≡☆ 行田歴史散策 ☆≡
 

水面を覆い尽くしたホテイアオイが一斉に開花するさまを是非この目で見てみたい−と行田市の水城公園を訪ねたときに、行田市には他にも忍城址をはじめ、さきたま古墳群や前玉(さきたま)神社などの歴史遺産が数多くあることを知り、時間を掛けて訪ね歩いてみたいと思っていたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

《 前編 》

1.JR行田駅 ぎょうだえき 9:17発

主な見処は市の中心部に集中しているので、秩父鉄道の行田市駅を起点にすれば徒歩でも充分見て歩くことが出来るのですが、後述する石田堤跡やさきたま古墳群を含めるとなると時間的にかなり厳しくて(体力的にも無理っぽいし)。何とか公共の交通手段を利用し楽して移動出来ないかしら−と試行錯誤してみたのですがままならず、諦めかけていたところに一条の光が差してきたの。それが今回利用させて頂いた観光レンタサイクル(無料!)ですが、歩く自信は無くても自転車なら何とかなりそうね−と、いざ走り出してはみたものの、石田堤史跡公園までは結構距離があり、途中で出会った地元の方に「あとどの位でしょうか?」と思わず訊ねてしまったくらいなの。

と書くと、この後の移動も大変そうに思われるかも知れませんが、ツライのはこの駅前から石田堤史跡公園までのアプローチだけで、その後は余り気にならないわよ。観光レンタサイクルの詳しいことを知りたい方は 行田市観光ガイド のパンフレット・ダウンロードの頁から「らくらくサイクル&観光レンタサイクル ポケット マップ」を DL して下さいね。地図と併せて自転車の貸出&返却場所など、詳しい利用案内が載っているの。

2.石田堤史跡公園 いしだつつみしせきこうえん 9:44着 10:05発

道順としては至極単純で、行田駅の東口から延びる大通りを北に向かい、上越新幹線の高架にぶつかったら、それをくぐり抜けたところで右折よ。あとは高架に沿って続く道をひたすらペダルをこいで走るのみ。(^^; やがて高架下に御覧のシンボル・モニュメントが建つ場所が現れるの。左掲の写真は進行方向逆側から撮したものなので、実際には画面左手奥から走り来たことになるの。自転車に乗っていると何の予告も無く、突然現れるので見逃さないで下さいね。ところで、このシンボル・モニュメントにはある仕掛けが施されているの。それは櫓の下に立つと石田堤の解説が聞けるの。勿論、プロの方(中西妙子さん)のナレーションよ。

更に、運が良ければ、俳優の大和田伸也さん扮する石田三成と家臣達(声優は高塚正也・堀江恭章・龍谷終武さんの三方)によるドラマ仕立ての解説も聞けちゃうの。実は、その運を呼び寄せる秘密の方法があるのですが、ここでネタばらしをしてしまうのも気が引けますので、その方法を知りたい方は、公園内にある東屋をお訪ね下さいね。ヒントが隠されているの。But ξ^_^ξも幾度かトライしてみたのですが、仲々難しいわね。大和田伸也さん扮する石田三成の声を聞くことが出来たのは、残念ながら一回きりなのですが、みなさんも是非、チャレンジしてみて下さいね。ここで冒頭の一部分だけをチラリと紹介しておきますね。

家臣:
殿〜ッ、只今戻りました!!
三成:
雨の中、御苦労であった。城の様子に変化は?
家臣:
はっ、利根川に加えて荒川からも水を引き入れましたが、相変わらず水は城の足許を濡らすばかり。
我が兵の中には忍の城は城の形をした船なのではないか−などと云い出す者もいる始末。
三成:
ふっふっ、馬鹿なことを。それにしても歯がゆいのお。

ね、仲々面白そうでしょ?以後の掛け合いは現地にてお楽しみ下さいね。(^^;

それにしても秀吉は包囲網を敷くのが好きだったみたいね。案内板は忍城の水攻め以前にも
・天正 8年(1580):三木城兵糧攻め(別所長治が籠もる三木城攻略)
・天正 9年(1581):鳥取城兵糧攻め(毛利の武将・吉川経家が籠もる鳥取城攻略)
・天正10年(1582):備中高松城水攻め(毛利の武将・清水宗治が籠もる備中高松城攻略)
・天正13年(1585):紀州太田城水攻め(根来・雑賀衆徒征伐のため紀州へ出陣)
の4回にわたる包囲作戦を挙げているの。
その秀吉にして唯一陥落させることが出来なかった城が忍城と云うわけ。

因みに、築堤作業に駆り出された人足達の当時の日当が記されていましたが、天正10年(1582)の高松城水攻めの際は、土嚢一俵に対して銭百文( or 米一升 )だったそうよ。対して、天正18年(1590)の忍城水攻めの際は、昼は銭60文( or 米一升)で、夜は銭100文( or 米一升 )と、夜間は割増料金が支払われたみたいね。とは云え、高松城水攻めの時と比べたらかなりの賃金カットよね。それとも地域格差かしら?ところで、米一升相当の金額とやらを現在のそれに置き換えると幾ら位になるのかしら?お米一升と云えば大まかに云って約1.5Kgよね。最高級米の魚沼産コシヒカリを当てたとしても金額的には¥1,500程度でしかなくなってしまうわね。丸一日働いて¥1,500は無いわよね。堤の築造は急を要する突貫工事でもあったことを考えると、現在の貨幣価値に換算して¥15,000位の日当だったと思うのが妥当な気がするわね。

忍の城を囲む石田堤 三成本陣から見る忍の城 堤の決潰

scene
石田三成による堤の築造は、僅か5日間で完成したと伝えられています。完成後に利根川・荒川より水を引き込み、城周辺を水浸しにしたものの、城は開城しませんでした。往時の忍城は周囲を沢沼地に取り囲まれた「浮城」の異名をもつ、北武蔵の大名・成田氏の居城にふさわしい要害堅固の城でした。その浮城の面影は僅かに水城公園に見られます。
scene
城周辺を水浸しにしたものの、城は落ちる気配はありませんでした。今さきたま古墳群に残る丸墓山古墳が当時の石田三成の本陣跡と云われています。また、南から古墳に至る小高い道は、石田堤跡と云われています。当時、ここからは、水に浮かぶような忍の城が見えたことと思います。
scene
多くの労力をかけた水攻めは、城に対して決定的な効果は上げなかったようですが、城中に籠もったと伝えられる百姓・町人・法師・神官・婦女子らには、日々迫る水を見ながらの動揺もあったと思います。しかし、増水中に台風に襲われ、逆に石田堤を押し流してしまったと伝えられる一面もあります。この場所が、本公園の北側の忍川に架かる堀切橋です。

道を隔てて高架の南側には石田堤の断面見学施設が造られているの。傍らには町指定史跡・石田堤の案内板が立てられているのですが、ここで云う町とは旧吹上町(現・鴻巣市)のことで、実は、この石田堤史跡公園はその吹上町が整備したものなの。なので、行田市からタダで借りている自転車で鴻巣市の観光施設を訪ねていると云う後ろめたさ (^^; があるのですが、今回は目を瞑って貰いましょうね。

