地の広さに何やら云われのある寺院かも知れないわ−と至極単純な発想で訪ねてみたの。紹介記事を見掛けない常安寺ですが、訪ねてみると手入れの行き届いた境内の緑が脳天気な旅人を涼しげに迎えてくれたの。

3.常安寺 じょうあんじ 12:26着 12:56発

常安寺 ξ^_^ξのような単なる物見遊山の参詣客などは想定外なのでしょうね、略縁起を記した栞の類でも入手出来たら−と密かに期待したのですが、栞はもとより、境内には何の案内板も無いの。仕方がないのでここでは【新編武蔵風土記稿】が記すところを紹介してみますが、記述には「天臺宗 下青鳥村淨光寺末 醫王山瑠璃院と號す 本尊彌陀を安ず」とあるの。【風土記稿】が編纂されてから既に200年近く経つのでこの記述を以て今もそうであるとは云い切れないのですが、浄光寺は今も東松山市下青鳥にあるの。本尊に阿弥陀如来を安置しておきながら山号院号を薬師如来に由来する医王山瑠璃院にしているところが味噌醤油味ね。【風土記稿】には続けて

常安寺 「開山豪讃和尚文永3年(1266)2月15日寂す 中興豪傳寛文10年(1670)8月27日寂せり 按に郡中奈良梨村諏訪社の鰐口に 武州入西郡高坂郷 醫王山常安禪寺 住持比企大成叟永順置之 延徳3年(1491)4月8日 と彫り 側に弘治3年(1557)諏訪社へ寄進せし由を記せり これ正しく當寺のものなりしを 後年彼社へ移せしなるべし 銘中常安禪寺と載るに依ば 始は禪宗にて後改宗せしものなるべし」とあるの。ここではいつの創建なのかは分からないまでも、開山の豪讃和尚が文永3年(1266)に入寂していることから推して鎌倉期の創建が妥当よね。

鎌倉時代と云えば為政者の庇護を受けて鎌倉の地にも多くの禅寺が創建されているわよね。残念ながら誰の手に依り開基されたものかも不明ですが、記述には住持・比企大成叟永順の名もあることから、比企氏一族の誰かが開基したのかも知れないわね。比企氏と云えば、乳母として夫の掃部允と共に終生源頼朝に近侍した比企尼がいるわよね。その縁から比企氏は御家人として幕府内では北条氏と共に権力を争うまでになるの。ましてやこの地は比企氏の本貫地でもあり、その後盾を得て創建されたと考えてもおかしくはないわよね。But 勝手な推論モードですので呉々も鵜呑みにしないで下さいね。(^^;

山門をくぐり抜けると正面に本堂が建つのですが、緑を多く採り入れた境内の演出と相まって、素敵な景観を見せてくれました。現在は天台宗に属する常安寺ですが、この雰囲気は寺院は寺院でも禅宗系の塔頭ににも似た風情よね。住持の方の日頃の腐心もさることながら、引き継がれてきた血脈の良さがあればこその景観かも知れないわね。

松の木に護られるようにして『太陽をとれ』と題された詩を刻む石碑が建てられていたの。金子恵美子詩集「半分づつの夫婦」から−とも記されているのですが、富士福祉事業団 に依ると、昭和36年(1961)には「夫婦がともに障害を持ち、自らも車椅子で生活をしている詩人、金子恵美子さんが詩集「半分づつの夫婦」を出版し、大きな話題となった」とあるの。創られた背景を理解した上でこの詩を読むと、恵美子さんがこの詩に託した熱い思いと共に、詠む者にもまた均しく強く生きる逞しさを喚起させる響きが感じられるわね。

掲載に際しては体裁を変えさせて頂きましたが紹介してみますね。

足がなければ 足をつくれ 太陽がなければ 太陽をとれ
ものうげにねそべった蜆 黒い殻をかたく閉じた蜆 泥水を吸う蜆
そんな蜆にはなりたくない
手がなければ 手をつくれ 太陽がなければ 太陽をとれ

残念ながら未体験ですが、地元の方のお話しに依ると、本堂内には金子恵美子さんの墨絵が、紹介した「太陽をとれ」を始めとして、20点余りが収められているそうよ。

境内を進むと多羅葉(たらよう)の木の根本に八重椿と刻む石碑が建つのが見えて。八重椿とあることから植栽された椿の木に因むものと思い、その椿が辺りにあるハズ−と見回してみたのですが見当たらないの。それもそのハズ、この石碑にある八重椿とは社名だったの。碑には「香油八重椿本舗 伊藤恵十郎殿」と、寄進者の名が記されているのですが、何を寄進したのかと云えば「昭和24年(1949)米山薬師再建にあたり 職人手間百人分として金伍萬円也寄進」とあるの。今の貨幣価値に換算すると200万円位になるかしら。

調べてみるとこの八重椿本舗さん、現在までに通算で100年以上も経て来ている会社だったの。何と明治36年(1903)には前身となる三友商会を創業しているの。当初は主に英国製の商品を扱っていたみたいね。この石碑に記される昭和24年(1949)には社名をそれまでの三友商会から八重椿本舗に改称しているの。寄進はその節目に際し、社業のより一層の発展を祈念してなされたものかも知れないわね。クロイスターズ の会社情報に依ると、現在はグループ企業の一員として、主に化粧品のOEM生産をしているようね。あなたの使用しているコスメ・グッズ、実はこちらの会社が企画&生産しているものだったりして。(^^;

次に見掛けたのがこの社殿よ。小さいながらも銅葺の屋根に加えて見事な彫刻が施された造りで、何やら謂われがありそうな雰囲気なの。どんな神さまが祀られているのか分からず、最初は常安寺の守護神として稲荷神でも祀られているのかしら−と思ったのですが、こちらの小堂、実は千手観音を祀る観音堂だったの。傍らに建つ石碑には 米山観音縁起 馬場宗光翁之碑 とありましたが、まさかこの小堂のことだとは思いもしなかったの。その碑文を紹介してみますね。

宗光翁は市内下唐子の人 旧制川越中学より東北帝大に学び 内務省に職を奉じ 電源開発の技師として広く各地に足跡をしるす 晩年帰郷し 郷土開発の一助として当山西方の丘陵にゴルフ場の建設を計画し 当寺を訪れてその志を述ぶ 拙僧は元村長坂本忠三郎氏に諮り賛同して協力を約す 翁はこれより在京の知人を説いて会社を設立し事業を推進せんとするに事志と違い種々の困難に逢遇し進退に窮し大いに苦しむ たまたま浅草寺に詣で観世音に祈願して占いを乞うに 努ムレバ必ズ成ル との籤を得て深く心に決するところあり 尓来営々努力の末 昭和33年(1958)11月仮開場をなし翌年竣功ついにその志をとぐ

茲において翁はこの業の成れるは諸人の協力と観音の加護によるものとし恩徳に報謝して永くこれを記念せんと浴し この堂を建立して千手観世音をまつり米山観音と称し奉れるものなり 翁はまた地方開発にすぐれたる構想を有し 将軍沢ダムの計画 武蔵中央縦貫道路の建設等を発案し関係省庁に建議する等大いに郷土の発展に盡力せるも昭和41年(1966)6月世寿70年にして永眠す 現今の関越高速自動車道はけだし翁の発想というべく今年この道路の着工を見るに及び深く翁の徳を追慕し 米山観音縁起一文を草し 小碑を建つるものなり 昭和47年(1972)春吉祥日 医王山39世 量海

境内の最奥部に建てられているのがこの薬師堂なの。【風土記稿】には「昔小名米山にありし故 米山藥師と號す 藥師は座身にて慈覺大師の作と云」とあるの。この小名と云うのは、町や村を小分けにした区域の名のことで、この辺りは嘗ては米山、或いは米山原と称していたことに依るのだとか。薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来で、別名・大医王仏とも呼ばれるの。この常安寺の山号・医王山はこの薬師如来の別称に由来すると云うわけ。薬師如来は遍く瑠璃色の光で衆生を照らし、人々の病の苦しみを癒し、内面の心の苦悩を除いてくれるの。医療技術が発達していなかった当時の人々は病苦からの救済を願い、薬師如来に頭を垂れていたの。

4.(再び)彫刻通り ちょうこくどおり

拝観を終えて境内を後にしましたが、敷地の南側には薬師沼と名付けられた大きな池や墓苑が続くの。それらを辿りながら歩くと再び彫刻通りに出ますので道なりに進んで下さいね。左掲は『裸婦立像』(1963年作)ですが、作者のコメントには「創作活動とは孤独な行為である。ことに彫刻藝術は、「心ある者」のみをその前に立ち止まらせ、そして無限に語りかけてくれるものであろう。彫刻自体が独りあるものなのだ」とあるの。これは分かるような気がするわね。数ある中でこうしてレンズを向けた訳ですから、この像には何か瞬間的に惹かれるものがあったと云うことよね。さて、それが何かと云うとことばでは上手く云い表せないのだけど。

彫刻通りではボランティアの方々の手になるものでしょうね、100m程にわたり花壇が設けら、色取り取りの草花が沿道を飾り立てていましたが、西本宿の交差点を過ぎても道端には所々に御覧のように花が咲くの。こぼれた種が発芽したものや、雑草の類も交じるのですが、それでも緑が多いと云うのは羨ましいわよね。

花 花 花

西本宿の交差点を過ぎて県道R212を歩いているとまもなく右手に御覧のような案内板が見えて来ますのでこれを右折して下さいね。最初にこの高坂を訪ねた時にはその存在を知らずに、「足利基氏の館跡」とあるのを見つけて大いに期待して訪ねたの。それでも一時は、足利基氏は室町幕府で初代鎌倉公方に任じた武将なので、この地に館があったと云うのも変よね−と思ってはみたものの、定住しないまでも一時期は屋敷が建てられていたのかも知れないわね−と思い直して訪ねてみたの。

