≡☆ 板橋・赤塚歴史散策 ☆≡
2007.03.03 & 03.04 & 03.10 & 2008.03.09

今回の散策ではメインディッシュとなる乗蓮寺。お目当ては勿論東京大仏でしたが、境内には他にも人々のあらゆる願いに応えようとした諸仏の姿があるの。最後に訪ねた赤塚氷川神社には主祭神の素戔嗚尊の他にも、何と、祟り神と厄病神が祀られていたの。どんな神さまなのか詳しくレポートしてみました (^^; ので、縁起でもねえや!とお怒りにならずに御笑覧下さいね。尚、頁末では日本三大怪談の一つと評される乳房榎のお話しも紹介してみましたのでお楽しみにね。おいおい、何ちゅうサイトだ!(笑)

《 後編 》 赤塚植物園〜乗蓮寺〜不動の滝〜赤塚城址〜氷川神社〜乳房榎

12.赤塚植物園 あかつかしょくぶつえん 13:14着 13:42発

赤塚植物園 この赤塚植物園は昭和56年(1981)に開設された板橋区立の植物園。植物園とあることから彩りも鮮やかな草花を期待される方も多くいらっしゃるかも知れませんが、この植物園では武蔵野の自然に触れることを主眼にしているの。なので一見地味にも思える佇まいなのですが、訪ねられるとお分かりのように、植物園の間近でも宅地開発が進むことから、ここでは徒らに手を加えるのでは無く、嘗ては丘陵地や山々に自生していたであろう草木も植えて、自然の移ろいが感じられるようにしているの。入園料:無料

春の七草 園内には万葉集に登場する植物が植えられた万葉植物園や薬草園もあるのですが、訪ねた際に、最初に目が留まったのが、事務所の前に置かれていた春の七草の寄せ植えなの。説明には「七草は寒さにめげず元気に育つところから古くからお正月の縁起物として松の内に摘草に出掛け、七草粥として食べるのが習わしとなっていました。江戸時代に当時の向島百花園主がこのめでたい草々を篭植えとしてお正月の飾りとしたのが七草篭の起こりです」とありました。さて、その春の七草とは何か、お分かりになりますか?ここでは皆さんへの宿題にしておきますね。(^^;

クロッカス 訪ねたのは春先の三月のことでしたので、季節柄か黄色の花を咲かせる木々がありましたが、興味のある方でも無い限りはその違いが良く分からないわね。事務所には図書室が併設されていて植物図鑑は勿論、植物に関する書籍も広く集められていましたので、見比べて見るのも良いかも知れませんね。加えて、係員の方には植物に関する相談にも応じて頂けるみたいよ。園内を散策して疑問に思うことがあったらお訊ねになってみては?

因みに、掲載画像は左から順にトサミズキ、ダンコウバイ、サンシュユとなるの。ピンボケですが拡大表示が可能ですので見比べてみて下さいね。落ち葉の蔭からは春の到来を告げる雪割草も可憐な花をのぞかせていたの。ねえねえ、わたしもここに咲いているのよ、気付いてね。

13.乗蓮寺 じょうれんじ 13:46着 14:18発

乗蓮寺山門 今回の散策のきっかけ作りをしてくれた東京大仏が鎮座するのがこの乗蓮寺。赤塚山慶学院を正式な山号院号とする乗蓮寺ですが、その名称よりも代名詞としての東京大仏の方が広く知られているの。奈良の大仏さまは別格にして、鎌倉大仏の名を知ってはいても、高徳院?なあに?それ〜というのと一緒ね。エッ?奈良の大仏さまが何て云うお寺に鎮座するか知らないって?う〜ん、困りましたね。ですが、そんなあなたにも御仏の遍く慈悲の光は降り注ぎますので御心配無く。と云うか、読み進めて頂ければ答えが見つかるハズよ。(^^;

乗蓮寺本堂 堂宇も全てが新しいものでしたので、創建時に奇を衒い、一緒に大仏さまを鎮座させたのではないかしら?と勝手に想像したのですが、この乗蓮寺は紆余曲折を経て現在地に移転して来ているの。と云うよりも、時代の流れの中で移転を余儀なくされたの。寺伝では、室町時代の応永年間(1394-1428)に了賢無的上人が草深い板橋の一角、山中村に草庵を結び、民衆を教化したのが始まりとされているの。現在の地名に置き換えると 板橋区仲町の専称院の建つ辺り と云うことですので、地図上にリンクを貼ってみましたので、興味のある方はクリックしてみて下さいね。

弁天堂 その後、安土桃山時代末に現・仲宿の旧中山道沿いに移転しているの。草深い村中の草庵では法話に耳を傾ける村人も少なかったのかも知れないわね。(^^; それに、お寺には財政的に支えてくれる檀信徒も必要よね。幸いなことに天正19年(1591)には徳川家康から朱印地10石を授かり、以後は歴代将軍がこれに倣い、幕末まで続けられたの。加えて、寛保3年(1743)に徳川吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのを機に将軍の休憩御膳所にも指定されたの。幕府が後盾になったのですから、これ以上の支援者は有り得ないわね。

弁天堂 一方で、当時境内にあった閻魔堂は近隣に広く知られて人々の信仰を集め、同じ仲宿にある文殊院の閻魔堂と共に、嘗ては板橋の二大閻魔と呼ばれていたと云うの。参道石段下の右手には、閻魔さまを始めとした十王達を祀る閻魔堂があるのですが、それに由来しているのね。と云うことで、石段を上る前に閻魔堂に立ち寄り、こわ〜いお顔をした閻魔さまのお許しを得てから御参詣下さいね。

お話しを元に戻しますね。幕府からのお墨付きを得て当時はそれなりの寺域を有していたのでしょうね。ところが、戦中戦後にそれが災いしたみたい。戦後になると開発の波が押し寄せ、国道17号線の拡張、環状6号線(山手通り)の開設、首都高5号線の架設と続き、とりわけ、この首都高建設が仲宿・乗蓮寺の息の根を止めたみたいね。何と、敷地が半分になってしまったの。こりゃいかん、しまいには全部買い取られて、寺がのうなってしまうかも知れん。少しは残されたとしても道路で囲まれてしまうかもしれんのお。これでは車がいつ何時猛スピードで飛び込んで来るやも知れんで、仏さまも草場の蔭でおちおち眠っておられんじゃろう。どこぞに越さねばなるまいのお−と住持の方が考えたのも無理からぬことね。

ところが、移転を決意したとしても、ξ^_^ξのようにトラック一台でお釣りが来るような訳にはいかないわよね。どのような経緯から現在地が選定されたのかは分かりませんが、昭和46年(1971)から7年間と云う歳月を掛けてこの地に移転して来たの。山号もそれまでの慶学山から赤塚山に改め、天災戦災等で亡くなった方々の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して新たに青銅大仏を建立したの。見た目には新しく見える伽藍にも関わらず、境内には文化財級の石造物が建つ背景には、時代を生き抜いてきた乗蓮寺の誇りがあると云うわけね。

東京大仏 寺史の紹介が済んだところで、早速境内の御案内に進みますね。ここではやはり大仏さまを最優先で紹介しなくてはなりませんよね。この大仏さまには鋳造を決意した住持の熱い思いが込められているの。案内板には「この大仏さま(阿弥陀如来)は当山住職23世正誉隆道が昭和49年(1974)88歳にて発願、完成まで約3年の歳月と延べ3,500人の手によって昭和52年(1977)4月に完成した。〔 中略 〕 千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊を弔い、世界の平和と万民救済の願いが込められております」とあるの。説明には引き続き「奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です」として身長体重が記されていましたので紹介しますね。ですが、大仏さまは座していらっしゃいますので、ここでは身長では無くて座高ですが。(^^; 補:独断で漢数字はアラビア数字に変換しています。

重量:32t
座高:8.2m(頭部3m)
蓮台:2.3m
基壇:2m(地上)