町指定史跡・石田堤 指定年月日 平成5年(1993)5月17日
石田堤は天正18年(1590)に石田三成が忍城を攻めるときに築きました。同年6月20日付の豊臣秀吉が石田三成に宛てた朱印状で「水責めの普請を油断なく行うように」「普請が出来上がったら使者を派遣して見に行かせる」との記述から分かります。完成当時の総延長は約14Kmで、利根川右岸の行田市白川戸付近から小見、長野、三成が本陣を置いたと云われる埼玉(さきたま)の丸墓山古墳を横切り、樋上、堤根、袋、鎌塚、門井、太井、戸出、平戸を経て熊谷市の久下の荒川左岸に至ったと伝えられています。

今回の整備地区は、堤がほぼ南北に断続的に約120m残っています。発掘調査は平成7年(1995)から平成9年(1997)にかけて、整備区域内にトレンチを設定し実施しました。調査の結果、堤の東側の立ち上がりは確認出来ましたが、西側は崩壊が著しいか、区域外に延びていたため、堤の全幅を正確には把握出来ませんでしたが、20m程度と推測されます。

《 断面見学施設について 》  石田堤は天正18年(1590)に石田三成が忍城の水攻めに際し築いたと云われています。史跡公園整備にあたり、平成8年(1996)と平成9年(1997)にこの断面見学施設付近の調査を実施しました。二度にわたる調査の結果、堤は東側の土を西側に向かって斜めに積み上げたことが判明しました。当初は、堤の幅を現存している部分の最も広い所が全幅と考えていましたが、西側に更に広がり、整備予定地の外に伸びることが分かりました。この展示擁壁の目的は、堤の土を積んだ様子を模式的に表現してあります。一番下の目地は堤が築かれた当時の地表面を表現しています。また、堤の構造は中央に嵌め込んだ土層(レプリカ)のようになっており、堤を築く過程での土を突き固めた版築の様子を見ることが出来ます。

替わって、高架の北側は石田堤跡の保全ゾーンになっているの。

園内には御覧の見張り場も造られているのですが、上ってみたところで、あまり眺望は臨めないの。石田堤が造られた頃は上越新幹線の高架も無ければ、民家も今みたいに多く建てられていたわけでもないでしょうから、標高差が僅かでも見張り場としての機能が果たせたのかも知れないわね。右端はその見張り場から見た東屋よ。その東屋で豊臣秀吉の小田原征伐に関するパネル解説などを読みながら(眺めながら?)暫時の休憩よ。

ところで、この東屋ですが、単なる休憩場所のみの提供よ。傍らには水飲み場もあるので、東屋には御手洗いが併設されているものとばかり思っていたのですが、無いの。お出掛けの際には要注意よ。公園内には御手洗いが完備されている−とするものがあり、調べてみるとあることはあったのですが、とんでもない所にあるの。車でアプローチされる方には便利なのでしょうが、ξ^_^ξのようにレンタサイクルで廻る場合にはルートから外れてしまうの。この後、石田堤碑を見てからさきたま緑道を走るので、それまで我慢するしかないみたいね。さきたま緑道では要所要所に御手洗があるので安心よ。以上、本題からは外れてしまうけど、老婆心ながら補足しておきますね。

後日、御手洗の場所を確認してきました。(^^; 堤修復ゾーンの南端側に「袋ふれあい公園」があり、併設されている駐車場の一角に立派な御手洗があったの。それにしても、公園と駐車場の異様なまでの広さにはびっくり。ξ^_^ξが訪ねたときには散歩がてらに立ち寄り、愛犬とあそぶ地元の方を一人見掛けただけですが。

3.堀切橋 ほりきりばし 10:05着 10:09発

石田堤史跡公園を北口から抜けると道を隔てて新忍川の流れがあるの。その新忍川に架かる橋がこの堀切橋。傍らには土木遺産の案内がありましたので、紹介しておきますね。
2014 土木学会選奨土木遺産・堀切橋  竣功:昭和8年(1933) 構造形式:鉄筋コンクリート桁橋
埼玉県内で八ヶ所目の土木学会選奨土木遺産となる堀切橋は、親柱頂部に尖頭半球が施され、高欄は三角形等の空間がある。これらの表面に幾何学模様が刻まれており、野外アート風の橋である貴重な土木遺産であることが評価され、認定されたものです。尚、堀切橋の名前は、戦国時代に石田三成が忍城を水攻めにした際、この付近で石田堤が破堤したことが由来とされている。

僅か5日間と云う短期間で造られたとも云われる石田堤。築堤成るや直ちに利根川から水が引き込まれたのですが水量が乏しく、荒川からも水を注ぐことになったの。そうしてようやく堤内に水が満ちて忍城にも水が押し寄せ始めたものの、立て籠もる成田勢を苦境に追いやるまでには至らなかったの。そうこうしている内に、折り悪しく強風と豪雨を伴う台風に襲われるの。大雨による増水に加え、この辺りは地形的に水が集まりやすい傾向にあったみたいね、袋・堤根両村に跨がる堤防が堪えきれずに決壊し、三成の陣営側では溺死する者270余人に及んだと云うの。加えて、それまで堤内を充たしていた水もすっかり漏れ出てしまい、水攻めは失敗に終わってしまったの。

4.石田堤碑 いしだつつみひ 10:14着 10:19発

石田堤跡は堀切橋を渡った行田市側にも残されていて、石田堤碑が建てられていると知り、足を向けて見たの。どの辺りに建てられているのか分からず、探しながら歩いていたのですが、堀切橋から距離にすると100m位かしら、木立ちの間に石田堤の案内板が立てられていたの。ξ^_^ξはてっきり石田堤碑も同じ場所に建てられているものと思ったのですが、実際には更に北側に100m程離れたところにあるの。案内板は石田堤碑と同じ場所じゃダメなのかしらね。

県指定史跡 石田堤 昭和34年(1959)3月20日指定
この堤は、天正18年(1590)6月石田三成によって忍城水攻めのために築かれたことから石田堤と呼ばれています。天正19年(1590)3月に始まる豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する成田氏の拠城である忍城は、同年6月石田三成・大谷吉隆・長束正家らによって包囲されてしまいます。石田三成らは地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長28Kmに及ぶ堤を僅か一週間で造り上げたと云われています。実際には、自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も自然堤防上に1-2m程盛土をしたものです。

こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に城や城下町より下忍・堤根方面に水が溜まってしまい、遂には堤が決潰して水攻めは失敗に終わります。しかし、北条氏の降伏により忍城は開城するのです。今日では、ここ堤根に約250mの堤を残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿いに樹えられた樹齢300年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時を偲ばせる貴重なものでしょう。平成元年(1989)3月 石田堤を守る会 埼玉県教育委員会 行田市教育委員会

残された堤跡には松の木が植栽され、風情ある佇まいを見せていましたが、
堤跡に沿うこの道も江戸時代には主要な道路だったみたいね。

行田市指定文化財 石田堤の並木 昭和34年(1959)3月19日指定
天正18年(1590)6月に石田三成率いる豊臣秀吉軍が忍城水攻めのために築いた石田堤は、同年7月14日に忍城が開城するとその役割を終えましたが、ここ堤根地区ではその後も堤は取り壊されずに残っていました。江戸時代になり、徳川家康によって五街道の整備が始められ、その他の支路も脇往還として整備が進められました。堤根の石田堤沿いの館林道も中山道と日光例幣使街道を結ぶ日光脇往還として整備され、堤の上には黒松が植えられて、街道沿いに松並木が形成されました。