5.足利基氏塁跡 あしかがもとうじとりであと 13:21着 13:26発

「足利基氏の館跡」入口から歩くこと10分位かしら。場所が分からずに歩いていたので通り過ぎたと思い、戻り掛けたところで草叢に埋もれるようにして建つ杭 (^^; を見つけたの。それが「足利基氏塁跡」の場所を示す指導標だったの。画面左手の草叢に御注目下さいね。白い杭状のものが少しだけ頭を覗かせているの。これが目に留まらなければ分からずに通り過ぎていたと思うわ。辺りには民家こそ散見するものの、幹線道路からは完全に離れているので、場所を訊ねようにも道を歩いている人がいなかったの。確かに真夏の炎天下だったこともあるけど。(^^;

脇道を通りながら進むと案内板が建ちますが、それに依ると目の前の田圃が堀跡だと云うのですが。更に奥の山林には物見台があったと記すので一応は分け入ろうとしたのですが、ヘビでも出て来そうな雰囲気に諦めました。(^^; 左掲はそのとば口から堀跡を返り見たものよ。門外漢のξ^_^ξにはどうみてもただの田圃にしか見えなくて。案内板には実測図も掲示されていましたのでその一部を転載してみますが、背後に斜面を控えた平地には民家が建ち、山上にはゴルフ場が造成されるなど、今となっては嘗ての遺構を知る由も無いのかも知れないわね。

東松山市指定文化財 足利基氏の塁跡 昭和40年(1965)8月10日指定
足利基氏は鎌倉公方と呼ばれ、南北朝時代に活躍した武将で、足利尊氏の次男として暦応3年(1340)に生まれました。館の跡は高坂台地西側の斜地に立地し、九十九川に向かって下り、南面が大きく開口しています。北と東西に土塁跡、東西に堀跡が残っています。館は堀を含めると東西180m、南北80m前後の規模とみられ、北面中央部の東寄りが山側に突出した形となっています。このすぐ東側で北と東の土塁の交点には、物見台とみられる高まりがつくられています。東と西側の土塁の外には、現在、水田となった水堀が往時の面影を伝えています。

南面は後世に大きく変化していますが、九十九川と谷筋の湿地が外敵を防ぐ役割を果たしていたとみられます。新編武蔵風土記稿にも記載されていますが、この館跡は足利基氏が貞治2・天平18年(1363)に反乱をおこした、芳賀高貞(はがたかさだ・宇都宮氏の一族で下野国の豪族)と、いわゆる「岩殿山合戦」を行った時に布陣した場所で、本陣がおかれた可能性が高いと思われます。しかし、基氏は長期の滞在はせずに、すぐに下野国に陣を進めています。そのためこの館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を陣地として利用したものと思われます。平成15年(2003)3月 東松山市教育委員会

説明では館跡ではなく塁跡としていますが、記述にある地元豪族を比企能員に比定する見方も一部にはあるようね。比企能員の館跡を足利基氏が塁として利用したと云う説。東松山市発行『東松山市の歴史』では「板東第十番武蔵国比企郡岩殿山之図(正法寺蔵)に比企判官旧地が描かれ、この塁跡付近に該当することから、鎌倉時代に比企能員の館があった場所とも想定出来るとしているの。

6.弁天沼 べんてんぬま 13:30着

「足利基氏の塁跡」を後にして更に道なりに歩くと見えてくるのがこの弁天沼。傍らの案内板には「昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼が出来たと云われ、蛙が棲みつかないところから「鳴かずの池」と呼ばれたと云い伝えられています」とありましたが、水面は御覧のように一面が水草に覆われ、時折、ポチャリと水音も聞こえて来るので鯉でも泳いでいるのかしら−と思いきや、その正体は蛙だったの。水草の上にのろうとしてみたものの、暑さで干上がってしまいそうで慌てて水面に戻ったのでしょうね。(^^; 水面に映る弁天橋を想像して訪ねたξ^_^ξですが、この大量発生した水草にはちょっと興醒めね。右端は12月に再訪した時のものですが、地元の方々が除去したのでしょうね、水面を埋めていた水草はどこへやら。弁天島を水面に映して静かな佇まいを見せていました。

沼に浮かぶ弁天島には由来を記す石碑が建てられていました。刻まれた文字も鳥の糞などの汚れで埋もれ、一部判読不能な文字もあるのですが、目視拓本 (^^; にチャレンジしてみましたので紹介してみますね。もし、誤りがあるようでしたら御指摘下さいね。因みに、堂内に祀られる弁天さま、琵琶こそ抱えてはいるけど髪は日本髪なの。紅をさしているので琵琶を三味線に持ち替えたら芸者さんになってしまうわね。加えて、その弁天さまの前には幾つもの蛙の置物があるの。弁天さまの眷属が蛙だったとは知らなかったわ。(^^;

延暦の頃 山中小惡龍をりて 老幼を害し 田畑を荒し 人々困難せるにより 國司此由を朝廷に奏聞申ししに 偶坂上田村麿將軍東夷征伐の勅命ありしかば 途すがら惡龍退治の仰せを承り 富士野を經て武藏野に入り 當地に着して退治の加被力を觀世音に祈り玉ひしに 滿願の夜(延暦20年5月30日也と云ふ)尺餘の降雪あり 將軍は直ちに山に登りて惡龍の在る處に近づき 薩捶加被の一箭に之を射殺し玉ひ 頭を斷ちて此處に葬し 胴躰を荒神堂に埋めたり 後 將軍再び東國征伐の朝命を奉り 當山の伽藍を造營し 此の塚には辨財天を勸請して軍陣辨財天と稱し 惡龍の冥福を修し玉ふ 以來 池中に蛙聲を聞かずと 人呼んで不鳴池と稱せしとぞ 今や壹千百有餘年を隔るの後 大正の聖代に當て塚域を修理し 新に堂宇を建て 一は草創の高徳に報ひ 一に辨財天の智徳の四方に加被せられんことを祈ると云爾 〔 一部修正加筆す 〕

この弁天沼は悪龍退治に伴い出来たものと伝えられているけど、天正年間(1573-91)に巌殿観音を中興開山した英俊が農民のためにこの溜池を造ったと云うのが本当のところみたいね。それがいつしか過去への遡上を始め、逸話が再構成されてしまったみたい。【風土記稿】には「総て山丘の地にして天水を仰ぐ所なれば ややもすれば旱損す」とあるように、この辺りでは水不足の心配が常にあったみたいね。悪龍と雖もそこは龍、水を司る龍神として降雨祈願の対象ともなり、龍を神使とする弁才天へと繋がるの。

弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。

7.阿弥陀堂跡 あみだどうあと 13:45発

弁天沼と道を隔てて東屋が建ち、傍らには榎の大木が聳えていましたが、樹齢は分からないまでも幹周りが約3mもある巨木で、平成21年(2009)には「東松山の名木」にも指定されているの。葉が生い茂る樹下で涼をとりながらキャンバスにこの榎を描く方の姿を見掛けたこともありましたが、幹の根元は既に空洞化しつつあると云うのに、蒼々とした葉を付けた枝を天空に広げるさまは蓋し精霊が宿る面持ちでした。因みに、東屋には近在の方が持ち込まれたものでしょうね、寄せ植えの盆栽が置かれ、この後訪ねる巌殿観音を案内する栞なども用意されていたの。

石仏 その東屋の背後には石仏が並び立ち、更に奥の斜面には墓苑が広がるの。今でこそ堂宇に変わり集会所(岩殿会館)が建ちますが、嘗てこの辺りには阿弥陀堂が建てられていたと云うの。大東文化大・磯貝富士男教授の考察に依ると、元は観音堂の傍らに建てられていた阿弥陀堂が永禄年間(1558-1570)に兵火を被り焼失、祀られていた阿弥陀如来像も居場所を失い、山内を転々としていたそうなの。それが元禄年間(1688-1704)にこの弁天沼の傍らに堂宇を構える運びとなり、以後はこの地に遷されたとのこと。その阿弥陀堂ですが、明治の初め頃まではこの地にあったみたいね。

傍らに「阿弥陀堂の板石塔婆」の案内を見つけて、どれがそうなのかしら?と辺りをウロウロしてしまいましたが、何と墓苑の中にあったの。東松山市教育委員会が建てた案内板も既に30有余年の風雨に耐え、一部の文字はかすれて判別できない程なの。あと30年もしたら何が記されていたかも分からなくなるかも知れないわね。一方で手間暇掛けて一字一句が刻み込まれた板碑の方はと云えば、600年以上を経た今も、造立者の意志をしっかりと伝えているの。

阿弥陀堂の板石塔婆 - 昭和40年(1965)8月市指定

真言不思議 ・・・・・
観誦無明除 ・・・・・
胎臓界大日 于時応安元年申戌八月二日庵主朗明超上人
一字含千理 ・・・・・
即身證法如 土入秘教王之尤本者求如之説国 性普門世界国他用也

高さ2.61m、幅0.52-0.59mを計ります。蓮台の上の種字は胎臓界大日如来をあらわし、その下に「真言不思議観誦無明除一字含千理即身證法如」の四行の法華経の偈文が刻まれています。更に「于時応安元年申戌八月二日庵主朗明超上人」の碑文を中心に右左に五十余名の法名と「土入秘教王之尤本者求如之説国性普門世界国他用也」の碑文が見られます。これらの碑文から、朗明超上人が同門の僧侶と真言密教の功徳をあらわしたもので、応安元年(1368)に造立したものです。昭和51年(1976)3月 東松山教育委員会