東京大仏 紹介しておいてケチをつけるのも気が引けるのですが、奈良・鎌倉の大仏に次ぐ云々には異論があるみたいなの。奈良と云えば東大寺、東大寺と云えば奈良の大仏さまと云われる程よね。なので、奈良の大仏さまは御本家と云うか破格の扱いで、大きさにしても文句なしの一等賞ね。次の高徳院の鎌倉大仏にしても先ずは異論の無いところですが、三番目となると「うらのでえぶつさまの方がでかいぜよ」「なに云ってやがんでえ、俺んとこに決まってんだろうが!」と諸説紛々なの。無量の徳を以て衆生を永遠に救い給うと云う大仏さまにしたら「なに細かいこと云うてんねん、そんなん、どっちでもえやないかい」と笑ってらっしゃるのかも知れませんね。

石造物群 その大仏さまを取り巻くようにして石仏像や縁りの方々の墓塔が建てられているのですが、ξ^_^ξが気の向くままに興味を覚えたものを紹介してみますね。中でもユニークな像容をした石仏群が伊勢国津藩藤堂家の江戸下屋敷に祀られていた代物で、藩祖の藤堂高虎が慶長2年(1597)からの慶長の役の際に参戦し、朝鮮水軍を殲滅させた時に持ち帰ったものとも云われているの。それが何故ここにあるのかと云うと、明治時代になってからは津藩の家老職を務めていた寺村家の庭先に移設されていたみたいで、後に寺村家側から乗蓮寺に寄進されたの。

文殊菩薩 大仏さまを中心に時計回りに紹介してみますが、最初に祀られているのがこの文殊菩薩像。三人寄れば文殊の知恵−のことばに象徴されるように、文殊菩薩の知恵は至高のものなの。加えて、知恵は知恵でも仏教で云うところの智慧を指すの。じゃあ、智慧ってなあに?となるのですが、煩悩を捨て去り、自らを悟りの境地に導く精神力を云うの。それこそ知恵熱が出そうね。(^^; 転じて「物事を上手に判断するための力」(=知恵)を授けて下さる仏さまとなったの。ところで、文殊菩薩を背に負う獅子ですが、ξ^_^ξ達が普段見掛けるそれとはやはり雰囲気がちょっと違うわね。

奪衣婆 次に脳天気な (^^; 輩を待ち構えているのがこの奪衣婆。脱衣婆の字を充てることもあるので「だついばばあ」と訓まれる方もいらっしゃいますが、それだと水木しげるの世界になってしまうわ。ここでは「だつえば」と読んで下さいね。案内板には「三途の川の〜」とあるように、三途の川の畔であなたを待ち受けているのがこの奪衣婆で、あなたの着ている衣服を剥ぎ取ると、傍らの懸衣翁に手渡すの。懸衣翁はそれを衣領樹の枝に掛けて枝の下がり具合であなたが生前に犯した罪の重さを計るの。エッ?重すぎて枝が折れちゃう?(^^;

その奪衣婆ですが、実は先程紹介した閻魔堂でも閻魔大王と肩を並べているの。生前に何の罪も犯さない人は先ずいらっしゃないと思いますが、当時の人々も死後の地獄行きを最も恐れたの。そこから生まれ出たのが十王思想で、閻魔大王を始めとする十王達を祀り、死後の安穏を祈願したと云うわけ。詳しいことは鎌倉歴史散策−北鎌倉編の 円応寺 の項で御案内していますので、興味のある方は御笑覧下さいね。但し、罪なんて犯して無いわ−と云う自信がある方だけにしておいて下さいね。余談ですが、奪衣婆は閻魔大王の后だとの噂 (^^; もあるの。

役小角 次にあるのが役小角(えんのおづぬ)像。役小角は実在の人物で、修験者の祖と仰がれるように、原始密教と日本古来の山岳信仰を融合させたの。その出自は賀茂役君(かものえんのきみ)家で、司祭職を務める家系の呪術師だったの。その彼が死後に伝説化するのですが、孔雀明王呪法を会得した後に鬼神を自在に操り、大和国の葛城山や大峰山を雲に乗り行き来したなどと伝えられたの。そうなると、これらの石造物は朝鮮から持ち帰って来たものと御案内しましたが、日本で独自に成立した行者伝説が逆輸出され、朝鮮半島でも塑像されたと考えるのは不自然な気がするの。

その役小角についての有名なエピソードが【日本霊異記】などに描かれているの。長くなり序でに紹介してみますが、そんなの、どうでもいいわ−と云う方は心置きなく読み飛ばして下さいね。【霊異記】は「葛を被り 松を餌み 清水の泉を沐み 欲界の垢を濯ぎ 孔雀の呪法を修習して 奇異の驗術を證し得たり 鬼神を駈ひ使い 得ること自在なり」と記しますが、その役小角が日本とお隣り中国との間を空を飛びながら行き来していたとするお話しがあるの。

ある日のこと、役小角は神々を集めて大和国(現・奈良県)の金峯山(きんぷせん)と葛城山との間に橋を架けろと命じたの。多くの神々が使役を嘆く中で葛城山に住む一言主神(ひとことぬしのみこと)は公家の一人に言(こと)寄せして「役小角が謀を以て天皇家を滅ぼそうと企んでおるようじゃ」と天皇に告げたの。驚いた天皇は空かさず役小角を捕らえる詔を出したのですが、彼の術の前では誰もつかまえることが出来なかったの。そこで母親を捕らえて人質としたの。これには流石の役小角も観念して出頭して来たの。そうして捕らえられた役小角は伊豆の島へと配流させられてしまったの。

ところが、会得した術で役小角は海の上でも陸上と同じように走り回り、飛ぶ時には鳳凰のように大空を舞っていたと云うの。それでも日中は天皇の命に従い島内に留まり、母親に孝養を尽くし、夜になると富士山の嶺に飛来して修行を続けていたの。それを知った一言主神は今度は役小角の斬罪を託宣。天皇は使いを走らせて頸をはねようとしたのですが、いざ刀を振り下ろそうとした矢先、その刀に文字が浮かび上がったの。それは他ならぬ富士明神の託宣で−役小角は大賢聖故に殺すべからず、速やかに都に迎うべし−とあり、ようやく許されたの。伊豆に配罪となってから三年の月日が流れていたわけで、一度ならず二度も天皇に讒言した一言主神に憤慨した役小角はその術で縛り上げてしまったの。そうして遂に役小角は仙人となり、その姿が地上から遠ざかるとやがて天空に消えてしまったの。

それからしばらくして遣唐使の一員として唐の国に渡った道昭上人が修行の後に新羅山寺に住していた時のことなの。五百人の聴衆を前に法華経の講話をしていると日本語で質問して来た仙人がいたの。驚いた道昭上人が訊ねてみると−我は役優婆塞なり−と名乗り、唐に来て173年経たけど日本が恋しくて今でも三年に一度は金峯山や葛城山、富士山の嶺に詣でていると告げたの。続けて、今でも天皇の御恩は忘れないが一言主神のヤツだけは絶対に許せん!−と伝え、唐の国では40人の仙人中、第三座に位して八部衆を日夜駈使していると告げたと云うの。

優婆塞:ウバソクと訓み、出家せずに世俗のまま仏道修行する者のこと。

ここでは【霊異記】の記述を踏まえて【役公伝】等に記されるお話しをブレンドしてお届けしてみました。
併せて脚色(デッチあげとも云う)も加えてありますので御注意下さいね。(^^;

何やら薄気味悪い石像が続きましたが、庫裡の門前でホッとさせてくれたのがこの何でも耐える「がまんの鬼」なの。今までのお話しの展開からすると、ここでは鬼についての能書きをひとくさりしなければならないところなのですが、昔話で思い浮かべる赤鬼や青鬼の姿はかなり時代を経てからのもので、鬼の成立過程は複雑、かつ多岐に亘ることからξ^_^ξのような門外漢には手に負えないの。ですが、像を見て考えたのは、藤堂高虎が朝鮮から持ち帰ったのはこれらの石像では無くて、実際には石仏師自身を連れて来ちゃったのではないかしら?と云うこと。

