≡☆ 鎌倉歴史散策・江の島編 ☆≡
 

江ノ島は鎌倉に訪ね来られた際に足を延ばす方も多いことから鎌倉市の一部かと思われがちですが、藤沢市なの。行楽客がひしめく江の島ですが、昔も弁財天信仰から江の島詣をする参拝客で賑わいを見せていたの。今回は鎌倉散策の番外編として、その江の島を紹介してみますね。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。

《 前編 》 児玉神社〜辺津宮〜中津宮〜サムエル・コッキング苑〜江の島展望灯台

1.湘南江ノ島駅 しょうなんえのしまえき

湘南江ノ島駅 今回の散策は、湘南モノレールの終点・湘南江ノ島駅を起点としましたが、都心からでしたら新宿発の小田急ロマンスカーも利用出来ますね。左掲は湘南江ノ島駅から江の島方面を望んでみたものですが、高層マンションに視界が遮られて、江の島の江の字も見えないの。ところで、TVのお天気情報に出てくる江の島の景観を映すカメラは、どの建物の屋上に置かれているのかしらね。

江ノ電の江ノ島駅 湘南江ノ島駅から道を隔ててあるのが江ノ電の江ノ島駅。藤沢〜鎌倉間を結ぶレトロ感覚溢れる江ノ電ですが、明治35年(1902)の開業当初は藤沢から江ノ島までの敷設で、駅名にしても片瀬だったの。時代を経た昭和15年(1940)に、藤沢町と片瀬町が合併して現在の藤沢市が出来たのですが、小田急の片瀬江ノ島駅の片瀬の呼称はその名残りね。じゃあ湘南江ノ島駅は何なのよ?となるのですが、多分にイメージ戦略でしょうね。因みに、現在は藤沢市の一部になる江ノ島ですが、明治22年(1889)頃までは鎌倉郡川口村江の島だったの。と云っても、その頃の鎌倉郡は現在の横浜、藤沢、鎌倉市の三市に跨っていたのだけど。

湘南と聞けば石原裕次郎、加山雄三、サザンと思い描く芸能人の方々も世代毎に異なるとは思いますが、共通項としてあるのが七里ヶ浜や茅ヶ崎海岸ですよね。と云っても湘南は地名としてある訳では無く、相模湾の南側一帯を漠然として捉えているだけなの。その名付け親が誰なのかは分かりませんが、その名称は中国・湖南省を流れる河川に由来するの。湘がその河の名前で、湘江とか湘水とも呼ばれ、その源は広西壮(ちわん)族自治区に発し、湖南省などを経て洞庭湖に注いでいるの。

その湘江の南側には風光明媚な景勝地が広がり、湘南と呼ばれていたの。それがどこでどうなったのかは分かりませんが、海辺と川辺と云う違いはあるものの、水辺の景勝地を指す代名詞として相模湾南側が湘南と呼ばれるようになったみたいね。湘南の湘の字にしても、他では先ず目にすることはありませんよね。日本では湘南を表すためだけにある文字?相模湾の南だから相南でも良かったんじゃない?ダメよ。それじゃあ、そうなんになってしまうもの。海でそうなんは頂けないわね。(^^;

小鳥 左は江ノ電・江ノ島駅の車両乗入防護柵ですが、小鳥が三羽並び、近隣に住まわれる方の手に依るものでしょうね、お洋服が着せられているの。湘南の湘南たる所以でしょうね。ところで、駅前からR134迄は湘南すばな通りと名付けられた道が続くの。すばなってなあ〜に?てっきり横文字かしらと思いましたが、ちゃんとした日本語で洲鼻のことね。境川の河口に広がる砂浜は砂洲に出来た浜で洲浜ね。その姿形が鼻に似ることから洲鼻とも呼ばれていたの。なので、湘南洲鼻通りとしたいところですが、それだと鼻が邪魔して湘南のイメージには適わないような気がするわね。

と云うことで、湘南すばな通り。ひらがなにしてしまうと意味が分からぬまでも横文字の印象を与え、イメージもグ〜ンとアップしてしまうから不思議よね。湘南洲鼻通りと湘南すばな通りの両標識を見たあなた、どちらの道を歩きますか?何か分かんないけどこっち!と、湘南すばな通りを歩き始める方が多いのではないかしら。

2.江の島弁財天道標 えのしまべんざいてんみちしるべ

道標 その湘南すばな通りを江の島方面に歩くと程無くして右手に左掲の石標が見えて来るの。道標は平成10年(1998)に行われたR134を潜る地下道建設工事の際に発見されたもので、管鍼術の考案者・杉山検校(※後述)が江の島弁財天を篤く信仰していたことから参詣者の便に利するために寄進したものと伝えられているの。上部には弁財天を表す種子が刻まれ、左右には一切衆生・二世安楽の祈願文が彫り込まれているの。二世とは現世・来世のことで、全ての人々にこの世とあの世が安らかでありますようにとの願いなの。藤沢駅の北側に遊行寺(清浄光寺)がありますが、その辺りから江の島にかけての道は、嘗て江の島道と呼ばれる参詣者の通り道で、江の島弁財天の福徳に感謝した杉山検校がその沿道に48基もの道標を建てたと云われ、現在でもその内の10余基が藤沢市の重要文化財として保存・保管されているの。

沿道には飲食店やお土産屋さんが建ち並びますが、ちょっと変わったところでは香水瓶を収集・展示する湘南江の島香水瓶美術館があるの。美術館と冠していますが瀟洒なメルヘン調の建物で、入口などは普通のお家かと思ってしまうほど。そうは云ってもそこいらにあるものとは違い、飽くまでも湘南にあると云うことでの比較なのですが。未体験ですので紹介出来ませんが、興味のある方はお訪ねになってみてはいかが?また、通りには明治元年(1868)に創業したと云う老舗の紀伊国屋旅館などがあり、江の島詣の参詣客の宿泊があったのでしょうね、時の流れを感じさせる小さな旅館も門を構えているの。宿の駐車場に停めてある車からはウエットスーツに身を固め、サーフボードを取り出して砂浜へ向かう人もあり、新旧が同居する不思議な空間よ。

3.観光案内所 かんこうあんないじょ

やがて沿道の建物も途切れ、R134の先には江の島の全景が見えて来ますが、地下道を潜り抜けるその前に、右手にある観光案内所に立ち寄ることをお薦めしますね。ここでは江の島イラストマップが貰えちゃうの。予約してないけど、どこか泊まれるところは無いかしら?などの相談も勿論OKよ。因みに、案内所の階下がお手洗いになっていますので歩き始める前に御利用下さいね。ですが、朝の定期清掃前は遠慮した方がいいかも。設備は綺麗なのですが、塵が散らばりスゴイことに。公衆道徳もここではすっかり死語になっているの。島内にも多くの休憩所がありますので、塵を見つけたら我慢(笑)。江の島イラストマップにはお手洗いの位置もちゃんと記載されているので安心よ。

4.龍燈籠 りゅうとうろう

龍燈籠 地下道を潜り抜けると両脇に建てられた龍燈籠が最初に出迎えてくれるの。島内に鎮座する江島神社などに伝わる江嶋縁起では、天女の見目麗しい姿にすっかり魅せられた五頭龍が恋心を抱き、以後は善行に努め、天女の使者となったと云われているの。その天女こそが江島明神で、後に弁財天に習合したの。灯籠にとぐろを巻き、通り行く人に睨みを利かせていますが、お前ら、ちゃんと掌を合わせろよ。じゃねえと会わせてやらねえからな−と云ったところかしら。おうおう、上等じゃねえか。お前なんかちっとも恐かねえよ。ほうれ、コチョコチョ−などと間違っても龍の喉元を撫でたりはしないで下さいね。

龍燈籠 龍の身体は全身が硬い鱗で覆われていますが、喉元だけはその鱗が逆立っているの。猫ならさしずめゴロニャ〜ンとなるところですが、龍はその喉元に触れられた途端、怒りを露にしてあなたに襲いかかるの。些細なひとことで上司からこてんぱんにのされた(笑)時などに逆鱗に触れたと云う云い回しはこれに由来するの。云うなれば、逆鱗は悪事や悪口を察知するセンサーね。老婆心ながら、逆鱗は「げきりん」と訓んで下さいね。「さかうろこ」と訓めないこともありませんが、それだとジャパネット・タカタのCMになっちゃうわ。(^^; 因みに、この龍燈籠は平成13年(2001)に江島神社鎮座1,450年奉祝記念事業の一つとして建立されたものなの。と云うことは、天女が舞い降りたのは今から1,450年以上も前のことね。近代的な建物が建ち並ぶ現在ですが、天女が舞い降りた頃は、まさに風光明媚な景勝地だったのでしょうね。その美しさに魅せられて、思わず舞い降りてしまったのかも知れないわね。まさか、そこに五頭龍が潜むとも知らず・・・