案内文を転載してみましたが、誤りがあるかも知れません。(特に前半部)
御指摘頂ければ幸いです。m(_ _)m

花いっぱい運動 阿弥陀堂跡を後にして巌殿観音へと向かいましたが、九十九川の手前で見つけたのがこの花壇。「ようこそ 歴史と伝説の里 岩殿へ」のメッセージと共に「花いっぱい運動 岩殿花の会」の名がありました。先程、阿弥陀堂跡にある東屋では、巌殿観音の栞を頂戴して来ましたが、栞には高坂ハートピアまちづくり協議会の名もあるの。どちらも住む土地を愛されるが故の活動よね。

8.惣門橋 そうもんばし 13:57着発

紹介した花壇と車道を挟んで九十九川が流れるの。その九十九川に架かる小さな橋が惣門橋。その名から推して嘗てはこの辺りに山門が建てられていたのでしょうね。御覧のようにこの惣門橋から巌殿観音(正法寺)の仁王門までが一直線になっているの。建ち並ぶ家々も道もすっかり新しくなり、往時の縁を今に求めることは出来ませんが、嘗ての参道の名残りがこの直線道路と云うわけ。最奥部にちらりと見える屋根が仁王門になるの。

参道マップ 〔 巌殿観音門前町並 〕 惣門橋から巌殿観音正法寺の石段下まで、やや登り気味に参道が一直線に伸びている。江戸時代に板東三十三所観音霊場巡りが普及すると、第十番札所として巌殿観音は比企地方はもとより関東各地にまで知られ、縁日には多くの信者で賑わった。惣門橋内の「院内」には正学院をはじめ、嘗て三十六坊には僧がおり、修験者が訪れ、昭和の初めまで多くの旅館や商店が軒を並べていた。図を見ると、その屋号から当寺の賑わいが偲ばれる。平成5年(1993)3月 東松山市観光協会

※掲載した図は案内板のものではなく、先程紹介した高坂ハートピアまちづくり協議会の方々が作成した巌殿観音の栞に掲載されるものを利用させて頂いていますので、御注意下さいね。

ここで【遊歴雑記】に当時の様子を彷彿とさせる記述を見つけましたのでちょっと紹介してみますね。同著は十方庵敬順が今から200年程前の文化・文政期に江戸内外の名所旧跡を訪ね歩いた際の紀行文ですが、この巌殿観音にも訪ね来ているの。全文を掲載するとなるとかなり長くなるのでその一部を転載してみますが、敬順が旅情豊かにしたためていますので、出来ましたら原著で全文をお読み下さいね。

爰より觀音前石坂際まで三町 その間兩側には家居立ならび なを町の半を過てより泊店あり 酒食をひさぐ家ありて 肆店少なからず 旅店は門前に五六軒粒だちし中にも 石坂下左り側なる橘屋文藏とかや家居よしと聞傳えて その家に旅泊せり‥‥ 中略 ‥‥かかる山間の僻地にも人の住ひて數百の軒を竝べ 作業の暇に雅事に遊び 渡世を豐かにし 家内八九人こころよく暮らすは 眼前此觀音の妙智力の餘慶といわん歟

余談ですが、橘屋の主にしても「雅人にして活花數十瓶を別室に竝べ 俳諧の風雅を嗜み」とあり、そこは同じ閑雅を好む者同士、会話が弾み、主からは巌殿観音の別当や近くの友人知人を集めるのでもう一両日留まるよう勧められているの。その誘いにのるのかと思いきや、今度は日が暮れかかった頃に石工職を名乗る男が投宿してくるのですが、同宿の運びとなり、「松露を煮〆たるを高盛にしたるを肴に味淋酒を取よせ 只ふたり飮宴し終り 翌日は此男を友として箭弓稻荷へ罷らんと約して おのおの臥床に入ぬ」となるの。「獨行のこころ安さは日毎の連れ 夜毎の友 その時々に變りて 見ぬ國の噂 知らぬ土地の咄しの面白く 又はその人々の風俗方言・賢愚利鈍の差別の品々あるも一興にして 旅中の伽と云ふべし」と極めておおらか。素敵な旅よね。

9.判官塚 ほうがんづか 14:02着 14:07発

判官と聞けば源義経のことを連想されるかも知れませんが、ここでは判官は判官でも比企能員のことなの。律令制の下ではどの役所でも役人を長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官に分けて仕事を振り分けていたのですが、中でも司法警察とも呼ぶべき検非違使庁には大尉(たいじょう)、少尉(しょうじょう)と云う三等官の役人がいて、主に罪人達の追捕、処刑を任としていたの。なので、本来なら判官(じょう)の階級にある役人の意なのですが、こと、検非違使に限り、判官を「ほうがん」と読ませて区別したの。敢えて云うなら検非違使の別称ね。

判官塚 その職掌からして武士がなることが多かったと云うわけ。その検非違使も更に左衛門・右衛門に分かれ、それぞれに大尉、少尉がいたの。因みに、比企能員の官位名は右衛門尉よ。何だ、それじゃあ大尉か少尉か分からねえじゃねえか−と思われるかも知れないわね。でも大丈夫よ。大尉には公家が、少尉には武士が任じられるのが通例だったの。一時は鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外戚として権勢を振るう能員ですが、それでも武士の身分を超えることは出来なかったと云うことよね。因みに、地元ではこの判官塚を親しみを込めて「はんがんさま」と呼んでいるそうよ。

石祠

〔判官塚由来〕 判官塚は比企判官能員の追福のため築きしものと云い伝う。その由来は詳ならずと新編武蔵風土記稿に誌るされている。比企判官能員は鎌倉時代源頼朝の御家人で、比企入間高麗三郡の守護職にて、母・比企禅尼は頼朝の乳母、娘・若狭局は二代将軍頼家の夫人であるので、北条時政と並ぶ鎌倉幕府の有力者であった。頼朝の死後、建仁3年9月2日(1203)、時政の謀略により鎌倉の時政邸内で暗殺された。後、建保6年(1218)頃岩殿山に居た能員の孫員茂は、観音堂の東南の地・南新井に塚を築き、能員の菩提を弔ったと云う。何時の時代か比企大神として祭り崇め、参拝するようになり、今日に至ったもの。このたび大東文化大学キャンパス開発造成工事に伴ない構内となるため、氏子一同相計り現在地に遷し祭る。昭和58年(1983)10月吉日建立

石段

判官塚へのアプローチですが、参道の左手に注意しながら歩いて下さいね。並び立つ民家の間から御覧の階段が見える瞬間があるの。後は道なりに大東文化大の校舎が見えて来るまで斜面を登り切って下さいね。鳥居はその校舎側を向いて建てられていますので背後からの参詣になるの。何故そうしたのかはξ^_^ξには分かりませんが、鳥居の前には参道は無いの。多少の古雅を期待して訪ねた判官塚ですが、いざ目の前にしてみると、明治は遠くになりにけり−の世界ね。傍らに植えられた木の陰に小さな祠がありましたが、元の場所に置かれていたものかしら?再訪時には機械化部隊 (^^; が判官塚の周囲で何やら工事中でしたが、今度は摩天楼でも造る積もりかしら。ビルの狭間で今にも押し潰されそうにポツネンと佇む判官塚にならないように祈るわ。


道標 判官塚から再び参道に戻り来たのですが、対面に石標が建つのが見えたの。「岩殿 唐子村ヲ経テ菅谷鬼鎮神社ニ至」とあることから、そう遠くない所にあるものと思い、後日、矢印を頼りに歩き始めたのですが、行けども行けどもそれらしき建物も見当たらず、民家も途切れて道は山中に向かい、ついには市民の森へ辿り着いてしまったの。この時は未だ鬼鎮神社が武蔵嵐山の菅谷にあるものだとは知らずにいたの。まさか、そんなに遠くにあるものだとは。(^^; 尤もそのお陰でちょっとは見聞が広められたかしら。ここでしばしコーヒー・ブレイク。その時の顛末を紹介してみますね。

先ず最初に興味を覚えたのは鬼鎮と云うユニークな名称よ。石標が建てられたのも古そうでしたから今となっては社殿の社の字も無いかも知れないけど、それでも何かの痕跡が残されているかも知れないわ−と思ったの。今思うと後先を考えない無茶な発想でしたね。歩いたのは12月のことですから田畑で作業する方の姿も無く、辺りはすっかり里山の風情。

鬼鎮神社のことが気になる方は 嵐山町のお散歩 を御笑覧下さいね。
CM でした。(^^;

里山 水路 溜池

その内、山林も途切れて田畑が見えて来て、巌殿観音へ至る山道※などもあったの。更に進むとその巌殿観音がある方向と思しき山合からチョロチョロと水が流れ来ていて。綺麗な水でしたので湧き水でもあるのかしら?と流れを辿って見つけたのが御覧の藤井沢沼(だと思うの)。湧き水では無かったものの、こんな所に沼があるとは、ちょっと意外でした。これが谷津田だと云うことは後になって知ることになるのですが。

※東松山市発行の『東松山市史』に依ると、下神戸には「かんのんどう」と呼ばれる田畑の開けた谷(やつ)があり、ここを神戸村から巌殿観音への(裏参道とも云うべき)道が通じていて観音道と呼ばれているのだとか。それ以外にも観音道と呼ばれる小径が幾つか残されているみたいね。全ての路は巌殿観音に通ず−と云ったところかしら。