役小角像一つをとりあげてみても、彼が渡唐していたと云うのは作り話ですので、朝鮮で彫像されたものとするのは不自然よね。石像群の像容にしても、普段ξ^_^ξ達が見掛けるものとは明らかに雰囲気が異なるの。話しを勝手に作るな!と、また怒られそうですが、この「がまんの鬼」にしても、実は、異国の地に連れて来られて自分の意思とは異なる石像を刻む、石工自らの姿を投影した作品なのではないかしら。老いたる母は健勝か、愛する妻や我が子は今頃どうしておろうや?帰りたい、帰れない‥‥‥その表情を見つめていると、妙に切なくなってしまう「がまんの鬼」でした。

鉄拐仙人像 大仏さまの背後にはこの鉄拐(てつかい)仙人像が立ちますが、同じく藤堂家に由来する石像なの。明治期になり、家老職を務めた寺村家の庭に祀られた際には鉄拐堂に安置されると云う別格の扱いで、足の病に霊験あり−と多くの参詣客がいたと伝えられているの。霊験灼かとするにはそれなりの理由があったハズですが、残念ながら何故足の病が対象とされたのかも含めて分からず終まい。これもξ^_^ξの勝手な想像ですので鵜呑みにされても困るのですが、拐は杖の意でもあり、その場合には鉄拐は鉄の杖と云うことなり、転じて足の病に霊験灼かとなったのではないかしら?見えない鉄の杖を授かった暁にはそれこそ悪事千里を走るが如き‥‥‥もとい (^^; 、韋駄天が如き俊足が得られたのでしょうね。

他にも説教浄瑠璃五代目家元をつとめた若松若太夫(本名・諏訪仙之輔)の墓塔や、板橋ゆかりの板橋信濃守忠康のお墓などがあるのですが、大仏さまの右手手前に建つのが天保飢饉供養塔なの。最初に目にした時にはその大きさから高名な方の墓塔かしら?と思ったのですが、江戸時代の天保飢饉の際に、当時の板橋宿仲宿内で命を落とした人達の菩提を弔うために建てられた供養塔なの。台座には423人もの戒名が刻まれているのですが、それでも一部の方々のものみたいね。

天保飢饉供養塔 天保4年(1833)に始まり、天保10年(1839)にようやく終息をみた天保の飢饉は享保、天明の両大飢饉と共に江戸時代三大飢饉の一つに数えられ、全国規模での天候不順が続き、中でも東北地方の冷害被害は甚大だったみたいなの。凶作から大勢の餓死者が続出、多くの農民達が食糧を求めて都市部へ流れ込んで来たの。飢饉のピークとなった天保8年(1837)にはさすがの江戸幕府も板橋宿と品川・新宿・千住の四宿に急遽、施粥処を設けて救済するのですが、施設に辿り着きながらも行き倒れる者が多くあり、当時の乗蓮寺住持・撮誉上人がその亡骸を引き取り、寺地に埋葬してこの供養塔を建てたの。

その大飢饉の最中に、大坂では豪商達が米を買い占めて暴利を貪ったと云うのですから悪徳云々どころではないわね。米蔵と呼ばれる大坂でも餓死者が街に溢れていた中でのことよ。無償放出すべきよ!などと極論を云う積もりはありませんが、暴利とは。きっと彼らは今でも地獄で閻魔大王に睨まれながら永遠の責め苦を受けているハズよ。幕府にしても、その米を江戸に廻送しようとしたと云うのですから、庶民は救われないわね。百姓一揆や打ちこわしが各地で続発したとされますが、致し方のないことね。

妙見祠 一通りの拝観を終えて、境内を後に参道石段を下ろうとした際に、小さな石祠に目が留まったの。後程千葉氏の居城だった赤塚城に触れますが、この乗蓮寺の建つ場所は、その赤塚城二の丸跡でもあるの。傍らに建つ石柱はそれを示しますが、気になったのは寧ろ隣の祠の方なの。新しい台座に載せられて違和感を覚えますが、調べてみると、嘗ては現在の庫裡が建つ辺りに祀られていたと云う妙見祠なの。妙見菩薩を祀るものなのですが、千葉氏はその妙見菩薩を守護神として崇めていたの。そのきっかけとなったのが長元元年(1028)の平忠常の乱。忠常は桓武平氏の流れをくみ、千葉氏の祖とされる人物。その乱の追討軍として乗り出して来たのが源頼信ですが、窮地に陥った忠常の前に妙見菩薩が現れて助けたとされているの。


追討軍として最初に派遣されたのは、実は源頼信ではなくて、忠常と同じ平家一族の平直方なの。ところが、彼は忠常追討に本腰を入れることよりも私腹を肥やす方に専念したみたいね。それを良いことに、忠常側では不埒な悪行三昧。ついには房総半島を手中に収めてしまったの。平直方の非力に業を煮やした朝廷が、次に放った狙撃手が源頼信と云うわけ。その頼信からの追捕を知った忠常は敢え無く降参してしまうの。一説にはその頼信と嘗ては主従関係にあったからとも云われているのですが、捕らえられた忠常は京へ連行される途上の美濃国(現・岐阜県)野上で病没してしまうの。

ところで、面白いのはその後の平直方と源頼信なの。この二人がいたからこそ、鎌倉が源氏縁りの地となり、後に幕府が開かれたと云うわけ。平直方のお陰で北条政子も生まれた−と云っては過言かしら。以上の経緯を鎌倉散策−扇ガ谷編の 寿福寺 の項で「おまけのお話し」に纏めてみましたので、興味のある方は御笑覧下さいね。尚、この頁に戻り来る際にはブラウザの「戻る」ボタンで戻って来て下さいね。こっちの頁よりそっちの方が面白れえや−と云う方は御随意に。(^^;

妙見菩薩の妙見とは、物事をよ〜く見ると云う意味なのですが、どこから見ているかと云うと、夜空に浮かぶ北斗七星辺りからよ。妙見菩薩には北辰菩薩、尊星王の別称もあるのですが、この北辰・尊星と云うのが北極星(広義では北斗七星)のことなの。古来から北極星には天現地象を司る神が宿ると信じられていたことから、国土を護る守護神となり、災いを取り除く神さま仏さまとして祀られるようになったの。中でも疾走する龍に乗る像容は、妙見菩薩の神通力と行動力を示すものとして、武士達からは篤い信仰を得たみたいね。後に、災いを取り除くことから転じて幸福を齎す守護神として庶民の信仰対象にもなっていくの。

未体験で終えていますが、乗蓮寺の墓苑には冒険家として知られた植村直己さんのお墓があるの。昭和59年(1984)にアラスカのマッキンリーで世界初となる冬期単独登頂に成功した後に消息を絶ってしまうのですが、登頂に成功したのは43歳の誕生日のことで、最後の姿が確認されたのはその僅か3日後のことなの。その後の二度に亘る捜索でも遺体は発見されずに今日に至ると聞きましたが、冒険ロマンに生きた、少年のような氏の魂は今も世界中を飛び回っているのでしょうね。日頃、冒険とは生きて帰ること−と語っていたと云う氏のことですから、或いはその内ふらっと元気な姿で戻ってくるのかも知れませんね。

14.不動の滝 ふどうのたき 14:21着 14:25発

不動の滝 大仏通りを高島平方面に向けて歩くと右手に石柵に囲まれた水溜まり (^^; があるのですが、それが不動の滝なの。平成14年度(2002)には東京都の名湧水57選に選定されました−とあるのですが、周辺の宅地化で湧水の水量も衰えて今にも涸渇しそうなの。ヘタな写真のせいで涎を垂らした亀にしか見えないわね(爆笑)。 崖上のことが気になり、斜面を登ってみたのですが、小さな公園がありました。区では他にも雨水桝を設置するなど苦肉の策を施してはいるみたいですが、いずれは水車公園のように人工的な流水施設を設置しなければならなくなるかも知れないわね。

不動明王 そんな不動滝ですが、嘗ては区内有数の湧水量を誇り、江戸時代中頃に山岳信仰が隆盛すると、富士山や大山(現・神奈川県伊勢原市)に詣でる際に、この滝で禊ぎをしてから旅立ったと伝えるの。今ではその痕跡さえも見届けられませんが、往時には滝壺の前に垢離堂も設けられていたと云うのですから、流れ落ちる滝水に打たれながら−のうまくさんまんだ ばざらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん−と真言を唱える先達の姿もあったのでしょうね。その姿を見届けていたのが他でもない、崖上に祀られる不動明王ね。