ところで、「えのしま」の表記ですが、「江ノ島」や「江の島」が入り乱れて、使い分けが分からず、出たとこ勝負の表記をしているの。なので、深くは追究しないで下さいね。但し、神社名だけは「の」が入らずに、江島なの。

5.遊覧船乗場 ゆうらんせんのりば

遊覧船乗場 龍燈籠を過ぎると右手にこの小さな案内板が見えて来るの。遊覧船のべんてん丸が島の最奥部にある稚児ヶ淵とを結びますが、磯釣りや磯遊びだけを目的とする方でも無い限りはお勧め出来ないの。と云うのも、稚児ヶ淵に遊んでから帰路に島内散策しようとすると、最初に急峻な石段を登らなくてはならないの。ここは一先ず誘惑に打ち勝ち、帰路に乗船することにしましょうね。それに、歩き観たところを帰りがけに船上からもう一度眺めた方が素敵ですよ。健脚、且つ天の邪鬼な方のみ御乗船下さいね。

6.江ノ島弁天橋 えのしまべんてんきょう

弁天橋 遊覧船乗場の先からは御覧の弁天橋が架けられていますが、歩行者と自転車のみが通行可能な橋なの。車は並行する江ノ島大橋を走りますので、車の往来を気にする必要も無くて安心よ。橋のお蔭で陸続きとなった江の島ですが、その歴史を紐解くと、ここにもプロジェクトX級のドラマが。工事に携わった人々の名こそありませんが、橋脚に埋め込まれた銘板には、弁天橋の歴史が刻まれているの。その案内文を皆さんにも紹介してみますね。

この橋は明治24年(1891)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江ノ島桟橋と呼ばれていました。明治30年(1897)に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし大正11年(1922)に県営となるに及んで渡橋料金二銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年(1949)には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部には木橋として作り直され、その後江ノ島弁天橋として親しまれて来ました。昭和32年(1957)に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものです。昭和33年(1958)7月 神奈川県 〔 一部修正加筆 〕

と云うことは、江の島詣で賑わいを見せていた頃は橋が無かったと云うことね。じゃあ、どうしたの?実は、人足達が参詣客を乗せた駕籠を担いで島へ渡っていたの。浜には客寄せする人足達の勇ましい声がこだましていたのかも知れないわね。おめえさん、何処から来なすった?エッ、江戸から?だったら俺の駕籠に乗んねえ。こねえだも江戸から来た客がよお、俺の駕籠に乗ってよお、そんでもって島の宿に泊まってなあ、そん時に夢ん中で弁天さまからお告げがあったって云うじゃねえか。俺の駕籠に乗ったら、おめえさんにも福運が来るかも知れねえぞ。

桟橋 明治24年(1891)には橋が架けられたと云っても御覧のような桟橋ですので、台風の前ではひとたまりもなかったでしょうね。その桟橋も当時の島に暮らす人々にとっては生活を支える橋でもあった訳で、暴風や荒波に耐える橋の架設は悲願だったでしょうね。今ではあるのが当たり前の弁天橋ですが、語られぬ内にも多くの人々の思いと歴史が刻み込まれているの。

7.青銅鳥居 せいどうとりい

青銅鳥居 弁天橋を渡り切ると最初に見えてくるのがこの青銅鳥居ですが、江戸時代の文政4年(1821)に再建されたもので、現在は藤沢市の文化財にも指定されているの。鳥居には世話人役を務めた八百屋善四郎の名が刻まれていますが、善四郎は浅草で高級料亭・八百善を構えていたの。その前身は八百屋を営むことに始まりますが、後に精進料理の仕出しを始め、料理茶屋を経て高級料亭へと変身するの。江戸幕府第11代将軍の徳川家斉も足を運んだと云うのですから超高級料亭よね。当主は代々善四郎の名を踏襲し、鳥居に刻まれた八百屋善四郎は四代目で、本名は栗山善四郎なの。

料亭を営む傍らで当代一流の文化人とも交流があり、歌川広重・葛飾北斎・酒井垉一・谷文晁などの絵師達も名を連ねているの。酒井垉一の名は後でもう一度出て来ますので覚えておいて下さいね。一方で、自らも四巻からなる料理本の料理通を著し、そこでは前述の絵師達が挿画を寄せているの。世話人ばかりを話題にしてしまいましたが、願主として名を連ねているのは、実は新吉原の妓楼の大旦那衆なの。妓楼の主の願いに弁財天が応えてくれたのかどうかは分かりませんが、四代目善四郎は一族郎党を引き連れて年に一度江の島詣をしていたようで、芸者までも引き連れていたと云うのですから驚きよね。絵師達の手により多くの江の島が描かれていますが、江の島詣をする善四郎の一行の中に彼等がいたとしても不思議ではないわね。因みに、現在の八百善当主は10代目だそうですが、最近では料理教室なども開いているの。

郵便差出箱

青銅鳥居から瑞心門までの参道両脇には土産物店が軒を連ね、鳥居もさながら商店街の門の趣きですが、傍らではスパリゾートでしょうか、ξ^_^ξが訪ねたときには大規模な温浴施設の建設工事が行われていたの。金運を齎して下さると云う弁財天ですが、観光客の方は逆に散財させられてしまいそうね。土産物店が建ち並ぶ中には昔懐かしい射的場もあり、老舗のお饅頭屋さんやお団子屋さんも多く、娯楽の少ない当時は江の島詣が絶好のレクリエーションでもあったのでしょうね。その参道に小さくして江ノ島郵便局がありますが、その前に建てられていたのがこのポストなの。今では殆どが〒マークをそのまま立たせたようなポストになりましたが、このポストは明治20年頃に使用していたものを復元したものなの。なのでここではポストとは呼ばずに郵便差出箱。

猫

参道を進むにつれて土産物屋さんもまばらとなりますが、代わりに増えてくるのが猫達の姿なの。ここでは悪戯されることもないのでしょうね、近付いても一向に逃げようとはせず、逆に甘えて来たりするの。最初はてっきり飼い猫だと思っていたのですが、実はその多くが捨て猫なの。これ以上不幸な猫が増えないように猫の避妊手術などの為募金をお願い致します−と、猫の募金箱も設置されていましたが、見たところ餌には不自由せずにいるようですので、近隣の方々が餌を与えて下さっているのでしょうね。ブームの蔭で飼い主に見放されて捨てられるペットも多くなったと聞きますが、江の島が猫の捨て場所になっているとは弁財天のお膝元にあってちょっと悲しい現実ね。募金に協力すること位しかξ^_^ξには出来ないけど。

参道 参道の先には緋い鳥居が建ち、楼門の瑞心門が木立ちの中に顔を覗かせますが、そこが江島神社への登り口になるの。左手にはエスカーの乗車口がありますので、楽して登りたいの−と云う方にお薦めよ。ところで、エスカーってなあに〜それ?と気になる方もいらっしゃるかも知れませんが、早い話しがただのエスカレータよ。(^^; 江の島ではエスカレータと云わずにエスカーと呼ぶところが味噌醤油味ね。乗り心地も駅やデパートのそれと何等変わりませんので悪しからず。

8.児玉神社 こだまじんじゃ

鳥居 順当なコース採りであれば早速江島神社への参拝となるですが、その前にちょっと寄り道してみたの。下調べの際にその名を見つけた児玉神社がそれで、どこにも説明が無く、どんな神社かしらと気になっていたの。ちょっと普通とは異なる縁起と祭神を祀る神社ですが、掲載記事も見当たらないことから紹介してみますね。エスカー乗車口の背後にある石段を登ると直ぐに見えてくるのがこの鳥居ですが、掲げられた略縁起を読んだξ^_^ξは右翼チックな印象に思わず後退り。そうは云ってもここで踵を返してしまってはと、意を決して訪ねてみたの。その前にここで皆さんにもその略縁起を原文のままに紹介してみますね。拝観料:境内自由 初穂料:志納

祭神は児玉源太郎命。児玉源太郎大将(1852-1906)は日露戦争の満州軍総参謀長として勇名高きのみならず、政治家としても陸軍大臣、文部大臣、内務大臣、特に台湾総督、南満鉄道経営委員長としてその経綸の才は卓越されており、更に教育家としても学校法人成城学校を創立、その校長として育英につとめ、中国及び朝鮮留学生の教育に先鞭をつけるなど、正に今日の日本を世界列強に伍せしめる為に貢献された文武両道の偉人であります。当社はその御威徳を偲び大正10年江の島随一の景勝地に将軍の崇敬者によって建立。境内地約二千坪。社殿は伊東忠太博士による神社建築の模範設計と称せられ、社前の高麗狗は台湾名工の作、並びに寄進にかかる逸品であります。社格 旧県社