松並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守りました。また、風雨や日差しから道そのものを守る役割も果たしていました。明治時代以降も松並木は残され、昭和40年代には補植されて、新たに桜も植えられました。残念ながら害虫の被害もあって、黒松は徐々に欠け、現在では江戸時代から残る松は一本もなくなってしまいましたが、補植された松が育ち、並木は今も往時の面影を留めています。平成27年(2015)3月 行田市教育委員会

その松並木が途切れたところで見えて来たのが御覧の石田堤碑ですが、刻まれている文字はすっかり磨滅していて何が書かれているのか殆ど分からないの。だとすると、余計何が書かれているのか気になりますよね。実は、先程紹介した石田堤の案内板の裏側に読み下し文が記されていたの。難読の漢字と熟語の多出にボキャ貧のξ^_^ξには今ひとつ理解出来ない部分も多いのですが、参考までに転載しておきますね。昔の人は難しい言葉を沢山知っていたのね−と改めて感心させられる碑文ね。

【 石田堤碑 】  凡そ耳目鼻口の心志を感動せしむるや目を最と為す。事の口碑に存するは物の目に存するに如かざる也。汴河(べんが)の大堤は後の王公をして驕奢を警(いまし)め、西湖の蘇堤は後の士庶をして風雅を慕わしむ。聞くならく、当初天正十八年庚寅、豊公東征し相模に軍するや、石田三成等を遣わして忍城を攻めしむ。三成旧堤に因りて長囲を築き、利荒の二水を引きて之に濯ぎしも遂に抜く能わずして去る。後来堤漸く圮廃(きはい)※し、纔(わずか)に茲(ここ)の土を存するのみと云う。蓋し当時民居稀少にして邑を成さざることを知る可し。
※補:案内板では「きはい」と読み仮名を付してはいますが、「ひはい」と読むのが正しいような・・・

乃ち、今、開墾して地を尽し、生歯蕃育(ばんいく)す。其れ誰の賜ぞや。徳沢浹(うるお)う所感載せざる可からざる也。増田豊純、堤の湮没(いんぼつ)に就き口碑も従って亡ぶるを慮り、石を樹てて之を表す。其意蓋し永く邑民をして之を望み徳沢を感載し、且つ多士をして目撃して、乱を治に戒めんと欲すれば也。世の矜伐功を勒し、虚しく諛墓(ゆぼ)を設くるものと殊に異る。静軒居士喜んで誌す。天正庚寅、今茲慶応二年丙寅を距ること凡そ二百七十七年なり。秋巌原翬書丹 鈴木群寉鐫
※補:碑文は、寺門静軒 文・萩原秋巌 書・鈴木群寉 刻 − だそうよ。

石田堤碑の背後には石田堤歴史の広場があるの。行田市が平成27年(2015)に新たに造成したもので、石田堤見学者用の専用駐車場まであるの。広さにしても半端じゃなくて大型バスが10台程大挙して押し寄せてきても平気なくらいの駐車スペースなの。勿論、制限時間無しの無料よ。それだけ多くの来訪者を望むとあれば、お隣の鴻巣市の石田堤史跡公園なんかに負けてはいられないわね。その内、広場には水攻めを受ける忍城の巨大なジオラマが出来るかも。(^^; ちょっと茶化してしまいましたが、画面左手に写る砂利敷きの溝は、当時の石田堤の深さまで掘り下げて再現した(行田市教育委員会)結果、出来たものみたいね。

その石田堤歴史の広場には、忍城の水攻めと石田堤のことを記した案内板が立てられていたの。
ここで掲載するには冗長となりすぎる嫌いがありますので別頁を設けましたので、内容が気になる方は こちら から。

5.さきたま緑道 さきたまりょくどう 10:25着 10:40発

さきたま緑道は鴻巣市の赤見台近隣公園(最寄り駅はJR北鴻巣駅)と行田市にあるさきたま古墳公園を結ぶ4.5kmの遊歩道で、歩道と併せて自転車走行専用レーンが整備されているの。今回のようにレンタサイクルで廻る場合にはとっても便利な緑道ね。武蔵水路に沿うようにして造られた緑道は車道からは完全に独立していますので、車の往来を気にせずに走ることが出来るの。これなら安心よね。また、緑道内には彫刻作家50名の作品が展示・設置されていて彫刻プロムナードにもなっているの。何でも平成元年(1989)に開催された第4回国民文化祭さいたま′89 のときに制作された公募入選作品だそうよ。

6.さきたま古墳群 さきたまこふんぐん 10:40着 12:43発

これから訪ね歩くさきたま古墳群は行田市大字埼玉(さきたま)にあることからの名称ですが、東西約500m、南北約800mと云う限られたエリアの中に、前方後円墳8基、円墳1基の合計9基からなる大型古墳が残されているの。前方後円墳の周濠形態の類似性や、後円部がみな主軸を一にするようにして北東部を向くことなどから推して、同じ血縁関係にある一族によって首長権が継承されたことを意味すると捉える向きもあるみたいね。早い話が一族の歴代首長のお墓が整然と並び建てられていると云うわけ。推論の域を出ない仮説ですが、前方後円墳8基の特異な類似性からは特殊な関係が充分考えられるわよね。

現在のさきたま古墳群は古墳群の保存と共に、周辺を含めて史跡公園として整備されているの。園内には移築古民家やさきたま史跡の博物館、埴輪製作の体験学習が出来るはにわ館などの施設も造られているの。園内では古墳とそれらの施設が渾然一体となっていることから、ここでは全部を一纏めにしてさきたま古墳群としていますので御了承下さいね。

【 奥の山古墳 】  墳丘全長66mの前方後円墳です。奥の山と云う名前は、古墳群を東から見たとき、戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることから付けられました。発掘調査により、それまで一重と考えられていた周掘が二重であることや、墳丘が二段に築かれ、段上には埴輪列が廻らされることなどが分かりました。また、古墳がつくられた当時の地面も確認されました。後円部墳丘西側には張出部があり、子持壺や大型器台といった祭祀に使われた須恵器が出土しています。こうした出土遺物から6世紀中頃から後半にかけてつくられた古墳と考えられています。平成24年(2012)3月 埼玉県教育委員会

南側の入口から入ると最初にあるのがこの奥の山古墳。説明には戸場口山古墳の名もありますが、現在は宅地化されていて墳丘部は既に無くなっているの。因みに、戸場口とは入口のことなので、一番手前に見えることからの名称ね。大きさ的には一辺が40m程の方墳だったそうよ。替わって、次に見えて来るのが中の山古墳で、説明にもあるように、造られたと思われる6世紀末から7世紀初めにかけては前方後円墳造営の終末期にあたり、とりわけ、さきたま古墳群の中では最後に造られた古墳になるの。

【 中の山古墳 】  形状:前方後円墳  全長:79.0m
後円部:径39.0m  高さ4.4m  前方部:幅40.0m  高さ5.5m ( 平成2年(1990)2月現在 )
古墳群内の前方後円墳の内、第6位の規模です。最近の発掘調査で、二重の濠が潜っていることがわかりました。濠からは、須恵器の技法で作られた埴輪壺が多数出土しています。古墳の築造年代は、6世紀末から7世紀初めと考えられ、古墳群中の前方後円墳としては最も新しい可能性があります。