不動明王 なんたらかんたら〜と分かったような分からない呪文は、古代インドでのサンスクリット語(梵語)に由来するの。真言は祈祷する際に唱える短い呪文のことで、ダラダラと続く方を陀羅尼と云うの。密教では翻訳せずに元の梵語の音をそのまま唱和することで神秘的な力を得ることが出来るとされたの。何だか分かんねえけんどもよお、御利益がありそうでよかっぺ〜と云うところかしら。ニゲチャオーット...(((;^^)。その呪文で得られる加持の力を以て即身成仏させようとしたのが元々の真言密教で、今でも山開きなどの際には山伏装束に身を固めた方々が何やら謎めいたことばを唱えながら歩く姿を見掛けますが、これに由来すると云うわけ。

滝壺 ここでは茶化してお話しをしてしまいましたが、本当は真言や陀羅尼が音を重視したのは、ことばから受ける雑念を排除しようとしたことにあるの。ボーカルを楽しむ際に日本語の歌詞ではリズムやメロディーと共に詩の意味に思考が左右されてしまいますが、知らない国のことばではそのボーカルも楽器の一つとなり、音楽の中に溶け込むことが出来るわよね。それと同じことで、折角雑念を払い除けるために発したことばが逆に想念を呼び起こしたのでは本末転倒になってしまうもの。唱える方にしてみたら訳のわから無いことばだからこそ意味があるの。と云うことで、分かったような、分からないような‥‥‥(^^;

15.赤塚城址 あかつかじょうし 14:35着 14:54発

既に紹介済みのように、武蔵千葉氏の基礎固めをした千葉自胤ですが、赤塚城に居を構えた頃は、その赤塚郷も京都鹿王院領だったの。時代を遡る康暦元年(1379)に足利義詮の側室・香厳院殿芳林如春が鹿王院に寄進したことに始まるのですが、自胤はそれを強引に押領していったみたいね。加えて、地元で古くから勢力を保つ豊島氏との戦闘にも勝利し、その豊島氏に加担していた赤塚氏は討死・廃絶してしまったの。そうして名実共に、自胤は赤塚城主として君臨したと云うわけ。自胤亡き後も太田氏が後北条氏の下に参画するとそれに従い、後に後北条氏側から養子を迎えて一門に加わるのですが、天正18年(1590)に豊臣秀吉側の軍勢に後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸城に入府するに至ると赤塚城もまた廃城となったと伝えられているの。

赤塚城址 ところで、お城と聞くと石垣と白壁の城壁に囲まれて聳える立派な天守閣を思い浮かべてしまいますが、赤塚城は平山城なの。城柵と云っては失礼かも知れないけど、周囲を土塁や掘割で固めて防御する程度のものね。そうは云っても南北に350m、東西250m程の規模で営まれていたと云うのですから、それなりのものではあったみたいね。雑木林の坂道を登ると急に開けた台地に出ますが、一角には本丸跡を示す石柱が建てられているの。因みに、この赤塚城址を含めた一帯は区立赤塚公園として整備されているの。

初回に訪ねた時は赤塚梅まつりの開催期間中で、広場では西洋流火術鉄砲隊保存会の方々に依る演武も行われていたみたいね。勿論、その演武は高嶋秋帆が徳丸ヶ原で行った砲術訓練を再現したものよ。ですが、この赤塚城址に辿り着いた時には既に終了していましたので肝心の画像が無いの。ごめんなさい。ここでは何処かのTV局かしら、保存会の方にインタビューをしていた様子を掲載してみますね。おいおい、そんなん、どうでもいいじゃんかよお〜。(^^; 実は気になったのがインタビューされている方よりも取材する側よ。話しかけている男性はξ^_^ξの二倍位ありそうな方なのに、その後方で風防の付いた大きなマイクを振りかざしながら肩から提げた重そうなデッキとにらめっこしていたのが小柄の女性の方だったの。

取材風景 周囲への気配りと共に最近では男性以上に体力も要求されるようになったみたいね。それ以上に気になったのがその女性の手許を興味津々で覗き込む近所のおじさんなの。うざい!と怒鳴りたくもなるようなシチュエーションですが、音声担当(?)では声を発する訳にも行かないわよね。プロの道には様々な試練が待ち構えているようで。取り立てて云々する程のものでは無いのかも知れませんが、頑張ってね!とことばの一つでも掛けてあげたくなるような光景でした。

16.赤塚溜池公園 あかつかためいけこうえん 14:55着発

溜池公園 赤塚城址から下りて来たところにあるのがこの溜池公園で、昭和43年(1968)に開園したものなの。その中心となるのがこの溜池ですが、嘗ては近在の湧水を集め、その水は稲作に利用されていたと云うのですが、役目を終えた今では近在の方々の憩いの場となっているの。休日ともなると釣り糸を垂れる方々の姿も多く見受けられますが、バケツの中を失礼して覗き込ませて頂きましたが、正直に云うと釣り上げるには可哀想な位の小魚なの。見た目にはそれ程の水深もあるようには見えないのですが、池の底には龍神がひそんでいるみたいよ。

【いたばしの昔ばなし】板橋区教育委員会刊には「溜池の龍神さま」のお話しが収録されていますので、脚色を加えた上で紹介してみますね。確かに前半は昔話なのですが、後半はこの公園が造られてからのお話しよ。

戦国時代と云うからかなり昔のことじゃな。上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)に岡田隼人守(おかだはやとのかみ)と云うお殿さまがおったそうじゃ。日頃から信仰心の篤い殿さまじゃで、戦さが始まると城下に祀っておった龍神さまに必ず戦勝祈願のお参りをしてから出陣しておったそうじゃ。それはさておき、その龍神さま、何を思うたか、遠く離れたこの板橋のこの溜池に我が身の分身を遣わされたのじゃ。じゃけんども誰もその姿を見た者はおらんで、近在のものは誰一人としてまさかこの溜池に龍神がひそむとは夢にも思わなんだ。

その溜池を中心にして造られたんがこの公園じゃがしばらくしてからのことじゃった。上野国から龍神さまを信仰するもん達が上京して来てのお、溜池の畔にやおら祭壇を作ると米や塩などを沢山供えて祝詞を唱えはじめたのじゃ。話しを聞いてみたんじゃが何でも数日前から龍神が枕元に立つと−われこそは上野国の龍神、故あって今は板橋は赤塚の溜池におるのじゃが、息苦しくなり目を覚ましてみると胸の上にはわしの力を以てしても動かせん程の大岩が乗っておるのじゃ。一刻も早く溜池に来て供養の上、助け出してくれ−とお告げがあったそうじゃ。そうして最後は供え物を一つずつ池に沈めて式を終えたのじゃが、龍神さまは無事に大岩から逃れ出ることが出来たじゃろうかのお。今思うと龍神さまは公園を造る際に池に沈んだ石ころや土に埋もれておったのかも知れんのお。

前半は兎も角、後半は昔話では無くて実際にあったお話しみたいね。同著では、一団がこの溜池に来たのは昭和49年(1974)の8/23のことと記すの。殆どの方は今の時代にそんなバカな‥‥‥と思われるでしょうが、逸話は自然破壊に対する警鐘かも知れないわね。溜池公園の向こうには首都高速5号線の高架が見え隠れしますが、近くには板橋区の花に指定されるニリンソウの群生地もあるの。限られた緑でも、自然と触れあい、草木を愛でる心がある内は、溜池にひそむ龍神もこの地に留まり、人々の暮らしを見守ってくれるのではないかしら。

17.板橋区立郷土資料館 いたばしくりつきょうどしりょうかん 14:57着 15:36発

溜池公園の池の畔に建つのが 板橋区立郷土資料館 で、板橋区の歴史資料や文化財を収集・保管する施設なの。訪ねた時には特別展として−砲術書から見たその歴史−の副題が付けられた江戸の砲術展が開催されていたの。赤塚地区での梅まつり開催期間中に行われた合同企画展示で、松月院・松宝館の無料拝観、赤塚城址での砲術訓練の演武と共に行われたものなの。勿論、その内容は高嶋秋帆の砲術訓練をテーマとするものね。入館料:無料