小動岬 記念碑 訪ね来る人も無く静かな参道ですが、お掃除をされている方に出会い、見たところ普通の方のように見え一安心。参道脇の木立ちの切れ間からは対岸の小動岬を望むことも出来ました。その小動岬と江の島には深〜い関係があるの。それは後のお楽しみとして先に進みますね。参道の先には異様な形をしたモニュメントが建ちますが、咸臨丸図面発見の地記念碑とあるの。詳しいことは分かりませんので、ここでも説明書きを転載させて頂きますね。

日章旗を翻して初めて太平洋横断の壮挙を成した本艦乗員の進取を賛え、咸臨丸の復元保存と「青少年に夢と希望を」願い、先年、オランダ政府の尽力に依り設計図発見、贈与を受けたことに対し、謝恩を込め、永世に記念するため本碑を建立した。昭和55年(1980)12月16日

鳥居の先に見えているのが拝殿ですが、四方が開放されていて舞殿のような造りになっているの。祭礼時には舞が奉納されるのかしら。その拝殿の前に脇侍する狛犬が、略縁起でも説明されていた台湾の名工が製作したと云う高麗狗。狛犬と云うよりも獅子の印象で、見慣れた狛犬とはやはり趣きが異なりますよね。ですが、細部に亘り手の込んだ造りはさすがに名工の成せる業。何でも狛犬の制作費は雌雄で1,000万円前後が相場だと聞いたことがありますが、この手のものを今新たに造るとなると一体幾ら位掛かるのかしら。その高麗狗に守られた拝殿背後にあるのが本殿ですが、残念ながら扉も閉ざされ、内部を見学することは出来ないの。踵を返した境内はネコ達の寛ぎ空間にもなっていました。

猫 猫

ねえねえ、一緒に遊ぼうよ。
イヤよ、側に来ないでよ。アンタなんて嫌いよ!



ンもう〜、しつこいんだから〜
一人にしておいて欲しいわ。

相模湾 拝殿の左手からは御覧のような眺望が開けるの。縁起さえ気にしなければ(笑)、境内は至って普通の神社の趣きよ。参道はちょっとした森林浴気分も味わえ、訪ね来る人も無く静かな境内ですので、この展望をお目当てに訪ねてみては如何かしら。御神職の方でしょうか、御夫婦で境内を掃き清められている姿もありました。その労苦をねぎらうためにも初穂料は忘れずね。

9.蟇石 がまいし

児玉神社の参拝を終えて振り出し位置に戻りましたが、エスカー乗場の右手斜面にあるのがこの蟇石。その昔、江の島に訪ね来た慈悲上人が修行をしていると、大きな蟇が現れて邪魔をしたの。慈悲上人は仕方なく、その法力で蟇を石に変えてしまったと伝えられているの。因みに、蟇とはヒキガエルのことで、通称ガマガエルのことね。江嶋縁起では建仁2年(1202)、修行する慈悲上人の眼前に紫雲俄に立ち上り薫香漂う中、光明燦然と輝やかせ童子を従えて弁才天が顕れたとしているの。弁才天を感得しようとして修行する慈悲上人の傍らでガマガエルが鳴き、気が散って集中出来なかったのでしょうね。

鳥居 参道 それとも、弁財天の眷属の五頭龍ですが、蟇はその五頭龍を呼び出すための囮作戦だったのかしら。五頭龍を誘き出せば弁財天もその内お出ましになるかも知れぬ・・・。えッ?蛇じゃねえんだからカエルじゃ無理に決まってんだろうって?実は、龍と蛇は同一視されてもいたの。かと云って、片や龍神ですので、その図体に合わせて巨大なガマガエルの登場となったわけ。

だったらもっと大きなウシガエルってのもいるぜ−と云われるかも知れませんが、ウシガエルはアメリカ原産で日本に入って来たのはず〜っと後のことね。当時は蟇ガエルが大きな蛙の代名詞だったの。ここでは虚実が入り乱れていますので呉々も鵜呑みにしないで下さいね。お話しの序でにもう一つ。蟇石が石にされた蟇なら、五頭龍が山になったと云う説話もあるの。腰越の龍口寺の建つ辺りは龍ノ口と呼ばれていますが、山に変身した五頭龍の口の部分に当たることに由来するの。

10.無熱池 むねつち

無熱池 その蟇石の斜面手前にあるのが無熱池と呼ばれる小さな池で、水が涸れることも無く、嘗ては龍女が棲んでいたと伝えられているの。元々の無熱池は仏典の中で須弥山の麓にあると云われる想像上の湖のことですが、その無熱池には徳の優れた阿耨達龍王が棲み、炎熱苦のない湖だとされ、その阿耨達龍王の三女が弁才天だと云うの。阿耨達は「あのくだ」と訓んで下さいね。画像には肝心の無熱池が写りませんがお許し下さいね、この手前にあるの。無熱池のモデルとなった湖がヒマラヤ山中に実在するそうですが、清らかなヒマラヤ山中の湖なら分かるけど、この無熱池は今となってはとても龍神が棲めるような雰囲気には無いわね。ガマガエルなら棲めそうだけど。(^^;

11.瑞心門 ずいしんもん

瑞心門 参道の石段は楼門の形をした瑞心門へと続きますが、門を潜り抜けたところに弁財天と十五童子像が祀られているの。平成14年(2002)に江島神社鎮座1,450年を記念して造営された新しいものですが、傍らの石碑には江島神社の略縁起が記されているの。江島神社を御案内する前に、その物語にちょっと耳をお貸し下さいね。

欽明天皇13年卯月12日 戌刻より23日辰刻に至るまで 江野南海湖水湊口に雲霞暗く蔽いて 天地震動すること十日に餘れり 諸々の天衆龍神水火雷電山神鬼類夜叉羅刹 雲上より磐石を下だし 海底より塊砂を噴き出す その後 竭雲收まり 輕霞卷き退りぞいて 海上に忽ちに一つの嶋を成せり 則ち江野になぞらへて これを江野嶋と云ふ 天女雲上に顯れ 白龍 十五童子を從へ この嶋上に降居したまへり

弁財天

欽明天皇13年は西暦で云えば552年で、卯月は4月のことね。海底から塊砂を噴き上げて天地鳴動すること11日間(別伝では21日間)に及び、一つの嶋が出来上がったの。その出来たばかりの江の嶋に天女が降臨して来たと云うの。その天女こそが弁才天だったと云うわけ。縁起には十五童子の名が見えますが、弁才天五部経で説かれる弁才天の従者達のことなの。ですが、欽明天皇治世の頃には未だ五部経は著されていないことから、縁起自体も後世の作と見做さざるを得ないみたいね。弁才天五部経とは特定の経典を指すわけではなくて、下掲の五部からなる経文のことで、長ったらしい名前なので、それらを纏めて弁才天五部経と呼んでいるの。偽経なのですが、弁才天信仰が隆盛する切っ掛けにもなったの。

大弁才天女秘密陀羅尼経
仏説大宇賀神功徳弁財天経
仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経
仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経
仏説即身貪転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経

その十五童子については後述しますが、物語には続きがあるの。江嶋の対岸にある津村の湖水には五つの頭を持つ龍神が棲んでいたの。記述では長谷の古名・深澤の名も出てくることから津村は鎌倉大仏の建つ辺りかしら。その五頭龍は江の島に降臨する弁才天を見るなり、その見目麗しいお姿に忽ち目が眩んでしまうの。そうして恋心を抱く五頭龍ですが、日に日にその想いは募り、遂に弁才天に情交を迫るの。悪事を続ける五頭龍の立ち振る舞いを憂いていた弁才天は、悪行を止めて仏法護持に努めるのならと、情交を許したと云うの。そうして弁才天は江嶋明神としてこの地に祀られ、五頭龍もその眷属として仏教の護法神となったと云うわけ。

以上は江嶋縁起に描かれる弁才天の降臨譚ですが、【吾妻鏡】の寿永元年(1182)4/5の条には、文覚上人が江の島に弁才天を勧請したときのことが記されているの。と云うことは、それ以前の江の島には弁才天は祀られていなかったと云うことよね。

武衞腰越に出しめ江嶋に赴き給ふ・・〔 中略 〕・・
是 高尾の文覺上人 武衞の御願を祈らんが爲 大辨才天をこの嶋に勸請し奉る
供養法を始行するの間 故に以りて監臨せしめ給ふ
密かにこの事を議す 鎭守府將軍藤原秀衡を調伏せんが爲なりと
今日即ち鳥居を立てらるる その後還らしめ給ふ

武衛とは頼朝のことで、記述では奥州藤原氏の藤原秀衡を打倒する祈願を込めて弁才天を勧請したことになっているの。実際は文覚上人の勧めに応じて祈願したものみたいですが、それを修法したのが怪僧・文覚上人なの。文覚上人が気になる方は鎌倉散策の 補陀洛寺 の項で紹介していますので御笑覧下さいね。何と剃髪出家した理由は人妻への横恋慕からなの。(^^;