【 鉄砲山古墳 】  形状:前方後円墳  全長:112.0m
後円部:径56.0m  高さ9.0m  前方部:幅73.0m  高さ9.8m ( 平成2年(1990)2月現在 )
古墳群中3番目に大きな前方後円墳で、西側のくびれ部に造り出しがあります。堀は調査の結果、他の古墳と同様、二重にめぐっていることが分かりました。堀からは円筒埴輪のほか、土師器、須恵器の破片が発見されています。古墳の築造年代は6世紀後半と考えられています。尚、古墳の名称は江戸時代に忍藩が砲術練習場として使用したことに由来します。

【 瓦塚古墳 】  全長73mの前方後円墳です。他の前方後円墳と同じく周囲には長方形の堀が二重に廻り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張り出しがあります。また、造出し正面の外堀には、通路と見られるブリッジ状の掘り残しがあります。整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中堤には、琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が立て並べられていたと推定されています。墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことはまだ分かっていません。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半から中頃と推定されています。平成21年(2009)3月 埼玉県教育委員会
補:瓦塚の名は、明治期の初めに瓦造りの職人が付近に住んだことに由来するのだそうよ。

移築民家 瓦塚古墳に続く広場には古民家が移築・展示されているの。

説明によると、この旧山崎家住宅は元は行田市佐間にあった農家で、家屋は明治初期に建てられたものだそうよ。この地域周辺の典型的な大きさと間取りを有した農家で、部屋は四間からなり、外観からだけでは屋内の様子がつかめませんが、中二階ではお蚕さんを飼っていたのだとか。残念ながらξ^_^ξが訪ねたとき ( ′15.09 ) には、瓦屋根や土壁の損傷がひどくて危険なため、屋内への立ち入りは禁止になっていたの。But 地元・行田の典型的な農家の家屋だと云うのですから、本来なら行田市のメンツに懸けて日頃から維持管理しておかなければいけなかったんじゃないかしらね。(^^; 限られた予算の中での遣り繰りは大変かも知れないけど。

紹介した旧山崎家住宅ですが、現在( ′16.04 )は建物が取り壊されて更地になっているの。
修復が不可能なほど、損傷が酷かったようね。

替わって、こちらの旧遠藤家住宅は幸手市千塚にあった農家で、江戸時代の終わり頃に建てられたものだそうよ。広い土間と六つの部屋を持ち、オマケに厩(うまや)まであるの。農家と云うよりも豪農屋敷よね、これは。屋内は自由に見学出来ます(部屋にあがるのはダメよ)が、面白いのは珍しいモノがある土間の炊事場ね。それにしても大きな炊飯釜で、大家族が一つ屋根の下で暮らしていたのでしょうね。また、家の中には鳥屋(とや)があったの。何をする道具かと思いきや、鶏の寝床だそうよ。日中、庭で放し飼いしていた鶏を、犬や猫から守るために夜間はこの鳥屋に入れておいたのだとか。家の中には知っているようでいて知らないモノが溢れているの。

さきたま史跡の博物館 さきたま古墳史跡公園の中核施設がこのさきたま史跡の博物館なの。

ξ^_^ξが訪ねたときには、展示品のガイド・ツアーもあったの。平易なことばでの案内は古墳のことを詳しく知らない方にも優しいの。勿論、気になることがあれば何でも聞けちゃうの。常時開催されているわけでは無いようでしたが、チャンスがありましたら是非参加してみて下さいね。

刀身には115文字の金象嵌の銘文が記されていたことから、日本中を揺るがす大発見となった金錯銘鉄剣ですが、そうなると銘文には何が記されているのかすごく気になるわよね。そこで、この頁を御覧下さっているあなただけに特別に教えちゃうわね。(^^;
( 表 ):辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已
加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
( 裏 ):其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支
鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

But これでは、何のこっちゃ?よね。(^^;
そこで、第一ステップとして銘文を読み下し文にしてみますね。

辛亥の年七月中記す ヲワケの臣 上祖 名はオホヒコ その児 タカリのスクネ その児 名はテヨカリのワケ その児 名はタカハシのワケ
しんがいのとししちがつなかしるす をわけのしん(おみ) かみつおや なはおほひこ そのこ たかりのすくね そのこ なはてよかりのわけ そのこ なはたかはしのわけ
その児 名はタサキのワケ その児 名はハテヒ その児 名はカサハヨ その児 名はヲワケの臣 世々杖刀人の首と為り 奉事し来たり今に至る
そのこ なはたさきのわけ そのこ なははてひ そのこ なはかさはよ そのこ なはをわけのおみ よよ じょうとうじんのおびととなり ほうじしきたりいまにいたる
ワカタケルの大王の寺 シキの宮にある時 吾 天下を左治し この百練の利刀を作らしめ 吾が奉事の根原を記す也
わかたけるのおおきみのじ しきのみやにあるとき われ てんかをさじし このひゃくれんのりとうをつくらしめ わがほうじのこんげんをしるすなり

辛亥年
辛亥は干支による紀年法で、ここでは西暦の471年と531年とする、二つの説があるの。
現在は出土した副葬品などから判断して471年とする説が主流よ。
乎獲居臣
銘文を記した当人の名よ。読み下し文では「ヲワケの臣」として逃げてしまいましたが、臣を「しん」と読むか、「おみ」と読むかで意味合いが大きく変わるの。その理由は当館に御来館の際に・・・(^^;
上祖
御先祖さまのこと
杖刀人
当時の名称は分かりませんが、天皇の側近く仕え、その身辺を警護する近衛兵のことね。
その首(=首領)なのですから、近衛兵の隊長と云ったところかしら。
獲加多支鹵大王
雄略天皇に比定されているの。
【古事記】には大長谷若建命(おおはつせのわかたけのみこと)の名で登場するの。
朝廷のことね。寺には寺院を指す他に、庶務・雑用を執り行う役所−の意味もあるみたいね。
斯鬼宮
現在の奈良県桜井市近辺にあったとされるの。

以上のことを踏まえて、独断と偏見で意訳してみると・・・

辛亥(471)の年の7月中旬 私ことヲワケの臣は以下のことをここに記しおくものである。私の遠い祖先の名はオホヒコと云い ・・・( 中略 ) ・・・ 私の一族は代々杖刀人の首領として天皇にお仕えをしてまいりました。雄略天皇の御宇、朝廷がシキの宮におかれていたとき、天皇が天下を治めるのを私が補佐したことを知らしむるべく、鍛えに鍛えぬいたこの刀を作り 私が天皇にお仕えしてきたことを書き誌しておくものである。

ここまで来ると被葬者の杖刀人首の乎獲居臣なる人物がいったい誰なのかが気になりますよね。残念ながら、東国出自の豪族で、それもこの埼玉(さきたま)生まれの可能性が高く、上級武人として大和朝廷に出仕したことのある人物−と云うことしか分からないの。But 館内でちょっと気になる案内を見つけたの。仮説の域を出ないものですが、きっとそうよ−と思える内容よね。