森 この後、更に先を目指して歩き始めたのですが(実は、逆方向からハイカーの方が歩いて来られたの。ことばを交わした訳ではありませんが、ハイカーの方が歩かれる位なのだからちゃんとどこかに繋がっているハズだわ−と安心したの)、気付いたら市民の森へ迷い込んでいたと云う訳。この時点で鬼鎮神社の探索は諦め、今度は市民の森からの脱出 (^^; を思考し始めたの。とは云え、元来た道を戻るのも芸のない話しですので、方角を確かめながら山中の道を彷徨い歩いたの。その市民の森で見つけた案内板を二つ程紹介しておきますね。

〔 谷津田 〕 この辺りには昔ながらの土地利用の面影が残されています。小さな谷の奥には溜池が作られ、下手の階段状に作られた水田に水を流しています。周りの斜面には良く手入れされた雑木林が広がり、谷を安定させています。そうして全体は見事に調和した環境を作り、沢山の生き物を養っているのです。こうした水田を谷津田と云い、いわば水田農耕の原点のような風景となっています。谷津田の構造−斜面の雑木林に囲まれた谷状地形に階段状の棚田を作り、一番奥に溜池を掘ります。東松山市・埼玉県・環境庁

案内板 〔 里山の移り変わり 〕 関東平野の西端に当たるこの付近は、縄文の時代にはカシ・シイなどの照葉樹林でした。稲作農業を始めた昔の人は、この林を切り払ってコナラなどの雑木林を作り、落ち葉を水田の肥料にしました。このような林を里山と云います。雑木林では炭を焼いたり、薪を作ったりもしました。根本から何本も幹が立っている木は、一度伐採されたり切り株から出た芽が成長したもので、この林の歴史を物語っています。

しかし、石油や化学肥料が広く使われるようになると、雑木林の価値は次第に認められなくなり、農村の過疎化や都市化が進むと共に、手入れもされないまま放置されたところが多くなりました。大きくなりすぎた木を切ったり、下草を刈り払ったり、落ち葉を掻き取ったりしなくなった雑木林は、暗い雰囲気の林に変わってしまいます。この付近の林がさっぱりとした印象があるのは、日頃の手入れが行き届いているからなのです。東松山市・埼玉県・環境庁

森 訪ねた季節が良かったのかも知れませんね、足許では枯葉がコソコソと音をたてて。怪我の功名ですね、説明にあるような里山の風情を感じながら歩くことが出来ました。かなりのアップダウンもあるけど短い距離のことですし、要所要所には道標もあるので迷うことはないと思うわ。途中では何組かハイカーの方々にも出会いましたが、気が付けば物見山公園の前にひょっこりと出て来ることが出来たの。全部で小一時間程のお散歩でした。


閑話休題、お話しを元に戻しますね。嘗ては参道に36坊もあったと云う僧堂も今は昔ね。僅かに往時の名残をとどめる小堂を二、三見つけただけでした。鳥居を見つけて訪ねた熊野神社にしてもまた然り。瀟洒な建物に埋もれるようにして、支えを失った寺社の類は確実に忘れ去られてゆく運命にあると云うことね。猛き人も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ−ね。ゴ〜〜〜ン。

坊 坊 坊 熊野神社

10.正法寺(巌殿観音) しょうぼうじ(いわどのかんのん) 14:21着 14:43発

今でこそ巌殿観音=正法寺ですが、【風土記稿】には「別當 正法寺 眞義眞言宗 醍醐無量壽院末 岩殿山修善院と號す 昔は岩殿寺といへり」とあるように、嘗ての正法寺は巌殿観音の別当寺として機能していたの。仁王門の右手には御覧のような小振りの山門が続きますが、そこから先が正法寺の本堂や納経所、庫裏になるの。一方、仁王門を潜り抜けて石段を登った先が観音堂になるのですが、この伽藍配置ではどうしても正法寺の方が境外堂に見えてしまうわね。今となっては、どっちでもいいんじゃないの〜だけど。(^^;

※ 追記 ※ 正法寺は「しょうぼうじ」と濁音で訓んで下さいね。地元の方によると、岩殿にしても地名の場合は岩殿でOKですが、観音さまを指す場合には巌殿の字を充てるのだとか。昔はお隣の吉見町にある 岩殿山安楽寺(吉見観音) も岩殿観音(吉見の岩殿)と呼ばれたことから、両者を区別するために正法寺側では巌殿としていたそうなの。今では観音さまでも岩殿が一般化してしまいましたが、住持の方は今でも巌殿に拘っていらっしゃるそうなので、拝観時には要注意よ。(^^;

〔 正法寺 〕 真言宗智山派の寺院で、岩殿山修善院と云い、また、岩殿寺とも云う。源頼朝の命により、比企能員(よしかず)が復興した古刹であり、天正2年(1574)僧・栄俊が中興開山となっている。天正19年(1591)徳川家康より寺領25石の朱印地を与えられた。観音堂は養老年間(717-724)僧・逸海の創立と伝えられ、正法庵と称し、鎌倉時代に板東十番の札所となった。千手観音が祀られており、西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。源頼朝の妻、政子の守り本尊として信仰が厚かったと云われている。

仁王門の仁王は運慶の作と云われている。当寺には延暦10年(791)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命に依って奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治した伝説がある。尚、正法寺には県指定史跡の六面幢、県指定歴史資料の銅鐘、市指定歴史資料の鐘楼がある。埼玉県

余談になるけど、こちらの仁王さんには面白い逸話が残されているの。

【観音霊験記】に依ると、高麗郡の中山村では毎年天満宮の神前で相撲の奉納神事が行われていたのですが、中山村の者は誰一人として勝ち進むことが出来ずにいたの。恥辱を晴らすべく、今年こそはと、この巌殿観音に参詣して祈願したところ、何とこちらの仁王さま、仁王門を抜け出して姿を変えると中山村の若者になりすまし、昼夜勝ち進んだと云うの。その翌日からは人々が貴賤を越えてこの巌殿観音へ群衆参詣するようになったのだとか。何でも天正19年(1591)2月下旬のことだそうよ。今からざっと400年以上も昔のお話しだけど。

石段を20段程上った左手には石碑が建てられているの。碑文には
奉為当寺前別当左金吾禅門覚西
正嘉元丁巳八月彼岸第三岩殿寺
出離生死証大菩提所奉造立如件
衆徒
敬白
とあり、謀殺された比企能員が嘗ては正法寺の別当職を務めていたこともあり、一山の僧侶がその菩提供養のために建てたものと伝えられているの。碑文に左金吾禅門覚西とあるのが比企能員のことで、左金吾とは左衛門督(さえもんのかみ)の唐名(中国式の官職の呼び方)なの。

But 左金吾と云うのはちょっと変ね。比企能員の官位は最高位でも右衛門尉のハズよね。それに、左金吾と云えば普通は【吾妻鏡】にも記されるように源頼家のことを指すの。これでは将軍職にあった頼家と御家人の比企能員が同じ官位にあったことになってしまうわね。衛門=金吾として督と尉の違いを無視したとしても、右はどう考えても左にはならないわよね。確かに衛門尉の官位は鎌倉時代以降に形骸化してしまうけど。それともξ^_^ξの理解にどこか間違いがあるのかしら?

左金吾禅門覚西を比企能員のことだとする巷の説は間違いのようね。
左金吾とあるからにはやはり源頼家を指すものと考えるべきものみたいね。

※追記  高志書院刊 埼玉県立嵐山史跡の博物館編 【東国武士と中世寺院】に収められる論考「比企の観音霊場をめぐる武士たち」の中で落合義明氏は左金吾禅門覚西を伊賀光宗に比定しているの。光宗は式部入道光西と名乗り、正嘉元年(1257)正月に亡くなっているのですが、碑文に記される覚西は光西の誤写ではないかとしているの。そうして、鎌倉に住したまま、正法寺別当でもあった伊賀光宗の菩提を弔うために、正嘉元年(1257)当時、政所別当であった光宗の甥・北条政村が中心になって衆徒らにこの石碑の建立を命じたのでは−と推考しているの。論拠となる背景など、詳しくお知りになりたい方は同著を御参照下さいね。

更に石段を上ると踊り場には御覧の立て札があるの。説明には「この制札(高札)は戦国時代の松山城主上田宗綱朝直が発したもので、岩殿山一帯の木や草を刈り取る事を禁じたものです。文書は正法寺に現存していますが、この木製の高札は、市内永福寺所蔵の戦国時代の天文22年(1553)北条氏が交付したものをモデルに復元したものです」とありましたが、高札には「せい札 岩殿八王子山におゐて 木くさかり取るべからず そのため印判を進候 仍如件 乙亥十二月十一日 宗綱」と記されているの。

乙亥とあるので室町期末の天正3年(1575)のことになるかしら。でも、禁止する高札が立てられたと云うことは、それまで木や草を勝手に刈り取る輩がいたと云うことよね。それもどうやら半端な連中ではなさそうよ。何故ってこの高札、松山城主の名で発布されてる位だもの。普通なら「てめえら、ひとんちの草や木を勝手に刈り取って持ち出すんじゃねえ」と現行犯逮捕すれば済む話しだと思うの。でも、それだけでは止まない事情があったのでしょうね。立札の背後に隠された史実が知りたいわね。(^^;

案内板には引き続き、「東松山観光協会では平成五年度事業で当山観音堂参道の石段両側等にガクアジサイ、ヤマアジサイ等を植え、山内の桜、全山に咲き誇るツツジに続き、雨期に良く似合い、雨に濡れると更にその美しさが冴えるアジサイに依って、四季の移り変わりを味わって頂こうと計画しました。秋の紅葉と合わせて通年皆さんの心の憩いの場となれば幸いです。平成6年(1994)06月 東松山市観光協会 会長 柴崎亨 岩殿山正法寺」とあるの。