そうして文覚上人は21日間にわたり断食・参籠するの。【吾妻鏡】は4/26の事として次のように記しているの。文中では三七箇日としていますが3×7日で21日のことね。七日間を基準にする数え方は仏教由来の数え方で、初七日などの表現は今でも有効ね。因みに、49日は七・七日と書くの。

文覺上人請いに依りて營中に參ず
去る五日より江嶋に參籠す 三七箇日を歴て昨日退出す
その間斷食して懇祈肝膽を碎く由 之を申す

ねえねえ、おかしいわよ。弁財天は福徳を齎す女神さまよね。
頼朝はなんで藤原秀衡打倒を弁財天に祈願したの?それもわざわざ新たに勧請までして。

実は、その頃の弁財天は弁才天で、荼吉尼天とも同一視されていた節があるの。頼朝が寄進したと云われる八臂の弁才天像が辺津宮の奉安殿に祀られているんだけど、それを裏付けるような像容なの。弁才天信仰が庶民の中に広まるとその現世利益的な側面が強調されて福運の最たるものとして金銀財宝が持ち出され、弁才天は弁財天として更にパワーアップするのですが、弁才天は金銀を纏う前、弁財天は財宝を手にしてからね。

ところで、荼吉尼天?何なのよ、それ〜と云う方に。その前に弁才天の生い立ちも併せて紹介してみますね。なので少し長くなってしまいますが、よろしくおつき合い下さいね。そんなの、どうだっていいじゃんかよ〜と云う方は読み飛ばして下さいね。

弁才天は古代インド神話ではサラスバティー Sarasvati と呼ばれ、元々はサラスバティー河を神格化したものなの。saras は水を指し、sarasvati は水の流れの美しい様子を表しているの。河の流れの妙なる水音は人々を心豊かにすることから福徳を齎す女神となり、穀物の豊作を齎す豊穣の女神ともなるの。やがてそのサラスバティーが同じ女神で智慧を司るヴァーチュ Vac とも習合し、河のせせらぎが弁舌にも繋がるの。そのサラスバティーが仏教に取り入れられて弁才天となり、そこでは川のせせらぎに代えて胡を抱え、日本に伝えられると琵琶を持つようになったの。

と云うことで、本来の弁才天は二臂だったのですが、女神と云うことから日本人には殊の他好まれたみたいね(笑)。日本神話でも天照大神は絶対神として崇敬され、邪馬台国の卑弥呼にしても巫女よね。天皇の後継をめぐり、女帝云々が話題の昨今ですが、推古天皇も持統天皇も女帝で、往古には普通のことだったの。鎌倉時代には聖母信仰なども隆盛し、決して男尊女卑ではなかったの。悲しいことに、女神の弁才天を祀りあげたのが仏教なら、女性を穢れた存在として忌み嫌ったのも仏教で、かの有名な弘法大師も女性を遠ざけた一人なの。そうして男尊女卑を更に決定付けたのが封建制度ね。お話しが横道に逸れてしまいましたが、日本人の間には女性崇拝の宗教的な風土があり、女神の存在は日本人には容易に受け入れられたと云うわけね。

男性的な像容の仏像が多い中で女神像の存在は人々に親近感を以て迎えられ、同じく女神として脚光を浴びたのが荼吉尼天。彼女もまた古代インド神話では自在の神通力を持つダーキニー神と呼ばれ、人間の生死を半年前に見抜いてその心臓を喰らう鬼女だったの。後に大黒天との闘いに敗れた彼女はその眷属となり、仏教の守護神となるのですが、持ち前の神通力は衰えることを知らず、大いに利用されたの。日本ではその荼吉尼天の神使が狐とされたことから稲荷神とも習合するのですが、同じ女神と云うことから弁才天にも習合したの。

一方、田植えの時期になると現れる蛇は田畑を潤し豊穣を齎す神の化身として古来より崇められていたのですが、宇賀神とも習合したの。宇賀神はその名から連想されるように、稲荷神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視されてもいたの。宇迦之御魂神は食物を司る神でもあり、豊作を祈願する農耕の神でもあったの。蛇の水神信仰と結び付いた宇賀神は人面蛇身となると、やがて鎌倉時代に隆盛する弁才天信仰に習合していくの。

江の島弁才天に恋心を寄せた五頭龍にしても対岸の腰越に棲んでいたとされますが、元々は深澤の湖に潜んでいたみたいね。深澤は現在の長谷辺りで、銭洗弁天のある佐助ガ谷とは隣り合わせよね。その銭洗弁天は宇賀神と弁才天が習合して現在に至るわけですが、元々は宇賀神が祀られていたの。その宇賀神は人面龍身ですので、五頭龍は宇賀神そのものだったのかも知れず、逸話は佐助ガ谷の宇賀神が江の島弁才天と習合する過程を説話化したものと受け取れないこともないわね。

ねえねえ、五頭龍は頭が五つあったから五頭龍と呼ばれていたんでしょ?
でも、銭洗弁天にある龍神像は頭が一つしか無かったわよ。
スルドイ質問ね。どうして五頭龍になったのかはξ^_^ξにも分からないの。

そうして弁才天は荼吉尼天や宇賀神のパワーを引き継ぐと、その像容も二臂から八臂などに変身したの。優雅に琵琶を奏でて妙音を発するだけでは許して貰えなくなってしまったと云うわけね。八臂となった弁才天は弓箭や刀剣などの武器も持たされるようになるの。そうは云っても本来は悪心邪気を退治するためのもので、戦闘をするためのものではないのですが、弁才天が寺院の守護神として祀られることもあり、時と場合によっては実力行使をする戦闘神と考えられてもいたみたい。その時は荼吉尼天から引き継いだ神通力がものを云うのでしょうね。因みに、【太平記】の清氏叛逆事付相摸守子息元服事の段には荼吉尼天の前で室町幕府第二代将軍・足利義詮を呪詛したことが記されているの。

と云うことで、頼朝の意を汲んで文覚上人は荼吉尼天と習合した弁才天を勧請したのではないかしら。怪僧ならではの所業ですが、頼朝の肝煎りとあって鎌倉幕府の祈願所となると、やがて朝武の信仰を集めるようになるの。そうして江戸時代には弁才天信仰が庶民に広がると江の島詣が盛んとなり、金亀山与願寺として多くの伽藍・堂宇を有する大寺となったの。現在は宗像三女神として知られる多紀理毘売命・市寸島比売命・田寸津比売命が、各々奥津宮・中津宮・辺津宮に祀られますが、それは明治期の神仏分離令発布を受けて強制的に神社にさせられてしまったからなの。

廃仏毀釈を受けて一時は弁財天像も邪険に扱われていたのですが、長い時間の流れの中で醸成された庶民信仰は容易には覆すことが出来なかったと云うわけね。神社なのに弁財天が祀られるという摩訶不思議、その理由が御理解頂けたかしら。現在でも江島神社と云うよりは、日本三大弁財天の一つとして江の島弁財天の名で親しまれ、財宝招福・学芸上達・夫婦和合・交通安全等など、ありとあらゆる福運に霊験灼かと云われているの。清らかな心で御尊顔を拝すれば、弁財天があなたにもそっと微笑みかけて下さるかも知れないわよ。

12.福石 ふくいし

前置きが長くなりましたが、瑞心門を潜り抜け、辺津宮に向かう石段途中にあるのがこの福石で、弁財天道標で紹介した杉山検校に纏わる逸話が残されているの。杉山検校こと、杉山和一は慶長15年(1610)、伊勢国に生まれますが、幼くして失明してしまうの。盲目となった彼はやがて鍼師を目指して江戸に出ると、高名な鍼医として知られていた山瀬検校や入江豊明などに師事するの。鍼術を学ぶ一方で、彼は弁財天信仰にも深く帰依していたの。

むか〜しと云っても江戸時代のことじゃが、杉山検校と云う偉い鍼師がおってのお。後に関東総検校にまでなられたお方じゃが、幼くして失明されてしまってのお。盲目の身ではようよう働き口などありゃせんかった。女なら瞽女となるところじゃが男じゃったからそうもいかん。鍼師になることを決め、伊勢を離れて一人江戸に旅だったそうじゃ。当時の江戸には山瀬検校や入江豊明などの高名な鍼師がおってのお、弟子入りをしたんじゃ。

じゃけんども物覚えはようなかったようじゃのお、師匠には年中怒られておったみたいじゃ。そんなある日のことじゃった。日頃から弁財天に帰依しておった和一はこの江の島を訪ね、技術の上達を祈願したそうじゃ。断食して岩屋に参籠すること21日間、ひたすら弁財天に祈念しておったそうじゃ。そん時は弁財天を感応することは出来んかったんじゃが、満願となり、島を去ろうとした時のことじゃった。この石に躓いて倒れると気を失ってしまったそうじゃ。