【埼玉古墳群と安閑天皇紀】  多摩川下流の南武蔵(現在の東京都と神奈川県の一部)では、4世紀から5世紀前半にかけて100m級の大型前方後円墳が継続して築かれていましたが、5世紀後半になると前方後円墳は小型化し、急速に衰退していきます。一方、さきたまの地では、5世紀後半に突如として120mの稲荷山古墳が出現し、次々と大型の古墳と前方後円墳が築かれていきます。こうした考古学的現象を、日本書紀・安閑天皇紀の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おぎ)による武蔵国造家の継承をめぐる争いと結びつけて考える説があります。つまり、小杵は争いに負けた南武蔵の豪族、使主を争いに勝った北武蔵の豪族と考え、埼玉古墳群を築いたとする説です。埼玉古墳群の周辺に笠原直使主と同じ笠原の地名と、使主に通じる小見の地名があることも、埼玉古墳群の成立を日本書紀の記事と結びつける根拠の一つになっています。さきたま史跡の博物館

【日本書紀】の安閑天皇紀の関係する記述が気になる方は
「吉見町のお散歩」の 横見神社 の項を御笑覧下さいね。CM でした。

埼玉県名発祥之碑 古代ロマンを胸に館を後にしましたが、道の傍らに埼玉県名発祥之碑と刻む石碑を見つけたの。

明治4年(1871)11月14日、現在の県域に埼玉県と入間県を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て、明治9年(1876)8月に現在の埼玉県の区域が定まった。埼玉が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが埼玉郡であったことによる。埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡と云う表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には武蔵国前玉郡の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に前玉神社二座とある。ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また前玉神社の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。昭和62年(1987)4月 埼玉県

ここで改めて紹介するまでもなく、埼玉を「さいたま」と読むか「さきたま」と読むかで対象区域が大きく異なるの。But ξ^_^ξの脳味噌は埼玉=埼玉県として完全に洗脳 (^^; されていて、「さいたま」以外の読みがあること自体、考えもしなかったの。云われてみれば「埼」だけなら「さき」と読むわよね。とは云え、事情を知る方以外は「さいたま」と読んでしまう方が殆どではないかしら。なので、この頁では引用文でもない限り(例外有り)は埼玉の字は充てずに「さきたま」と平仮名表記にしてみたの。でも、埼玉(さきたま)が行田市で良かったわね、さいたま市だったら余計ややこしいことになっていたわね、きっと。埼玉県さいたま市埼玉・・・(^^;

はにわの館 埴輪の製作体験が出来るの。

紹介した埼玉県名発祥之碑から県道R77に向かい50m程歩いたところには埴輪づくりの体験が出来る はにわの館 があるの。残念ながらξ^_^ξは未体験ですので詳しい御案内は出来ませんが、見るだけではなくて自分だけのオリジナル埴輪をつくってみたいわ−と云う、並々ならぬ創造意欲をお持ちの方はお訪ねになってみて下さいね。出来上がった作品は日にちをかけて充分乾燥させた後、専用窯で焼き上げて貰えるの。なので、製作と受取の最低二回は来館しなければならないのですが、受取の際に次回の作品を製作してから帰るリピーターも多いのだとか。詳しくは 同館HP を御参照下さいね。

【愛宕山古墳】  全長53m、埼玉古墳群の中で最も小さな前方後円墳です。最小ではありますが、他の前方後円墳と同じく、周囲には長方形の堀が二重に廻ることが、発掘調査により確認されました。墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など詳しいことは未だ分かっていません。出土した遺物は、円筒埴輪のほか、人物・大刀・盾・蓋(きぬがさ:貴人の傘)などを表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は高さが40cm前後で、他の古墳に比べ小さいのが特徴です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀前半と推定されています。形状:前方後円墳 全長:53.0m 後円部:径30.0m・高さ3.4m 前方部:幅41.5m・高さ3.3m 平成21年(2009)3月 埼玉県教育委員会

県道R77の信号を渡った右手にあるのがこの愛宕山古墳ですが、案内板があるのでそれと知ることが出来るのですが、無ければ気づかずに通り過ぎてしまうでしょうね、きっと。実は、この愛宕山古墳、後程紹介する二子山古墳と何等かの関係があると考えられているの。方やさきたま古墳群中最小、方や二子山古墳は最大、否、武蔵国最大と云うスケールの違いがあるのですが、距離的には両者は近接しているの。双方共に墳丘部の発掘調査が行われていないので詳細が不明ですが、二子山古墳の築造時期が6世紀初頭前後に対し、愛宕山古墳の方は6世紀後半と考えられていることからすると、両墳の被葬者は親子などの極めて近い血縁関係にあるのかも知れないわね。因みに、古墳の名は嘗て墳丘上に愛宕神社が祀られていたことに由来するの。

天祥寺 天祥寺は位置的にはさきたま古墳史跡公園の中にあるのですが、治外法権的な存在なの。(^^;

【天祥寺由来】  旧幕時代大名の数、270余藩と云うが、10万石以上は50余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。9代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、11代名君忠国公、12代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。・・・( 中略 )・・・現在、松平家の墓所は行田市の文化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、伽藍建立途上にあります。 詳しくは 天祥寺 を御参照下さいね。

11代松平忠国は、天保13年(1842)に幕府の命令で異国船警備のために房総半島に出兵、その後品川沖三番台場の守備に当たるなど幕末の国防に深く携わりました。12代忠誠は、明治維新時の当主で、新政府軍が忍城下に迫った際に恭順の意を示し、無事に難局を乗り切りました。これら城主の墓は、当初は墓地の北側に並んでいましたが、墓地の改修で現在の場所に移されています。墓石の形は皆同じで、高さ4.5m、三重の台石の上に石の玉垣が巡らされています。平成25年(2013)3月 行田市教育委員会

次に訪ねる丸墓山古墳の手前100m程の道筋は石田堤の跡になるの。石田堤については既に石田堤史跡公園や石田堤碑のところで詳しく紹介していますので、ここでは傍らに立てられていた案内板の説明を転載して次ぎに進みますね。

【石田堤】  この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。長さ28km( 一説には14km )に及ぶ堤を僅か5日間で築き、利根川と荒川の水を流入させたと云われています。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。

【丸墓山古墳】  直径は105mあり、円墳では日本最大です。墳丘は埼玉(さきたま)古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半頃に築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。南側から古墳に至る道は、天正18年(1590)に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡と云われている石田堤です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。平成19年(2007) 埼玉県教育委員会

【丸墓山古墳と忍城】  天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km( 一説には14km )の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと云われています。北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも云われています。

墳丘の頂上からは忍城趾に建つ御三階櫓(後述)が見えると云うのでξ^_^ξもトライしてみたのですが、全然分からないの。画像をクリックすると拡大表示が出来ますのでみなさんも探してみて下さいね。右端はズームアップしてみたものですが、ようやくそれらしき姿形が見えていると云った程度。残念ながらξ^_^ξの手持ちのコンパクト・カメラではこれが限界なのでごめんなさいね。But 当時の人達がスッゴク目が良かったとしても、本当に忍城側の様子がここから見えたのかしらね。エッ?三成側の陣営は皆して遠めがねを使用してた?(^^; 戯言はさておき、視力には自信があると云う方は、お出掛けの際に是非トライしてみて下さいね。