埼玉県指定名勝 物見山巌殿観音の勝 東松山市岩殿1221ほか 大正11年(1922)3月29日指定
物見山(標高135m)は比企丘陵の最高峰であり、伝説に依れば、坂上田村麻呂が東征の時にこの山に登り、四囲を眺めたことに由来する山名と云い、田村麻呂はこの時北方の雪解沢に悪龍を退治したと云う。この山は、俗に九十九峰四十八谷と称し、丘陵は波濤のように起伏している。山腹には正法寺があり、岩殿観世音を祀り、境内にはスギ・ヒノキが高く聳えている。春になるとツツジ・ワラビが人を招き、秋には紅葉青松の間にハツタケが生え、観月・秋草・虫声等の楽があり、また冬は雪曙の観光と四季を通じて景観の地である。山頂に立てば遠くは箱根・足柄・大山・富士山・秩父・信越・上野・下野・常陸の諸山から東京湾まで望むことが出来る。正法寺は板東札所三十三カ所の第十番で、養老2年(718)に開山されたと云う。鎌倉時代には頼朝・比企禅尼の信仰も厚く、廃寺を再建されたと云う。戦国時代には数回の兵火で焼け、現在の建物は天明6年(1786)の造営と伝えられる。寺前には門前の宿場が栄え、修験道の信徒等が数多く集まったと云われる。付近には次のような文化財がある。昭和49年(1974)10月 埼玉県・東松山市教育委員会

一.正法寺仁王門・薬師堂・鐘楼・百地蔵尊・六面幢
一.判官塚
一.足利基氏塁址
一.旗塚・談合塚

門前の佇まいを見下ろす位置に建つのがこの鐘楼よ。
鐘楼はさておき、(^^; ここからの眺めはお勧めよ。

こんなに華奢な柱で、重厚な茅葺き屋根と吊鐘の重さによく今まで耐えてきたわね−と感心させらる鐘楼ですが、諸行無常を伝えるにはかえってふさわしい面持ちにも見えるわね。歴史の重みは鐘楼、吊鐘共に充分に経て来ているようよ。先ずはその釣鐘の重みを必死に耐えている鐘楼から紹介してみると、「この鐘楼は元禄15年(1702)山田茂兵衛の寄進によって再建されたものです。屋根は箱棟の草葺、大棟に鳥ぶすまをのせ、置千木を三ヶ所に置いてあります。斗拱(組物)・中備・天井などの装飾は少なめで、簡素な中に雄健な吹放ちの鐘楼です。‥‥ 中略 ‥‥昭和46年(1971)6月4日 市指定有形文化財」とあるの。

一方の釣鐘はと云うと、「この銅鐘は元亨2年(1322)に鋳造されたもので、竜頭の高さ32cm、鐘身113cm、口径78cmです。銘文に依って、岩殿寺(正法寺)の貫首・覚阿の代に沙弥道阿藤原氏女が願主となり、沙弥道阿布敷氏女外2名の檀那と沙弥道阿藤原氏女外6名の助成によって奉納されたものです。‥‥ 中略 ‥‥昭和52年(1977)3月29日 県指定有形文化財」とあるの。実はこの銅鐘、しばしば合戦に引き出されたせいで銘文の一部が摩滅したりしているの。

【風土記稿】には「此鐘昔軍器に用ひ しばしば所々へ持運れしゆへ 銘字も自然に漫滅すと云 縱横に瑕數多ありて いかさま兵器に用ひたりしこと思ひ知らる」とあるの。な、なんと釣鐘が銅鑼代わりに戦陣の中を引き回されていたなんて!仏罰を恐れぬ強者共ね。尤も、どこかの国では後世に梵鐘を戦時供出させて銃火器に作り変えたこともある位だから、戦陣を引き廻す程度のことは大したことではないのかも知れないわね。損壊はあるものの、こうしてあるべき所に返して貰えただけでも素直に喜ぶべきね、きっと。ゴ〜〜〜ン。

とは云え、この正法寺、戦国期には岩殿別当坊を中心とする武装勢力でもあったの。
お寺と雖も利権を守るためには武装していたと云うわけ。まさか釣鐘も自分達が?

散策路 鐘楼の傍らに立つ道標には「ふるさと自然の道−巌殿観音森林浴コース」の案内がありましたので、少しだけ覗いてみたのですが、御覧の状態なの。枝を払いながらでないと歩けない状態で、まさに森林浴。右端に鐘楼の支柱が写りますが、入口にして既にこの状態でしたので、気後れしてしまい、これ以上の突入を断念。(^^; 足許を見ると、確かに歩きこなれた様子が見て取れるので、散策を楽しむ方がいらっしゃると云うことみたいだけど・・・。地元の方によるとこの道は先程紹介した藤井沢沼の入口に通じているのだとか。決して藪ではないそうよ。

左は百地蔵尊で、「関東百八地蔵尊霊場札所 第十三番水子・子育地蔵尊」とあるの。替わって右手は薬師堂ですが、「右御厨子 薬師瑠璃光如来像 寛文3年(1663)8月 中興廿世 照恵代」とあるので、失礼して堂内を覗かせて頂いたのですが、肝心の厨子の扉は閉じられたままで、残念ながら遍く瑠璃色の光を浴びることは出来ずに終えてしまいました。

観音堂の右手に位置するのがこの絵馬堂ですが、面白い逸話が残されているの。昔、ある有名な絵師が観音さまに願いを込めて馬の絵馬を奉納したの。ところがその絵馬に描かれた馬が夜毎抜け出しては辺りの村々の作物を食い荒らすようになってしまったの。それを聞き及んだ絵師は、その絵馬に立木を描き加えて、馬に手綱をつけて立木に繋ぎ止めたの。それからと云うもの、馬が絵馬から抜け出すこともなくなったと伝えられているの。

この巌殿観音の抜け絵馬のお話しですが、別伝があるの。物語には一人の若者が登場するのですが、何と奥州の三春(現在の福島県田村郡三春町)から大きな絵馬を奉納しに来ているの。三春は古くから良馬の産地としても知られ、一方では坂上田村麻呂の駒伝説も残るの。この巌殿観音にも坂上田村麻呂の悪龍退治伝説があり、両者の共通項を見出して後世に作られた創作話みたいだけど、知らぬ土地の咄しのおもしろさ−と云うことで紹介してみますのでお楽しみ下さいね。

むか〜し昔のお話しじゃけんども一人の若者がこの巌殿観音に訪ね来たそうじゃ。見ると四尺はあろうかという大きな絵馬を背負うておってのお、そこには雪毛のような白馬と栗毛色した若駒が二頭描かれておったそうじゃ。じゃが、それを見た和尚は「これはこれは大層立派な絵馬。なれどここは巌殿観音なれば千手観音をお祀りするところ。板東で馬頭観音と云えば(現・東松山市大字岡にある)上岡観音じゃが、なんぞ間違いではござらぬか」と、申されたそうじゃ。じゃが、若者がそれに応えて云うには「いえ、決して間違いではございません。こちらの観音さま、その昔、坂上田村麻呂将軍が悪霊退治をなされた際に祈願したところ、大層な御加護を賜ったと、奥州は三春の地にまで聞こえて来ております。実は、わたしどもの主が元へ、さるお大名さまから名馬を二頭納めよとの命がございまして。主が申すには、こちらの観音さまにお願いして、この絵馬にあるような立派な馬に仕立てて納めようと。そこでこうして遥々三春から参りました次第です」と。

それを聞いた和尚も「そのような事情が。さればこれも何かの縁。早速、観音堂に掲げて朝夕祈願することに致しましょうぞ」と。そうして若者は観音堂に向かい絵馬を掲げると、和尚に奉納の読経をして貰ったそうじゃ。その夜は和尚の勧めもあって庫裏に一泊すると、次の朝に早立ちして三春に帰っていったと云うことじゃ。じゃがのお、それからというもの、不思議なことが起こるようになってのお。山を一つ越えた隣の神戸(かんべ)の里でのことじゃが、夜毎、丑の刻の時分になるとどこからか二頭の馬の蹄の音が聞こえてくるようになってのお、じゃが、誰もその姿を見た者はおらんでのお。

そうしてその翌年の春のことじゃが、苗代に水を張る時分になってのお。神戸の若いもんが榛名山に降雨祈願の代参に出掛けた時のことじゃったそうな。榛名山は遠いで、夜が明けるのも待たずに家を飛び出したんじゃが、都幾川を渡ろうと川原に降りていくと、そこでは雪毛と栗毛の二頭の馬が川の水を飲んでおったそうな。二頭の馬は人が近づいて来たのに気づき、一声高くいななくと飛ぶようにしてその場を走り去ったと云うことじゃ。

よもや、そんなことが起きておろうとは知らぬ和尚じゃったが、きょうもいつものように観音堂で朝の勤行を済ませて、庫裏に戻ろうとしておったのじゃが、ふと絵馬を見上げてみると、何と昨日の夕方に読経した時には確かに描かれておった雪毛と栗毛の二頭の馬がすっかり消えてしまっておってのお、ただの白木の絵馬になっておったそうじゃ。不思議なことがあるものよのお−と感心しきりの和尚じゃったが、それから10日余り経ってからのことじゃった。あの雪毛と栗毛の二頭の馬の絵馬を奉納した若者が三春からまた絵馬を背負うて訪ね来たそうじゃ。若者が云うには「こちらの観音さまのおかげでさる大名家へ無事雪毛と栗毛の二頭の馬を納めることが出来ましたんで、きょうはその御礼にこうして別の絵馬を用意してまいりました」とのことじゃった。