そうして暫くは横たわっておった和一じゃったが、その内夢を見てのお、五色に彩られた雲に乗って弁財天が顕れたそうじゃ。参籠の甲斐があったものよと空かさず両掌を合わせたのじゃが、何やらチクチクと体を刺すものがあってのお。意識が戻った和一が手に取ってみると松葉が入った竹じゃった。これじゃあこれじゃ、これも弁財天の思し召し−と竹筒にヒントを得た和一は、後に管鍼術を創案して鍼医の第一人者となったと云うことじゃ。そうしてその名が広く知られると、徳川幕府第五代将軍・綱吉に呼ばれてその病を癒すなどして、後には関東総検校にも任じられたのじゃ。そんなことから、この石の側で物を拾うと福運を授かることが出来ると、誰云うとなく、福石と呼んで崇められておるそうじゃ。

昔話風にアレンジして逸話を紹介してみましたが、一部脚色してありますので御諒承下さいね。この福石に躓いたとされる杉山検校ですが、実際に見ると石と云うよりも岩なの。先程紹介した蟇石と同じで、杉山検校の出世と共に語られる内にいつの間にか小石が岩に化けてしまったのでしょうね。補足ですが、検校とは最高位の神職のことで、元々は熊野三山や金剛峰寺などの上首を指すことばだったの。杉山検校は後に関東総検校となりますが、更に上には総検校なんてものもあるの。ですが、ここでは寺社の監督官と云うよりも、盲人を僧侶になぞらえた称号ね。なので、総検校は盲人としては最高位の称号になるの。

13.杉山検校の墓 すぎやまけんぎょうのはか

杉山検校の墓 福石の脇道を下ると「江ノ島市民の家」がありますが、更に傍らの石段を降りると墓苑の中に杉山検校のお墓が建てられているの。ですが、検校は本当は江戸の自邸で亡くなり、弥勒寺と云うお寺に葬られているの。なので、このお墓は検校の一周忌に際し、分骨埋葬されたものと伝えられているの。生前には護摩堂や三重塔を建てて寄進するなど、江の島弁財天に帰依した検校ですが、齢84歳までも長生き出来たのは、偏に弁財天信仰の成せる業でしょうね。

手水舎 杉山検校のお墓に詣でた後は、再び福石のある場所まで戻りましたが、石段途中の踊場には手水舎がありますので、身を清めてから最後の石段を登りましょうね。エスカーに乗車された方は手水舎を経ずにいきなり境内に放り出されてしまいますが、弁財天にお会いするためには心と共に是非手水舎で身を清めてからにしましょうね。

14.辺津宮 へつのみや

現在の江島神社は宗像三女神を祭神としますが、辺津宮にはその内の一柱・田寸津比売命(たぎつひめのみこと)が祀られているの。宗像三女神は天照大神と素戔鳴尊が高天原の天安原で誓約(うけい)した際に生まれた神々ですが、天照大神から「汝(いまし)三神、天孫を助け奉りて天孫に斎かれよ」と命ぜられて宗像の地(≒現・宗像神社)に祀られるようになったの。
誓約=神の意思を確かめる占いごと

辺津宮 その三神も、元々は玄海灘に浮かぶ島々を神格化したものと云われているの。祭神として祀られる田寸津比売は多岐津比売や湍津姫とも記されますが、湍は水の流れが急なことを表し、津は浅瀬のことね。なので、湍津は潮の流れが速い浅瀬を表しているの。サラスバティーが河を神格化したものなら、湍津姫もまた浅瀬の潮流を神格化した女神と云うことになるの。因みに、辺津は津の辺りで、陸地側のことなの。

巾着 社伝では、この辺津宮は建永元年(1206)に鎌倉幕府第三代将軍・源実朝に依り創建されたものとされているの。現在の社殿は昭和51年(1976)に再建されたものですが、その社殿前にあるのがこの巨大な巾着袋。大勢の参拝客に福徳を施すにはそれに見合う金銀財宝が必要と云うことね。見たところ銅製のようですが、中には金銀が鋳込まれているのかも。(^^;

撫で小槌 社殿左手には不思議な撫で小槌が屋外展示されているの。ここでは大黒さまの打ち出の小槌ならぬ撫で小槌。台座に固定されていますので、残念ながら打ち振ることは出来ないの。槌はその音が土に通じることから五穀豊穣を表し、人々に豊かな暮らしを齎す威力があるとされているの。打ち振りたい欲求を堪えて、ここでは撫でるだけにしておきましょうね。ダメよ、台座ごと揺すったりしちゃ。(笑)

境内の傍らには白龍が睨みを利かせる弁財天黄金浄水があり、お金を洗うと福運が訪れるとされているの。鎌倉の佐助ガ谷にある銭洗弁天は云わば総本家ですが、辺津宮の黄金浄水はその名のごとく、水源に純金小判が沈められているの。金は財宝の象徴よね。池の中で参拝者を睨む白龍は弁財天の神使ですが、小判を守る用心棒にも見えるわね。因みに、ここでは龍神も白龍となっていますが、宇賀神のウガの音がサンスクリット語では白龍を指すことばに音が似ていることに由来するの。こじつけと云ってしまえばそれまでですが。(^^; 傍らの案内板には黄金水の効能が記載されていましたので、皆さんにも紹介してみますね。

白龍 亀 一.健康に良い
一.運が開ける
一.声が良くなる
一.美しくなる

亀 と云うことですが、ここでは銭洗いのことには触れられていないの。そうは云っても竹笊と柄杓が用意され、亀もせせらぎに打たれているの。白龍に見守られ、純金小判に浄化された水に、長寿を象徴する亀。おまけに効能の一つが美しくなるとあってはこの黄金水を飲まない手は無いようにξ^_^ξには思えるのですが、残念ながら飲用可とは書いてはありませんので、ここでは銭洗いに留めておきましょうね。

奉安殿 境内には六角形をした建物がありますが、奉安殿と呼ばれ、裸弁財天像と八臂弁財天像が祀られているの。前述のように、鎌倉時代には戦勝祈願に八臂の弁才天像が奉納され、武神として祀られたのですが、戦乱の世が遠のいた江戸時代になると庶民の暮らしも豊かとなり、弁財天信仰が広まるの。そうなると八臂弁財天よりも二臂の妙音弁財天が好まれるようになり、江の島の妙音弁財天像が一糸纏わぬお姿をされていたこともあり、江の島詣が隆盛するの。拝観料:¥150

奉安殿 宇賀神と習合した弁財天像が宇賀弁財天と区別されて呼ばれる中で、妙音弁財天像は本来の弁財天のお姿ね。琵琶を抱えて妙音を奏でる妙音弁財天は、芸術・文化の興隆に合わせ、技芸上達を願う浮世絵師や歌舞伎役者などの芸人達にも広く信仰されていくの。当時の裸弁財天は美の象徴として、さしずめミロのヴィーナス状態だったのかも知れないわね。天部の仏さまなのに裸形とは不謹慎な−と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、弁才天のルーツとされるサラスバティは乳房を露にした姿で描かれることも多く、衣服を纏っていても薄衣なの。

奉安殿 そこでは豊穣の象徴として表現されていたのですが、仏教に取り入れられて中国に伝来すると衣裳を着せられたの。仏さまが一糸纏わぬお姿ではあんべえよくねえべさ〜と云うわけね。そうして妙麗の貴婦人の衣裳を纏うことになり、それが日本にも伝えられたの。なので奉安殿に祀られる裸弁才天も彫像された当初は宝冠を戴き、衣装もちゃんと纏っていらっしゃったみたいなの。じゃあ何で今は一糸纏わぬお姿なの?理由は良く分からないけど、江戸時代には既に衣裳は失われていたみたいね。年月を経る内に衣裳がボロボロになってしまい、新たに裁縫することもなく、そのまま参詣者に披露していたみたい。

裸弁財天 製作年代は鎌倉中期〜室町前期としていますが、当時は写実的な像容が好まれたことから肉感的な表現がなされたの。ですが、決して最初から裸形を前提にしたわけではないのよ。そうは云ってもそこは庶民。裸形に対する難しい理屈はそっちのけで好奇の対象となるの。そうして江の島詣で賑わいを見せた江の島弁財天ですが、明治期の廃仏毀釈から神社に変わると粗雑に扱われ、琵琶も失い、両手首も破損してしまったの。現在の弁財天像は関東大震災の被災を受けて昭和初期に修復され、昭和58年(1983)に再度塗り替えられているの。なので修復前とはちょっと雰囲気が異なるようね。修復前のお姿はおいたわしい限りですが、お顔は寧ろ優しい表情をされているの。気になる方は雄山閣出版社刊 笹間良彦著【弁財天信仰と俗信】を御参照下さいね。 ©藤沢市観光課