ここで石田三成の忍城水攻めを離れて、丸墓山古墳に纏わる面白いお話を見つけたので紹介しますね。【増補忍名所圖會】には

推古天皇の御宇 聖徳太子甲斐の驪駒に乘りて駿河富士の嶽に上る 舍人調子麿一人是に隨ふ 太子山頂に於て四方を臨み給ひ 是より東にありて紫雲靉靆たる處あり 今推量るに武藏國埼玉郡なるべし 彼所は必佛東漸の靈場ならん 吾明年死なむ 汝調子麿吾の廟を此所に建て 吾が常に尊崇する地藏菩薩を安置せよと宣ふ 推古帝廿九年二月朔夜太子斑鳩の宮に薨じたまひ 此月河内磯長陵に葬る 御遺言に任せ 調子麿御遺骨を首に掛けて武州に下向し 埼玉郡今の麿墓の地に至りしに 御遺骨磐石の如く重くなりあがらず 調子麿是ぞ太子の御心に叶ふ靈地にやと 乃ち御遺骨を納め 堂を建て地藏を安置し 一宇を建立して國王山地藏院と號す 云々

と、あるの。荒唐無稽なお話かも知れませんが、聖徳太子の遺骨が納められ、地蔵菩薩を安置する一宇がこの場所に建てられていたかも知れないと思うと、それも一つの歴史ロマンよね。この丸墓山古墳には他にも多くの伝説が語り継がれているみたいね、否、語り継がれていたみたいね。(^^; 因みに、【名所圖會】の記述にある麿墓と云うのがこの丸墓山古墳のことで、麿墓が転訛して、いつの頃からか丸墓と呼ばれるようになったのだとか。

丸墓山古墳の御案内の最後に、頂上から見える稲荷山古墳と将軍山古墳の景観を紹介しておきますが、この丸墓山古墳の南側には嘗て丸墓山南方円墳群と呼ばれる古墳群が存在していたみたいよ。更に、さきたま古墳群全体では大小合わせて40基を越える古墳が存在していたと云うのですから驚きよね。

【稲荷山古墳】  全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半頃と考えられ、埼玉(さきたま)古墳群の中で最初に造られた古墳です。前方部は昭和12年(1937)に土取り工事で失われましたが、平成16年(2004)に復元されました。昭和43年(1968)の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。その内礫槨はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである鉄剣からは、昭和53年(1978)に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに昭和58年(1983)に国宝に指定されています。平成19年(2007) 埼玉県教育委員会

昭和43年(1968)の発掘調査で、後円部の頂上から二つの埋葬施設を発見しました。一つは素掘りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨、もう一つは、船形に掘った竪穴に川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫槨です。粘土槨は、堀荒らされていて遺物は僅かでしたが、礫槨からは、金錯銘鉄剣を始めとする豊富な副葬品が出土しました。それらは博物館に展示されています。
さきたま古墳群の中で墳丘に登ることが出来るのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳だけなの。稲荷山古墳はさきたま古墳群の中では最古の古墳になり、加えて、国宝の金錯銘鉄剣が出土した古墳とあっては、是非、登頂しておかなければいけないわよね。(^^;

金錯銘鉄剣が出土したことから一躍脚光を浴びることになった稲荷山古墳ですが、鉄剣の発見に至る過程には奇跡的とも云える、複数の偶然があるの。一つ目はこの稲荷山古墳が発掘調査の対象となった理由よ。当時、さきたま古墳群を中心に一帯を風土記の丘として整備する計画が持ち上がり、資料収集を目的に一基限定で古墳の発掘調査を行うことになったの。当初は前述の愛宕山古墳がその対象に選ばれたのですが、土取りが行われるなどして原型が失われていた稲荷山古墳に急遽変更になったの。

そして、偶然の二つ目が盗掘を免れていたことなの。残念ながら粘土槨の方は盗掘されていたのですが、それでも礫槨側が無傷で残されていたのは幸運以外の何物でも無いわね。そして、三つ目の偶然は、発掘調査から10年後に行われた保存修理中のことなの。奈良県にある元興寺文化財研究所で鉄錆を落とす作業をしているときに、刀身からキラリと金色の光が見えたの。ひょっとして、あるいは−と、当時としては画期的だった蛍光X線分析が行なわれたの。すると、果たしてそこには、日本中を揺るがすことになった115文字からなる金象嵌銘文が浮かび上がってきたの。紹介した偶然の、どれか一つでも欠けていたら、今こうして目にすることは出来なかったわけよね。

稲荷山古墳の名称ですが、嘗て墳丘上にはお稲荷さんが祀られていたことに由来するの。お稲荷さんの代わりに、火焔を背負い、倶利伽羅剣を手に忿怒の形相で迫る不動明王像を祀っていたら、粘土槨の方も盗掘を免れることが出来たかも知れないわね。それとも、閻魔大王を祀る閻魔堂の方が良かったかしら。(^^;

紹介した稲荷山古墳ですが、′16.04 現在、古墳の整備工事に伴い墳丘への立ち入りが禁止されているの。何でも、墳頂部に設置した礫槨レプリカが老朽化して地下に埋設されている本物の礫槨に影響が及ぶ恐れが出て来たのだとか。そこで現在のレプリカを撤去、新たに実物大の陶板模型を設置する工事が行われるの。完成は平成29年(2017)3月末頃の予定とのことですが、工事終了のアナウンスは さきたま史跡の博物館 に掲載されるそうなので、お出掛けの際には忘れずにね。

【将軍山古墳】  全長90mの前方後円墳です。明治27年(1894)に横穴式石室が発掘され、多数の副葬品が出土しました。この石室には、千葉県富津市付近で産出する房州石が用いられており、古墳時代の関東地方に於ける地域交流を考える上で貴重な古墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、後円部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀後半と推定されています。平成21年(2009)3月 埼玉県教育委員会

将軍山古墳は全長が90mと、さきたま古墳群の中では4番目の大きさを誇るの。上記の説明では鉄砲山古墳の名がありませんが、周濠の形態が二子山古墳や稲荷山古墳、鉄砲山古墳と類似することなどから、被葬者は4代目の首長では−とも考えられているみたいね。また、さきたま古墳群の中では最初に採用されたと云う横穴式石室の側壁には房州石が使用されているの。この房州石ですが、御覧のように表面には沢山の孔が開いているの。実はこの孔、穿孔貝と呼ばれる貝の一種・ニオガイ( 英名:Angel Wing Shell )が開けたものなの。その英名とは裏腹に (^^; 身を回転させながら殻に付いている棘で石に孔を開けてそこを住み処にすると云う逞しい二枚貝なの。

それはさておき、この房州石、その名の如く千葉県富津市にある鋸山周辺で多く産出する凝灰質砂岩のことなの。それにニオガイが孔を開けたと云うわけ。遙か距離を隔てた房総半島の海岸から、わざわざそれを大量に運び入れて石室の壁をしつらえていることからすると、被葬者( or 築造者 )の房総との政治的な深い結びつきも想定され、武蔵のみならず、広域に亘る強大な権力を有していたことが窺えるの。