大砲 通常であれば企画展は2Fが会場となり、1Fでは常設展示がなされるのですが、この江戸の砲術展は力が入っていたみたいで (^^; 1Fも特別展の会場になっていました。大堂の釣鐘が普段でしたら1Fに常設展示されているのですが、残念ながら訪ねた時には企画展の展示資料に隠れて近づくことが出来ませんでした。因みに、左掲は館の入口前に屋外展示されていた大砲のレプリカ(と云うかモニュメント)なの。館内の展示資料は撮影禁止ですが、これは構わないわよね。

資料館の中庭には徳丸地区から移築したと云う古民家なども屋外展示されているの。前半に紹介した粕谷家住宅は生垣越しに眺め見るのみですが、ここではお家の中に入ることが出来るの。勿論、靴を脱いでお座敷にあがることもOKよ。資料館側では典型的な日本民家としていますが、その広さや間取りからするとξ^_^ξには豪農屋敷に思えて、こんなに広くてはお掃除が大変ね−とは下世話な感想かも。(^^; 中庭には他にも近在から集められた庚申塔や馬頭観音像などが展示されているの。

18.赤塚氷川神社 あかつかひかわじんじゃ 15:58着 16:10発

氷川神社 赤塚氷川神社は千葉自胤が赤塚城の鬼門除けとして長禄元年(1457)に武蔵国一之宮である氷川神社より素戔嗚尊を分祠勧請して創建したことに始まるとされているの。現在の社殿は昭和52年(1977)に建てられたものですが、改築前の社殿は区内でも類を見ない古風な様式を留めていたとされ、その旧本殿を内神殿として抱え込む形で新本殿が建てられていると記すのですが、残念ながら外からは何も見えないわね。由緒書きには社殿の来歴が長々と続き、その規模と陣容がこれみよがしに述べられていて脳天気なξ^_^ξでもちょっと閉口気味‥‥‥

境内摂社 その社殿右手には御覧の境内末社が建ち並びますが、寧ろこちらの方が嘗ての近在の方々の信仰模様が知れて面白いわね。画面奥から順に八幡神社と赤塚神社の合祀社、榛名神社、白山神社、阿夫利神社と続き、最後にある石祠には疱瘡神が祀られるの。多くは代表的な山の神さま達を祀る末社ですが、気掛かりなのは八幡神と合祀されている赤塚神社の祭神ね。それを知る手掛かりは得られませんでしたが、社名に赤塚とあることから地主神(=産土神)かも知れないわね。

地主神は元々は大地に宿る神さまで、農耕を通じて運命共同体とも云える村などが造られていくのですが、地主神はその村人達に農作物の恵みをもたらすと共に、共同体の守り神としても活躍したの。一方の山の神さま達ですが、山の神はまた田の神さまでもあるの。春になり、山から流れ落ちる雪解けの水は田畑を潤し、秋には豊かな稔りをもたらす恵みの源よね。なので山の神さま達は春になると山から下りて来て、秋になると再び山へ帰ると信じられていたの。里人達はその山の神さま達を祀ることで豊作を祈願し、豊かな稔りに感謝したの。

最後に控えし疱瘡神ですが、他の神さま達が小振りながらもそれなりの社殿に祀られているのに対して、この神さまだけは石祠なの。それもそのハズ、疱瘡神は天然痘や痘瘡をもたらす疫神で、早い話しが厄病神なの。じゃあ、何でそんな厄病神を祀るの?当時は今のような疫病に対する知識も無く、医療技術も発達していなかったから、全てが悪霊や悪鬼のなせるワザとされたの。中でも死亡率の高かったのが疱瘡で、水泡が現れるなど、症状が見た目にも顕著なことから疱瘡神は猛威をふるう悪神として最も恐れられたの。今でしたら伝染病と云う認識でとらえることが出来ますが、当時の人々は疱瘡神は村境などから侵入して来て村中を暴れ回ると信じていたの。人々はその見えない疫神をひたすら崇めることで退散を願ったの。

この氷川神社に限らず、寺社の境内や村境などで疱瘡神を祀る石祠を見掛けることがありますが、そう云った場所は結界の地として異界への出入口と見做されてもいたの。その出入口から悪霊や悪鬼がひたひたと村へ来たりて災いをなすと信じられたことから祠を建てて祀ったの。この村ではあなたさまをこうして崇め祀っておりますので、どうか悪さをなさらずに、そのまま旅をお続け下せえまし−と云うわけ。

紹介した末社の他にも、社殿背後には見馴れない神霊の名を刻む石碑や祠が建てられ、本殿に祀られる素戔嗚尊を離れて、この氷川神社には嘗て赤塚村の人々が寄せた様々な願いが形として残されているの。お料理に譬えたら決してメインディッシュでは無いけれど、持ち前の個性に彩られた粒ぞろいのオードブル状態ね。

鳥居 境内を後にして参道へと向かいましたが、鳥居に掲げられた扁額には氷川神社の名と共に御霊神社の名が並記されているの。御霊神社と聞くと景政神を祀る鎌倉権五郎神社を連想しますが、同じ御霊神社でもここでは藤原広継を祀るの。じゃあ、藤原広継なる人物はいったい何者なの?となるのですが、傍らの案内板には次のように記されていたの。「藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追いやられ、太宰府で反乱を起こしたが朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族である。朝廷ではその怨霊の祟りを恐れて神として祀ったが如何なる理由で当社に祀られたかは不明である。板橋区教育委員会」

これを読んだ瞬間に、エ〜ッ!?何か菅原道真と同じようなチシュエーションじゃないの!と云うよりも、菅原道真よりも昔のお話しで、怨霊として恐れられたとなると道真の先輩格にあたるわよね。と云うことで、広継の名を知らずにいたξ^_^ξの頭上からは疑問符の集中豪雨が降り注いだの。

紹介しましたように、創建時には武蔵国一之宮氷川神社から素戔嗚尊を勧請していますので、その時点で藤原広継も合祀されたとは考えにくいですよね。となると、後世に新たに勧請されたことになるのですが、どこから招来されたのかが問題よね。一番の可能性が現在は京都府に鎮座する上下両御霊神社で、八所御霊と称して下御霊神社では崇道天皇・伊豫親王・藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麿・吉備聖霊・藤大夫・火雷天神の八柱を祀り、冤罪を以て誅せられたことから怨霊化して祟神となった彼らの魂を鎮めるお社なの。因みに、上御霊神社では伊豫親王・藤原吉子に代えて井上大皇后、他戸親王を祀りますが、両社に祀られる藤大夫と云うのが藤原広継のことなの。残る七柱についても全て調べ記すとなるとξ^_^ξには荷が勝ちすぎますので、ここでは藤原広継に限定して紹介してみますね。

【今昔物語】の第11巻の第六話には「玄ム僧正 唐にわたり法相を伝えたる語」が収められているのですが、そこに広継のことも詳しく記されているの。【今昔物語】は説話ですので、必ずしもその全てが史実とは限りませんが、その一部を引用しながら御案内してみますね。それに依ると、聖武天皇の御代と云うのですから奈良時代のことね、遣唐使として渡唐していた玄ムと云う僧が帰国したの。遣唐使は当時では超エリートで、その超エリートが唐で修行の後、経文5,000余巻に仏像などを携えて帰り来たのですから以後は出世街道まっしぐらよね。僧正の肩書を得るのにもそう長い時間は要らなかったの。加えて、紫色の袈裟は時の天皇の后をも惑わしてしまったみたいなの。(^^;

さる間 天皇の后 光明皇后 この玄ムをたふとみ 帰依し給いける程に 親しく参り仕まつりて
后 これを寵愛し給ひければ 世の人よからぬやうに申しわずらひけり

【今昔物語】は続けて「その時に 藤原の広継といふ人ありけり 不比等の大臣の御孫なり」と記し、経歴を述べた後で、午前中は右近の少将として宮廷に仕え、午後は九州に下ると太宰府で執務したなどとしているのですが、それはいくら何でも虚構よね。補足すると、天平9年(737)の天然痘流行で政治の実権を握っていた藤原四兄弟こと、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)が相次いで死去。その子供達は若年だったことから政務は橘諸兄に委ねられたの。諸兄は光明皇后の異父兄妹ですが、このことで藤原氏の直接的な血をひく者が政権中央からいなくなってしまったの。