それを聞いた和尚も「なるほど、そう云うことでございましたか。実は昨年奉納して頂いた絵馬ですが、10日程前から描かれておりました二頭の馬が消えてしまい、今は御覧のようにすっかり白木の絵馬になってしまいましてのお」。若者も「なるほど、それでわたしも合点がまいりました。ちょうど10日程前になりますか、わたし共主の家の庭先に、いきなり雪毛と栗毛の二頭の馬がどこからか飛び込んで来まして、それはそれは大騒ぎになりまして。これもこちらの観音さまの御利益のお陰にございます。この話を聞けば、わたしどもの主も殊の外喜びましょう、一刻も早く帰り、主にも申し伝えましょう」と。和尚はきょうのところは旅の疲れを休め、明日改めて出発されたがよかろうと勧めてみたんじゃが、若者は鄭重に辞退すると足早に三春に帰っていったと云うことじゃ。とんと、むか〜し昔のお話しじゃけんども。

その絵馬堂から観音堂に続く背後の岩肌には石仏が並び立ちますが、四国八十八ヶ所(写)の石仏群になるの。「写」と云うのは早い話しがコピーのことなの。実際に現地に赴いて霊場めぐりをするのは経済的にも体力的にも大変なことよね。そこで各地の霊場に祀られる諸仏を石仏として刻み、代わりにその石仏を拝むことで霊場巡りと同じ功徳が得られるとしたの。お馴染みの「お遍路さん」が巡るのがこの四国八十八ヶ所になるの。元々は御大師さまこと、弘法大師縁の修行地蹟を巡り歩くことを指していたのですが、後世になると縁ある地に堂宇が建てられ諸仏が安置されたことから、札所めぐりとの区別も「よう分からんけえのお〜」になってしまったの。

札所めぐりの対象は観音霊場ですが、中でも人気を集めたのが西国三十三所・板東三十三所・秩父三十四所を合わせた百観音霊場なの。霊場の成立時期も西国・板東・秩父の順になるのですが、元々は秩父の札所も三十三所だったの。西国三十三所を模倣したのが板東三十三所なら、秩父もまた然り−のハズだったのですが、後発故の悲しさね、西国と板東の隆盛に比べると秩父に足を伸ばしてくれる人が少なかったの。西国と板東がセットで考えられるようになりつつある中で、秩父への集客力 (^^; を図る手段として編み出されたのが三者のフル・セット化なの。そうなると秩父を三十四所にして、全部で百ヶ所にした方がキリが良かっぺ−と云うわけ。

じゃあ、いつ頃から秩父三十三所が三十四所に化けたのよ−となるのですが、室町期の天文年間(1532-1554)辺りを境にして成立していったみたいね。その後、西国・板東・秩父の札所に倣い、各地に霊場がつくられていくのですが、何と江戸時代には北は陸奥出羽から南は九州まで、70ヶ所もの観音霊場がつくられたと云うのですから驚きよね。尤も一方では新たにつくられたとしても「詣づるもの一人だになし」の状態の札所もあったみたいよ。百観音霊場はそんな中で突出した集客力を持つ札所だったの。

観音堂背後の岩肌には百体余の石仏が並ぶことから、当初のξ^_^ξはてっきり、その百観音(写)を祀るものだとばかり思っていたのですが、本当は四国八十八ヶ所(写)で、百観音(写)は崖上の藪の中にあることを地元の方に教えて頂いて初めて知ったの。加えて、百観音が祀られる場所は地元では「賽の河原」と呼ばれ、嘗て地獄の声が聞こえる−と云われた「穴」があると知らされたの。誘惑には打ち勝てずに後日改めて訪ねてみたのが、左掲の百観音霊場(写)ですが、藪の中にある−と聞き、多少の覚悟はしていたのですが、実際に踏み込むにはやはり勇気と、恐いもの見たさの旺盛な好奇心が必要でしたね。(^^;

文耕舎活版所発行【岩殿山案内】に「觀音堂の北側崖上にあり 地藏尊の石像を安置し 前面の敷石には愛兒を失ひし人々が冥福を祈りつつ積上げたる小石 山と積まれ 又一奇觀たり」と記される「賽の河原」ですが、お地蔵さまはあるものの、積み上げられた小石はどこにもないの。時を経てこども達も皆、お地蔵さまに手を引かれて無事に天上界へと旅立ったみたいね。もう一つの、地獄の声が聞こえてくると云う「穴」ですが、同じくお地蔵さまの前にある敷石に御注目下さいね。中央にぽっかりと「穴」が開いているの。地獄の声が聞こえるかどうかは各自でお確かめ下さいね。But 覗き込んだりしたら閻魔さまの手が伸びてくるかも知れないわよ。(^^;

境内に建つ多層塔の台座にも寄進者の名と共に、「板東秩父西国百観音 四国八十八ヶ所霊場 最上三十三観音霊場 巡拝満願記念 基壇:釈尊四大聖地御砂踏 平成2年(1990)12月吉日建立」とあるの。この最上三十三観音霊場は地方三十三所霊場の一つで、室町期の大永6年(1526)の時点では既に成立していたと考えられているの。釈尊四大聖地御砂踏とあるので、この十三重塔の基壇部にはお釈迦さまの霊地の砂が納められているみたいよ。その上に立てばその霊地を訪ねたと同じ功徳が得られると云う訳。あなたも是非。(^^;

正法寺が巌殿観音とも呼ばれる由縁がこの観音堂ね。現在の建物は明治11年(1878)の失火で焼失した観音堂に代わり、同じ埼玉県の飯能市白子の清流山長念寺から移築されて来たものなの。堂内には本尊の千手観音像が安置されるのですが、失火時には屋根瓦の葺替中で本坊へ仮安置していたことから危うく難を逃れたのだとか。千手観音は正式名称・千手千眼観世音の名が示すように、手先に一つ一つ眼が付いた千の手を持つの。その眼で苦しむ人々の姿を見つけると直ぐに救いの手を差し伸べて下さると云う有り難い仏さまなの。でも、実際に千本の手を彫像する訳ではなくて、普通は合掌手を除き、一臂を25手に見立てて40臂にすることが多いの。

七観音霊場 では開創当初の千手観音像は金銅製だったと紹介していますが、【風土記稿】では観音堂の開創を「寺伝に云 養老年中僧逸海と云しもの草創し 始は正法庵と号して かりそめの草庵なりしを云々」としていることを考え合わせると、金銅製とするには無理があるような気がするわね。更に【風土記稿】には「千手観音にて坐像長一尺五寸 左右に不動毘沙門を置り 共に毘首羯摩が作にして 逸海の感得せし像なり」とも記されているの。観音堂は明治11年(1878)以前にも江戸時代の寛永、天明年間の二度にわたり被災しているのですが、現在の観音像は室町期の作と伝えられると云うことからすると、この伝毘首羯摩作とされる千手観音像と考えても差し支えないのかも知れないわね。残念ながら御尊顔を拝することも出来ず、真偽の程も分からず終い。ごめんなさい。

弁天沼のところでは、巌殿観音に纏わる悪龍伝説に触れましたが、沙門亮盛が江戸時代に著わした【板東三十三所観音霊場記】には坂上田村麻呂の悪龍退治の逸話も含めて巌殿観音の縁起が遠大な叙事詩 (^^; として記されているの。史実と云う訳ではないのですが、読むとおもしろいの(と云ってもξ^_^ξだけかしら)。長くなった序でに、ここでは逸海が千手観音を感得する場面を紹介してみますね。但し、表示不可能な文字の出現や、ξ^_^ξの知識不足から読めずにお茶を濁した部分もありますので、出来ましたら原文にお目通し下さいね。

養老年中一人の沙門あり 常に錫を飛し 勝地を遊歴して 心の止る所に至ては
ようろうねんちゅうひとりのさもんあり つねにしゃくをとばし しょうちをゆりゃくして こころのとどまるところにいたりては
或は一旬二旬 又は一月二月 心に任せて樹下石上に座し 誦経念仏して去ぬ
あるいはいっしゅんにしゅん またはいちげつにげつ こころにまかせてじゅげせきじょうにざし じゅきょうねんぶつしてさりぬ
若人その名を問ふことあらば 答て云く
もしひとそのなをとふことあらば こたへていわく
我此苦海を逸れて浄土の彼岸に到らんと欲す 是故に暫く逸海と名づくると
われこのくかいをのがれてじゃうどのひがんにいたらんとほっす これゆえにしばらくいっかいとなづくると
繋念一向西方の浄刹にして まことに苦修煉行の高僧なり
けねんひたすらさいほうのじょうせつにして まことにくしゅれんぎょうのこうそうなり
一時此嶺にて修行せしに 観音僧形を現め 夢に告玉ふ
あるときこのみねにてしゅぎょうせしに かんのんそうぎょうをあらわしめ ゆめにつげたまふ
汝我土へ来んことを欣ふ 殊勝の善業なれども 自利の小心にして利他の大心に疎し
なんじわがどへきたらんことをねがふ しゅしゃうのぜんがふなれども じりのしょうしんにしてりたのだいしんにうとし
我は慈悲を以て身心とすれば 汝が所志とは方函圓蓋の齟あり
われはじひをもちてしんしんとすれば なんじがしょしとははうかんえんかいのたがひあり
此山は蓮華部の浄刹にして 我分身影向の土なり
このやまはれんげぶのじょうせつにして わがぶんしんえうがうのところなり
汝は近きを捨て遠きを望む 目を掩ふて明を求むるに似たり はやく我四曼の像を造りて 平等利益の方便を布べしと
なんじはちかきをすててとおきをのぞむ めををほふてめいをもとむるににたり はやくわがしまんのぞうをつくりて びゃくどうりやくのほうべんをしくべしと
親り大悲の霊告を蒙り たちまち多年の疑氷解て 仏日の影我心水に現す
まのあたりだいひのれいこくをかうむり たちまちたねんのぎひょうとけて ぶつにちのかげわがこころみずにあらわす
頻に大悲の尊像を造り 此岩殿に安置せんと欲す
しきりにだいひのそんぞうをつくり このいわどのにあんちせんとほっす
斯て後は杜多の修行を止 艸廬を締て正法庵と号し 日夜称名の三昧に住せり
かくてのちはずだのしゅぎゃうをやめ さういをむすびてしょうぼうあんとごうし にちやしょうみゃうのさんまいにじゅうせり
或日行脚の道俗来り宿す 逸海喜び丁寧に飲食を設け 竟夜方外の清談を蓋す
あるひあんぎゃのどうぞくきたりしゅくす いっかいよろこびねんごろにいんしょくをもふけ よもすがらほうがいのせいだんをつくす
然に翌朝彼の三人の同行見へずして 千手観世音ならびに不動毘沙門の三躰座ける
しかるのよくちょうかのさんにんのどうこうみへずして せんじゅかんのんならびにふどうびしゃもんのさんたいましましける
不思議と云も尚余りあり 逸海上人此霊像を感得して 倍証道の修行堅固なり
ふしぎといえどもなほあまりあり いっかいしょうにんこのれいぞうをかんとくして ますますしょうどうのしゅぎゃうけんごなり
尓しより結縁の貴賤群けいして 忽ち郡郷無雙の巨藍となる 是岩殿山正法寺の濫觴なり
しかそしよりけちえんのきせんぐんけいして たちまちぐんきゃうぶそうのこらんとなる これいわどのさんしょうほうじのらんしょうなり