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現在は墳丘も復元され、後円部には石室の公開や資料展示を行う資料館が造られているのですが、一昔前までは墳丘上を平坦に削り、民家数軒が建ち並ぶありさまだったようよ。加えて、土取りのために削られたのか、墳丘の一部が断崖となり、そこから奇石が露出していたと云うのですが、石室の天井部に使われていた緑泥片岩でしょうね、きっと。それを目にした下忍村の増田五郎左衛門さん、その石を得て庭に趣を添えようと、明治27年(1894)、地主の許可を得て採掘を始めたの。掘り進めると石槨らしきものを発見。そこで改めて役所の許可を得て発掘してみたところ、果たして石槨をはじめとして数多くの副葬品などが出土したの。遺物のその後の経緯は分かりませんが、散逸してしまったものも多くあり、逸失を免れた遺物は現在は東京国立博物館・東大総合研究博物館・さきたま史跡の博物館などに分散・収蔵されているのですが、当初の扱いからくる破損や腐食が多いようね。資料的な価値の知見も無ければ、現在のような保存技術も無い時代の出土とあっては、残念だけど、致し方の無いことかも知れないわね。

展示室の2Fでは、副葬品のレプリカを使用して石室内に当時の埋葬状況が再現されているの。遺物からは複数の被葬者があった追葬の可能性が指摘されているのですが、展示では最後の様子をイメージ化。副葬品の配置にしても充分な考察を加えた上でのものみたいね。詳しくは御来館の際に御確認頂くとして (^^; 副葬品の中に多くの馬具があることに注目が集まっているの。その中でも馬冑と蛇行状鉄器は異彩を放つ存在なの。馬冑は朝鮮半島で多く出土することから、あるいは朝鮮半島からもたらされたものとも考えられ、蛇行状鉄器にしても高句麗双楹塚古墳の壁画に描かれていることなどから推して、被葬者と朝鮮半島との深い関わりが想定されているの。

蛇行状鉄器とは鞍に旗竿を取り付けるための金具のこと。当初は何に使うものか不明だったので、単に形状に基づいた名称で呼ばれていたの。使用目的が判明している現在では、旗竿金具とする場合もあり−よ。因みに、馬冑は馬の頭を保護する冑のことなの。両者共に、さきたま史跡の博物館に展示されていますので御覧になってみて下さいね。

【復元!古墳時代の馬の装い】  我が国に騎馬の風習が始まるのは4世紀末頃からで、朝鮮半島との交流の中で、初めて騎馬術と馬具がもたらされました。馬具は5-6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分を繋いでいた革や布・木質部分は腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。将軍山古墳のような、金色に輝く煌びやかな馬具や旗を付けて飾り立てる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。

朝鮮半島からは遙かに距離を隔てたこの埼玉(さきたま)の地にありながら、それも古墳時代のことなのに、恐らくは朝鮮半島で作られたであろう馬冑や銅碗などが被葬者の枕元に添えられたと云うのは驚きよね。そのスケール感からすると、強大な権力と、それを支える富があったことが窺えるわね。そして、さきたま古墳群の最後に訪ねたのが下段の二子山古墳ですが、その大きさはさきたま古墳群中、否、武蔵国最大だと云うの。墳丘内部の発掘調査は行われていないので詳細は不明ですが、古代史を塗り替えるような新たな史料が見つかる可能性大よね。調査研究を待たなければ分からないことが多すぎるのに、何だかスゴイところのようね、この埼玉(さきたま)は。(^^;

【二子山古墳】  全長138mの前方後円墳です。嘗ての武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県の一部に当たる)で最大の古墳です。周囲には、長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤に当たります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことは未だ分かっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は6世紀初め頃と推定されています。平成20年(2008)3月 埼玉県教育委員会

〔 追記 〕:紹介した二子山古墳ですが、こちらの古墳も内堀の埋め立て工事中( ′16.04 現在 )なの。二子山古墳は昭和43年(1968)に水堀で囲む形で復元されたのですが、既に40年以上が経過し、墳丘の裾が崩壊するようになってきたの。そこでやむなく内堀を埋め立てることにしたのだとか。完成予定の期日は明示されてはいませんでしたが、工事を主幹するのがさきたま史跡の博物館なので、完成したら同じく同館HPにその旨情報がアップされるのではないかしら。

7.前玉神社 さきたまじんじゃ 12:44着 13:00発

行田市指定文化財 槙 昭和39年(1964)1月31日指定
前玉(さきたま)神社は平安時代の「延喜式神名帳」に「前玉神社二座小」と記されている古社です。その入口に植えられているこの大木は、「イヌマキ」と称される常緑高木の雄木です。御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で推定樹齢600年、樹高20m、目通り幹周4.0m、根回り5.5mを計ります。現存する槙としては埼玉県内最大のものです。樹幹北側の中心部には大きな空洞があり、その中には木曽御嶽神社の石碑が置かれています。平成23年(2011)行田市教育委員会

市指定文化財・建造物 前玉神社の大鳥居 平成11年(1999)3月25日指定
この鳥居は、延宝4年(1676)11月に忍城主・阿部正能(まさよし)家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代に於ける浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。平成13年(2001)2月 行田市教育委員会

さきたま古墳群を離れ、この埼玉(さきたま)の地に、嘗て式内社の一つにもなっていたと云う前玉神社があると知り、訪ねてみたの。式内社とは平安時代の【延喜式】にその名が記載される神社のことなの。【延喜式】や式内社の詳しいことは「吉見町のお散歩」の 横見神社 の項を御笑覧頂くとして、もう一つ気になることがあったの。それは、前玉神社が古墳の上に建てられていることなの。さきたま古墳群とは至近距離にありながらひとり仲間外れ (^^; にされている感があるのですが、それでも何等かの関係があるのではないかしら−と気になったと云うわけ。残念ながら具体的な繋がりまでは見えては来ませんでしたが、それでもさきたま古墳群築造の終わりを告げる古墳と分かったの。ここでは、それを教えてくれた案内板の説明を紹介しておきますね。

【ぎょうだ歴史ロマンの道・浅間塚古墳】  浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社が祀られています。前玉神社は平安時代の延喜式神名帳にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、平成9・10年(1997-98)に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が廻ることが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。

埴輪が樹てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と推測されています。埼玉古墳群の終わりを考える上で、貴重な古墳であると思われます。平成21年(2009)3月 行田市教育委員会

前玉神社の祭神は前玉彦命と前玉比売神の二柱とあり、調べてみると、前玉比売の名は【古事記】の「大国主の神裔」の段に登場するの。須勢理比売のことばを借りれば「八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻る島の埼々 かき廻る磯の埼落ちず 若草の妻持たせらめ(以下省略)」状態の大国主命は女神達からモテモテなの。当然ですが (^^; 多くの御子神達が生まれ、その系譜が紹介されるのですが、その中に

國忍富~ 此の~ 葦那陀迦~ 亦の名は八河江比賣を娶して生める子は 速甕之多気佐波夜遅奴美~
くにおしとみのかみ このかみ あしなだかのかみ またのなはやがはえひめをめとしてうめるこは はやみかのたけさはやぢぬみのかみ
此の~ 天之甕主~の女 前玉比賣を娶して生める子は甕主日子~
このかみ あめのみかぬしのかみのむすめ さきたまひめをめとしてうめるこは みかぬしひこのかみ

とあるの。と云うことは、前玉比売神の父親は天之甕主神で、夫は速甕之多気佐波夜遅奴美神、子供は甕主日子神と云うことになるわね。残念ながら【古事記】には前玉彦命ズバリの神名が無いのですが、上掲の記述から前玉彦命は速甕之多気佐波夜遅奴美神のことと考えて良さそうね。さしあたり、前玉彦命は妃神・前玉比売神の呼称に合わせた別称と云ったところかしら。但し、ここでは前玉神社が云うところの前玉比売神と、【古事記】に記される前玉比売神が同一神であると云う前提でのお話よ。前者の前玉比売神が単に、前玉の地に祀られている一地方神の神名に過ぎないとなると、素性調査(笑)はお手上げね。