代わりに、玄ムや同じ遣唐使帰国組の吉備真備が重用され、藤原氏の勢力が大きく後退することになるの。そんな中で天平10年(738)、藤原宇合の嫡男・広継が大宰少弐に任じられて太宰府に赴任するのですが、当の広継はそれを左遷と受け止めたの。その血脈からすると広継と光明皇后は甥叔母の関係ですから聖武天皇は従兄弟に当たり、それだけ政権中央に近い立場にいる訳で、何でこの俺が太宰府に飛ばされなくてはならん!玄ムのやろう、皇后をたぶらかしおって!と思うのは自然の成り行きね。たまりかねた広継は

大宰府より国解(こくげ)を奉りて申して曰く
天皇の后 僧玄ムを寵愛したまふこと 専らに世の謗りとあり 速やかにこれを止どめられるべしと

この国解と云うのは国司が上奏する公文書のことですが、【続日本紀】ではその内容を「時政の得失を指し 天地の災異なるを陳ぶ 因りて僧正玄ム法師 右衛士の督 従五位上 下つ道の朝臣真備を除かんと云ふを以て言を為す」と伝えているの。早い話しが玄ムと吉備真備の二人はとんでもねえ奴らだから追放すべきだと云うことね。

その進言に対して聖武天皇は「広継 何の故にか朝政を知るべき この者世にありては定めて国のために悪(あ)しかりなむ されば速やかに広継を討つべきなり」と討伐命令を下すの。聖武天皇にしたらオレの行う政(まつりごと)に口出しするとは不届き千万、コヤツを捨て置いては国のためにならん!イテコマシたれ!と云ったところですが、その聖武天皇自身も当初は「京中に在りて乱る親族を讒し故に遠きに遷らしめてその心を改めんことを冀(ねが)ふ【続日本紀】」状態にあったみたいなの。それがどう云う経緯から討伐と云う強硬手段に出るようになったのかは分かりませんが、大野東人を大将に据えて追討軍が派遣されたの。この時点で広継は逆賊のレッテルを貼られてしまったと云うわけ。

一方の広継の方でも「我 公の御ために過(あやま)つこと無しと云えども 公 横様に我を討たんとす これ 偏に僧玄ムが讒謀なり」と一万騎の軍勢を率いて迎え撃つ態勢をとったのですが、結局は負けてしまうの。その最期の場面を【今昔物語】は文字通りドラマチックなエンディングを以て語りますが、龍馬(りゅうめ)とは広継の愛馬で足の速い駿馬のことね。りょうまと訓んではいかんぜよ。(^^;

広継 海辺に出でて その龍馬に乗りて海に浮かびて高麗に行きなむとするに 龍馬前々の如く駈けること能はず
その時に 広継 もはや我が運尽きにけりと知りて 馬と共に海に入りて死ぬる・・〔中略〕・・
しかる間 沖の方より風吹きて 広継が死にたる身を濱際に吹き寄せつ
されば 東人 その頸を切りて 王城に持ちて上りて公に奉りつ

非業の死を遂げた広継ですが、これで終えてしまっては怒られますね。

その後 広継 悪霊となりて公を恨み奉り 且つは玄ムに怨みを報ぜむとするに
かの玄ムの前に悪霊現じたり 赤き衣を着て冠したる者来たりて 俄に玄ムを掴みとりて空に昇りぬ
悪霊 その身をさんざんに掴み破りて落としたりければ その弟子どもありて 拾ひ集めて葬ひけり

その後も広継の祟りは収まる気配が無くて、聖武天皇はビビリまくっていたの。そこで吉備真備を呼び付けると、お前は広継の師匠じゃろうが!直ぐさまヤツの墓へ行って宥めすかして来い!と命じたの。そうして真備は九州に下向すると広継のお墓を前にして云い繕い始めたのだけど、逆に広継の霊に乗りうつられそうになったの。慌てた真備は陰陽の術を駆使してそれを防ぎ、改めて広継の霊を宥め鎮め、やっとのことで祟りをやめさせることが出来たの。広継の怨霊はやがて神に昇華すると、現在の唐津市松浦に鎮座する鏡神社に祀られるようになったと云うわけ。

広継は本当は広嗣が正しいのですが、神社側や引用した【今昔物語】の表記に従い、
ここでは広継のままとしましたので御了承下さいね。

ねえねえ、藤原広継が神さまとして祀られるようになった経緯は分かったけれど、
この氷川神社に祀られたのはいつ頃のことなの?どうしてなの?

残念ながらそれは分からないの。ここから先はξ^_^ξのひとりごとですが、赤塚城の鬼門除けとして千葉自胤が創建したことに伏線があるような気がするの。自胤が赤塚城に入城した頃はこの辺りの荘園は京都の鹿王院の領有よね。そこから赤塚と京都の接点が生まれ、何らかの事情に依り京都の御霊神社から分霊されたのではないかしら。この何らかの事情として想定されるのが領有権争いの際に続いた血腥い事件。千葉氏側に不利となるもので怨霊の仕業と思わせるものだったのではないかしら。それは単に鬼門除けだけでは効果が無く、怨霊そのものを祀る必要があったのではないかしら。でも、それだけでは八所御霊の中から広継の霊のみが勧請された理由が説明出来ないわね。となると、広継の霊を祀る九州の鏡神社からの分祀が考えられるのですが、今度は赤塚と唐津の接点が思い浮かばないの。あとは氏子獲得のため、菅原道真の怨霊との類似性から藤原広継の霊を招来して北野神社に対抗した (^^; などと云う筋書きはどう?以上、戯れ言でした。ニゲチャオーット...(((;^^)

富士塚 二の鳥居脇には富士塚が残されていましたが、講中の方々が奉納した石碑も多く建ち、嘗ては富士登山も繁く行われていたことを窺わせているの。塚の頂上には御覧のような石祠が建てられていますが、その前には何故か七福神の二神、恵比寿さまと大黒さまの像が並び置かれていたの。時を経て富士塚の意味も薄れ、依代としての祠もまた苔むすままに風化しゆく運命ね。

第六天神 欅並木 欅並木 欅並木

参道の欅並木も樹齢を重ねたものが多く、境内の欅と共に区の保存樹木に指定されているものもあるの。加えて、この参道並木は平成6年(1994)に区の天然記念物にも登録されたの。嘗ては多くの木々からなる樹叢に囲まれていたとのことですから、それこそ精霊の宿る面持ちの古木もあったのでしょうね、根元に第六天神と刻む石碑を抱え込むものもあり、その面影を今に残すの。因みに、第六天神は六番目の天神さまと云うことでは無くて第六天のことなの。ここでは深くは触れずに置きますが、散策のエンディングを語るにはふさわしい神さまかも知れないわね。

19.乳房榎 ちぶさえのき 16:19着 16:21発

乳房榎 松月院の項の冒頭でも触れましたが、怪談乳房榎のモデルとされたもう一つの古木がこの榎で、氷川神社の参道入口から通りを隔てて聳え立ち、樹齢は1,700年余と云われているの。傍らには赤塚乳房大神と刻まれた石碑も建てられていますが、この木に多くの女性達が信仰を寄せる姿を見ていた地主の方が建立したものなの。円朝師匠は特定の一本をモデルとした訳では無くて、赤塚には紹介した他にもモデルとなりうる古木が存在していたと云うことみたいね。確かに大門諏訪神社の嘗ての参道入り口に聳え立つこぶ欅を本命とするなどの意見もあるようですが、残念ながら今となっては当の御本人に確かめる術が無いのですから断言は出来ないわね。

最後にその怪談乳房榎のお話しを紹介して此度の散策の御案内を終えますね。

【主な登場人物】

菱川重信
: 江戸の絵師。元は間与島伊惣次と名乗る武士
おきせ
: 重信の妻で、美貌の持ち主
真与太郎
: 重信がおきせとの間にもうけた一児
磯貝浪江
: 重信の弟子。同じく元・武士で、弟子となる前は浪人の身
正介
: 下男(雇われて雑用をこなす)≒小間使い