八臂弁才天 その裸弁財天に頼朝の寄進と伝えられる八臂弁財天像が並びますが、頭部には人面蛇身の宇賀神も見当たらないことから、やはり荼吉尼天と習合した弁才天かしら。勧請した際には武神・軍神として祀られたわけですが、修復を経た今ではお顔の表情も意外に優しいの。掲載の画像は修復前のものですので、是非現在のお姿を御覧になってみて下さいね。こんな云い方をしては失礼かも知れませんが、裸弁財天よりも寧ろ端正な顔立ちをされているの。江島神社御参拝の折りには是非皆さんの目で御確かめ下さいね。 ©藤沢市観光課

残念ながら奉安殿内は撮影禁止ですので、弁財天の画像は いつでもおいでよ!藤沢市・湘南江の島【藤沢観光】 のフォトライブラリーより御借りしたものを加工した上で掲載しています。

ところで、見ていると大部分の方が弁財天の御尊顔を拝することなく辺津宮を後にされてしまうの。徒らに好奇の眼で拝観されるのも困りものですが、裸弁財天は江の島の象徴でもあるの。授かる福運も時代の流れと共に変遷を遂げますが、平和な時代となった今でも真摯な願いにはきっと耳を傾けて下さると思いますので、是非、身近に弁財天の福徳を浴びてから江の島散策しましょうよ。

むすびの樹 弁財天の御尊顔を拝したところで奉安殿を後にしましたが、境内には御神木のむすびの樹があるの。御覧のような公孫樹の木ですが、根元から枝分かれした幹が空を覆っているの。根元では一つに繋がることから互いの心が一つに結ばれるようにと、むすび絵馬が数多く奉納されているの。なので肝心の根元の様子が紹介出来ないのですが。因みに、むすび絵馬は¥500、彼と固く結ばれたいのと云うあなたは是非!

対岸 むすびの樹 境内 二人

左端はそのむすびの樹の傍らから対岸を眺めてみたところよ。むすび絵馬を奉納して互いに誓いあった後で見る景色はもっと違って見えるのかも知れないわね。眼下に続く弁天橋はこれから二人三脚で歩む幸せへの道−な〜んちゃってね。(笑)

八坂神社 そのむすびの樹の対面にあるのが境内社の八坂神社。現在の社殿は平成14年(2002)の改築と新しいものですが、素戔鳴尊が祭神として祀られているの。その素戔鳴尊もここでは江の島天王と呼ばれ、嘗ては腰越の地で祀られていたものが大波に流されて江の島の岩屋に漂着し、それを漁師が拾い上げてこの地に祀ったと云うの。素戔鳴尊も妙麗の弁財天が奏でる妙なる調べに手繰り寄せられるようにして流れ着いたのかも。エッ?ひと目見みえんと必死になって泳ぎ着いた?毎年7/14に行われる江の島天王祭はその故事に因んだもので、神奈川の祭50選にも選ばれているの。お祭りでは江の島天王が神輿に乗り、対岸にある小動神社へと神幸するの。

八坂神社 京都の八坂神社と云えば陰陽師の安部清明が奉祀した牛頭大王を祭神とするお社ね。当時は祇園社と呼ばれていたのですが、その祇園社を勧請したのがこの八坂神社なの。牛頭大王は素戔鳴尊と習合して同一神とも見做されてもいたのですが、明治期の神仏分離の煽りを受けて再び切り放されてしまったの。江の島天王の呼称は牛頭大王として祀られていたことを示す傍証ね。牛頭と五頭は同じ音ですが、五頭龍は牛頭大王の化身とされていたのかも知れないわね。説明書きでは江の島天王の妃が小動神社に祀られ、織姫と彦星のように一年に一回逢いに行くと云うの。

狛犬 江の島天王が素戔鳴尊だとするとその妃神は稲田姫と云うことになるのですが、残念ながら現在は小動神社の祭神としては祀られていないの。ここからはξ^_^ξの勝手な想像ですので鵜呑みにされても困るのですが、八岐大蛇退治神話では稲田姫が生け贄となるところを素戔鳴尊が助けているの。その逸話が弁財天の顕現譚でも紹介した対岸に棲む五頭龍伝説に結びつけられたのではないかしら。一年に一度五頭龍征伐に向かうと云うよりも稲田姫に逢いに行くという方がロマンチックよね。それに弁財天の眷属となった五頭龍を退治してはちょっとマズイものね。

江の島天王祭 説明書きに記される神幸の由来を補足して紹介しましたが、異説では素戔鳴尊の里帰りとされているの。ξ^_^ξ達が盆暮れには故郷へ帰郷するように、素戔鳴尊も嘗て我が身が祀られていた小動岬に里帰りすると云うの。小動神社の祭神には稲田姫の名が見当たらないことから、やはり江の島天王祭はふる里に錦を飾るために行われる里帰りなのでしょうね。神輿を担いだまま海中で魂振りする祭りは豪勇を以て知られた素戔鳴尊ならではの神幸よね。 ©藤沢市観光課

稲荷・秋葉社 八坂神社に続いてあるのが稲荷神と秋葉権現の合祀社。稲荷社は稲荷神の宇迦之御魂神( 宇賀御魂命・倉稲魂命との表記も)を祀るもので、秋葉社は火防の神・秋葉権現(=迦具土神 かぐつちのかみ)を祀るお社ね。稲荷神と習合した宇賀神が更に弁才天に習合して宇賀弁才天にもなりますが、仮に迦具土神と習合していたらどんな弁才天になっていたでしょうね。不信心な輩には八臂が飛んで来て襲いかかるかも知れない?尚、二神についての詳しいことは折に触れて紹介済みですので、ここでは省略させて下さいね。

古碑 境内の外れに2基の石碑が忘れ去られたかのようにして建ちますが、その内の一つが沼田頼輔歌碑。碑には さながらに生けるが如く 見まつりぬ 御神ながらも肌ゆたかなり と刻まれているの。裸形の妙音弁財天を評して詠まれたものですが、与謝野晶子の鎌倉大仏を詠んだ かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな の句と対を成す句と評されているの。沼田頼輔は15年余の歳月を費やして大正14年(1925)に【日本紋章学】を著すなど、紋章学を体系化した大家として知られ、その著作は現在でも多くの研究者に利用されているの。

その歌碑の隣には宋国伝来の古碑が建てられているの。
ここでは傍らの説明書きをそのまま引用させて頂きますね。

江嶋縁起に依れば元久元年(1204)に宋に渡った源実朝の使節・良真が慶仁禅師より江ノ島に因んで授けられたと伝えられ、碑面の四辺を細線で刻画し、上方に左右から双龍形を陽刻し、大日本国江島霊迹建寺之記と篆書されていますが、碑銘は摩滅して読むことが出来ません。このため元禄14年(1701)に杉山検校の門弟・島岡検校が雨除けを寄進しました。

余談ですが、源実朝は詠歌に勤しむ一方で、巨船を建造して渡宋しようともしたの。結局、大きすぎて就航させることが出来ずに断念しているのですが(笑)。【善隣国宝記】では、その実朝は実は宋朝の名刹・能仁寺を開山した南山宣律師の生まれ変わりと云われ、また【紀伊国続風土記】には実朝の前世は西遊記で知られる三蔵法師だったと記されているの。幾れも虚構ですが、それを信じて必死に渡宋しようとしたことは事実みたいよ。巨船建造のことについては【吾妻鏡】にもしっかりと記されているの。

〔 建保4年(1216)11/24 〕 將軍家先生の御住所醫王山を拜し給わんが爲 渡唐せしめ御うべきの由 思し食し立つに依りて 唐船を修造すべきの由 宋人和卿に仰す また 扈從人六十餘輩を定めらる 朝光これを奉行す 相州 奧州 頻りに之を諫め申さると雖も御許容に能わず 造船の沙汰に及ぶと

〔 建保5年(1217)4/17 〕 宋人和卿 唐船を造り畢んぬ 今日 數百輩の疋夫を諸御家人に召し 彼の船を由比浦に浮かべんと擬す 即ち御出有り 右京兆監臨し給う 信濃の守行光今日の行事たり 和卿の訓説に隨い 諸人筋力を盡くしてこれを曳く 午の刻より申の斜めに至る 然れどもこの所の躰たらく 唐船出入りすべきの海浦に非ざるの間 浮かべ出すこと能わず 仍て還御す 彼の船は徒に砂頭に朽ち損ずと

渡宋の意志を固めた実朝は、北条義時や時房らの進言を無視して巨船の建造を下知するの。ところが、いざ進水と云う段になり、総動員で海面に引き出そうとするのですが、ビクともせず、諦めたの。午の刻より申の斜めに至るとありますので、5時間余りも奮闘したことになるわね。実朝の落胆振りが窺える記述ですが、将軍職の座にある彼の心をかりたてのは何だったのでしょうね。