この逸海の開創後に坂上田村麻呂の悪龍退治の逸話が加わり、巌殿観音に伽藍が建てられたことになっているの。ですが、往時には60余坊を数えた大寺も300年の時を経て零落してしまい、それを再興したのが源頼朝の妻・北条政子だと云われているの。その庇護の許に嘗ての寺陣が蘇り、板東三十三所の第十番札所にもなっているの。余談になりますが、板東三十三所観音霊場が形成されたのは源頼朝の観音信仰に触発されたものとも考えられているの。鎌倉の杉本寺や、同じ巌殿観音でも現在の神奈川県逗子市にある巌殿観音(岩殿寺)には頼朝も政子もしばしば参詣しているのですが、杉本寺は板東三十三所観音霊場の第一番ですし、岩殿寺にしても第二番札所になっている位よ。その頼朝の影響もあったのでしょうね、加えてここは比企尼を初めとした比企一族のお膝元でもあるの。再興に際し、比企能員が別当に任じていることからしても力の入れようが分かるわよね。

【風土記稿】に依ると、その後、永禄10年(1567)には兵火を蒙り、堂宇の悉くが灰燼に帰し、それでも天正2年(1574)には再び再興、天正19年(1591)には徳川家康から寺領25石の朱印状を得ているの。天明年中(1781-1789)には仁王門が焼けるなど、巌殿観音も大分受難を経て来ているようね。

観音堂の左手には大きな公孫樹の木があるのですが、先ずはその根元に御注目下さいね。とても木の根とは思えない姿形をしていて、岩をも抱き込みながら伸びる姿はまるでうごめく生き物のようね。【遊歴雑記】には「本堂の左に乳たれ銀杏といえる古樹ありて 岩上に生じ 東の方へ傾きぬ 高さ壱丈に過ず 太さ又壱丈餘もあらん 乳なき婦人此木へ來り念ずれば必ず驗しありとなん」とあるのですが、高さも太さも一丈とはちょっと変よね。多分に誇張じゃないかしら。一丈は303cmになるので高さも幹周りも3m余の木と云うことになってしまうもの。

正法寺の境内散策も以上で終了ですが、境内の左手には県道R212に通じる隧道があるの。今回は参道を歩いて訪ね来ましたが、車やバスを利用していらっしゃる方はこちら側から参詣することになるの。その隧道の出口が県道にぶつかると目の前には今度は隧道ではなくて木立のトンネルがあり、その入口の傍らに正法寺六面幢と書かれた道標が建つの。ここから先はあまり女性の一人歩きには勧められるような環境ではないのですが。

大東文化大の校舎建設に合わせて整備されたものなのでしょうね、敷地の外周に沿うような形で狭いながらも舗装路が続くの。ジョギング・コースにでもする積もりだったのかしら?それはさておき、しばらく歩くと木立が途切れて右手には校舎が見えて来るの。三叉路があり、傍らには小さく六面幢と書かれた案内板が立ちますので見逃さないようにして下さいね。その三叉路で舗装路とはお別れで、後は山の中に分け入り、土の匂いを踏みしめながら。(^^; 脅かしてしまいましたが、森林遊歩道と呼べないまでも一応の整備はされているのでご安心下さいね。

道すがらの画像を何枚かアップしておきましたので参考になさって下さいね。
これを見てから訪ねるかどうかを決めてみては?(^^; 気になる方は上の画像をクリックよ。

11.六面幢 ろくめんどう 14:51着 14:59発

周囲を木立に囲まれて何も見えないのに、何故こんなところにこんなものを建てたのかしら?と云うのが最初の感想よ。先ずは「こんなもの」の正体から御案内しなければならないわよね。実はξ^_^ξも訪ねる前までは何なのか知らずにいたの。

正法寺六面幢 − 県指定文化財(史跡) 昭和5年(1930)03月31日指定
この六面幢は緑泥片岩(青石)の六枚の塔婆を組み合わせて六角柱を作り、その上に六角形の笠石をのせてあります。高さ107cm、板石の大きさは横36cm、縦101cm、笠石の直径128cmです。笠石の周縁には飛雲、裏側には双龍と宝珠、宝相華や飛雲が線刻されています。板石にはそれぞれ銘文が刻まれていますが、その銘文によると、天正10年(1582)2月に、岩殿山の僧・道照が俊誉・妙西・道慶・俊意らの菩提を供養するために建立したものと思われます。六面幢は鎌倉時代から室町時代に立てられたものですが、現在知られているものは極めて少なく、正法寺のものは、年代的にも新しいものです。〔 銘文省略 〕 昭和58年(1983)3月 東松山市教育委員会

因みに、石幢は「せきどう」と訓んで下さいね。幢は「とう」とも読めるので、「せきとう」でもいいのかも知れないけど、石塔と同じ読みになって都合悪いかもね。一部のサイトでは「しょう」と読ませているけど、それは誤解よ。幢の字が鐘に似ることからの連想ね。実は、偉そうに書いているξ^_^ξも最初は「しょう」と読んでいたの。(^^; 深い積もりで浅いのが知識−ね。

お話しを元に戻しますね。幢は訓読みでは「はた」となり、元々は筒型をした中空の布が風にゆらゆらと揺れるさまを表したもの。仏教では、筒型をした幕(布)に経文を記して垂らす仏殿の飾りのことを(経)幢と云い、石に種字や仏号・経文などを刻んだものは、普通の経幢と区別して石幢と云うのだそうな。同じ六面幢でも、長方形の石板を六枚たててその上に平面六角の笠石を置く型式は、青石と呼ばれる緑泥片岩の石材が容易に得られる秩父を背にする地の利があればこそみたいね。

ところで説明書きを読んでいてちょっと気になることが。銘文に記される妙西&道慶の二僧ですが、禅尼の称号を以て刻まれることから尼さんだったと云うことよね。加えて、現在は真言宗智山派の寺院ですが、一時は禅宗系の寺院でもあったという証よね。それに、正法寺の中興開山は天正2年(1574)と案内されていたので、この石幢が建てられたのはそれから僅か8年しか経ていないことになるの。そうなると、二人の禅尼が住持を務めていたのは中興開山の前と考えるのが妥当よね。それとも僅かな期間にめまぐるしく貫主が替わったと云うことかしら。それとも・・・。加えて道照和尚がこの石幢を建てるに至った背景も気になるわね。

※ 追記 ※ ξ^_^ξは禅尼とあることから短絡的に禅宗に結びつけてしまいましたが、必ずしもそうとは限らないみたいね。地元の方の談に依れば、岩殿山は天台宗であったことから教義的な間口も広く、中には禅を尊ぶ者がいたのかも知れず、一方、嘗ての岩殿山には正学院を始めとして修験系寺院など36坊の僧坊があったことなどからすると、六面幢の銘にある人達が必ずしも正法寺の貫主を務めていたとは限らないのでは−と云うことみたいね。今となっては委細不明ですが、女人禁制を当然の如くに思っていた山内に嘗て尼さんが住していたことがあると云うのはやはり意外よね。お二人はどんな女性だったのかしらね。

去り際に見つけたのがこの岩穴群。鎌倉では「やぐら」を多く見掛けることもありますが、それとは違う雰囲気にあるの。奥行きもあり、自然に出来たものか、それとも手が加えられて造られたものかは分かりませんが、ちょっと気になる岩穴ね。実は、比企の乱で命を落としたかと思われた比企能員の妻が正法寺を頼り、この地に逃れ来たと云う伝説があるの。お腹にこどもを宿していた彼女は、正法寺の庇護の許に、正法寺の向かいの谷間にある小庵に隠れ住み、翌年その子を産むと住持に後を託して旅立ったと伝えられているの。

そのこどもが後の比企能本となるのですが、比企能員の妻が隠れ住んだと云う小庵があったと思わせるようなシチュエーションね。六面幢が建てられている場所は狭いながらも平地で、小庵を建てるには充分なの。いざ、追っ手が迫り来たとしたら、傍らにあるこの岩穴に隠れて刺客が去るのを待つことも出来るわね。穴の出入口は普段から有事に備えてカモフラージュしてあっただろうし。と云うことで、幾れもξ^_^ξの絵空事ですが、伝説の舞台とするにはもってこいの場所ね。(^^;