江戸で絵師として名の知れた菱川重信も元々は武士の出じゃったが、趣味が高じて手にする刀を筆に替えると、女房のおきせと生まれたばかりの真与太郎を連れて柳島に移り住んでおった。おきせは器量好しの上に気立ても良くてのお、そのおきせと幼い乳飲み子に囲まれて重信も生きる喜びを感じておった。そこへ弟子入りして来たんが本所撞木橋近くに住んでおった浪人の磯貝浪江じゃった。良く気が付く上に手先も器用でのお、絵を描かせても上手にこなして評判も良かったみたいじゃのお。

そんなある日のことじゃった。高田馬場にある南蔵院と云う寺から龍の天井画を描いてはくれまいかと頼まれてのお、重信は正介を連れて泊まり込みの作業を始めることになったのじゃが、その重信が留守なのを良いことに、弟子の浪江が毎日のようにおきせを訪ねてくるようになってのお。ある晩のことじゃ、仮病を使うて床に伏しておったのじゃが、夜中に起き出すとおきせの寝所に忍び込み、一夜の契りを迫ったのじゃ。驚いたおきせは激しく抵抗したんじゃが、浪江から幼い真与太郎を殺されても良いのかと脅されてのお、仕方なく一夜限りの契りを許したのじゃ。じゃがのお、そうなると浪江の思いも一度きりではすまなんだ。一方のおきせも二度、三度と続く内に次第に浪江に好意を持ち始めるようになってのお。

そうなると浪江が気掛かりなのは重信じゃ。絵を描き終えて帰り来ればおきせの心も重信に戻り、二人の仲も終わってしまう、ならばその重信を戻れぬようにすれば−と思うようになったのじゃ。意を決した浪江は南蔵院へ陣中見舞いを装うて出掛けたのじゃ。これには重信も大いに喜んでのお、天井画にしても完成間近で、あとは雌龍の片腕を描き上げるのみというところじゃった。それを見届けた浪江は帰りしなに正介を連れ出して大枚の金子を与え、酒を飲ませるとことば巧みに重信殺しを手伝えと命じたのじゃ。それでも躊躇しておった正介じゃったが断れば殺す!と脅されて仕方なく協力することになったのじゃ。

正介は寺に戻ると浪江に指示された通り、重信を有名な落合の蛍見物に誘い出したのじゃ。その蛍が闇夜に儚げな光を発して飛び交うさまが興を催したんじゃろうのお、天井画も完成間近とあって普段は飲まぬ重信も杯を重ねておったそうじゃ。そうして上機嫌での帰り道でのことじゃった。田島橋の袂から隠れ潜んでいた浪江が飛び出すと重信に斬りかかり、その命を奪ってしもうたのじゃ。正介は寺に逃げ帰ると「先生が狼藉者に襲われて‥‥‥」と寺のもんに告げたのじゃが、誰一人として取り合わんでのお。それもそのハズ、ちょうど最後の雌龍の片腕を描き終えようとしているところじゃと云うてのお。そんな、馬鹿な!と不思議に思うた正介が中を覗き込んでみると、果たして画を描き終えた重信が今まさに落款を押しておるところじゃった。その重信から振り向きざまに「正介!何を覗く!」と叱責を浴びた正介が飛び退いて倒れ込んだ瞬間に点いておった明かりもふっと消えてのお。騒ぎを聞いた和尚も駆けつけ、事の次第を知らされた一同が灯りをつけて改めて中へ入るとそこには重信の姿は無く、描き終えたばかりの雌龍の片腕が墨も乾かぬ様子で、押された落款も血糊のようにべっとりと濡れておったと云うことじゃ。

不義をはたらいていたとは云え、重信の死の報せにしばらくは悲嘆にくれるおきせじゃったが、幼い真与太郎を抱えての身では他に頼る者もおらんでのお、浪江と夫婦(めおと)の関係となるんは自然のことよのお。やがて浪江の子を身籠もるのじゃが、そうなると浪江の方では真与太郎が邪魔になってきてのお。今度は正介にその真与太郎を殺すように命じたのじゃ。小心者の正介のことじゃで、脅されて結局は四谷角筈村にあった十二社の大滝の滝壺にその真与太郎を投げ込んでしもうたのじゃ。じゃがまさにその時のことじゃ。滝壺から真与太郎を抱いた重信の亡霊が現れて正介を睨みつけたのじゃ。正介は恐ろしさのあまり、腰が抜けて声も出せんかった。「曲がりなりにも主に仕えるべき身でありながらその主を亡き者とせし大悪人!本来なら一刀両断の元に斬り捨てるべきところなれど、この真与太郎を養育し、憎き敵を討ち、我が無念を晴らすを手伝えば今ひとたびその命長らえるべし。よいな、正介!」

重信の亡霊のことばに心を改めた正介はその真与太郎を連れて生まれ故郷の赤塚村へ逃れ住み、やがて松月院で門番の職を得たのじゃ。そん松月院の境内には乳房の形をしたこぶのある榎があったのじゃが、ある日のこと、正介の昔からの知り合いで新兵衛と云うもんがおったんじゃが、その新兵衛の夢枕に白山権現が現れて云うには、そのこぶからしたたり落ちる甘い雫は乳房の病を治し、乳のでない女も乳が出るようになり、その雫は乳の代わりにもなろう−と告げたそうじゃ。そこでさっそく正介はその榎のこぶの雫を乳代わりにして真与太郎を育てたのじゃ。その話が近在に広まり、いつしか江戸中の評判となると、霊験灼かな乳房榎として遠方からも多くの女たちが集まり来たそうじゃ。

おきせも浪江の子を産んだのじゃが乳が出ずに死なせてしまっておってのお、それは重信の祟りの始まりじゃったのかも知れんのお。やがておきせは乳房に腫れ物が出来て日に日に大きくなると次第に苦しむようになってのお。ある日のことじゃった。乳房榎の霊験灼かなことを知った浪江が榎の雫を得ようと松月院に使いを走らせたのじゃが、その使いの者が正介と再会してしまってのお。重信が遺児の真与太郎も五歳になっておった。正介は使いの者に榎の雫を持たせ、自分に会うたことは他言無用と固く約束させて帰したんじゃが、浪江に会うて土産話をする内に口を滑らしそうになってのお、慌てて誤魔化してみたのじゃが、悪聡い浪江のことじゃで感づかれてしもうたようじゃのお。

それでも持ち帰った榎の雫を腫物の上に塗ると一時(いっとき)は痛みも和らいだかに思えたんじゃが、夜明け近くになると以前より痛み出してのお、気も狂わんばかりになってきたのじゃ。おきせはその痛みに耐えきれなくてなってのお、膿を出してしまえば痛みも治まるかも知れんからと浪江に小柄で腫物を突くように懇願したのじゃ。じゃがのお、さすがの浪江も荒療治には気が咎めてのお、それでも痛みに耐えかねたおきせから早う早うとせがまれると断れなくなってのお。「ならば我慢致せよ!」とおきせを抱き寄せ、枕元の脇差しから小柄を取り出すと腫物をひと突きしたんじゃ。じゃがのお、どう云うわけか手許が狂い五、六寸程深く切り込んでしまい、あろうことか、おきせの心の臓を突いてしまったのじゃ。おきせは「あ〜っ!」と短い叫び声を挙げ、虚空を掴むと苦痛に顔をゆがめたまま息絶えてしもうたのじゃ。驚いたことにその疵口からは血混じりの膿が迸り、膿の色をした鳥が嘴を向けて浪江目指して飛び出して来たそうじゃ。

その翌日のことじゃ。正介と真与太郎が生き延びていることを知った浪江はおきせの葬儀もそこそこに二人を亡き者にせんとこの赤塚の松月院にやって来たのじゃが、重信の亡霊に助けられた正介と真与太郎の手で逆に討ちとられてしまったのじゃ。そうして重信の無念を晴らした二人じゃったが、その後正介は剃髪出家し、真与太郎は長じて真与島家の家督を継いだと云うことじゃ。