ところで、大国主命と云えば『因幡の白兎』で知られるように出雲系の神さまでもあるわよね。と云うことは、前玉彦命・前玉比売神の二柱もまた出雲系と云うわけよね。また、前玉神社では幸魂神社の古名を挙げてもいるの。幸魂から前玉、更に埼玉へと転じたことから、前玉神社は埼玉県名発祥の元になったと云う訳ですが、幸魂から思い出されるのが【日本書紀】に記される下記の場面なの。ここでは大国主命は大己貴神(おおなむちのかみ)と名を変えて登場するのですが、

時に神しき光海に照らして忽然に浮び来る者有り
ときにあやしきひかりうなにてらしてたちまちにうかびくるものあり
曰はく−如し吾あらずは汝如何にぞ能く此の國を平けましや
いわく−もしわれあらずはいまにいかにぞよくこのくにをむけましや
吾があるに由りての故に 汝其の大きに造る績を建つこと得たり−と云ふ
わがあるによりてのゆえに いましそのおおきにつくるいたわりをたつことえたり−といふ
是の時に大己貴神問ひて曰はく−然らば汝は是誰ぞ−とのたまふ
このときにおほあなむちのかみとひてのたまはく−しからばなはこれたれぞ−とのたまふ
こたへて曰はく−吾は是汝が幸魂奇魂なり−と云ふ
こたへていはく−われはこれながさきみたまくしみたまなり−といふ
大己貴神の曰はく−唯然なり すなわち知りぬ 汝は是 吾が幸魂奇魂なり
おほあなむちのかみののたまはく−しかなり すなわちしりぬ いましはこれわがさきみたまくしみたまなり

−とあるの。読んでみたところで、な〜に云ってんだか−と云うあなたに。(^^;

大国主命が波打ち際を歩いておった時のことだそうじゃ。見たことも無いような不思議な光が辺りの海面をいきなり照らしてのお。すると忽ち波間に浮かび上がって来る者がおったそうじゃ。驚いて見ていた大国主命に向かい、その者が云うたそうじゃ。「そなたは、もしわしがいなかったならばこの国を治めることなぞ出来なかったはずじゃ。わしがいたからこそそなたは国造りという大業も成し得たのじゃ」と。命は「そなたの力があったればと申されるか、ならばあなたさまは一体どういうお方におわしますか?」と訊ねてみたんじゃが「わしはそなたの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)じゃ」と。そのことばに得心した命は「確かにおっしゃる通り。あなたさまはまさしくわたくしの幸魂奇魂にございます」と。

奇魂とは万事を弁別する能力を備えた魂のことで、崇高な精神無くして大業成就せず−と云ったところかしら。幸魂奇魂の神に出逢った大国主命は自身も神性を得て結びの神になるの。出雲神話に登場する幸魂奇魂のお話と、古名・幸魂との不思議な一致は偶然とも思えないわね。それはさておき、前玉神社が出雲系の神さまを祭神とすることなどから推すと、早い段階で出雲系の人々がこの地に移り住んでいたと考えられなくも無いわね。更に、さきたま古墳群の被葬者達もまた出雲系に連なる人々なのかも知れず、前玉神社はそうした人々が祖先神を祀り、氏神さまとして崇敬したことをルーツとするのかも知れないわね。But 以上はξ^_^ξの勝手推論ですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。だったら書くな!−だったかしら。(^^;

CoffeeBreak かなり昔のお話になりますが、この前玉神社の境内には嘗て行田市立さきたま考古館が建てられていたのだとか。開設されたのは昭和34年(1959)のことで、古墳群からの出土品の収集や展示を行なっていたの。昭和63年(1988)に現在の行田市立郷土博物館(後述)が出来ると、それまでの収蔵品は博物館側に移管され、考古館は廃館になってしまったと云うわけ。収蔵展示施設の変遷もまた、歴史の一頁と云えなくもないわね。

行田市指定文化財 石燈籠 昭和42年(1967)3月20日指定
この石段の登り口にある高さ2m、二基一対の石燈籠は、元禄10年(1697)10月15日に、地元埼玉村(現在の行田市埼玉地区)の氏子一同が奉納したものです。本殿に向かって左側の石燈籠には「前玉之 小埼乃沼 鴨曽翼霧 己尾 零置流霜乎 掃等有斯(前玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし)」と【万葉集】9巻-1744の「小埼沼」の歌が、右側の石燈籠には「佐吉多萬能 津乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢(埼玉の津に居る舟の風を疾み 綱は絶ゆとも言な絶えそね)」と【万葉集】14巻-3380の「埼玉の津」の歌が、美しい万葉仮名で竿の部分に刻まれています。

この二首の歌は、地元・行田市埼玉地区に関連する歌と考えられています。この石燈籠は、【万葉集】に収められた歌の歌碑としては、全国的に見て非常に古いものになります。江戸時代には【万葉集】の研究が盛んになり、関心も高まっていました。そうした中で、いち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化的水準の高さと、江戸時代の【万葉集】への関心の高まりが窺える、貴重な文化財と云えるでしょう。平成23年(2011) 行田市教育委員会
の字ですが、本当は伱から人偏を外した字が使われているの。
表示不能ですので、代用文字で御容赦下さいね。

文化財としての意義は理解出来るのですが、これでは肝心の歌が、何のこっちゃ?−よね。(^^;
そこで、読み仮名を付した上で、独断と偏見で意訳してみたので参考にして下さいね。
But 間違っていたら、ごめんなさいネ。

前玉の 小埼の沼に 鴨そ翼きる 己が尾に 降り置ける霜を 掃うとにあらし
さきたまの こさきのぬまに かもそはねきる おのがおに ふりおけるしもを はらうとにあらし
前玉の小埼の沼で、水面で水飛沫を上げながら鴨が羽ばたきをしている。
どうやら、自分の尾に振り降りた霜を払い落とそうとしているようだ。

埼玉の 津に居る舟の 風を疾み 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
さきたまの つにおるふねの かぜをいたみ つなはたゆとも ことなたえそね
埼玉の舟泊にとめている舟の舫い綱は、激しい風のために引きちぎられることがあるとしても、
愛しいひとよ、どうか、わたし達の、互いを想う心を伝え合う便りだけは絶やさずにいておくれ。

【万葉集】が編纂された頃は中国大陸からの侵攻を防ぐために九州に兵士が派遣されていたの。それが防人(さきもり)で、最初の頃は諸国から徴兵されていたのですが、後に東国からが専らになったの。二首目の歌はその防人が恋人を残して九州に赴かなければならない胸の内を詠んだものね。二人はあるいは将来を約した間柄なのかも知れないわね。防人が務めを終えてふる里に戻ることが出来るのは三年も先のこと。二人がその後どうなったのかはお読み頂いている皆さんの御想像にお任せよ。(^^; 無骨かも知れないけど、心優しい古の東男の心模様に触れたところで、さきたま古墳群ともお別れして、愈々忍の御城下へ。






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