鎌倉・円覚寺の舎利殿には実朝が能仁寺から請来したものと伝えられる仏牙舎利が納められているの。仏牙舎利とは仏舎利の中でも貴重品とされるお釈迦さまの歯のことで、日本の地にそれがあるのも実朝が宋に思いを寄せたからね。お釈迦さまに親不知があったかどうかは知りませんが、あったとしても歯の数は上下合わせて32本が普通よね。なので仏牙舎利は世界広しと雖も32個しか無いと云うことね。余談が長くなりましたが、この古碑は良真が仏牙舎利と一緒に持ち帰ったものかしら。辺津宮の社殿を創建したのが実朝なら、年代も建永元年(1206)のこと。碑が伝えられたのはその2年前のことですので、鎌倉幕府の祈願所でもあった江の島に祀られたとしても不思議では無いわね。

庚申塔 2基の石碑がある場所からは中津宮に向かう道が続きますが、その石段際には神輿庫が設けられているの。扉が固く閉ざされ、内部を覗いてみることも出来ませんが、前述の江の島天王祭の際にこの御輿庫からお御輿が担ぎ出されるのでしょうね。その神輿庫に対面してあるのがこの 庚申塔 よ。基壇は後世に造られたものでしょうが、碑には主尊の猿田彦大神の文字が刻まれているの。説明書きでは天保3年(1832)に建立されたもので、書家として知られた阿部石年の筆跡を模刻したものと伝えているの。

景観 辺津宮境内を巡り終えたところでちょっと休憩しましょうね。中津宮に向かう道すがらからは御覧のような景観が広がるの。対岸に見えるこんもりとした岬が小動岬。嘗て岬には風も無いのに葉を揺らせ、琴のような音色を奏でる小動の松があり、岬の名はそれに由来するの。こゆるぎとはロマンティックな名称ですが、一方で太宰治は心中事件を起こしてもいるの。その小動岬が気になる方は鎌倉歴史散策−腰越編の 小動岬 の項を御笑覧下さいね。CMでした。(^^;

15.中津宮 なかつのみや

中津宮 みどりの広場から相模湾を展望したところで短い石段を登りますが、木立ちの奥に鎮座するのがこの中津宮。祭神は宗像三女神の一柱・市杵嶋比売命(=市寸島比売命 いちきしまひめのみこと)で、元々は斎(いつ)き祀る嶋の巫女−の意なの。宗像神社では玄海灘に浮かぶ沖の島と陸地の中間点にある大島に祀られることから中津宮と呼ばれるようになり、宗像三女神の中でも、とりわけ容姿端麗とされるようになったのが、この市杵嶋比売命なの。

中津宮 弁財天信仰が全国的な広がりをみせるようになると、各地に祀られていた市杵嶋比売命も弁財天と習合するの。庶民の暮らしが豊かになった元禄時代には妙音弁財天に技芸上達を願う人々が増え、元禄文化の開花に合わせて弁財天もパワーアップしたの。そこには当然絵師達もいたわけで、美の象徴として弁財天の美貌にも一層磨きがかかったと云うわけ。ですが、江の島では当初から弁才天が祀られ、市杵嶋比売命を始めとする宗像三女神が祀られるようになるのは明治期以降のことね。

中津宮 縁起では仁寿3年(853)に慈覚大師がこの中津宮を創建したと伝え、元禄2年(1689)の再建を経て現在の社殿は平成8年(1996)に修造されたものなの。朱塗りの華麗な社殿ですが、元禄期に再建された社殿が遙かなる時を経て現代に甦ったと云うところかしら。その元禄時代には経済の発達に合わせて歌舞伎が隆盛していくの。紆余曲折もありますが、庶民の娯楽として脚光を浴びるようになり、江の島を舞台としたものも多く演じられるようになるの。

枝垂れ桜 そのお蔭で江の島詣は益々盛んになり、歌舞伎役者も技芸の上達を願い、参詣するようになったの。参道には石燈籠が並びますが、市村座・中村座の両雄が安永6年(1777)と天明2年(1782)に各々献燈したものなの。傍らには枝垂れ梅と枝垂れ桜が植樹されていますが、両座の献燈二百年を記念して昭和60年(1985)に新たに手植えされたものなの。因みに、梅幸のしだれ梅は七代目・尾上梅幸が、菊五郎のしだれ桜は同じく七代目・尾上菊五郎が植樹しているの。

手形 近年では平成11年(1999)に七代目・尾上菊五郎と五代目・尾上菊之助の演ずる江の島大歌舞伎が催され、開演に先立ち、江の島に詣でた尾上菊之助がしだれ梅を植樹しているの。傍らにはその2人の手形を象ったモニュメントが置かれているの。残念ながら燈籠には火が灯るわけではありませんが、市村座・中村座に依り灯された江の島歌舞伎の灯は、現在でも燃え続けているの。技芸上達を祈願する弁財天信仰も健在と云うわけね。



緋色の華麗な社殿は市杵嶋比売命ならではのものですが、社殿左手奥には右端の石碑が建てられているの。何か云われのあるものと見受けられるのですが、飾り文字が刻まれ、何と訓むのかξ^_^ξには分からないの。画像をクリックして頂くと拡大表示が可能ですので、意のある方は読解に挑戦してみて下さいね。訓めた暁にはコソッと御教示頂けると嬉しいな。(笑)

16.サムエル・コッキング苑 さむえる・こっきんぐえん

コッキング苑 中津宮を後に回り込むようにして石段を登ると見えてくるのがこれから紹介するコッキング苑なの。その名よりも江の島植物園の呼称に親しみと云うか、思い出を持たれる方も多いのではないかしら。その江の島植物園も、元々は江島神社の供御菜園だったの。旧展望灯台と合わせて江の島のシンボル的な存在でしたが、平成15年(2003)にリニューアル・オープンし、名称も明治期にこの地に庭園を造成したイギリスの貿易商・サムエル・コッキングに因み、新たに名付けられたの。入苑料:¥200

温室遺構 入園受付を済ませて苑内に入ると最初にあるのがこのコッキング温室遺構。イギリスのアイルランドから来日したコッキングは横浜で貿易商として成功を収め、明治15年(1882)にこの地に大庭園の造営を始めるの。その総面積は10,000m²を越える巨大庭園で、園内に造られた温室も660m²と云う凄さ。熱帯・亜熱帯植物が生い茂り、南国を思わせたと伝えられているの。残念ながらその庭園も氏が亡くなると荒廃し、温室なども昭和24年(1949)の江ノ島植物園造成時に埋め戻されてしまったの。

温室遺構 それが再び掘り起こされてコッキング温室遺構として展示されているの。遺構は温室のあったところだけが対象に掘り起こされたものですが、そのスケールの大きさには驚かされてしまいますね。ボイラー室や巨大な地下貯水槽が設けられ、オオオニバスなども栽培されていたと云うのですから驚きよね。幾ら明治期のことは云え、巨万の富みが無いことには造れなかったわけですが、その富みを総動員してこの地にこの世の楽園でも造る積もりだったのかしら?

眺望 温室遺構の奥側にはマイアミビーチ広場があり、ここからも相模湾が見渡せ、七里ヶ浜の海岸線を望むことが出来るの。視界の左手になりますが、片瀬海岸は東洋のマイアミ海岸とも評され、観光都市・藤沢がマイアミ・ビーチ市と特色が似ることから、昭和34年(1959)に友好姉妹都市の提携をしているの。残念ながらξ^_^ξはマイアミを訪ねたことはありませんので、どの程度似ているのかは不明ですので、皆さんの眼で御確かめ下さいね。

鍵 傍らには MIAMI BEACH AREA と書かれたモニュメントがありますが、ガラスケースの中には御覧のような鍵が収められているの。この鍵は何を表しているのかしら。単純に両市の友好関係が強固なことを示すもの?