※ 追記 ※ この岩穴ですが、元々は何だったのかは分からないものの、奥行きが増したのは砂の採取に依るものだそうよ。周囲の岩は砂岩で、削ると細かい砂が得られたことから鍋釜の磨き砂として利用したのだとか。昭和の初め頃までは参道に旅館や茶店などがひしめいて多くの参詣客を集めていたと云うのですから、そこではこの岩穴で採取された砂が大活躍していたのかも知れないわね。伝説にしても、逃れ来たのは比企能員の嫡男・時員(ときかず)の妻で、生まれた子を員茂(かずしげ)とする異説もあるのだとか。状況証拠 (^^; からすると、どうやら異説側の方が優位みたいね。紹介した判官塚由来碑にはその員茂の名もあるの。

正法寺の境内に立つ案内板は、この六面幢の他にも旗塚や談合塚の名を挙げて文化財として紹介しているのですが、所在が分からずに未体験で終えています。どなたか御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さいね。


上記のように書いたところ、地元にお住まいの方から旗塚や談合塚に関して詳細な情報をお寄せ頂いたの。既にお気付きかと思いますが、実は、各項で地元の方からの伝聞として紹介させて頂いているものも総てそうなの。加えて、何とξ^_^ξが訪ねたときには巖殿観音の栞で紹介した高坂ハートピアまちづくり協議会の会長を務められていた方からのものだったの。脳天気なξ^_^ξでもこれにはビックリ。併せて全身からは滝のような冷や汗が ・・・(^^; ここでも御教示頂いた内容を元に御案内してみますが、最初に大正7年(1918)文耕舎活版所発行の『岩殿山案内』にある旗塚及談合山の記述から紹介しますね。この文献にしても実は教えて頂いたの。

天文年中(1532-1555)北條氏康松山城を攻めんとして 小代高坂に100日間陣を取り 氏康幕僚を從ひて 岩殿北裏の山上に登り 遥かに松山城を眺め策をめぐらせりと。後に此所を談合山と謂ふ。松山城の守將太田美濃守資正 北條氏の來たり攻むると聽き出でて戰ふ 氏康仍つて觀音の東なる長坂山に塚數10基を築き 旗幟數10旒を押立て之に應戰せり。然れども北條氏遂に戰利あらずして 武州24郡の内15郡全部を燒き拂ひて退却せりと。(15郡7年間人家絶ゆ) 其後天正18年(1590)前田利家正法寺に泊り 松山城を攻めし時も亦 此の塚に旗幟を立てたりと謂ふ。旗塚の名これによりて起る。今尚長坂山の各所に小塚ありて往時を偲ぶに足る。〔 一部修正加筆 〕

先ずは談合塚ですが、塚とあることから何かしらの遺構を期待してしまいますが、記述にも談合山とあるように、元からある山や高台の類を指しているようね。社会福祉法人・愛弘学園の東側に岩殿字談合と呼ばれる地があり、そこに比定されるとのことですが、今ではゴルフ場が造成されるなど、当時の地勢とは必ずしも一致するわけでは無いようね。一方、氏康が数10基の旗塚を築いたとされる長坂山は岩殿字長坂の地がそれに当たるそうですが、現在地には大東文化大のキャンパスやこども動物公園があることから、その造成時に破壊されてしまったみたい。But 手が加えられずにいる場所も僅かながらあり、或いは−と、可能性だけは残されているみたいよ。

その旗塚に関連してのお話しですが、『岩殿山案内』には記されないものの、岩殿山中に軍旗が立ったのはもう一回あり、今でも旗立台の地名として残されているそうなの。地理的には高坂ニュータウン旗立台団地の西側に大字田木字旗立台と云う地番があり、そこに比定されるとのこと。背景を知らないξ^_^ξが理解不足の儘にお伝えしては誤解を招くおそれがありますので、ここでは御教示頂いたままを転載させて頂きますね。

> 旗立台は動物公園東端(高坂ニュータウン東松山市旗立台の西端の一部にまたがる)にありますが、南斜面で松山城からは見えず、松山城攻めに使われたとは考えられず、足利基氏の芳賀入道禅可攻めのときの旗立跡と思われます。足利基氏の先鋒は岩殿合戦で一度は敗れ南側(南西)の苦林(鎌倉街道上道−今も弓道が一部残る−の宿)の本陣に退いた(鶴岡宏正著「東松山史稿」昭和36年刊)ようですので芳賀側が反攻する足利軍に対して示威のため旗を立てたのかもしれません。

12.物見山公園 ものみやまこうえん 15:12着 15:36発

散策の最後に訪ねたのが物見山公園。説明には「物見山(標高135m)は比企丘陵の最高峰であり、伝説に依れば、坂上田村麻呂が東征の時にこの山に登り、四囲を眺めたことに由来する山名と云い、田村麻呂はこの時北方の雪解沢に悪龍を退治したと云う。この山は、俗に九十九峰四十八谷と称し、丘陵は波濤のように起伏している。・・・ 中略 ・・・四季を通じて景観の地である。山頂に立てば遠くは箱根・足柄・大山・富士山・秩父・信越・上野・下野・常陸の諸山から東京湾まで望むことが出来る」とあり、素敵な景観が望めると期待したのですが。

散策を始める前にこちらのお手洗いで忘れずにトイレ休憩しましょうね。綺麗でお勧めよ。
正法寺の境内にもお手洗いがあることにはあるのですが、余り綺麗だとは云えないの。

山頂は展望広場になっているのですが、残念ながら周囲の木々に遮られて何も見えないの。広場には展望台も設けられていたので、そこからならあるいは−と思い、登ろうとしたのですが、鉄製の階段が腐食していて「危険につき立入禁止」状態。傍らに立つ案内板に依ると名勝の地として文化財の指定を受けたのも大正11年(1936)とあり、既に半世紀以上を経た今となっては当時の面影を偲ぶのみね。因みに、ξ^_^ξは未体験ですが、この物見山公園内に平和資料館があり、高さ40m程の展望塔があるの。展望広場で物足りなさを感じた方は同館へお出掛け下さいね。

物見山公園の入口に手打ち蕎麦の幟がはためく日の出屋さんがあるの。こちらのお蕎麦は絶品よ。加えて季節毎の変わり種メニューもあり、大東文化大が近くにあるのでお腹を空かせた学生さん達が多く利用するのでしょうね、セット・メニューも盛り沢山なの。聞けばこちらの日の出屋さん、嘗ては峠の茶屋を営んでいたそうなの。往時には巌殿観音の境内だけでも数十軒もの茶屋がひしめいていたそうなのですが、今ではこの日の出屋さんだけになってしまったの。

13.帰り道 おうちに帰るの

坂道 左掲はその大東文化大の前を下る坂道ですが、両側に校舎が建ち並び、いかにもアカデミックな雰囲気にあるの。坂道の途中にはこども動物自然公園もあるので、子供にかえってぶらりと立ち寄ってみるのもいいかも知れないわね。文化大を控えていることからバスも頻繁に走っているので、散策に疲れた方は御利用下さいね。ξ^_^ξはと云うと日頃の運動不足もあり、少しは痩せるかしら?と、帰りも高坂駅まで歩いてみることにしました。途中で寄り道もしましたが、それでも小一時間程の道のりよ。

14.高坂駅 たかさかえき 16:39着

高坂駅 炎天下での強行軍でしたが、それでも倒れずに (^^; 無事に歩き通せたのはやはり緑が多く、木々に陽射しが遮られた中を歩くことが出来たからでしょうね。季節を違えて幾度か訪ねた巌殿観音ですが、時々で異なる表情を見せてくれました。望むらくは境内にそびえたつ大公孫樹が黄色に染めあがる秋にでも、もう一度訪ねてみたいものですね。最後になってしまいましたが、頁内でも紹介した高坂ハートピアまちづくり協議会を始め、地元の方々が中心となり、岩殿地区の主な見処を紹介する素敵なパンフレットが出来たの。

パンフ(表) パンフ(裏) 勿論、高坂駅の構内にも常備されていますので、お出掛けの際には忘れずに手にしてから散策を始めて下さいね。それでは間に合わないわ−と云う方は 東松山市観光協会 へお問い合わせ下さいね。因みに高坂ハートピアまちづくり協議会は高坂地区の自治会長26名を中心に、民生委員など各種団体の代表で構成され、高坂市民活動センターを事務局として安心・安全な町作りを目指して活動されているとのことですが、その守備範囲は多岐にわたるの。ξ^_^ξのような脳天気な旅人が気持ちよく散策出来るのも、街を愛する方々のそうした地道な活動があればこそのお話しね。ごくろうさま and ありがとうございます。


嘗ての観音道にも静かな時が流れ、物語の語り部達がそこかしこで訪ね来るあなたの問いかけを待っているの。その物語に耳を傾けるとき、神仏の加護を願いながら遠い昔に生きた人々の姿も見えてくるの。仁王門の前に立てば絵馬を奉納し終えた若者が三春の地に向けて足早に帰りゆく姿も瞼に浮かんで来るの。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
角川書店社刊 日本地名大辞典11 埼玉県
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
山川出版社刊 井上光貞監修 図説・歴史散歩事典
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
平凡社刊 十方庵敬順著 朝倉治彦校訂 遊歴雑記
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
光文社刊 花山勝友監修 図解仏像のすべて
文耕舎活版所発行 渡邊巌編 岩殿山案内
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
塙書房刊 速見侑著 観音信仰
東松山市発行 東松山の歴史
東松山市発行 東松山市史
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






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