乳房榎 ここでは昔話風にアレンジしてみましたが、お楽しみ頂けたかしら。エッ?気持ち悪くて楽しむどころではなかった?実は怪談とあることからξ^_^ξも当初はもっとオドロオドロした物語を想像していたのですが、恐さと云うよりも、人間の宿業(と云ったらいいのかしら)が印象に残る物語ね。お話しの展開にしても本当はもっともっと長丁場なの。ここでは短くするためにξ^_^ξが勝手に話を作り替えてしまった部分もありますので、出来ましたらオリジナルに触れてみて下さいね。

20.成増駅 なりますえき 16:35着

物語の余韻に浸りながら成増駅へと向かいましたが、赤塚周辺には紹介した寺社旧跡の他にも多くの見処があるの。以後は他日にξ^_^ξが訪ねた際のものですが、参考までに番外編として紹介してみますね。

鎌倉街道 下赤塚駅から大堂目指して赤塚中央通りを歩いていた際に見つけたのがこの小さな銅像なの。いざ鎌倉へ!とばかりに鎧姿に身を固めた武士が馬に跨り駆け抜けて行く姿の銅像で、台座には鎌倉古道の文字が。左手には住宅地が広がり、嘗ての鎌倉街道も今はその家々の蔭にすっかり隠れてしまいましたが、伝え聞くところでは、北は泉福寺脇をかすめて荒川に通じ、南は練馬区田柄に続いていたみたいね。【吾妻鏡】にも鎌倉武士としてこの赤塚郷の出身と思われる赤塚資茂(すげしげ)の名が見えるの。康元2年(1257)2月2日の条には「将軍家 鶴岳八幡宮に御参り 先ず御禊ぎ有り 〔 中略 〕 仲家役送たり 資茂 同手長を勤む その後 御車を寝殿南面に寄す 土御門中納言顕方卿御簾に候す 西唐門より御出で」とあり、引き続き、その行列に供奉した者達の名を記すのですが、「先ず前駈六人 衣冠下臈前と為す」として赤塚蔵人資茂以下五人の名を挙げるの。以後も文応2年(1261)に掛けて幾度かその名が出てはくるのですが、それ以上のこととなると残念ながら分からないの。けれど、今から750年程前には、その資茂が馬の背に揺られながら同じこの場所を行き来していたかも知れないと思うと不思議な気もして来ますね。

四葉稲荷 松月院前の交差点から東へ向かい、新大宮バイパスを横断して100m程歩いた左手にあるのが四葉村の鎮守さまこと、四葉稲荷神社。創建は室町時代後期の元亀3年(1572)と伝えられ、祭神は勿論、稲荷神こと宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ=倉稲魂命)。社殿左手には境内末社の御嶽神社・菅神社・水神宮が祀られているの。余談ですが、この稲荷神社脇を通る道を隔てて小さな観音堂があるのですが、傍らに建つ祠に御注意下さいね。痔病に霊験灼かとされるタクゾウさまが祀られているの。お悩みの方は御参詣されてみては?

諏訪神社 不動の滝を過ぎて美術館入口の信号を右手に折れて坂道を上り行くとあるのがこの大門諏訪神社。千葉自胤(よりたね)が赤塚城の北西の鬼門除けとして文明年間(1469-87)に創建したと伝えられ、信濃国(現・長野県)の諏訪大社から分霊勧請したものなの。祭神は勿論、諏訪神こと建御名方神(たけみなかたのかみ)で、八幡神と共に絶大なパワーを秘めた武神なの。抵抗勢力 (^^; に囲まれて常に戦闘状態にある自胤にすれば、武運長久をもたらしてくれる諏訪神の加護が何よりも必要だったの。

諏訪神社 千葉自胤(よりたね)は赤塚城の鬼門除けとして赤塚氷川神社とこの大門諏訪神社を創建しているのですが、その創建年代については同じ板橋区教育委員会の発行にも関わらず、文献で異なるの。諏訪神社の境内に立つ案内板(勿論、教育委員会の手になるものよ)や【いたばしの神社】では長禄年間(1457-60)の勧請と記すのですが、【まち博ガイドブック】では文明年間(1469-87)のこととしているの。と云うより、氷川神社と諏訪神社の創建年代が文献相互で入れ子状態なの。両社の創建年代を明らかにする史料が存在しないことから誤解を生んでいるようですが、名だたる教育委員会のお立場なのですから見解の統一はして欲しいわね。

諏訪神社 判断に迷いましたが、ここでは諏訪神社の創建を文明年間(1469-87)のこととしてみました。その根拠ですか?氷川神社の紹介時にその創建年代を長禄年間(1457-60)としてしまいましたので、既に使用済みと云うことで‥‥‥イージーなやっちゃな!(^^; それはさておき、この諏訪神社を紹介する際に忘れてはならないものが田遊びなの。北野神社で行われる田遊びが民俗的な色彩を色濃く残すのに較べ、この諏訪神社で行われる田遊びは、より神事に近いものだそうで、同じ田遊びでもその内容は異なるみたいね。この諏訪神社の田遊びも、徳丸北野神社の田遊びと共に、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されているの。

諏訪神社 資料を調べていた時に気になったのが、神事の中でも苗代づくりを始める際の唱えことばなの。「年よ新玉春の始めにもなり候えば 安房の国のおんが谷 上総の国のまんが谷 国々の人夫 きっとまいって諏訪の神社」とあり、以後は細かい苗代作業を唱えことばと共に掛け合いで演じていくのですが、この冒頭部分の内容だけが変則的なの。その意味となるとξ^_^ξには何云ってんだかの状態ですが、安房の国・上総の国と謡い込まれていることから、この赤塚と安房&上総には何等かの繋がりが想像されるのですが、さて、その繋がりとなると‥‥‥

熱帯環境植物館 史跡めぐりを終えたら気分を変えて高島平にある 熱帯環境植物館 へ足を延ばしてみませんか?清掃工場から排出される余熱を利用した施設で、東南アジアの熱帯雨林を再現した展示内容になっているの。小さいながらも水族館もあるのよ。訪ねたときには珍しいヒスイカズラの開花を見ることも出来ました。施設の規模は決して大きいとは云えないのですが、限られた空間内に植生ゾーンが立体的に配置され、起伏に富んだ誘導路が巡らされているの。館内にある喫茶室クレアで緑に囲まれながらのティーブレイクも素敵よ。

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東京大仏につられて出掛けた赤塚ですが、いざ訪ねてみると他にも多くの史跡や見処があり、予想外の展開になってしまいました。一日だけではとても廻りきれず、初回を含めて都合三回程訪ねているの。とりわけ名の知れた名所旧跡がある訳では無いのですが、それでも語り継がれる物語に耳を傾けながらその地に立てば、物語が紡ぎ出された時代にタイム・トリップしているξ^_^ξがいるの。嘗ては江戸庶民の身近な行楽地でもあったと云う赤塚ですが、交通手段が発達した今ではお手軽な散策コース。今度の週末にでもぶらりとお出掛けになってみては?それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

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〔 参考文献 〕
講談社刊 週刊 TIME TRAVEL 再現日本史 平安3
堀書店刊 安津素彦・梅田義彦監修 神道辞典
東京堂出版刊 朝倉治彦 他 共編 神話伝説辞典
板橋区教育委員会刊 いたばしの神社
板橋区教育委員会刊 いたばしの寺院
板橋区教育委員会刊 いたばしの昔ばなし
板橋区教育委員会刊 ”まち博”ガイドブック
雄山閣刊 大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿
新人物往来社刊 鎌倉室町人名事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
吉川弘文館刊 国史大系 続日本紀
吉川弘文館刊 国史大系 吾妻鏡
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
光文社刊 花山勝友監修 図解 仏像のすべて
講談社学術文庫 中田祝夫 全訳注 日本霊異記
河出書房新社刊 宮田登 他共著 日本異界絵巻
角川書店社刊 五来重著 仏教と民俗
角川書店社刊 室伏信助 他共著 有職故実 日本の古典
角川書店社刊 鈴木棠三・朝倉治彦校注 新版 江戸名所図会
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々 −多彩な民俗神たち−
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々 −日本の神霊たちのプロフィール−
角川ソフィア文庫 佐藤謙三校注 今昔物語集 本朝仏法部 上巻
怪談乳房榎保存会発行 怪談乳房榎
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






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