ウィンザー広場 薔薇 温室遺構に隣り合わせにして薔薇庭園のウィンザー広場があるの。広場はカナダのオンタリオ州ウィンザー市との姉妹都市提携に由来するもので、植えられている薔薇はそのウィンザー市より寄贈されたものなの。残念ながら開花時期を過ぎていましたので、薔薇の香りに酔いしれることは出来ませんでしたが、一輪だけ優雅に咲く花を見つけたの。それも真紅の薔薇を。

花 花 そのウィンザー広場の傍らには巨大な竹のタイミンチクが残されているの。コッキングの庭園にあったもので、藤沢市の天然記念物にも指定されていますが、その存在に気付いた時には既に遅しで全容が収められずに撮影を断念。代わりに傍らに咲いていた花々を紹介しておきますね。ごめんなさいね、ごまかしちゃって。

春澤園 温室遺構・マイアミビーチ広場・ウィンザー広場と巡ったところで視線の先に中国風の建物を見つけて訪ねてみたのが春澤園と名付けられた庭園よ。傍らの説明書きでは、春は春城とも云われる中国・昆明市を指し、澤は藤沢市の沢に由来するもので、両市の友情は春の風のように両市市民の心を潤すように−との願いを込めて造られたものとしているの。園内には騁碧亭(ていへきてい)と呼ばれる建物があり、緑の中に佇むあずまやの意と説明されていますが、楼閣を思わせる立派な造りよ。これがあずまやなら我が家はどうなるの?(笑)

ちょっと茶化してしまいましたが、ここでは四阿と書いて「あずまや」と訓ませているの。四阿は池や湖の畔などに設けられた亭(ちん)のことで、柱だけで四方を開放した造りは景観を愛でるためのものね。ξ^_^ξ達が常日頃耳にする東屋とは天と地ほどの開きがあるわね。なので、この騁碧亭を訪ねる際には楊貴妃にでもなった積もりで登楼して下さいね。因みに、柱には漢詩が刻まれていますので、意のある方は読解に挑戦してみて下さいね。

孔雀像 春澤園の入口から程無くして三羽の孔雀が寄り添う姿の像がありますが、「吉祥永駐」と題されているの。昆明市のある雲南省では孔雀は吉祥の象徴とされ、孔雀の一家族がこの世に暖かく、ハーモニー溢れた雰囲気を作り出し、見る人々に愛情や幸福に対する追求を引き起こさせ、21世紀が人々にとって平和な発展の世紀であるようにと祈念して作製されたものとのこと。碑文には−友好都市提携を記念して昆明市は藤沢友誼館を昆明に建設する一方でこの吉祥孔雀を鋳造、騁碧亭と共に中日友好が代々に亙る証とした−と記されているの。

騁碧亭

これも説明書きからの引用で恐縮ですが、両市の友好都市提携は中国国歌・義勇軍行進曲の作曲者・耳(にえ・ある)氏が昭和10年(1935)に藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中に帰らぬ人になってしまったことに始まるの。25歳の若さで短い生涯を異国の地に終えたことが市民の哀しみを誘い、記念碑が建てられたと云うの。そんな藤沢市民の好意が故郷の昆明市の人々の知るところとなり、相互訪問などの親善を経て、昭和56年(1981)に友好都市締結の運びとなったの。の字は耳偏が正しいのですが、表示不能のためお許し下さいね。But 凄い方よね、名前が全て「耳」からなるなんて。中国現代音楽の祖とも評されるだけあって、音には敏感にして繊細だったのでしょうね。

抜け殻 昆明広場からは展望灯台に向かう道が続きますが、右手にはツバキ園が広がっているの。残念ながら、こちらも季節外れと云うことで、開花を見ることは出来ませんでしたが、木々の根元にはその名が一本毎に示されているの。一口に椿と云っても数多くの種類があるのね。薔薇の花に匹敵するような豪華な花をつける椿もあると聞きます。季節には見事な花園になるのかも知れないわね。そのツバキ園を斜めに走る道はその名も MIAMI BEACHI St.。それならツバキ園の周囲の散策小径はさしあたり Tsubaki Av. かしら。その小径の先にあるのが松本広場で、なまこ壁の松本館が建てられているの。

双体道祖神 藤沢市が東洋のマイアミビーチなら松本市は東洋のスイスと評されることから日本の海と山を代表する観光都市として昭和36年(1961)に姉妹都市になっているの。松本館は蔵を模したなまこ壁の建物ですが、館内では不定期ですが、そば打ち体験教室も開催されているの。調べた限りでは平日の昼間時の開催が多く、お勤めされている方にはちょっと無理みたいですが、本場信州の蕎麦打ちをしてみたいなあ〜と云う方は 神奈川県観光協会 で開催日時などをお確かめの上でお出掛け下さいね。因みに、左掲は傍らに建てられていた双体道祖神。像のようにいつまでも仲睦まじくありたいものよね。

花 花 その松本広場に隣接して芝生広場が設けられていますが、お弁当を広げる方の姿もあり、憩の広場となっているの。辺りにはコッキングが造園した当時からあり、藤沢市の天然記念物にも指定されているシマナンヨウスギやツカミヒイラギなどの巨木が残されていますので、樹木に興味のある方は忘れずに御鑑賞下さいね。その方面に疎いξ^_^ξはミツバチではありませんが、専ら色彩に手繰り寄せられるのみで・・・(^^;

展望灯台 その芝生広場からも聳え建つ展望灯台が見えますが、近付いて見上げるとロケットの発射台のような面持ちね。写真は下からの撮影ですので分かりませんが、実際には逆円錐形をしているの。展望灯台の高さは59.8mあり、高台に位置することから海抜では119.6mになるの。普通、灯台と云うと狭い急階段を登らなくてはなりませんが、ここでは展望台までエレベータが一気に運び上げてくれますので御安心下さいね。但し、登灯にはエレベータ搭乗料金ならぬ、展望台昇塔料:¥300( ′04.07現在 )が必要よ。ここでは難しい理屈抜きにして360度のパノラマをお楽しみ下さいね。画像はお遊びで合成したものですが、実際に眺めてみた時の広がり感と奥行感は掲載画像より遙かに雄大よ。是非、皆さんも御自身の目で体験してみて下さいね。

パノラマ 園内

下掲は後程訪ねる主な見処を眼下に収めてみたものですが、鳥にでもなった気分で御覧下さいね。
どんな鳥になるかは皆さんに御任せよ。

外階段 雄大な景観を堪能したところで展望台を後にしましたが、気分を変えて外階段を降りてみることにしたの。機器類のケーブルが収められた配管でしょうか、パイプが数多く張り巡らされているの。軽量化のためなのでしょうね、手摺りも格子状のもので外界が丸見えなの。高所恐怖症の方にはちょっとお薦め出来ないわね。時折、横からは風が吹き抜け、瞬間恐怖を覚えることも。地上では殆ど無風状態でしたので気にすることも無かったのですが。
教訓:無いと思うな 風の便り・・・(^^;

サンセットテラス 慌てて降りて来た外階段ですが、降りて来たところにあるのがこのサンセットテラス。人っ子一人いませんが夕陽が沈むには未だ時間があるからでしょうか。写真には写りませんが、テラスの周囲を太陽電池のパネルが取り巻いているの。ウッドデッキの洒落た造りですが、テーブルや椅子があればいいのにネ−と思うのはξ^_^ξだけかしら。そのせいか、階下にあるカフェの方は大賑わい。ですが、夕陽が見られる頃には恋人達でテラスも埋まり、肩を寄せ合う二人には椅子はかえって邪魔かも知れないわネ。

旧展望灯台 階下にある郷土資料室では江の島の今昔を撮した写真などが掲示されているの。右掲は旧展望灯台の模型ですが、この姿にこそ愛着を感じてしまう方も多くいらっしゃるのではないかしら。この資料室を訪ねて初めて知り得た事柄もあり、旧展望灯台を知らない方もいらっしゃるかと思いますので、ちょっと紹介してみますね。江ノ島電鉄がこの江の島に植物園を開設したのは昭和24年(1949)のことですが、その2年後の昭和26年(1951)に世田谷の二子玉川から移設されて来たのが展望灯台の始まりなの。エッ、最初から建てられたんじゃないの?でも、何故、海から遠く離れた二子玉川の地にそんなものがあったの?実は、戦時中に落下傘降下の訓練施設として建てられていたと云うの。相模湾を航行する船の安全を守る江ノ島灯台が、嘗ては軍事施設だったなんて、意外よね。

灯火

旧灯台の高さは現在のものよりちょっと低い53.7mですが、灯火の光達距離は46kmもあり、三等級の民間灯台としては国内最大級の規模を誇っていたと云うの。旧展望灯台も江の島を象徴する灯台として永く親しまれて来たのですが、さすがに50余年の積年には耐えられず、平成14年(2002)の大晦日の点灯を最後に、その歴史に幕を下ろしたの。

展示資料 資料室には江ノ島植物園内遺跡から出土した磨製石斧などの石器の写真も掲示されているの。新展望灯台が建つ地には約9,000年前の縄文早期の集落跡が見つかり、発掘調査では20棟程の竪穴式住居址や焼土址も発見されているの。出土した土器片には静岡県東部から出土する土器の特徴とも似ることから交流があったものと想像されると説明されていますが、小舟で漁をしている内に流されてこの江の島に漂着し、そのまま住み着いてしまったのかも知れないわね。当時の景観を知る由もありませんが、夕焼けが赤く台地を染めゆく中で夕餉の煙がたなびくさまを想像すると、貧しい中にも肩を寄せ合いながらたおやかに暮らす縄文人達の姿も見えて来るの。

写真 写真 その他にも、江ノ島の今昔を知る上で貴重な絵図や写真が掲示されていますが、とりわけ興味を覚えたのがこの2枚の写真なの。風雨の中桟橋を渡る写真は弁天橋を紹介する際に利用させて頂きましたが、一方は砂洲が広がり陸続きになった頃の写真よ。尚、掲載画像は二次加工を加えていますので予め御了承下さいね。
















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